Rem:3 雨と祖父と白い背中
「あふ……」
手もあてずに大きなあくびをしていた時、ノックもなしにドアが開いた。
「これ、母さんから」
蒼は、おにぎりが乗った皿を差し出す。
彼の手にも食べかけのおにぎりがあり、もごもごと口が動いている。皿の中の差し入れは、微妙に皿の中心より片側に寄っていた。
おまけに空いた場所には、曇ったガラスのような小さな水滴がある。
「……ありがとうって、母さんに言っといて」
慎は受け取り、机に置いた。それを見るなり、蒼が机の脇に手をついて身を乗り出す。
「いやいやいや。ちょっと待て!今は突っ込むところだろ、お兄さん!」
「口の中にものを入れたままで喋るなって、いつも言っているだろ」
ご飯粒がノートにくっついたのでティッシュでつまんで捨て、慎は再びシャープペンを握った。その手が動く前に押さえ付けられる。
「夜食がつまみ食いされたのに気づてるんだろー!数が足りないって」
慎はため息をついて、いたずら好きな弟を見た。
「………」
「お願いだから、ノーリアクションは止めてください」
「蒼が食っちゃったんだから、今更どうしようもないだろ?」
「そりゃそうだけど……」
「それともおれに、怒ってほしかったのか?」
呆れたように困ったように笑いながら、慎は彼を窘める。
「お前もお子様じゃないんだから、ちょっかいで気を引こうとするのは卒業しろな?」
蒼が何か言おうと口を開く前に、遠くから救急車のサイレンが聞こえた。
そんなのは珍しいことでもないのに、蒼は言葉を続けることなく黙りこくる。
やけに耳につくその音はだんだんと近付いて近所に響き、鳴り止んだ。
静かになり、蒼が何かを探るように険しい顔をする。それから急に慌て出した。
「やべっ!母さんが上がってくる!」
いつも勉強中の慎の邪魔をして叱られているから、やたら音に敏感らしい。慌てるのも無理はない。
言われてみれば確かに階段を上がる足音がする。蒼はその場で何度か足踏みをして、慎のベッドに飛び込む。
「まこ!俺は隠れるから、母さんを適当にごまかしてくれ!」
「無理だろ。そんなに不自然に膨らんだ布団……」
蒼は聞いていないらしく、頭から布団をかぶり、同時にドアが開いた。
(あーあ、また怒られるぞ)
呑気に構えていた慎の予想に反し、母は蒼には何も言わなかった。
気がつかない、あるいはそんな余裕がない、といった方が正しいだろうか。
「ま、まこ」
慎は母の様子がおかしいことはすぐにわかった。顔が蒼白になっている。
「母さん?」
「あ、あのね……。まこ」
ゆっくりと、子機が差し出される。
「七輝ちゃんが」
嫌な感じがして、慎は珍しく引ったくるように子機を取った。
「も、もしもし!」
耳にあてたら音楽が流れた。急いで保留音を切り、慎は再び話す。
「もしもし」
『ああ、慎くんかね?』
向こうから、男性の声が答えた。
「はい、こんばんは」
『七輝の父です。実は七輝が……』
母もいつの間にかベッドから顔を出している蒼も、黙っているから静かだ。
だからだろうか。七輝の父の言葉がやけに、耳にはっきりと聞こえた。
――『七輝が倒れた』――
さっきの救急車の音は、そうしたら――。
「……すぐに行きます」
慎は掠れる声で七輝の家に向かう旨を伝え、机に子機をおいて椅子の背にかかったパーカーと机の携帯を取った。そして、部屋にいた二人には目もくれずに飛び出した。




