兎とハリネズミ
聖女に歯向かい、逃げ出した令嬢が、学院の中庭にいる。
その噂は、またたくまに人々の舌を面白げに動かした。悪魔憑きの令嬢だとか、魔女だとか、鶏ガラだとか、様々な名で呼ばれた彼女は、慣れた水場で、ぴちゃぴちゃと水を遊ばせている。とくり、とくりと心臓の音が驚くほど大きくて、ときおり胸に手をあてた。そうして、息を吐き出した。
隣にはサイがいる。彼と二人で立ち上がった。少しずつ集まる人々の視線を、サイは睨むように押し黙らせた。見覚えのある顔がいくつかある。フェルが、ひどく不安げにラビィを見つめていた。その隣には、彼らがいた。父と、母だ。まともに顔を見ることも久しぶりで、その表情を目にして、ラビィはひどく愕然となった。
(なにが、いらない子供だと思われていたら、どうしよう、よ……)
彼らは、ラビィに目を向けることもできなかった。以前のラビィなら、それは自身を拒否する行動なのだと考えていただろう。けれども違う。本当に、“見ることができない”のだ。あまりに辛くて、自身の娘が、痛々しくて。そう思うのは、ラビィが別の名で生きていた頃の過去を思い出したからかもしれないし、彼女自身が強くなったからかもしれない。彼らを抱きしめたかった。たくさんの謝罪の言葉を告げたかった。
目論見通りに、レオンは大勢の生徒を引き連れて、高みの見物をしているらしい。彼はカメレオンとして、周囲のざわつきにとけこんで、どこにいるのか、パッと見ではわからない。マシューは魔法の天才だ。その手のひらを叩けば、ラビィの自由をすっかり奪うことができるだろうが、ただ静かに彼らを見守っていた。万一、彼が魔法を使うことがあっても、サイがいればなんの不安もない。
ほとんどしっちゃかめっちゃかな光景だった。
サイと二人、訓練と叫んで何度もやってきた中庭が、驚くほどの人々でひしめき合っている。あんなに広々と感じていた庭なのに、案外狭かったのだな、なんて感想が出てしまった。ラビィとサイを円状にして、彼らはこちらを窺っていた。
「あいつは、魔女だからな。下手に近づくと危ないんじゃないか」
ふと呟かれた声に、ざわつきが広がっていく。「そうだ。なんてったって、聖女様が直々に処刑を言い渡したんだろ?」「そうか確かに。どうする、誰が行く」「俺たちじゃだめだ」「そうだ、聖女様でないと」 聖女様。聖女様。聖女様!
小さな声が膨れ上がって、大きくなる。こうなると、ネルラは後ろに引っ込んではいられない。(ほんとに、案外いい仕事をするのね、フォクスったら……) ヒースフェン家からラビィを連れ出した張本人であるフォクスは、顔を隠しながらも彼らの隙間をぬって不安を煽る言葉を囁く。そうして聖女を呼び出す。声色を変えて、場所を変えて。自由自在にコンコン笑う尻尾が見えている。
わあ! と彼らの歓喜の声が響いた。
人々の生け垣が割れて、ゆっくりとネルラが足を踏み出す。微笑みは絶やさない。しずしずと、まるで物語の聖女のように、優しげな顔を作って、彼女はラビィの前に歩んだ。
「…………」
「あらサイ、ありがとう。あなたが彼女を捕まえてくれたのね?」
ふざけているのかと、そう噛みつこうとした彼に、「そういうことで結構です。サイ様、お下がりください」 ラビィは毅然として胸を張った。ネルラは、ほんの少しばかり意外に瞳を見開き、すぐさまそれをかき消した。
やはり、最後はこうなるのだ。
ラビィとネルラは、向き合わなければならなかった。小さな彼女は、ネルラを見上げた。優しくて、美しくて、華やかで、おしとやかで、可愛らしい。なにもかもを持っている少女だと、ネルラは言われた。対してラビィは、髪も肌もボロボロで、ガリガリで、栄養のたらなさからか、背だって小さい。いじわるで、頭がおかしくて、持っているのは彼女には立派すぎる公爵家の位くらいで、それでも、家族の中からは姿を消して、小さく丸まって生きてきた。
彼女たちは対照的だった。生き方も、考え方も、立場も、何もかもがそうだった。ラビィはずっと下を向いて生きてきた。誰かに助けてほしくて、自分の足で立ちあがることすらもいつの日か忘れていた。
そんな彼女が、今ここで、大勢の前で胸を張って立っている。
「……あなた、少し変わった?」
ネルラが訝しげに声を出した。そんな彼女に、ラビィは笑った。「少しでいいの?」 やはりおかしい。ネルラはラビィを睨んだ。彼女は何かを企んでいる。
「この場にいる方々に、お伝えしたいことがあります!!」
ゆっくりと、ラビィは息を吸い込んだ。そうして、自分にできる限りの大声で叫んだ。「この女、ネルラ・ハリィは、たしかに聖女ではあります。けれども、みなさんを騙しています!」 ネルラは口元を引き結んだ。
「彼女はひどく狡猾です。その膨大な魔力を、悪事に使おうとしています。もう一度いいます、あなた方は騙されています!」
「ああ、かわいそうなラビィ様!!」
ネルラはラビィに飛びついた。彼女のその口を押さえるような動きだった。慌ててラビィはバランスを崩して、ネルラごと転げ落ちた。それでも、ネルラは続けた。
「おかわいそうに! もうご自身の口が、何を言っているかもわからないのね。聖女である私にはわかります。あなたには、悪魔が憑いている。それは魂に結びついて、あなたと離れることはない。私は、あなたの魂に、祝福を与えることしかできません……!」
ぽろぽろと、ネルラは美しく涙をこぼした。魂に、祝福を与える。つまりは、さっさと死ねと、そう彼女は言っている。ラビィが何かの声を上げる前に、ネルラの泣き声でかき消された。すべてが彼女を中心としていた。もらい泣きのように、周囲からはすすり泣く声さえきこえる。
おかしいと、思っていたのよ。そうひっそりと、ネルラはラビィにしか聞こえない声を、耳元に囁いた。「あなた、魔法が解けているのね?」 ラビィは震えた。「いったいいつから? びっくりだわ。あなたのあんなちっぽけな魔力で、よくぞまあ」 ネルラの溢れる涙は止まらない。笑っていた。彼女は、あんまりにも面白くて、涙をこぼして笑っているのだ。ぞっとした。
小さな希望を抱いたのね。ほんとうに、「おかわいそう!」 ネルラは叫んだ。
「逃がすわけがないじゃない」
魔法が解けたのなら、かけなおせばいい。そうして、今度こそ念入りに、何もできないように、その魂を縛り付ける。せっかくだ。処刑台に上がる寸前で、間抜けにも命乞いをさせてみよう。馬鹿な女であったと、後世まで残してやろう。「あなたはほんとうに間抜けね、ラビィ」 とにかく声を張り上げれば、なんとかなると思っていたのかしら。
ラビィは震えた。そうして目を見開いた。
ネルラの魔力が、ゆっくりと体に浸透する。心の奥底まで、重たい鎖で縛り付けられる感覚だ。これは以前にも覚えがある。今から十年も昔のこと。彼女に、初めてその身を縛り付けられたときと同じだ。
「う、く……っ」
隷従の印は結ばれた。ラビィの身に、新たな刻印が刻み込まれた。
「本当に間抜けで、お馬鹿なラビィ」
――――奴隷は一生、奴隷のままに決まっているのにね。