第8章 夢の蹉跌
その頃、E4ではちょっとした嵐が巻き起こりかけていた。
なんと、槇野首相が突然、西野谷議員暗殺をE4に命令するという暴挙に打って出たのである。
西野谷が裏で朝鮮国のテログループを支援している噂がある、というのがその理由だった。
剛田は西野谷に張り付いている部下から何も報告がないとして、暗殺に対し慎重な姿勢を崩さなかった。
すると槇野首相はE4解散の命を出すと言って剛田を脅してきた。
暗殺か、解散か。
剛田が受ける電話の向こうで槇野が怒鳴り散らすため、E4メンバーにもその話は漏れ伝わり、剛田が槇野から1日の間に何回も呼び出しを受けていなくなると、室内は騒然となった。
設楽は基本的に槇野を好きではないようで、北斗から報告もないまま、大義名分のはっきりしない暗殺など到底受け入れるべきではないと叫んでいる。
八朔も基本路線としては設楽と同じだが、暗殺しない=解散という槇野の意地の悪さを口撃していた。
一方で九条は、槇野のいうことを受け入れ西野谷暗殺に舵を切るべきだと口にして設楽と睨みあいバチバチと火花を散らしていた。
三条も考えは九条と同じで、もしこれがW4ならすぐに暗殺指令を実行に移しただろうと言い、九条を擁護する。
不破は、槇野が大義名分としている朝鮮国テログループ支援の有無をまず調べ上げるのがE4の任務だと九条と三条を突き放した。
倖田と西藤も、E4の任務の正当性を担保していないことには、槇野からはしごを外された場合にどうするのかと九条に食って掛かる。
任務の正当性など我々には関係ない、ボスからの命令に従うか従わないかの2択だとナオミは投げ捨てるように言って、自分の論理を曲げる気はないとして引かない。
E4室内はすっかり二分されてしまい、杏が何を言おうとも誰も聞く耳を持たないような状態になり、杏は半ば爆発しそうになった。
そこに剛田が疲れ果てた表情で戻ってきた。今日一体何回目の呼び出しだっただろうと杏は剛田を心配そうに眼で追う。
剛田は小さな声で皆を統制しようとしているが、皆はもう熱くなっていて、剛田の声が聞こえていないようにも思われた。
「皆、静かにしろ」
設楽は結構せっかちな性格ゆえに、事の次第を知りたがって剛田の机の前に行く。
「一体どうなっているんです、今」
「設楽、まず珈琲を一杯飲む時間をくれ」
剛田が決して答えを引き伸ばしているわけではないのだが、皆にはそう映らなかったかもしれない。
また先程と同じことを口々に言い出して、互いを貶しあっている。
「さっきも言った。静かにしてくれ」
剛田の声はやっと杏に聞き取れるくらい。だいぶ向こうでやらかしたのだろう、本当に疲れ果てているようだった。
「皆黙れ!!」
杏が銃を空砲で鳴らすと、ようやく皆の貶し合いが止った。
「経過を説明して頂けますか、室長」
九条がゆっくりとした口調で言うと、設楽を押しのけながら剛田の前に立った。
「経過、か。そうだな」
剛田は一度軽く咳払いをすると、電脳を繋ぐよう皆に指示した。
声を荒げ槇野とやり合って来て、大きな声が出ないのだった。
「皆がどこまで知っているかわからんので、初動から話すことにする」
今日の朝、出勤すると内閣府から電話があり、槇野が伊達市内のホテルで呼んでいることを伝えられた。何のことかうすうす感じながらもE4を出てホテルに向かった。
話題は西野谷議員の弱点を掴んだかどうかの確認だと、そう解釈していた。
北斗からはまだ連絡もなく、西野谷議員の政務活動外のことは分からない。それしか言えることはない。
指示のあったホテルの一室に槇野を訪ねると、槇野は驚くべきことを口にした。
西野谷議員が朝鮮国のテログループを秘密裏に支援しているという噂を聞いた、今後その動きが活発化しないうちに、西野谷議員を暗殺して欲しい、というものだった。
西野谷議員のところに潜り込ませた部下からはそういった類いの報告は受けていないと突き放したが、噂を聞いた、噂は信用できる、噂、噂。
次第に、何でも噂で事が完結するなら政治など要らないではないかとさえ思うようになったので、剛田ははっきりと暗殺には応じられないと一言いい、ホテルを出てE4に戻った。
それからである。
槇野がホテルの外線電話から怒鳴り声でE4に電話をしてくるようになった。
ここからは皆が聴こえていた通りで、何回もホテルに呼び出され暗殺を命じるから履行しろと恫喝された。
こちらとしては大義名分が信用できるソースとは思えないゆえ応じられないと返すと、今度はE4解散を持ちだし、俺の言うことが聞けないなら活動できないようにしてやると脅された。
E4の解散など2年前に経験済みで、マイクロヒューマノイドを弾圧した春日井総理と比べれば、別に槇野を怖いとも思わなかった。
軍隊を出しE4を弾圧するなら、また皆で国外に散らばり逃げるだけ。
そこまで胆を据えた。
自分としては部下である北斗の報告を待つことを決断し、もう槇野の我儘に付き合うのは止める。
それが剛田の出したE4としての決断だった。
ホテルの部屋を出る時、もう一度、“お前たちを干して活動できなくしてやるので首を洗って待っていろ”と言われ、“お待ちしています”と嫌味を一言ぶつけて戻ってきた。
最悪解散、よくて仕事を干される。
皆には迷惑をかけるが、この方針に従ってほしい。
「魂は肉体が死んだのちにも生き残ると信じられている=The soul is believed to survive the body after death.」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
剛田に言われた言葉を、皆理解できていないようだった。
しがらみの中で無味に生きるのではなく、魂の趣くままに生きろとメンバーに説いたのだが、「自分の人生、滑稽な命令に服従するような生き方は止めろ」という概念を理解できたのは、周囲を見る限りでは杏だけだった。
皆がふぅ、と溜息を洩らした。
九条がふふふ、と笑いながら剛田を見ている。
「なかなかどうして、室長もあとに引かない方なんですね」
「引かないも何も、噂レベルで仕事をするくらい我々は落ちぶれていない」
「ここはボスの顔を立てて実行に移すべきでは?」
「人の顔を立てることがE4の任務ではない。もちろん、北斗からその旨の報告があれば、暗殺指令には応じるつもりだ」
三条も剛田に意見しようと剛田の机に近づいた。
「僕も総理の命令には従うべきかと思います。大義名分だってあるでしょう」
「そのソースはどこから出ているかわからんのだぞ。E4を、人一人の命をないがしろにするようなチームにはさせない」
「強情ですね、室長」
不破が“強情”という言葉を聞いて憤慨し、三条に近づいてその胸ぐらを掴む。
