第6章 メモリー
「どう思う?」
「何が」
剛田が家に帰るまでの間、杏と不破は先日の爆弾テロについて話し合っていた。
「こないだの札幌。大人たちの命を助けることはできなかったのかな」
「一瞬で逝ったのはどっちも同じだろうけど、俺なら最後まで諦めなかった」
「でもさ、刻一刻と時間迫る恐怖心て絶対あるよね」
「だろうな。人間死ぬときゃ走馬灯のように生きてた時の場面が思い浮かぶんだとさ」
「マイクロヒューマノイドも?うっそだー」
「脳から出る何かがそう見せるんだとしたら、俺だってお前だってありだろ?」
「あ、剛田さん帰ってきた」
剛田は然も機嫌が悪そうな表情で、玄関で靴を脱いでいる。
玄関に剛田を迎えに出た杏は、不思議そうに首を捻った。
あの事件、槇野首相からはE4の出来が良かったと褒められたと聞いたのに。バグたちの仕事もそうだが、大人たちを皆殺しにして自分のバスが助かったことを喜んでいたらしいのに。
杏から言わせれば槇野は鬼畜の中の鬼畜だが。
「どうしたの、すごく機嫌悪そう」
「五十嵐か。困ったもんだ、暗殺部隊も」
「何、こないだのこと?」
「いや、九条が辞めるかもしれない」
「あら、どうして?」
杏の顔色が青ざめた様に見えたのだろう、後から来た不破は眉間に皺を寄せ始めた。
「朝鮮国の秘密諜報機関の人物が日本に上陸した、福岡に潜伏しているとの情報が入ってな。それを掴んだ九条が、美春さんの記憶を消したやつらだと決めつけて報復に出ようとしている。止めたんだが・・・」
「が?」
「退職届を預かる格好になってしまった」
「あら」
「どうしたものかなと」
「あの人に限ってやられることはないと思うけど。どっちかっていうと相手をすぐ殺すし」
「今度の相手は朝鮮国政権の中でも名の知れた秘密諜報機関の人物でな。簡単に殺すことは可能としても、国家間の火種になる可能性だってある」
「だって、総理は国交断絶宣言したんだから別に構わないんじゃないの」
「あれは完全にフェイクだ。国民投票して国民の人気を取ったところで、経済問題とか言い出してグレーゾーンに放り込む腹積もりなんだろう」
「えー、でも向こうの国では恨まれてるんでしょ、移民電脳化計画とか言って」
不破が杏の言葉を押さえ付ける。
「それだってまだ実行に移してないというわけか」
剛田はカバンをリビングのテーブルに放り投げるように置いて、台所の冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
「危ない橋は渡るなと注意したんだが」
不破はふん、と鼻を曲げていた。
辞めたければ辞めればいいと憤慨している不破。
せっかく剛田が引っ張り上げたのに、未だやりたい放題なのが気に入らないらしい。
剛田はグイッとビールを飲みながら、自らの胸の内を杏と不破に吐露した。
W4を全滅させてしまったことに対するちょっとした罪悪感。
それは、元々の組織創設の時に遡った。
創設される時は、どちらも暗殺部隊として創設されたという剛田。E4がその後も暗殺部隊を続ける可能性もあったという。たまたま、E4はテロ制圧部隊にその意義と業務形態を変えただけの事だった。
何か言おうとする杏の口を後ろから手を回して押さえ、不破が剛田とやり取りしていた。
剛田はW4だけに魔窟のような後ろ汚い仕事を押し付けたのは自分かもしれないと言って視線を床に落とした。
それに対し不破は、未だに暗殺から離れようとしない態度が気に入らないとはっきり言ってのけている。
