Rem:4 七輝3
「いやああ!なっちゃん、なっちゃん!」
「しっかりしなさい!まだ終わってない」
扉の前で悲鳴をあげ、七輝の母が膝をついた。それを父が支えて窘める。
こちらからでは様子もわからず、不安が付きまとう。
(もしかしたら、ダメかもしれない)
そんな真っ暗な考えが浮かんだとき、慎は側で繰り返される呟くような声に気付いた。
「まだ終わらない。大丈夫、……大丈夫だ」
声の方に顔を向けた。
七輝の父が妻を片腕で抱きしめながら、祈るように自分自身に言い聞かせるように、ずっと繰り返していた。
若葉は椅子に座り、組み合わせた手に額をこすりつけるようにしている。
(そうだ。まだ助かる可能性はある!諦めちゃだめだ)
慎は閉ざされた扉の向こうに向かって、声を張り上げた。
「負けるな七輝!しっかりしろ!戻って来い!七輝!」
ずっと叫び続ける。
「七輝、聞こえるか?皆待ってるから、戻れ。七輝、七輝、なつっ……!」
みっともなく涙や鼻水が出ても、声の限り呼び続ける。いつまでそうしていたかわからない。
どのくらいの時がたったのかも。
赤いランプが消えたことに気がつかないほど、取り乱していた。
再び扉があき、慎はその先を見つめた。若葉も立ち上がる。
告げられた言葉。医師の暗い表情。それが何を意味するのかなんて、聞かなくとも分かる。
でもそれ以上に、慎の世界から音が消えた。何と言っているのかうまく聞き取れない。
まるで通りすがりの話をたまたま耳に挟んだように、他人事のように、医師の声が頭に入る。
もうその口から何も聞きたくなかったのに。
「申し訳ありません。最善を尽くしましたが……前、………分、ご臨終です」
若葉がその場にくずおれ、肩を震わせて泣き始めた。
七輝が現れた。
「なっちゃん、目を開けて!お願いだから、母さんの一生のお願いだから!ああああ……っ」
変わってしまった娘。
発狂したように母は七輝の体に縋り付き、見守る父も静かに一筋涙を零した。
慎もゆっくりと歩き、青ざめてはいるが、まだ色のある七輝の頬に恐る恐る触れてみる。
温かい。それなのにもう死んでいるというのか。
これが世界でただ一人、一番愛した人との永遠の別れの瞬間だというのならば、何て受け入れ難いものなのだろう。
慎は涙も出さずにただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
あれから数時間が経って、七輝はもう温もりさえ失っている。
彼女の家族は親族や学校に連絡、医師への挨拶、葬儀屋へ依頼のためにしばらく娘の側を離れた。
二人きりの病室。慎は冷たい七輝の手に左手を重ね合わせたまま、けだるい頭を上げた。そろそろと、顔を隠す白い布を取り払ってみる。
血色のよかった顔は、精巧に作られた人形のように青白い。
(睫毛が……長いな)
そんなことは、ずっと前から知っているけれど。
慎はその睫毛に縁取られた瞼から頬に指を滑らせ、唇に触れた。
「七輝」
愛おしい名を呼ぶ自分の声は震え、掠れていた。
小さな閉じられた唇を何度か指で往復し、そのまま屈み込んで口付けた。氷を口に含んでいるような冷たさが、慎を侵食する。
いつの間にか、七輝の肌は濡れていた。
「泣いているのか、七輝……」
本当はそうではない。それが自分の涙だと気付くのに時間はかからなかった。
昨日の朝、風邪を引いていた七輝のように鼻をぐずらせていた。
一度外へ出て、戻ったらもしかしたら奇跡が起きて、彼女が笑って迎えてくれるかもしれない。
そんなあり得ない現実を夢見て、慎はふらふらと彼女のそばを離れた。
もう明るくなった院内。病院のスタッフが元気よく通りすがる。廊下を過ぎ、外へ出ようとした。
「まこ」
聞きなれた声に呼び止められた。入口に光が立っている。
「お前さ、あの留守電はないだろう。慌ててたのは分かるけど、せめて病院の名前くらいは言えよ」
光の声はいつもと変わらない。七輝の身に起こってしまったことをまだ知らないのだろう。
「………」
「まあ、この辺りの総合病院はここしか無いからいいけど。ところで彼女の具合は?」
「………かる」
慎はふらふらと、こちらに歩いてくる光に向かった。そして、もたれるようにその肩に額を押し付けた。
「まこ?」
ようやく光は、何かがおかしいと気づいたらしい。
「光。いなくなっちゃったんだ、……七輝」
「……っ!!?」
身近に安心できる人物が現れたせいか、緊張が解ける。涙がとめどなく溢れ、床を濡らした。
「……な……、つき……っ」
絶句した光の目の前で、慎はズルズルと床に崩れていく。
「まこっ!」
鋭い声が脳に刺さる。完全に倒れ切る前に、光が腕をつかむ。
「しっかりしろ!慎!」
その言葉を最後に、慎の意識は真っ暗になった。




