Rem:3 雨と祖父と白い背中3
七輝は喘息ではない。
それでも夜の近所を照らす赤いランプも救急隊員の白い背中も、あの時の記憶を否応なしに呼び起こさせた。似た状況が今と過去を二重に被らせる。
慎が思わず力を込めて柔らかな手を握る。しばらくして玄関にいた救急隊員が部屋に入って来た。
「それでは搬送します」
七輝はソファから担架へと移され、救急車へと運ばれた。それを追いかけているところで、呼び止められた。
「慎くん!」
振り返ると、彼女の父が居た。
「家内と一緒に救急車に乗ってもらえないか?私は若葉を迎えに行ってから、病院へ行く」
若葉とは、七輝の姉の名だ。姿が見えなかったことを考えるに、仕事中だったのだろう。
「七輝と家内を少しの間、頼むよ」
「わかりました」
慎は頷きながら応え、野次馬の目線の間を通って救急車へと乗り込んだ。
後ろが閉まって俊敏な動きで救急隊員たちが乗り、サイレンと共に車は動き出した。
苦しそうにしながらも、目は開いている。七輝にはまだ意識がある。
「頑張って……。すぐ病院に着くわ」
母の言葉に七輝は浅く頷いた。それから何回かまた咳をして、慎の方へと顔を向ける。
「七輝」
名前を呼べば、わずかながら反応が反ってくる。彼女の唇が何かを言おうと動いたが、大きなサイレンに阻まれて全く聞こえない。
耳を彼女に近づけると、やっと何とか聞き取れる。
「サイレンの、音……、うるさい、ね」
心配をできるだけ和らげようとする、彼女の精一杯の心遣いなのだろう。
こんな状況においても七輝を頑張らせてしまう、自分の不甲斐なさに腹立たしさを感じながら、同時に彼女のそんなところを可愛く思う。
「ばっか。七輝は今、自分の体のことだけを考えていればいいんだよ」
慎は七輝の燃えるように熱い頬に、手の甲をくっつける。
「慎の手、冷たい……。気持ちい……」
目を閉じて、七輝がふっと笑みをもらす。
咳は全く止まる気配がない。呼吸がうまくできないのだろう。
顔は真っ赤で顔に汗が滲んでいる。七輝の母がハンカチで拭き取る。
「……負けるな」
七輝の頬を撫でてやりながら、慎は呟いた。
赤信号だって止まらずに走っているのだから、最短で病院へ向かっているはずだ。
それなのに、早く、もっと早くと心ばかりが急いて落ち着かない。
大して経っていないのに、長く感じる時間。
今はどの辺だろうと外を伺えるかぎこちなく動いたとき、少し車内が揺れ、それから止まる。病院へ着いたのだ。
七輝を乗せたストレッチャーが下ろされ、看護師が待っていたように後を引き継ぐ。夜の病院の廊下に、ガラガラバタバタと騒がしい音が響いた。
「七輝!」
「なっちゃん!」
七輝の母と共に彼女を呼ぶが、今度は反応が返ってこない。真っ赤な顔で、浅い呼吸を繰り返すだけだ。
(え……!?)
慎の背中が冷える。
「七輝!しっかりしろっ!聞こえるか!七輝」
「緊急治療室、入ります」
焦りで思わず大きな声を出してしまったとき、慎は七輝から離された。
彼女を乗せたベッドは、大きな扉の向こうに消えていく。
二人の間が完全に隔てられ、治療中と書かれた赤いランプが点いた。