許してやれ、と剛田は元気なく不破の肩を叩いた。
W4は思いもよらぬ形で空中分解し一条も失った。何かに縋りたい気持ちだってある、と。
福岡に行く前に、九条が毛利市に一度立ち寄るのは明白な事実と考えて、杏と不破は剛田の「済まない」という言葉を伝える為だけに伊達市を飛び出した。
不破にしてみれば一発くらい殴ってもいいと口にするのだが、暴力反対の杏は猛反対で片腕折るよと不破を脅していた。
「お前ほど暴力的なヤツはいない」と不破に窘められ、杏はまたもや頭に血が上る。ほらみろと諭され、上げた拳を下ろせなくなっていた。
不破に笑われる杏。杏の口角も段々上げっていき、ついには二人とも笑い出した。
2人で大笑いしてやっと拳を下ろしたあと、杏は不破に真面目な声で話しかけた。
「ところでさ」
「何?」
「強いのかな、朝鮮国の秘密諜報員」
「どうだろ、お前に素手で敵うやつはこの世にいないから」
「武器持ってたら?」
「お前も銃は携行してんだろ、あとはカメレオンモードしかないっしょ」
「とにかくさ、追いかけて人を簡単に殺すあれだけは止めさせないと」
「やっぱり」
「何が」
「お前が九条を気にしてんのって、そこなんだよな」
「そこ、とは」
「単純な殺人鬼になって欲しくない、っていうか」
杏もどうして九条が気になるのか自分でも気が付かなかったのだが、不破の一言は胸にズン!と響いてきた。
そうか、単純な殺人鬼。W4は殺人鬼と化す危険性を孕んだ組織だった。だから気になったのか。
不破は続けた。
三条は賢いから、もう殺人鬼たるW4の弱点を見つけている可能性がある。
だが九条は殺人鬼となるためだけにマイクロヒューマノイドにされ、総理の勝手な考えで路上に放り出されるどころか、2年間も美春さんに面倒を見てもらい身を隠さなければならない生活を送らされた。
同じように冷静で頭のいい三条とは違う生活を余儀なくされた。
三条もかなりきつい拷問を受けたようだから決して楽をした訳ではないが。
杏は自分の中にある九条像がどこか危なっかしいといつも感じていた。
元々華族の御曹司であり、杏や不破とは生まれも育ちも違う。そして、美春さんのことになるとすぐキレる。
その他は、ナオミの時のように至って冷静で分析力も高いと言うのに。
「ナオミの時って何」
不破に聞かれ、しまった、口走ったかと思ったが、もう後戻りできるほど不破はバカではない。
杏は九条とナオミの話をしたことを正直に話した。
不破は特にナオミを庇いだてするわけでなく、杏の話を聞いていた。
「ナオミも暗殺部隊出身か。言われてみれば、今のCIAにテロ制圧組織はないな」
「え、昔はあったの」
「知らん」
槇野がターゲットではないかという九条の言葉をどうやって伝えようか、杏は少し考えた。不破だって暗殺部隊くらい理解できればターゲットを槇野としていることくらいわかりそうなものだが。
なんといっても、まともな時の不破は九条や三条並みに冷静で賢い。
「なんで日本に来て、WSSSで働いて次はE4なんだろ。ましてやE4なんて秘密組織みたいなもんだし」
「そうよね。何がしたくて留学してんだか」
「そりゃ、何かしらターゲット探してんじゃないの」
「あんただったら誰をターゲットにする?」
「んー、杏」
「簡単に殺すな」
「冗談だよ、今の国内体制でいえば槇野しかいないだろ」
「やっぱりそう思う?」
「あ、九条に言われたな」