「僕たちは任務に正当性があるかどうかで判断してきた。何でもかんでも上の顔色だけ窺うやつらとは違う」
いつもは冷静な九条が段々怒ってきたのが分る。目を細くして不破に応戦してきた。
「それはW4のことを言っているのか?」
「別に」
また言い争いに発展させる気か。
馬鹿どもめ。
杏は再度部屋の中で空砲を鳴らした。
「今は言い争ってる場合じゃないだろう」
皆が一瞬、目線を下に落とし大人しくなった。
「西野谷議員の疑惑が本当かどうか、北斗が調べられないならこっちで調べれば済むだけの話じゃないのか?」
目を細めて怒っている九条の代わりに、三条が些かではあるが冷静さを保っていた。
「なるほど。では、具体的にはどうします?」
「2人ずつに分かれて西野谷議員を尾行すればいい」
「議員がどこにいるのかもわからないのに?」
「伊達市と金沢市と毛利市に飛べば何処かには現れるだろう、まさか山奥には行くまい」
「山奥かもしれませんよ」
「その時はまた考える、とにかく今は疑惑の真偽を確かめることに専念しろ」
不破は怒ってはいたが杏の意見に耳を傾けたようで、北斗に申し訳ないなといいながら尾行することを承諾した。
「チーフ。夜中だったら北斗に連絡つきますよね、こちらが参戦することを知らせないと」
「わかっている。北斗も忙しくて中々本当の任務に辿り着けないでいるのがもどかしいだろうから、今後はこちらが中心となり動く」
やっと冷静になったと思われる九条からも注文が付いた。
「今回はバグたちを貸してください。それとカメレオンモードの許可を」
「わかった。ただ、警察府とWSSSにテロ支援疑惑とは言えないから、各自宿を準備してくれるか」
それには皆が頷いた。ちょうど皆が杏の言葉に耳を貸すようになっていたので、馬鹿らしいノイズは部屋から消えていた。
「倖田、西藤、お前たちは伊達市内を。そして九条と三条、お前たちは金沢市の議員会館から出る西野谷議員を追え。不破はナオミと組んで毛利市での西野谷議員の行動を明らかにしろ。地下に降りてバグを連れていけ。北斗から連絡があるかもしれないから私はここに残る。さ、皆行ってくれ」
ぞろぞろと歩きながら皆が部屋から出ていくと、ようやく静けさが部屋を支配した。
こんなにE4室内が荒れたことが今まであったか?
やはりW4の生き残りである九条と三条、そしてCIAからの客であるナオミが諸悪の根源のようにも思えて、杏は天井を眺め一度だけ小さく溜息を洩らした。
IT室に戻る設楽たち2人に、今日から残業になるぞと言いながら、杏は矢継ぎ早に命令する。
「設楽、連れて行かれたバグたちがどこに現れるか、こちらで記録しろ」
「了解です」
「八朔はテロメンバーと思しき奴がいたら顔と移民許可証を照合しろ」
「わかりました」
2人が早速機械に向かい始めると、杏は頭を押さえながら剛田の下へ行った。
頭の奥がジンジンと痛む気がした。
「ちょっと男性形態でごめんなさい。もう、あの状態みたら腹が立って腹が立って」
頭を押さえている杏を見て、剛田が心配している。
「頭が痛いのか?」
「ちょっとね、最近多いの」
「科研に行って診てもらったらどうだ」
「一般人のように薬飲んだら治らないかしら。これって脳の命令で痛くなるんでしょ」
「お前の場合、脳だけは何も手を加えてないだろう」
「わかってる。無理はしないわ」
槇野首相は、北斗やE4メンバーが西野谷の行動を掴めないままいたこの時期から、ゲルマン民族だけでは飽き足らず、朝鮮国や中華国からの移民はもとより、諸外国からの全移民や、国民の中で一定の犯罪歴がある者についても総電脳化することをぶちあげ、国会での意見も聞かず、またもや国民投票をすると宣言した。
それまで我慢に我慢を重ねていた移民や、一部の日本人から巻き起こる非難の声。
だが、電脳化しその脳内を把握することによって、異分子や問題行動の元締めを炙り出すには絶好の機会であるという、元内閣府長官安室玲人の腹積もりでもあったこの計画を、知ってか知らずしてか、槇野総理は実行に移そうとしていた。
槇野の場合、電脳化で自分に都合の良い情報を移民や犯罪者に移植することが目的だったのだが。
しかし、その計画がすぐに実行されることはなかった。
移民の人権を無視した非礼であるとして、国際協議会でこの問題が取り上げられたのである。
主として日本に移民を流入させている朝鮮自治国及び中華自治国に対し、この時代において初めて意見を言う場が設けられたわけだが、3国間協議の場を設けようとする朝鮮自治国及び中華自治国の思惑は外れ、両国は日本自治国の対応を非難するだけに留まった。
一方、日本国民からは賞賛の声も上がったが、犯罪者の人権を擁護する市民団体が突如現れ、槇野首相のお友達わいろ疑惑が持ち上がった。
北斗の言っていた通りの内容で、2大スキャンダルがすっぱ抜かれたのである。
日本国内では槇野や奥方のやりたい放題が連日マスコミをにぎわせることとなり、槇野は少なくとも、日本国民の電脳化についてはここに挫折を見た。
槇野は一旦E4を遠ざけたものの、スキャンダル発覚後マスコミがこの問題を放送するようになってから暗殺未遂が続くようになり、怖気づいたのだろう。高圧的だった態度を一変させ再度E4に護衛を命ずるようになった。
今回は素直に槇野の護衛を受けることにした剛田。
「誰かを暗殺するのは我々の仕事ではないが、守るのは我々の仕事である」
そういって静かに槇野に従うのだった。
護衛には杏1人が付くことで暗殺に神経をとがらせ渋る槇野を納得させて、他のメンバーは朝鮮国テロメンバー支援と西野谷議員の関係を洗い出す作業に追われていた。
そんなある日のこと、九条から杏にダイレクトメモが入った。
(チーフ、西野谷議員のことで報告があるんですが、時間取れますか)
(ああ、今日は護衛がなかったから今はE4室内にいる)
(西野谷議員が隠れて通う場所がわかりました。朝鮮国関係者とも目される人間も何名か出入りしています)
(金沢市内か)
(いえ、それが伊達市なんです)
(ではこれから私も行こう。三条は念のためライフルを携行しろ)
剛田は折しも、ESSSで本人曰くつまらない会議に出席していた。お伺いを立てている暇はない。
杏は居残っている設楽と八朔に留守番を頼み、黒の革パンツにGジャンを羽織って外に出る。地下2階によって1台のビートルを起こしそれに乗って、九条たちが指定してきた場所へと急いだ。
杏が20分かけて着いた場所は、伊達市内屈指の山の手地区にある、だだっ広い邸宅だった。
カメレオンモードになって邸宅の門の前に張り付く杏とビートル。
(九条、どこにいる)
(一応門の中に入りました)
