【学生編】Rem:2 日常
何だか寒くて慎は目を覚ました。
ぼーっとしたまま二、三度瞬きをするうちに、自分の状況が理解できてくる。
目の前には眠る七輝。彼女の指は胸の上で組まれ、慎はその華奢な手に自らの手を重ねていた。
彼女の横たわる寝台も掛布団も、ついでに可憐な顔を覆う布も白。
七輝の魂は、ふらりと遊びに行ってしまったのだ。そして、この置いて行かれたかれた体には、二度と戻ってこない。
その事実を慎はもう知っていた。
きっかけは些細だったけど、あっという間だった。
慎はこの短時間の間に、目まぐるしく変わってしまった情景を思い起こした。
玄関のベルが鳴って、廊下を移動するスリッパの足音がした。間もなく、
「まーこー!」
母の呼ぶ声がする。
「七輝ちゃんが来たわよー」
朝から声が無駄に大きい。歯磨き中だった慎は、洗面所から顔だけを出して返事をした。
「わーったって。もっと普通に言っても聞こえるよ」
うがいをして急いで顔を洗い、リビングにある鞄を取りに行った。
「毎朝お迎えとはアツアツだね、兄貴。見せつけてくれちゃって」
朝ご飯を咀嚼している弟の蒼が茶化す。
「うるさいぞ」
鞄を肩に担ぎ、リビングのドアを閉めて玄関へ早足で行った。
「……やーねぇ。今年もまた変な風邪とかインフルエンザとかが流行ってるじゃない?怖いわね。七輝ちゃんも気をつけてね」
「はい」
「試験前だからって、あまり夜更かししちゃだめよ」
少し待たせた間に、ものの見事に七輝が母の話し相手になっていた。靴を履き、母の肩に手を置く。
「母さん。お喋りもいいけど、試験勉強で七輝も大変だろうから、マシンガントークであまり疲れさせないようにしてやってくれな」
「あら!私ったらまたしゃべりすぎてしまったかしら。七輝ちゃんは聞き上手なんだもの。ついたくさん話しちゃうのよね。ごめんなさいね」
「いいえ、そんなことはないですよ。おばさんのお話は面白いですから」
そう答えた七輝は、昨日までしていなかったマスクをしている。
「風邪?」
「そうみたい。でも大丈夫。今朝も熱はなかったの」
慎の質問に笑って見せる彼女の頬は、言われてみればいつもよりやや赤い気がする。
「試験前だから、これくらいで休んでいられないもの」
「だからこそ、余計に休んだ方がいいって見方もできるけどな」
「人の頑張りと決意を一蹴するようなするような言葉を、簡単に言わないで下さーい」
七輝はややムッとした声で、頬を膨らませた。
「拗ねるなよ。心配したんだ」
母が明けてくれた玄関のドアを、会釈をしながら先に出た七輝は、振り返ったらもう笑っていた。
「分かってる!言ってみただけだから。さて、本当にムッとしていたのは誰だ?」
(……おれだな。『心配して言ってやってるのに』なんて考えは、傲慢だよな)
でも素直に認めるのも何だか悔しい。慎は七輝の隣に立ち、彼女の額を人差し指で軽く押した。
「……生意気」
「へへっ」
肩を竦めて笑って見せる様子は、まるで子どものよう。それだけですべて許せてしまえそうな気分になる自分は、なんてバカなんだろうと慎は思う。
「いってらっしゃい」
サンダルを履いて母がいつものように見送り、七輝が会釈をしながら答える。
「はい、行ってきます」
「うん」
「『うん』、じゃなくて『行ってきます』でしょー!」
「あ、えと……行ってくる」
風邪だというのに元気な彼女に窘められて、言い直した。
始めは七輝が少し前を歩き、慎がその数歩後を歩く。何分か経つと七輝の方からいつの間にか足並みを揃え、今度は並んで歩く。
昨日見たTV番組の内容や、休み明けだと友達と遊びに行ったその報告。
雑誌で気になったファッションアイテム、帰りは学校の話……。
彼女の話すその色とりどりの話題を、だいたい慎が聞き役に回って時間は過ぎて行く。……かと思えばたまに、景色を見ながら二人黙って歩くこともある。
元々慎は口が上手い方ではないし、七輝の話は自分には縁遠い世界のようで面白い。
だからこの時間はかけがえのないものに違いなかった。
学校までは、徒歩二十分くらいの道を歩くだけで済むむ。
校門と同時に見えるグラウンドに近づき、朝練をする運動部員の掛け声が聞こえた。
その頃、周りの道は、同じ制服を着た生徒で賑わっている。
「ひーかーるー!」
正門の前の道を抜け、グラウンドに向かって七輝が手を振った。
たくさんのサッカー部員のうちの一人がこちらに気がついて、ちょっとだけ手を振り返す。
少しだけ日焼けした肌に、鍛えられた身体。長い手足。
髪は日焼けと染めた影響との両方で、少し傷んだ茶色。顔は形良い眉に、鼻筋がすっと通っている。
モデルやタレント並とは行かないまでも、それなりにかっこよく、人目に止まりやすい造作をしていた。だから、サッカーができるという理由以外にも、女子の騒ぐ元になっている。
それが光。慎と長年友達をやっている彼の名だ。
走り回ったりボールを蹴ったりしている光を黙って見ていると、こちら側にポンポンとゆるく弾みながらボールが転がって来た。
七輝がそれを拾い上げ、下級生が息を弾ませながら走ってくる。
「すみません」
「投げて返せ!」
遠くから光の声が聞こえた。……にも関わらず、七輝はボールを地面に一回置く。
(あ。蹴るんだ)
止めもせずに、慎は七輝の背中を見ていた。
「行っくよー!」
足を少し踏み込んだ後、即座に上へと蹴り上げた。
力任せに蹴られたボールはそれを取りに来た一年の頭上遥かを通りすぎ、あられもない方へと飛んで行った。
哀れな少年が、再びボールを追って走り去る。そしてついでにもう一つ。
文句を言おうと光が口を開く前に、頭にボールとは別の物がヒットした。
ポコーン!
「あだっ!」
「あーっ!あたしのー!」
額を押さえて光が呻くのと、片足でぴょんぴょん跳ねながら七輝が叫ぶ声が重なった。