「あたしだってたまには考えるわよ」
「いや、お前がこういうところで考えを巡らせるはずがない」
あたしの頭の中はお見通しというわけか。
偉い、不破。
「だから1回目の護衛には付けなかったのよ。札幌の時は迂闊ではあったけど、結果オーライということで」
「槇野を暗殺したところで日本は変わらないと踏んだんだろ」
「どうして」
「槇野は裸の王様だから。小賢しい役人風情が北米を脅かす存在にはなり得ないと。これが安室だったら暗殺されてた」
「安室元内閣府長官か。あれでW4の未来が崩れた感はあるわよね」
「元々は春日井の子飼いだったW4を寝返らせてクーデター狙った節もあるし」
「安室のやりたかった国民総電脳化計画も頓挫したし、ま、移民計画は安室でなくとも誰かがやる羽目に陥ったような気はするけどね」
「朝鮮国や中華国まで受け入れるとは思わなかったよ。何かしら裏取引があったのかもしれないな」
「でも、ゲルマン居住区との差は痛々しい」
「あれじゃ暗殺したくもなるだろ、両国にとっては」
そんな言葉のキャッチボールを続けるうちに、2人の乗った車は毛利市に入った。
一応、ダイレクトメモで九条を追いかけてみる杏。時計を置いて行かれたらジ・エンド。
(もしもし、九条さん、九条さん)
ダイレクトメモは繋がらなかった。
やはり伊達市に置いて来たのだろうか。
でも、使ってない時のザザザーという砂嵐音はならなかった。ということは、携帯はしているかもしれない。
九条の実家は何回か行ったので覚えていた。
また、友人の娘で美春が唯一思い出せる人間として訪ねてみた。
「美春さんはお元気でいらっしゃいますか」
お手伝いさんと思われる年配の女性は、当主と呼ぶといって家の奥へと消えた。
5分が経過。
こういう時、5分待つのは結構辛いものがある。
九条が来ていないことを理由に、今回ばかりは入れてもらえないかもしれないと危惧していたが、やっと当主と呼ばれた若い男性が出てきた。
あれ、なんだか九条さんに似ている。
九条さんの兄弟か、はたまた従兄弟か。
そんな些末なことはどうでもいい。
美春に会えるかどうか、物腰柔らかな芝居をしながら聞いてみる。
「叔母は病院に行っています。お待ちになりますか」
「いいえ、それでは後日また。今日は近くに立ち寄っただけですので。どうぞよろしくお伝えくださいませ」
どうやら当主とは九条の兄弟のようだ。
以前行った病院は、何となく道を覚えている。真っ直ぐ行った先にあったから。
杏と不破は九条家を後にし、心療内科へと車を走らせた。
杏が待合室を覗くと、美春が席に座っていた。お付きの人が会計を済ませている。
今しかない。
「ご無沙汰しております、美春さん」
美春はそれまでつまらない、といった顔で下を向いていたのだが、杏に声を掛けられると楽しそうな目に変化し杏の元へと走ってきた。
「今、お忙しいですか。ご自宅に伺ったら病院だということでしたので」
「もう会計も終わったから帰らないと。でも、残念だわ」
「今日、九条さんがこちらに来てないですか」
「顔は出したけど、忙しいとかですぐに出て行っちゃった」
「どこに行くかお話になってましたか」
「いいえ。どうかなさったの?」
「いえ、今日は私、非番なんですが九条さんが出掛けていたようなのでこちらかなと思いまして」
「ここから行けるなら、毛利市内か福岡ね」
「福岡?」
「ええ、尚志くんは向こうの大学を出たの。お友達もいらっしゃるそうよ」
それだ!