(誰か他に来客がいるのか)
(見るからに朝鮮人と思われる男女が4名、インターホンで名を名乗って、家の中に入って行きました)
(そいつらの写真は撮ったか)
(はい)
(ではそれをダイレクトメモに添付して、至急八朔宛てに送ってくれ)
(了解)
杏はIT室で作業中の八朔を呼んだ。
(伊達市山の手住宅街の邸宅に、西野谷議員と、朝鮮人と思われる男女が時間差で入っていった。今写真をダイレクトメモに添付して送るから、移民かどうか確認してくれ)
(わかりました)
杏は八朔からの返事を待たず、門を乗り越えて九条たちと合流した。ビートルは門の前で、これから誰か入ってきたら写真を撮る様命令して置いてきた。
「ここからダイレクトメモで話す」
「了解」
カメレオンモードのまま、玄関をキキキと最小限の音で開ける三条。
家が広すぎて、西野谷議員と朝鮮人たちがどこにいるのかわからない。
(バラバラに動くぞ。九条は2階を。三条は玄関から向かって右側の部屋を。私は左側の部屋を調べる)
杏が動こうとした時、ビートルから連絡が入った。
(マタクルマニノッタヒトガキタヨ。シャシントレナイ)
(そうか、では私が玄関先に戻って車から降りてきた人物の写真を撮る)
杏は九条や三条と離れ、1人玄関に向かった。
玄関ホールでカメレオンモードのまま、来客を待つ。車寄せでドアを開閉する音が聴こえた。
来る。
万が一カメレオンモードが解けてしまった時のリスクを考えて、玄関からほとんど死角に入る廊下の端に佇む杏。
入ってきたのは買い物袋を下げた人物。来客というよりも、ハウスキーパーに近いような気がしたが、一応写真を撮り八朔に送った。
よし。
ここが西野谷議員の秘密の隠れ家的存在なのかは断言できなかったが、色々と人が出入りしているのは確かなようだ。
玄関で待機していた杏に対し、九条から低い声で連絡が入る。
(2階は全て確認終了しました。人の陰は見えません)
(そうか、では1階の玄関から見て左側を探してくれ。どこかで一緒にいるはずだ)
三条からも連絡が入る。
確認したが、こちらは水回りの部屋が多く、皆が一堂に会する部屋はなさそうだ、というものだった。
さすれば、今皆が集合しているのは玄関から見て左側、九条が調べているスペースになる。
三条と杏は階下の廊下の隅で身を潜めていた。
すると少々困った事態が起きた。
小型犬が2匹、廊下に出てきたのである。
犬だけはまずい。
カメレオンモードなど犬たちにはあってないようなもので、こちらの正体がばれてしまう。
(九条、まずい。室内飼いの犬が出てきた。カメレオンモードがばれる可能性がある。今日のところは撤収するぞ)
(えー、あと2部屋なのに)
(バレたら元も子もない。戻れ)
(了解しました)
九条も静かに玄関先まで戻ってきた。
犬たちは少し眠気があるのか、杏たちに気付かない訳はないのだが吠えようとはしなかった。
危機一髪。
杏たち3人はそっと集まり玄関ドアを少しだけ開け、皆が滑り出すように外に出る。
こういった邸宅は番犬として屋外にも犬がいる場合が多いが、今日のところでいえば屋外に犬の姿は見えなかった。
門まで足早に歩く杏たち。
ビートルの背に乗ればE4の入っているビルまで、20分もかからない。
(では、私は一足先に帰る。九条と三条はゆっくり戻ってこい。いくぞ、ビートル)
(ハーイ)
杏はカメレオンモードのままビートルに乗り、夕闇が迫る中、E4を目指した。
一度地下に行ってビートルを眠らせると、49階に上がり設楽や八朔のいるIT室に足を向けた。IT室では、設楽が酒を飲んで寝ている。八朔は溜息を吐きながら杏たちが送った写真を解析していた。
剛田はまたESSSの会議とやらでE4室には戻っていなかった。
もう年なんだから、いい加減あっちこち飛び回るのは止めて欲しいと言う杏に、年寄り扱いするなと言って剛田は笑ってばかりだった。
「どうだ、八朔」
杏の一言で設楽は目が覚め、寝ぼけたことを抜かしていた。
「金沢のバグが行方不明です」
「議員会館前にいるんじゃないのか」
「え。九条三条組はこっちにいますよ」
「金沢に置いて来たんだそうだ」
「はあ」
「議員会館前のバグに帰還命令を出せ」
「はーい」
まったく。誰もいなくなるとすぐこうだ。
いい仕事をするやつだが、これだけはいただけない。
九条たちが気付いて嫌な顔をしないよう、杏は設楽に水をがぶ飲みさせて、IT室の換気扇をフル回転させた。
30分ほどでE4室内に明るい顔色で談笑しながら九条と三条が戻ってきた。
「あれはいったいどういう集まりなんでしょうね」
九条が杏の頭を突っつく。
「うーん、まだ何とも言えないが、朝鮮人が複数出入りしていることに間違いはないな」
「その理由ですよ、今回の胆は」
「まだわからない、としか言えないだろう」
三条はライフルをちらつかせながら、西野谷議員暗殺のシナリオを九条と話していたらしい。
「若い人間も多かったし、テログループと言われればそう見えなくもない」
「まだ、時期尚早というやつだ、決めつけるな」
九条と三条を尻目に、杏は声を拡大させて倖田と西藤あてにダイレクトメモを送った。
(倖田、西藤。九条と三条が伊達市内にて朝鮮人と思われるグループと西野谷議員のコンタクトを捉えた。お前たちは明日からそちらのコンタクト場所に回って欲しい)
(了解)
すると、遠く離れた毛利市から不破がダイレクトメモに入ってきた。なぜか声にノイズが混じっている。
(ではこちらも、もうお役御免ですか)
(いや、西野谷議員と会っていた朝鮮人が伊達市在住とは限らない。今八朔に顔写真と移民許可証を照合させている。もう少し待て)
(北斗からの連絡は)
(まだない)
(了解、何かあったらすぐ教えてください)
不破としては、九条と三条が見つけた、というのが気に入らないのかもしれないが、金沢の議員会館を張っていたのは九条たちだから当然といえば当然。
毎日出入りしている議員会館から追うのは容易い。
毛利市に西野谷議員が姿を現さないことが決定的になったら、不破とナオミには毛利市を離れてもらう予定だが、問題は金沢市。
果たして今、目を離して大丈夫だろうか。
北斗からの連絡が全く入ってこないのがネックといえばネックだが、一般人に成りすましスパイとして活動する北斗とは、電話でやり取りするよりほかない。
金沢市でも小さなアパルトモンを借りているはずなので夜中に連絡しようと、杏は楽観的に考えていた。
その夜11時ごろ、杏は北斗のアパルトモンに電話を入れた。
北斗はE4からの電話と知っているはずだが中々出ない。まだ仕事中か?と切ろうとした時、北斗の声が聞こえた。
「はい、北斗です」
「五十嵐だ」
「五十嵐先輩、お久しぶりです」
??
