Rem:6 奇跡のはじまり
一回光と別れ、七輝の家に戻った。二人とも制服に着替えるためだ。
後から光が迎えに来ることになっている。
家に入ると、物音を聞き付けた母が居間から出て来た。
「お帰りなさい」
彼女は、慎があられもない姿で飛び出して行ったことには触れなかった。
「うん。……じゃなくて、ただいま」
いつも七輝に挨拶の仕方を注意されていたことを思い出し、言い直す。
「光くんに、お礼きちんと言った?」
「光に?」
「病院で倒れたなっちゃんを、背負って帰って来てくれたのよ」
「そうなんだ。後でお礼言っておくよ」
「ええ。そうなさい」
そんなことがあったなんて、知らなかった。黙っていたなんて彼らしい。
「ごはんがあるけどどうする?食べるなら温めるわ」
「食べる」
「はーい。じゃあ、着替えてらっしゃいな。その間に準備しておくから」
頷いてから七輝の部屋に向かい、寝間着を脱ぎ捨てた。
(相変わらず、細い腕をしているよな)
つまむと、筋肉が無いのでぷにぷにとした感触が返ってくる。
そんな二の腕を見つめていたら、鏡の中の七輝と目が合った。
鏡にはしっかりと下着姿の彼女の体が映っていて、慎は赤面した。
(女の子の部屋の鏡って、何であんなに無駄にでかいんだよ!)
覗きをしてしまったような気持ちになる。
そのばつの悪さから鏡の姿見えない位置にそそくさと移動し、手早く着替えた。
元の身体に戻れるかはわからないけれど、とにかくしばらくは七輝の身体で生活しなくてはならないのだ。
こんなことは、日常茶飯事に起こるだろう。
(その度に驚くのか?大丈夫かよ、おれは……)
頭を振って気を取り直し、慎は鞄に今日の授業に必要な教科書を入れ直し、居間に降りた。
並べられた食事の前に座る。母が花瓶の花の中から古いものを摘み取りながら言った。
「そうそう。さっき、光くんから電話があったわよ」
「光?何て?」
「三、四十分したら迎えに来ますって」
「わかった」
頷き、慎は手を合わせてからご飯を食べ始めた。
光が迎えに来たのは三十分と少ししてからだった。
母に見送られて家を出る。
「今日、家に連れて帰ってくれたんだって?」
「あー」
「悪かったな」
「いや。実際には駐車場までお前を背負っただけだしな。大したことはなかったな」
「うん……」
それきり、二人は黙って歩いた。
いつも見ていた景色。
七輝がいた時はそんな風に感じなかったのに、今はどこか物悲しく、寂しく感じるのは感傷的な心のせいだろうか。
慎が沈黙を破ったのは、あることに気付いてからだった。
「光」
慎は立ち止まって、数歩先を歩く背中を呼び止めた。
「ん?」
昼間の住宅街には相応しくない、行き交う人々。
ただぼーっとして光についていっていたから気付かなかったが、駅前まで来ていた。
学校とは全然違う通学路。
「学校に行くんじゃ……」
「そんなに泣きそうな腫れた目、みんなの前に晒せないだろ?」
慎の目元を親指で押さえ、光が言った。
「気分転換にちょっとだけ寄り道な。これだけ遅刻したんだし。一時間くらい遅れたって、変わりゃしねーよ」
慎は頷いて微笑んだ。
こういう時には、彼のお気楽で大胆な考えが大きな救いになる。
すれ違う人の中に時折、場違いな時間に歩く学生を危ぶむ視線もあったが、構わず慎と光はぶらぶらとさ迷った。
補導でもされたらとんでもないので、店には入らない。
気になるものがあるときはどちらかが立ち止まり、店の外からそれを眺めた。
そうしていくらかの時が過ぎたとき、スピーカーから聞こえる音楽が耳に入り、慎は足を止めた。
そこは、午後になって開店したばかりのカラオケだった。
客を寄せやすいよう、今流行りのJ-POPの新曲が流れている。
(ここ……)
『不思議くん!』
どこからか突然、からかうような少女の声が聞こえ、驚きに肩が揺れる。
あっという間に、慎は店内の一室に居た。忘れるはずがない。
慎と七輝が始めて出会った、――正確には、彼女の存在を初めて認識した瞬間だった。
このありきたりな場所から、二人は始まったのだ。