「そうでしたか、では次にお会いするときはそのお話も聞かせてくださいね」
「本当にごめんなさい」
「いいえ、お大事にどうぞ」
杏は美春が病院から車に戻って家に帰るまで、ずっと外で見張っていた。もう、あんな真似をする輩はいないだろうが。
美春が乗った車が見えなくなると、杏は早速近くで待っている不破の車に乗り込む。
「福岡ね、行ったのは」
「なんで?」
「卒業した大学や友達がいるんだって。朝鮮国からも近くて地理に明るい」
「となれば、暗殺くらいお手のもの、というわけか」
「朝鮮国から来た人物探さないと」
杏と不破は、猛スピードで福岡をめざした。
だが、2人とも福岡には仕事の護衛やテロ対策の講演を聴きに来た程度で地理には疎い。
こういう時に頼るのは、設楽大先生しかいない。
ダイレクトメモで設楽を呼び出す。
(おい、設楽。福岡の設楽オリジナルマップを送ってくれ。それと、九条の車を追いたいんだが)
(九条さんの車?ナンバーも車種も知りませんよ)
(三条なら知ってるだろう)
(はいはい、地下に降りて聞いてきます)
しばらくの間。
不破も何も話さずに一直線で福岡を目指す。
杏も手持無沙汰になって景観を眺めていた。
毛利市と福岡市の間に移民居住区はないはずなのに、朝鮮国や中華国の旗を掲げてある掘立小屋がいくつか見つかった。
正式ではない移民がここにもいたか。
船で荒波を渡ってきたか、旅行と見せかけそのまま居ついたかのどちらかだろう。
こうしてテロの温床が育っていくのかと思うと、杏は少し憂鬱になり、伸びたサラサラの髪をかき上げた。
不破の運転する車は福岡市に入った。
西の玄関口、福岡市。
人口は150万人。
第3次世界大戦における西の要所であったが、朝鮮国に近かったため札幌ほど強大な海外の脅威に晒されることはなく、人口が減ることも無かった。
当時の朝鮮国は軍隊こそあったものの今よりも軍備が遅れておりその分を北米に頼り切っていたが、その北米にも見放されたのが第3次世界対戦の最中だった。
そういった事情もあり、日本海側にあった福岡県は南側にあった県のように核の犠牲になることなく、今日に至っている。
ただし、朝鮮国の北部では昔から核ミサイルを研究していたという説もあり、福岡市については札幌ほど人口が増える要因にはなり得なかったというのが識者の見解だった。
(チーフ、チーフったら、聞こえてます?)
設楽の声だった。どうやらしばらく前から呼んでいたらしい。ダイレクトメモの接続が悪いのか、杏が考え事をしているから聞こえなかったのか、それは定かではなかった。
(悪い悪い、どうだ、九条の車、わかったか?)
(三条さんに聞きました。ガンメタのミニクーパー。年代物ですけどフルカスタマイズしてるらしくて、スピードも結構出るらしいですよ)
(そのミニは今どの辺を走っているかわかるか)
(はい、福岡市内の西区に向かって走行中のようです)
(そうか。何処かで止ったら教えてくれ、我々の車と何キロくらい離れてる?)
(20kmはゆうに離れてると思いますけど)
設楽との会話をダイレクトメモで聞いていた不破はアクセルを一気に踏み込み、また荒い運転になる。九条をサポートできるかどうかの瀬戸際だし一刻も早く九条に追いつかなければいけないのは分かっているが、荒い運転だけは止めて欲しい。
「不破、そんなに急がなくても」
「何言ってる、ここで逃したら何のために福岡まできたかわかんなくなる」
「そりゃそうだけど」
「ベルトきっちり締めて、身体振られないようにどっかに捕まってて」
げーっ。吐きそう。杏はひたすら別のことを考える。
それでも不破が急いだお蔭で、設楽マップで見つけた九条の車へあと数キロに迫っていた。マップを頼りに、交差点をUターンしたり制限速度+50キロで走って見たりと不破と杏は迷走していた。