先輩?
誰かと間違えているのか。
いや、この声を北斗が間違えるわけがない。
となれば考えられるのは、盗聴。
隠れる場所がないから先輩と呼んでいるのか。
「盗聴防止か?」
「あー。はい、はい」
「西野谷議員が伊達市で朝鮮人数名とコンタクトを取っている。そちらに情報はないか」
「申し訳ないです、僕ではとても務まりそうにない」
「ない、か。では、西野谷議員と朝鮮の関係について何かわかったら電話をくれ」
「お役に立てずすみません。はい、また何かあったら誘ってください。では、これで」
北斗との電話は直ぐに切れた。
あの分だと、誰かが盗聴器を仕掛けているに違いない。西野谷議員はそういった必要性が感じられないから、やるとすれば槇野か。おのれ、厄介事を増やしやがって。
杏の怒りは自然と槇野に向かっていく。
お前が護衛対象者じゃなくて暗殺対象者なら直ぐにでも実行するのに。
本当に残念だ。
杏は、あと1日、毛利市内で西野谷関連の情報が取れなかったら、不破とナオミを金沢に移動させることにした。
金沢で議員会館を張って何か掴めるものを探してもらうしかない。
しかし、不破たちと北斗が接触できる可能性は天文学的数字になる。盗聴されているくらいだから北斗には尾行も付いているかもしれない。
どうすれば定期的に北斗から情報をもらうことができるか。
1回だけなら、アポなし電撃訪問で西野谷議員の事務所を訪ね応対させればいいと思うが、やはり北斗を巻き込むのは無理があるか。
だとすると、北斗が西野谷議員の元で秘書をする妥当性がどこにでてくるか、事情が変わってきた今となっては、もう北斗が秘書を辞めても差し支えはない。
北斗に対しては折をみてもう一度辞職を勧めるとして、今は伊達市の動きを注視しなければならない、と杏は考えていた。
北斗の話によると、西野谷議員が公用車を使わないのは週に1度か2度。
その時はタクシーに乗り他の尾行者を振り切って伊達市まで来ている。何かでタクシーの都合がつかない時、あるいはどうしても新幹線に乗らなければならない時だけ新幹線を使っていると見るべきか。
新幹線の方が時間的には1時間近く速いから、急ぐときは新幹線、という考えもあるかもしれない。
昨日の今日でまたあそこに人が集まるとは考えにくいので、不破たちを金沢に戻らせ議員会館を張らせれば、公用車以外で帰る時が明らかになるし、連絡を受けてE4があの山の手の豪邸を張っても時間的なロスはない。
杏は考えを整理して、まず、不破たちに金沢行きを命じ議員会館を張らせる任務を与え、残りの者は伊達市にて西野谷議員や朝鮮人グループの入っていく豪邸を張らせることにし、朝鮮人グループがどこに帰っていくのかを中心に、皆バラバラに尾行せよ、とE4の倖田、西藤、九条、三条に命じた。
杏はそのまま西野谷議員が入っていった家に残り、西野谷議員の動向を調べることにした。
ただし、室内犬2頭の問題が残っている。
身体は透明になっても、匂いは消えない。
どうしたものかと杏は考える。
麻酔銃、麻酔エサ。
エサは残ったら不審者が邸宅内に侵入したことを教えるようなものだし、麻酔銃は量を間違えると犬を殺してしまう。
仕方がない。設楽も忙しいことは忙しいだろうが、小型犬用の麻酔銃を今度行くまでに作製してもらうしかない。
杏は一旦E4に帰り、IT室に顔を出した。
もうバグは金沢の1機だけなので設楽は比較的のんびりと仕事に向かっていた。
「設楽、頼みがあるんだが」
「何ですかー」
「小型犬用の麻酔銃を作ってくれ。今度西野谷議員が伊達市に現れるまでに」
「チーフ。それってあまりに俺をこき使ってません?」
「すまん。時間がないんだ」
「そうですね、それは分ります。じゃ、頑張りますんで残業手当よろしくです」
「わかったわかった。室長に話してみよう」
「お願いしやーっす」
設楽は杏を押しのけてエレベータ―ホールに駆けて行くと、1人で地下に降りた。
設楽の様子を見て「よし」と片手でガッツポーズを作った杏は、次に不破にダイレクトメモを送った。
(不破、不破、聞えるか)
(ん・・・誰だ?杏か)
(チーフと呼べ。起きろ)
(今何時)
(午前様だな)
(ったく。人使い荒いんだから)
(悪い、陽が昇ったら金沢に飛んでくれ)
(一翔、誰?)
