Rem.1 思い出
鳥の声と、カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ます朝。
いつもと違うのは、ここが自分の部屋ではなく祖父の部屋だから。決して広くはない。
木の天井に白い壁、床は畳で独特な草の匂い。低い机と折りたたみ式クッションチェア、本棚が二つ、押し入れとタンスが一つずつ。壁には一つ小さな丸い障子があり、そこを開けたら窓がある。
庭から離れてるせいか、窓を覗いてもあまり面白いものは見えない。
「ハルキチー!起きた? 早くご飯食べて手伝ってちょうだい」
母の声だ。陽樹という息子の名を、何故か幼いころからハルキチと愛称で呼ぶ。
今日は祖父たちの遺品整理に来ているのだ。部屋を整理してしまったら、今までの祖父の部屋ではなくなってしまう。
そんなわけで、ばーちゃん・じーちゃん子だった俺、陽樹は、昨晩この部屋で寝たというわけだ。
祖父の慎也が亡くなったのは、ほんの数か月前。その更に数か月前に祖母の七輝が亡くなって、まるで妻を追いかけて行ったようだった。
彼は本当に妻が大好きで、その証拠に、月こそ違えど慎也が亡くなったのは祖母と同じ日。そんな二人の仲の良さは、親族中の誰もが知っていた。
一言で表すなら祖父は「静」、祖母は「動」という感じだ。
七輝は快活でいつも明るく動き回り、人と話すのが大好き。
対して慎也は基本的には表情も固かったし、自分から話すのは苦手なようで、うん、うんとゆっくり頭を振って人の話を聞くタイプだった。
幼い頃に母から叱られると、膨れっ面で不貞腐れて縁側に座っていたものだ。
そんな時、口数の少ない慎也はそっと隣に腰を下ろし、黙って飴をひとつ差し出してくれた。
おやつを食べすぎると更に叱られることになるのだが、慎也を見上げると人差し指を立てて内緒だと示してくれる。
その飴を食べてぶらぶら足を揺らし、庭を眺めながら機嫌を直すのはいつもの流れだった。
庭は背の低い苗木と、石で囲まれた小さな池がひとつ。あとは物干し竿があって、天気のいい日は洗濯物が風に揺らめいていた。
中学生、高校生、そして大人になり、部活や仕事などで祖父の家に来る頻度が減った。
それでもたまにこの家へ来たら、慎也の部屋に入っていた。
彼はだいたい机の前で、クッションチェアに座り、新聞や雑誌、本を読んでいた。
幼い頃は慎也が何をしていようがお構いなしに、自分の話したいことをずっと喋っていた。
だが年を重ねるうちに、初めになんと話しかければいいか毎回迷ってしまって、気恥ずかしさを感じるようになっていた。
祖母とはポンポン会話できるのに、不思議だ。だから襖を開けてから、
「……じーちゃん、来たよ」
と言い、慎也は一番上の引き出しを開けて、黙って飴を一つ置いてくれる。
それが口下手な祖父の「陽樹、よう来たな。隣においで」という歓迎だということも知っていた。
朝食を食べて祖父の部屋に来た。改めてみると、本や雑誌ばかりだ。
祖母曰く、彼が学生時代から本の虫だったらしい。
本棚はぎっしりだったが、押し入れの下の段にも本が置いてあった。
母からは、手の届かない押し入れの更に上や、タンスの上のものを床に降ろしておいてほしいと頼まれていた。
小さい脚立を持ってきて、一番上の物入れから何かの箱や、旅行鞄などを順に床へ置いていく。
卒業アルバムもここに入っていた。そのアルバムを手に取った時だ。
サイズの違う、表紙がしっかりした日記のようなものがあって、気づかなかったそれが滑り、脳天にゴン!とクリーンヒットしてしまった。よりによって角が。
「いぃ……ってぇー」
脚立ごとひっくり返らなかったのは幸いだ。
頭を押さえて床に座り、悶絶がおさまったところで床に落ちた先ほどの凶器が目に入った。
無造作に開かれたページには、祖父の字でびっしり何か書き込んである。ぱっと見、日記ではないようだ。
陽樹は脚立に座り、何となくそれを拾って目を通す。
中をぱらぱらと見て一瞬小説かと思ったが、祖母の名前を見かけてそうでもないと判断した。
一旦閉じて、最初のページを開く。そこにはこう書かれていた。
『私も随分と年老いた。歳というもので忘れてしまわないうちに、経験した君との奇跡を残しておくことにした。これは三度の人生を渡り歩いた備忘録である。愛する七輝へ捧ぐ
瀬谷 慎』
「は……?慎?」
どこかで聞いたことはあるが、思い出せない名前だ。恐らく親戚の誰かだと思う。
しかし、何故慎也がその名前を使うのかは分からない。
次ページから記されていたのは、にわかには信じがたい祖父と祖母の経験だった。