だが、ようやく九条の車が見えてきて、設楽に教えられたナンバーを確認し、中に一台挟む格好で杏たちは九条の車を追うこととなった。
西区に入り、九条の車は一度九州大に入っていく。不破の車では目立つので、マップをダイレクトメモで表示したまま九州大入口近くで待つこと30分。
他の出入り口から出られたらおしまいになる。
だがまた、九条の車は杏たちが待ち受けている門から動き出した。
ラッキー。
九州大からでた九条のミニクーパーは、博多湾の長浜海岸へと向かっているらしい。
そこに何があるのか、九条は何をする気なのか、杏には見当もつかなかった。
というより、九条のことになると杏は平静を失うのかもしれない。九条が美春のことで我を忘れるように。
おかしいな、不破の考えることなら何でもすぐにわかるのに。
「お前も冷静になって考えろ。九条は大学で何かを調達し長浜海岸で誰かに会う気だ」
「あ、そっか」
「お前なあ。俺が思うに、ありゃ大麻の類いじゃないのかな」
「厳しく制限されてても、地方にくると制限なんて無いに等しいということだな、不破君」
「お前生意気~。ほれ、酔わせてやる」
不破は蛇行運転を繰り返し、本気で杏は酔いそうになった。
「こっちの警察に捕まるわよ、やめといたら?」
急に真面目な運転になり九条を追う不破は、運転しながら何かを考えている。事故を起こしはしないかと、杏としてはとても不安になる。
不破の考えているとおり、大麻を持ちだして誰かと取引でもするつもりか。
ただ、日本自治国内や国立大学内で生産される大麻は、マリファナにはなりにくいと言う検証結果も出ているくらいで、大麻がどういう取引の材料に使われるのか、それは首を傾げるよりほかない。
九条だってたぶん九州大学にいたのだろうから、現状は分かっているはず。となれば、誰かを騙して大麻を渡し、別な情報と交換すると考えれば合点がいく。
「不破のいうとおりね、大麻を持ちだし交換条件にして、誰から情報を引き出すって腹か」
「俺たちはどこで九条を捕まえればいいんだ?」
「取引相手がいない時に捕まえるしかないでしょ」
九条の車は長浜海岸の駐車場に停まった。その手前の道路で不破は車を停め、遠目にでも九条の動きが分かるようにしていた。
時間は午後1時50分。
たぶん、九条が相手との待ち合わせているのは午後2時だろう。
ダイレクトメモを使って、もう一度だけ連絡を取る杏。
(九条さん、九条さーん)
(どうしました。僕、今日は休暇なんですけど)
(後ろ見て、2000GTの不破と五十嵐です)
(どうやって知ったんです、ここを)
(設楽マップ)
(邪魔しないで下さいよ、相手は朝鮮と北米間のスパイなんですから)
(あら。何聞きだすの)
(いま日本に来てる朝鮮国諜報員の名前と宿泊先です)
(なんちゃって大麻どうするの)
(栽培用に渡すだけですよ。マリファナとは一言も言ってないし)
(あとから報復されない?)
(あ、向こうが来た。そっちは恋人の逢瀬のふりでもしててください)
ダイレクトメモは突然切れた。目を凝らして九条の車を見ていると、九条は車から降り、駐車場に入ってきた一台のハマーに乗った人物と車の窓越しに握手を交わしている。そして車の中に向けてなんちゃって大麻を渡した。相手は大層喜び、九条の質問に滑らかに答えていたと思われる。相手の顔がほころんでいたから大凡間違いないだろう。
見た感じ、アジア人ではなく欧米人に見えたが、電源をいれっぱなしの九条のダイレクトメモから流暢な朝鮮語が聞こえてきていたので、相手はほぼほぼネイティブの在朝北米人か。九条がいやに朝鮮語が上手なことに杏と不破は驚き、2人で顔を見合わせた。美春さんに習うわけがないし、どこで習ったのだろう。暗殺部隊の仕事で朝鮮入りすることもあったのか。
ただ、向こうの声が聴こえるということは、こちらの声も聞こえる可能性があるので杏も不破も話すことはしなかった。
朝鮮北米間のスパイか。