不破の隣から聞えてくる女性の声。
お前―、出張中に女連れ込んでんのかー、と、杏はこめかみがヒクヒクと動いている。
たぶんナオミだな。
いつも不破にべったりだから。
まあ、この時間なら普通は寝てるからこっちも良くない。
しかし、女と2人で宿を取る不破も許せん。
帰ってきたら仕返ししてやる。
不破との交信を早々に切り上げて、杏は49階で仮眠を取ることにした。剛田も今日は金沢の警察府で泊付きの会議だから帰らない。
ひとりで寝るのも寂しいし、起きて出勤する時間ももったいない。
IT室で設楽と八朔が目の色を変えて仕事していた。
何かを切っている機械の音を聴きながら、杏はつかの間の眠りに落ちた。
翌日早くに起きた杏は、地下に降りてシャワーを浴びた。
万が一の着替えはいつも地下のロッカーに用意してある。
濡れたストレートの髪を強風ドライヤーで乾かしながら、杏はある種の心地よさを感じていた。この気持ちは何だろう、何にも例えようがない。
そうとはいっても、今日あたり西野谷議員が伊達市に戻ってくる可能性はあるし、場合によっては、今晩は徹夜になるかもしれない。
徹夜は慣れているが、杏としては今回の任務は何か前に進みたくないという気持ちが高まってきた。
何故かは見当もつかないが、西野谷議員がテログループを支援しているとは思いたくない。たぶん、そこに凝縮されていた。
不破とナオミは朝一番にホテルをチェックアウトし、金沢に向かっていると杏にダイレクトメモが入った。
ま、仕事はしてるんだから2人で一部屋に寝てたことはチャラにしてやる。
そう思いながら地下から49階に上がる時、1階でエレベーターが開き九条と三条が並んで出勤してくるところに出くわした。
九条が杏を見て目を丸くする。
「チーフ、徹夜ですか?」
「まあな」
「髪、濡れてますよ」
「それ以上言うな。プロレス技掛けられたくなかったら」
「はいはい」
ちょっと呆れ加減で返事をする九条や、何も言わず九条を見て笑っている三条とともに、杏は49階に到着した。
部屋の中にはもう倖田も西藤も姿を見せていて、今日の予定を2人で相談していたようだった。
「チーフ。昼間に山の手に行って、先日見損ねた部屋を確認できませんかね」
「うーん、誰の家かわからんからなあ」
「犬を黙らせない限り無理じゃないですか」
「そういえば西藤は犬が大嫌いだったな。どうする、行くか?」
「なるべくなら後方支援でお願いします」
「なら次回は4人で行くとするか」
こっちで予定を話し合っていると、足音もなく八朔が目の下にくまを作りながらIT室から出てきた。
「チーフ、調べました。先日西野谷議員と行動を共にしているとみられる朝鮮人」
「どうだった?」
「全員移民許可証持ってますね、正式移民として登録されてます。朝鮮国にいる時から犯罪歴はありません」
「今はどこに住んでる」
「全員が伊達市内に住んでます」
「わかった、八朔。ありがとう。少し仮眠を取れ」
「了解、寝ます」
背中を丸くしながらIT室に帰っていく八朔。IT室には寝袋も準備してあり、しょっちゅう徹夜している2人が交互に使っている。
夕方近くまでいつものように自由な行動で時間を潰しているE4メンバー。
八朔が調べてくれたおかげで、豪邸に出入りしている者たちの尾行もやり易いことがわかった。
西藤が珍しく起きていて、地下のバグたちにオイルを注しに行くと言って席を立つ。
倖田は万が一に備えて、三条とともにライフルでの狙撃練習をするためこれまた地下に降りていった。
残ったのは九条と杏。
九条は活字新聞に熱心に目を通していたが、他に誰もいないとわかると杏の隣に座った。
不破がいない時は九条と話しても炎上しないので楽だなと思い杏は思わず口元がほころぶ。
「どっちに転ぶと思います?」
「西野谷議員か?」
「ええ」
「どっちかはまだわからんが、誰かが住んでいる屋敷には違いないだろう。あの時犬を連れ込んだ人間はいなかった」
「となれば、あそこには犬の飼い主が住んでいることになる」
「一義的に考えればそうだな」
「設楽マップで追ったらどうです?」
九条の意見を聞きIT室に出向いた杏は、設楽にマップ作製をお願いしようとしたが、設楽は麻酔銃作製に目の色を変えていて、話しかけることすらできなかった。
E4室内に戻る杏。
「ダメだ、麻酔銃に憑りつかれてる」
「チーフがこき使ってるんですよ」
と、不破からダイレクトメモが入った。
(西野谷議員が公用車を使わずタクシーを拾いました。たぶんこれから伊達市に向かうものと思われます)
(タクシーを可能な限り追いかけろ。毛利市に行く可能性もあるからな)
(了解)
今度は地下組にゲキを飛ばす杏。
(地下から上がってこい。西野谷議員が動き出したぞ)
地下から皆が49階に上がってきて、出掛ける準備として銃やライフルを手にした時だった。
剛田が金沢から戻ってきて自動ドアが開き、室内に風が舞った。
杏が剛田にこれまでの経過とこれから出動する旨を話し了解を得ようとした時、剛田がひとこと付け加えた。
「その邸宅は西野谷議員の実家だ」
杏が本当かと言わんばかりの大声で聞き返す。
「実家?」
「そうだ。たしか母親が1人で住んでいるはずだ。西野谷議員は結婚していないから選挙になるとこちらの実家に戻ってくる」
なるほど、合点がいった。杏はそんな顔で剛田を見ていた。
「そう。だから犬がいたのね」
「カメレオンモードの一番の敵は犬だ、気を付けろよ」
「大丈夫、小型犬用の麻酔少なめ麻酔銃作ってもらってる。あと1時間でできるかな」
「また徹夜させたのか。あまりこき使うなよ」
ふふふ、と杏は笑って剛田を見る。
剛田はまったく、といいつつ珈琲を淹れながら、杏に頭痛は大丈夫かと尋ねた。
あれから頭痛はない、と杏が答えると剛田は胸を撫で下ろしたように2,3度頷いた。
剛田からの指示で、先発隊として倖田と西藤が西野谷議員の実家屋外に潜入することになり、バグとビートルを1機ずつ出し2人はE4を出た。
「出入りしている者の犯罪歴がないとすれば、テログループに辿り着くかどうか怪しいものだな」
剛田は槇田の言った噂を信じていないからか、テロについては懐疑的な見方をしている。
それに対し朝鮮国が大嫌いな九条は絶対にテログループであり、秘密裏に会合を開いているのだろう、実家は目晦ましだと剛田に反論している。
杏はこれまでどちらとも言えないと心の中では思ってきたが、実家ということを聞き、なぜ朝鮮人が複数集まっているのか、その疑問が解けずモヤモヤしていた。
でも、今日また実家に複数の朝鮮人が集合するとなれば、自ずと答えは見えてくるし、槇野のいう噂の真偽も明らかになる。
