Rem:18 それぞれの道 ―桜のころ―2
「え?帰らないの?」
七輝の母が聞いた。
「お友達と記念写真は撮ったし、皆帰り始めてるけど……。用事でもあるの?」
「ちょっと……」
慎がお茶を濁した言い方をしたら、若葉が間に入った。
「いいじゃない。七輝のやりたいようにさせてあげましょう?私たちは家で待っていましょうよ」
「そうね。それじゃああまり遅くならないようにね?」
母は、姉の言葉に頷いた。
何も言わないが、若葉にはここに残りたい慎の気持ちが分かったのかもしれない。
卒業証書やその他の持ち物は、母が預かってくれた。
二人と別れ、慎は再び校内に入る。ゆっくり散歩気分で校舎を歩き、あるところで足を止めた。
わずかに半開きになったドア。
卒業式で演奏していた吹奏楽部が閉め忘れたのだろう。慎はドアを開けて、中に入った。
閑散とした室内の前には、黒いグランドピアノが居座っている。
何気なく慎はその前に行き、黒光りする中に映る自分を見た。
『久しぶりだね。ここ』
ピアノの中の七輝が、微笑む。
お気に入りの屋上が雨に濡れて使えなかった日、ここに入った。あの日は……。
『ピアノ、弾く?』
「冗談。俺は、ピアノなんか引けないよ」
クラシックCDを聞くことがあっても、ピアノを習ったこともましてまともに触れたこともない。
慎が断ると、七輝が笑った。
『大丈夫よ。鍵盤に手をおいてみて。弾けるから』
慎は苦笑しながら蓋を開けて、埃よけのカバーを取った。
「無茶苦茶だなあ」
でも、言われた通りにする。七輝がそう言うのなら、きっと何かあるのだろうと思うからだ。適当に鍵盤に触れる。
「これでいい?」
『じゃあ、座って』
鍵盤から手を離し、椅子に座るとまた手を戻した。
『そのままで思い出して』
目を閉じると、曲が聞こえてくる。七輝が一度だけ弾いてくれた、アヴェ・マリア――。
『大丈夫。体が覚えているんだもの。鍵盤を押して』
目を開けると、手が自然に動いた。
まるで七輝が手を添えて、指を導いてくれているように。
記憶の中のメロディーと、今実際に耳に流れ込む旋律が重なっていく。
七輝の中に慎が入ってからピアノに触れていないせいで、たまに鍵盤を押し間違えるときもあったが、指は勝手に動いて見事に弾き切った。
『ね?大丈夫だったでしょう?』
七輝はにっこりと笑った。
「うん」
『まだ行けるよ』
「でも俺、これ以外で弾いてもらった曲がない……」
『大丈夫。有名な曲だから』
「何?」
『渚のアデリーヌ。さん、はい!』
掛け声に応じて指が始まりの位置に移動し、再び動き出した。
ピアノに映る七輝の手も、慎と一緒に動く。
アンサンブルをしているような感覚、綺麗な音の奏で――。
七輝がいたころは、恥ずかしがってなかなか弾いてもらえなかった。
(少しわがままを言ってでも、聞いておけばよかったかな?)
七輝との思い出に馳せながら、手は左右に体は音の強弱に揺れ、最後の鍵盤を叩き終わって動きを止め、手を下ろした。
すると、静かなはずの教室に拍手が響いた。
驚いて振り返ると、だらし無くブレザーのボタンは全開、シャツをズボンからはみ出させた生徒がドアに寄り掛かるように座っていた。