ナオミにでも紹介してもらったに違いない。
ナオミの行動も実に不可解なものだったから、今はもう、何が起こっても不思議ではないと杏は思っていた。
朝鮮北米間のスパイらしき人物の乗るハマーが駐車場から出て杏たちの車に近づいてきた。
仕方ない、恋人のふりでもして抱き合うか。
杏は丸い目をした不破に文句を言わせず首に手を回した。不破も杏の腰に手を添える。小さな声で「もっと!」と言われた不破は、腰に回した手に力を込めた。見つめあうとどちらからともなく笑いが込み上げそうだったので、互いに目を瞑る。
ハマーが通り過ぎるエンジン音が聴こえ、バックミラーで離れたことを確認したのち、杏と不破はお互いの手を解くと同時に、腹の底から大笑いする。
腹の皮が思わず捩れそうになるほど笑っていると、九条からダイレクトメモが入った。
(朝鮮国諜報員の宿泊先ですが、不思議なことに、ここ福岡じゃない、毛利市なんです。また叔母を狙うつもりかもしれない。僕は先回りして帰りますから。帰りに九条の家に寄っていただけるとありがたい)
(了解)
九条は自分の車に乗り込むと、タイヤをキュキュっと鳴らして毛利市へと戻っていった。
杏と不破は、それなりのスピードで設楽マップを使い福岡市を離れることにする。
九条の後を追いかけてハマーとすれ違ったら少々具合が宜しくないことを認識していたからだ。
九条とは別の道を通りながら、午後のひととき居眠りをしている設楽を叩き起こし不破の車と九条の車の差を聞きつつ、スピードを上げて毛利市へ戻る杏と不破。その距離は段々と離れていく。
如何に九条がフルスピードで高速を運転しているかがわかるというものだ。
諜報員か。
お願いだ、九条。早まった真似だけはしてくれるな。
そんな気持ちで杏は前を見ている。
不破も運転に専念し、2人はとうとう毛利市に入るまで口を開くことが無かった。
福岡市から2時間。大きな道路だけを通ったので九条との差はだいぶ開いていたらしい。
九条の実家に寄ると、まだ九条の車が駐車場に停まっている。
不破の2000GTも結構目立つ車なので、手前のコインパーキングの奥に車を停め、万が一のためにカメレオンモードになって九条の家の玄関前まで歩く。近くにハマーや目立つ車は停まっていなかった。
「ごめんください」
インターホンを鳴らすと、お手伝いさんが出てきて不審そうな顔をする。
「九条尚志さんは御在宅ですか」
美春ではなく、九条にアポを取ってあると前置きすると、少々お待ちを、と告げられ5分以上待たされた。この家ではさっさと家の中に足を踏み入れたことがない。
やっと九条が出てきたかと思うと、叔母が少し変調をきたしていると言われ、杏は許しも得ていないのに、靴を脱ぎ裸足のまま美春の部屋へ向かった。
「美春さん」
ドアを開けながら呼びかける杏。
不思議なことに、美春は杏のことを忘れていた。
「どなた?」
「五十嵐杏です、覚えていらっしゃらない?」
「こんな若い御嬢さんは知らないわ」
「剛田さんは御存じですか?」
「ええ、剛田さんにはお世話になったもの」
もしかしたら、と、整形前の本木と整形後の逢坂の写真を2枚、美春の前に並べる。
「あ」と口を噤んだまま、美春は眉間に皺をよせ厳しい顔になり、さっと2枚の写真を手にすると脇に置いてあった自分のバッグの奥底に仕舞い込んだ。
「どうしてあなたがこの写真を持っているの?」
「剛田さんに頼まれたからです、写真のお2人のことも思い出されましたか」
「いやだ、忘れるわけないじゃない・・・だって・・・2人とも・・・」
そういったまま、美春は両手で側頭部を押さえて苦しそうに下を向いた。
「そう、この人は私の・・・」
杏が美春に2人との関係性を問いかけようとした時。
「ごめんなさい、1人にしていただいてもよろしくって?」
1人になりたいと美春に言われてはその質問を投げる訳にもいかず、杏は部屋の外に出た。