倖田と西藤は豪邸の屋外にて家の様子を探っていたが、特に変わりはなく、人の出入りもないという。
夕方、西野谷議員が戻ってからか勝負か、と念入りにカメレオンモードの具合を調べる杏。犬さえいなければもっと簡単に事は進むのだが、こればかりは仕方がなかった。
夕闇が夜の空気に包みこまれ、屋敷屋外が暗くなったところで、西野谷議員が実家に戻ったという知らせが西藤からE4に届いた。
屋外を調べたところ番犬のような犬はおらず、西藤はそのまま屋外で待機することになっていた。倖田は万が一のためにライフルを撃てる場所を探していたが、窓のある部屋には誰も姿を見せないらしく、出番がないかもしれないとダイレクトメモを寄越した。
あとは、朝鮮人の移民たちがいつ、この屋敷に顔を出すかである。帰り際に尾行するには格好の新月。
設楽の最高傑作麻酔銃が1丁できあがり、麻酔弾は1匹に付き1発と杏は説明を受けた。麻酔の効いている時間は大体2~3時間だという。
倖田が最初に麻酔弾で眠らせますかと申し出たが、いつまで寝ているかもわからないくらいの少量なので、杏が所持し全員が揃ったら2匹一緒に眠らせることにして周囲の部屋を探ることにした。
九条と三条が最後に現れた。
設楽特製の麻酔銃を三条が撃ちたいと要望するのだが、杏はガンとして認めず、玄関から向かって左側の部屋を中心的に探すことで指示を出す。
その時、また犬が2匹揃って出てきた。
杏は躊躇なく犬のお尻の辺りを狙って麻酔銃を撃ち、犬たちはよろめきながら歩いていたが、ついには足元が千鳥足状態になり、そのまま崩れ落ちて眠ってしまった。
ここからが本業。先日見つけられなかった玄関から見て左側にある2室を、九条と三条が探す。
部屋はすぐ見つかったが、集合している部屋はドアが開かないと九条がダイレクトメモで早口に話す。
杏はそれも想定内で、待っていれば必ず1度や2度は開くと、せっかちな九条と三条を押さえ付けた。
待つこと30分、ドアが開きハウスキーパーのような女性がお茶と菓子を持って部屋の中に入った。朝鮮語の話せる九条が、杏と一緒に中に入り込んだ。九条は最初、朝鮮語?と杏に対ししらばっくれていたが、長浜海岸で聞いたぞと脅すと、素直に認め通訳も兼ねるとして中に入った。
中では、日本語や朝鮮語が乱れ飛んでいたが、何より驚いたのは病人がおり、最新式の設備を使い病床に臥していた、という事実だった。
九条が朝鮮語を聞き杏に耳打ちしてきた際、テロのような内容の話は一切しておらず、西野谷議員もたまに朝鮮語を使ってベッドに臥している人の心配をしていたし、病人も朝鮮語を使っていた、ということだった。
杏と九条の2人は30分ほど部屋にいただろうか、室内での動きを見る限り、この家に出入りしていたのは医者、看護師2人、介護士の4人らしかった。
移民としてこちらに来てからは、日本国で使用できる免許も持っていない故、業いとして働くことはできなかったが、こうした秘密の治療であれば、その腕を使って昔受けた恩を返している、と話していることがわかった。
無免許医師による治療は何故行われているのか。
母親らしき人物は西野谷議員と話す際は日本語を使っていたが、医師たちに対しては朝鮮語で会話していた。たぶん、西野谷議員そのものはクォーターかそれ以上に日本人の血が濃いと思われたが、西野谷議員のルーツは朝鮮国にあるのだという、知られてはいけない秘密を抱えていることが推察された。
国内で選挙に立つ際、ルーツが海外にあると選挙に受からないばかりか、万が一受かったとしても人気は望めない。海外からの移住者に選挙権を与えれば別だが、今の日本は選挙権を与えていなかった。
九条はテロではないと知ると黙り込み、早く帰ろうと杏を突っつく。
また今度ドアが開いてからだと諭す杏だったが、段々時間が経ってきて、犬のことが心配になってきた。
と、廊下で犬の声がした。今更行って眠らせる麻酔銃もない。
九条と杏は、ドアが開くのを待つしかなかった。
それから30分ほどでその日の治療は終わり、西野谷議員と医師たちとの懇談が始まった。
杏と九条は最後のお茶を持ってきたお手伝いさんらしき女性がドアをノックして開けるのを辛抱強く待ち、ドアの陰に身体を寄せ、お手伝いさんをやり過ごした。
犬はどこだと探すと、ご主人様に会いたかったらしく、ワンワンと鳴いて西野谷議員に飛んで寄っていく。
よし。この隙に逃げる。
開いたままのドアから足音を立てないよう、ゆっくりと、でも意識してドアの向こうに身を滑らせると、2人は漸く廊下に出ることができた。
2人はそのまま廊下を速足で音がしないように歩き、奥で皆が懇談している最中に、キキキとドアを静かに開けて屋敷から出ると、倖田や西藤、三条と合流した。
一応、杏を除く4人は医者を初めとした朝鮮人を追って自宅を突き止め本当にテロの素地が無いかを調べることとし、杏は剛田に報告するため皆と別行動をとった。
看護師は同じ方向に歩き出したため、同じ移民宿舎に帰るものと踏んだ九条は杏を追ってくる。
2人でE4に戻った時、まだ剛田は待ってくれていた。
「お疲れだった」
「知ってたの?」
「何を」
「西野谷議員のルーツ」
「いや。でも政治活動などの系統から、もしかしたらとは思っていた」
「ボスに話して判断を仰ぐべきでは?」
「テロではなかろう、なぜ話す必要がある」
「朝鮮国の血が混じった人間が国会議員など、許されることではありません。暗殺すべきです」
「彼は生まれてこのかたずっと日本籍で暮している。暗殺する理由はどこにもない」
剛田は瞬間的にこれを拒否し、ボスには一切真実を伏せる、と杏と九条に強い口調で言い切った。
不破とナオミも夜遅くE4に戻る予定ということで、皆が帰ってくるまで3人は珈琲を飲みながらそれぞれが自分の思いを胸にしまったまま、過ごしていた。
夜遅く尾行組が戻り、西野谷議員宅に出入りしていた移民はテロとは関係ないことが報告された。全員が元医療従事者で、無資格で診療を行っていることは懲罰に値したが、金もなく病院に行けない移民たちを夜遅くまで診ており、例えば爆発物を作るとか、そういった時間があるとも思えなかった。
不破とナオミも到着すると、剛田は再び皆を諭した。
「魂は肉体が死んだのちにも生き残ると信じられている=The soul is believed to survive the body after death.」
剛田はこの言葉の「自分の人生、滑稽な命令に服従するような生き方は止めろ」という概念を皆に説く。
しがらみの中で無味に生きることはするなといわれた九条や三条、ナオミもこの言葉の意味するものを自分なりに解釈しようとしていた。
設楽はすぐにギブアップしてIT室に逃げていったが、九条は最後に折れた。
「W4ではこういうことを言ってくれる人はいませんでした。上司は自分ファースト人間で、春日井総理に安室のことが知れるや否やW4から逃げ出したんです。そして僕らだけが矢面に立たされた」
剛田は優しく九条の肩に手を置きながら、三条にも目を遣り話し出す。
「守るべきは誰かを見失ってはいけない。部下がいれば部下を守る。当たり前のことだ」
「剛田室長はもし何かあったら僕らを守ってくれると?」
「だからお前たちをE4に呼んだんじゃないか」
九条は目を閉じ、上を向いた。泣くのを必死に我慢しているように見えた。
三条は我慢できずに下を向くと、膝を突いて涙を流した。
それ以後、九条や三条は暗殺にシフトする考えを改め、剛田に意見することを止めた。
スキャンダル発覚後、槇野や槇野の奥方の評判が段々と斜陽化していく中、槇野に対し、移民全体の総電脳化計画を強行し国民も同時に総電脳化の犠牲になるという噂が流布され、最終的には国民の反発を買うこととなった。
噂とは、然に非ず。
「金沢のメインストリートにあるバーで聞いたんですけど」
不破とナオミが金沢にいる際、バーで西野谷議員に関する妙な噂が立っていたことを突き止めた。
「西野谷が暴漢を雇い、槇野を暗殺すると吹聴してたと言うんです」
「まさか」
「ええ、それで方々で突っ込んでみたら、どうやら槇野の愛人がその噂の出所のようで」
「あの気の強そうな奥方を前に愛人なんぞを囲ってるの」
「チーフ。もしかしたら愛人宅で何か出るかもしれませんよ」
不破と杏は、互いの顔を見て、思わずにやりと笑った。
「剛田さーん、金沢に行ってもいい?」
杏は猫なで声になって剛田に擦り寄った。
「五十嵐、また変なことに首を突っ込むつもりか」
「真実は明らかにしないとね。その噂が本当かもしれないしー」
剛田は呆れたような顔をしつつも、杏を止めはしなかった。
「2日やる。それで何も出てこなければ諦めろ」
「はーい」
不破と杏が悠長に出掛ける支度をしていると、九条がニヒルな笑みを携えて近づいてきた。
「現場を押さえたとして、あとはどうするつもりですか」
「どうしようかしら。あたしゴシップ誌には疎いのよねー」
九条が苦笑する。
「だと思った。僕が良いところ紹介してあげますよ」
「あら、詳しいの?」
「昔取った杵柄ってやつです」
不破は面白くなさそうにそっぽを向いたが、その首根っこを引っ捕まえて九条に礼を言う杏。
「ありがとう、これで噂の全容を解明できるわ。ほら、不破も頭下げて」
力比べで杏に負けた不破はぺこりと九条に頭を下げ、九条は笑いながら今日はもう帰ります、と剛田に言って姿を消した。
「なんだ、これからすぐ行くのか」
剛田は久しぶりに3人で家に帰ろうと思っていたようだったが、杏も不破もそれどころではない。
「あと2日しかもらってないんですもの、早く行かなくちゃ」
「お前のそういう時の行動の早さは治らないな、五十嵐」
「好奇心旺盛と言って」
不破が時計で写真を撮れるか最終チェックをしている。よし、撮れる、と呟く不破。
杏は録音機能の付いた時計を探している。
「設楽、確か試作品あったわよね」
IT室から設楽が顔を出した。
「地下の倉庫にあります。持ってくるのでちょっと待っててください」
「OK」
10分ほど待つと、設楽が地下の倉庫から試作品の録音機能付きダイレクトメモ用時計が姿を現した。
「どれ、録れるかな。あー、あー。本日は晴天なり、本日は晴天なり」
杏が声を録音し、PCに落とし込む。
録音機能は上手く作動し、杏の声が再生された。
「これなら専用PCに取り込まないと再生できないようになってますからね、ただの時計にしか見えません。使い方は、右のスイッチを3回、押してください」
「ありがと、設楽。剛田さーん、じゃあ行ってくるから」
「気を付けて行けよ。何かあったらすぐ連絡しろ」
「はーい」
5分後には、2000GTに乗り込んだ不破と杏が夜の伊達市を高速道に向かって爆走していた。
金沢市まで2時間。
楽しいドライブの始まりだった。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
金沢市に着いたのが夜の8時。
首相官邸にはまだ槇野が残っていて、これからどこかに出掛けるような雰囲気があった。
ピン、ときた杏は、不破を突っつく。
「これから愛人との逢瀬にでも出かけるんじゃない?」
「そうかあ?」
「ま、そう言わず追いかけてみましょう」
槇野が出掛けたのは金沢市内にある政治家御用達の高級料亭だった。
杏と不破は離れたところに車を停め、カメレオンモードになって人物が良く見える場所に陣取っていた。
「ほら、槇野。不破、顔撮って」
「了解」
その後、料亭にはそぐわぬ洋風のドレスを着た若い女性が1人、タクシーで乗り付け料亭内に入っていく。
「撮って撮って」
「これがお相手?若くないか?」
「愛人は若いって相場が決まってるのよ」
バラバラに料亭に入った2人がその後一緒に料亭を出るところや2軒目に訪れたバーでべったりと腕を絡ませているところ、そこから移動するときも首相専用車に乗り込むという公私混同。
そして最後には愛人宅マンションで腕を組みながら降りて中に入り、首相専用車が帰るところなど、かなり良い絵が撮れた。
しかし、問題は2人が西野谷議員を陥れようとする会話。それを録音しないことには杏としては収まりがつかなかった。
「不破、あのマンションに行こう」
「入れるか?」
「カメレオンモードになってあいつらと一緒に入ればいいじゃない、行こう」
しかし、その晩はあと一歩、というところでオートロックが閉まったものだから一緒に入り損ね、録音は翌日に持ち越された。
翌日は槇野が自宅に帰ったらしく、愛人マンションを訪ねてくる様子はない。
正味あと1日。
今晩がヤマだ。
杏と不破が玄関先でカメレオンモードになっていると、今日は槇野が1人で愛人のマンションにやってきた。
時間は夜の10時。何処かで会合を開いていたのだろう、顔が赤くなっていた。
また首相専用車が玄関脇に停まって槇野を下ろした。
ここまで首相専用車を使うとは。
馬鹿なのか、ケチなのかわからない。
杏と不破は槇野が押した番号を覚えて、その部屋に後から入るつもりでいたが、今日は槇田が入ったあとからオートロックを解除するなど出来っこない。
愛人が家の中にいるのだから槇野の後ろに隠れてエレベーターを出る、ということになった。