あれは、もう思い出している。剛田のことも、夫であった逢坂、本名である本木のことも。
夫と死別したといえ、なぜ今、自分が実家に戻っているのか不審に思ったのだろう。
30代後半から40代のころを思い出し、杏のことは記憶が並行したことにより蓋をされたのかもしれない。
美春が芝居をしているとは到底思えなかった。
そういえば、美春は沖縄旅行の時、大きなクルーズ船ですら乗るのを嫌がった。
元々船に乗ることが嫌だった節はない。
あの時も考えたが、やはり美春が行方不明になった際に船にまつわる記憶で嫌なことがあったのではないか。
となると、船で拉致された可能性も否定できない。
(不破。あの事件の時、地元警察に何かしら情報が入ってなかったか、設楽に頼んで調べてもらって)
(了解、そっちは進展あったのか)
(断片的に思い出してはいるけど、今度はあたしのことを忘れたみたい)
(そうか。全てのピースが埋まりきらないのは仕方ないな、時間がかかるかもしれない)
不破とのダイレクトメモを終わらせたとき、ドアの内部から何やら音が聴こえてきた。
「杏さん、部屋にお入りになって」
突然ドアが開き、美春が杏を小声で呼ぶ。目尻に皺が寄り、どこか晴やかな表情を取り戻したようにも見えた。
杏には、美春の魂がやっと光を取戻し、今ここに鼓動を得たように思われた。
「わたくし、全て思い出しました」
杏が驚きをもった眼差しで部屋に入ると、美春は自室で物思いに耽っていた九条をも部屋に呼んだ。
「剛田さん、杏さん、尚志さん、そして夫。皆、わたくしにとっては大切な方々でしたのね」
九条は、夫、と言われた時だけムッとしたようで眉間の間隔が狭くなる。
美春はこれまでの人生を振り返り、自分にとってかけがえのないものだったと熱弁した。
その中でも、本木と剛田に出会い支えられたことで今の自分があるという。
九条はその言葉が気に入らなかったのか、目線を変えさせる目的なのか、事件に巻き込まれた時のことも覚えているのかと美春に問うた。
「ええ。わたくしが伊達市でホテルに滞在していた時のことでしょう」
「はい、叔母様。ご自分からいなくなったのか、誰かに、そう、拉致でもされたのか」
「拉致といえば拉致ね。ホテルマンの恰好をした男性が部屋に訪ねてきて、ロビーでお客様がお待ちですと言ったの。付いていくと背広姿の男性が立っていて、剛田さんの使いだと言ったわ」
杏がひとこと口を挟む。
「でも、実際は剛田さんの使いではなかった」
「そう。そのまま車に乗せられて港方面に向かって。変だなと思ったら、さきほどのホテルマンも船に乗っていたの」
「ぐるだったんですね、そいつらは」
九条は美春に対し、杏が聞きたかったことを遂に口にした。
「なぜ拉致されるようなことになったんです?」
「尚志君はいつも直球しか投げないのね。少し長くなるかもしれないけど、いい?」
「はい、どうぞ」
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
美春は夫の死後、剛田に紹介され朝鮮国内で翻訳の仕事を主に生計を立てていた。
様々な国から流入してくる移民は朝鮮語がわからなかったため、英語から朝鮮語、あるいは中東各国の言葉と朝鮮語、といった形で翻訳の仕事は引きも切らず舞い込んだ。
書籍であったりネットのホームページであったり、中には同時通訳という緊張感のある仕事もあり、時期が重ならない限り全てを請け負っていた。
概ね満足する生活の中で、ある時、朝鮮の諜報機関と北米CIAの人間がやり取りしていた文書を翻訳する役割を請け負うことになった。
そういった重大な仕事を一民間人に託すのは変だと思ったし、その中身も一民間人が聞いてはならない内容だった。
これは、仕事が終わったら自分は消される。
直感的にそう感じた。