槇野の背中についた杏と不破はエレベーターが何階で止まったか確認し、その部屋に着いた槇野を迎える愛人を察知したため、一緒に部屋の中に入るのを止めて、部屋に2人が入ったのを確認してから、杏は針金をポケットから取り出した。
「やるの?」
「30秒でできるから」
「お前の方が犯罪者だな」
「ご勝手にどうぞ」
本当に30秒でマンションの鍵を開けた杏は、不破と一緒に少しだけドアを開け身体を滑り込ませた。
愛人は内鍵を掛けない性分らしく、その点では杏たちに最大の幸運が訪れていたとも言える。
リビングにいる愛人は、簡単なつまみとワインを準備しており、今晩会えたことに感謝の意を伝えている。そんなのいいから、早く西野谷の話をしろ、と杏はイライラしていた。
すると思いもよらないことに、2人はすぐにリビングからベッドルームに移動し始めた。
不味い、一緒に入らなければ録音できない。
愛人は酔ってもいない風情で、2人は腕を組みながらベッドルームに移動した。愛人が最初に部屋に入りベッド周りを整え、少し遅れて槇野が後から入ろうとしていた。
槇野はちょっとふらつきながら歩いていたので、これ幸いと愛人のすぐ後ろに張り付いた杏と不破は、槇野が入る前にベッドルームの隅に身を置き、カメレオンモードのまま隠れた。
杏は苦笑いしながら不破の耳元でそっと囁く。
「なんか嫌な予感」
不破も心なしか不安を隠せないといったところなのだろう、声に覇気がない。
「うん」
「早く噂話しないかな」
「しっ、ほら、押せ」
杏は慌てて時計の右側を3回押した。
槇野と愛人の2人は思った通り、西野谷を追い落すために嘘の情報を流しており、その経過を話しては、然も楽しそうに笑っていた。
よし、録れた。
しかしまたも困ったことが起きた。
愛人と槇野はすぐ寝るとばかり思っていたのに、服を脱ぎ出して事を起こしてしまったのである。
(げっ)
杏が不用意な声を出すと不破が止める。
(しっ、聞えたらまずい)
事の最中にも槇野が西野谷の名前を出し、噂を流して完全に潰してやると息巻いている。
杏と不破はどうしていいかわからずその場に凍り付いたままで録音がなされていたが、聞こえなくてもいい声まで入ってしまいはしたものの、これはこれでリアルな情景を醸し出していた。
録るべき物は間違いなく録り終えたので早く帰りたい杏だが、今ドアを開ける訳にはいかない。
杏と不破は2人がすやすやと眠りに就くのを待って静かにドアへと近づき、そっとドアを開けた。
暗い廊下で何かを蹴ってはいけない。
最新の注意を払いながら廊下を歩きだす杏と不破。
玄関を出ると、ピッキングの針金を持って音が出ないようにドアの鍵を閉める。
(よし、閉めた。不破、帰ろう)
(お前これ何秒かかった)
(20秒)
(マジもんで犯罪者の域だな)
(うるさい)
カメレオンモードのまま悠々とマンションのエントランスまでの廊下を歩く杏たちだったが、エントランスの向こうから、何やら犬の吠える声がする。
どうしてこんな夜中に住人が犬を連れているのか、杏には分らない。不破が犬の散歩というので杏はようやく納得した。
(麻酔銃もないし、どうする?)
(速足で通り抜けるしかない)
犬は杏たちに気が付いたらしい。キャンキャンと何度もこちらを向いて騒ぐ。
飼い主は到底何が起こっているかわからず、夜中ということもあり必死になって犬を宥めようとしていたが、およそ、隣を人間が歩いているということには気が付かなかったようだった。
(あー、終わったあ)
(帰るぞ、杏)
(そうね、急がないと)
無事にマンションを出た杏たちは、周囲に人がいないのを何度も確かめてからカメレオンモードを解くと、一気に走り出した。
そしてマンション南口の路上に停めてあった2000GTに素早く乗り込むと、エンジンを2度、3度とふかしながら爆走体制に入り、不破は思い切りアクセルを踏み槇田の愛人が住むマンションを後にした。
伊達市に戻ったのは夜中の3時。
自宅に戻る前にE4に行って寝ている設楽を叩き起こす。
「おい、設楽、起きろ」
「あ、お疲れ様です」
「これをPCに取り込んでくれ」
写真と録音を終えた時計を渡すと、杏が設楽の頭をポカっと叩く。
「へぐるなよ、これしかないんだから」
「わかってますよ」
設楽が笑いたいのを我慢してます、という顔で杏と不破を見た。
「ディープなもの持ってきましたねえ」
「仕方なかったんだ。まさかお前、目の前ですぐ脱ぎ出すなんて誰も考えないだろ」
「人それぞれっすからね。ま、この方がリアルなのは確かだし」
写真と録音を何枚かのブルーレイディスクとDVDに落とし込むと、設楽はまた寝袋に入って次の瞬間には寝ていた。
杏と不破は顔を見合わせクスッと笑うと、鍵を閉めて静かに歩き出しE4を出た。
翌日朝、眠そうな顔で登庁した杏。
不破は運転で疲れたので午前中休むと言い剛田を呆れさせたが、杏は眠い目をこすりこすり、九条にお願いしてゴシップ誌に物証を送りつける気満々だった。
剛田は朝から金沢市に出張なので、2人はバラバラに家を出た。
ボーっとしながら杏がE4に入ると、皆が大笑いしている。
「チーフ、これ目の前にして録音してたんですか?」
三条がさすがにそれはないでしょと言いながら杏の顔を見てまた笑う。
「仕方ないだろ、まさかそこで逃げるわけにもいかないし」
九条は次のタスクを考えているようで、口から笑い声は漏れるものの、目は笑っていなかった。
物証をひと括りにして九条に渡す設楽。
杏は九条に頭を下げた。
「なるべくセンセーショナルに書き立てるところに投げ込んでくれ」
「お任せください」
九条が投げ込みに行った2日後、R15指定の物証こそ活字新聞には載らなかったが、バラバラに料亭に入った2人がその後一緒に料亭を出るところや、2軒目に訪れたバーでべったりと腕を絡ませているところ、そこから移動するときも首相専用車に乗り込むという公私混同が見開き紙面で掲載された。
そして最後には愛人宅マンションで腕を組みながら中に入り、首相専用車が帰るところなど、何枚かの写真と、それこそセンセーショナルな見出しで一部のゴシップ誌が伝えると、女性誌や通常の雑誌などもそれに追随し槇野の女性遍歴を一斉に報じた。
R15の物証はゴシップ誌のネット版で繰り返し流れ、ダウンロード数はうなぎのぼりとなり、槇野は赤っ恥を晒す格好となった。
結局、槇野は愛人問題と西野谷議員への誹謗中傷も加わり、世論を騒がせ国民の信頼は地に落ち、総理を降板することになった。
槇野のぶち上げた日朝中間国交断絶宣言と日本自治国の移民及び犯罪者総電脳化計画は暗礁に乗り上げ、蹉跌をきたしたのだった。