美春は仕事を終える直前に日本への航空便チケットを予約し、終えると同時に身を隠しながら日本国内に逃げた。消されることを見越しての逃亡だったが、やはりそのとおりだったようで、朝鮮の諜報機関が美春を追ってきた。
伊達市で拘束し航路で朝鮮に連れ戻すことを予定していたようで、どこまで日本国内で情報を流布したか拷問して、全てを聞きだすつもりだったと思われる。
美春は船のなかで“情報は一言たりとも洩らしていないし、仕事のことはいつも直ぐに忘れている”と反論したが、当初の計画から特例は一切認められなかったという。
そこで美春は勇敢というか無鉄砲というか、皆がいる前で甲板に走り出た。
時間は夕方遅く。もう金星が船から見えるようになっていた。周りには島すら見えず光も見えない海原だけが続いているというのに、地平線に向かい船から身を乗り出しそのまま海の中へと自ら落ちることを選択した。
諜報機関の男たちは、もうここで海に落ちたら命はない、と美春を探しもせずに朝鮮に向かう航路を取った。夕闇が迫る中、もう美春の命は尽きたかと思われた。
ところが、である。
非常に運がいいと言うか、運だけで片付けていいのかどうかも分からないのだが、美春は近くを航行中だった日本の漁船に助けられた。
しかしこのとき、美春は自分の名前すら思い出せず全てを忘れ果ててしまっていた。
漁船は港に入り、親切な漁船の乗組員が病院に連れていこうとすると美春はなぜか波の間に姿を消した。
もしかしたら、追いかけられているという記憶だけが美春の心に残っていたのかもしれない。
そして、九条たちに見つけられたときには、全ての記憶を失くしていた。
九条は脳を弄られたのではと心配していたが、そこに行きつく前に逃げていたので脳は大丈夫だった。
だが、朝鮮国は周到だった。美春の過去を徹底的に洗いだし九条家の人間であったことを知り、九条の実家を張っていた。
美春が戻ったことで、九条の実家は射程距離範囲内と目され、心療内科に行く際に捕まったということだった。
ここでひとつの疑問が残った。
拉致誘拐されて以降、毛利市に住むようになった後に誰が剛田を呼んだのか。
これには多くの謎が潜んでいたが、剛田と美春の関係を突き止めた朝鮮自治国諜報機関では、剛田と美春を一緒に始末しようと計画を立てたのだろう。
剛田が逢坂の友人として朝鮮に出入りしていたことだけがクローズアップされただけで、ほとんど表に出ることのないE4の室長であることは諜報機関でも情報が錯綜していたとみられる。
ただ単に警察府の人間だとしか身分を掴んでいなかったのかもしれない。
もちろん甥の九条尚志がWSSSにいたことも調査済みではあったのだろうが、春日井のマイクロヒューマノイド弾圧時に一時姿を晦ましたこともあり、九条の存在はそこで途切れてしまったと見るのが妥当な線だった。
まさか、九条が生きていて、美春奪取のために動くとは考えも及ばなかったのだろう。
その場にいた杏と九条は、外で待っていた不破の存在を思い出し、済まなかったと詫びて九条家に入れた。
九条家では美春の記憶が戻ったことを大袈裟なまでに喜び、皆を引き留めて祝宴を上げた。
畏まって座っている杏や不破は何か自分たちが場違いな気がして、九条に理由を話し明日の仕事があるからと宴会を中座させてもらった。
帰りがけに、剛田にダイレクトメモを送る杏。
(美春さんの記憶が戻ったわ。でも、朝鮮の諜報機関と北米CIAの人間のやりとりを翻訳したことで、これからも狙われる可能性は大きいと思う)
(記憶が戻ったのは何よりだ、あとはこちらでも策を講じる。お前たちは一旦伊達市に戻れ)
(了解、九条さんは明日休みかも)
(久しぶりに本当の意味で叔母さんと会ったんだ。明日くらい年休とってもいいだろう)
(そうね、では、これから戻ります)
不破は、今までにないほどゆっくりとアクセルを踏み、杏が騒ぎ出さないほどのスピードで伊達市に向かい高速道を走り続けた。