第9章 What's your real purpose?(君の本当の目的は何だ?)
槇田が失脚したのち、総理の座は西野谷恒に移ると国民の誰もが期待に胸を膨らませ、ほとんどのマスコミもそうなると予想し、日々、特集も組まれていたほどだった。
だが、西野谷議員は総理の椅子に座ることはなかった。
西野谷は日本中から期待されていた総理の座を辞退し、先輩議員の東音《あずまね》聡里が日本自治国の首相となったのである。その東音から指名を受けて、西野谷自身は内閣府長官となった。
設楽は、西野谷自身が欲を出して首相になれば、絶対に自分のルーツを探られるということを予感していたに違いないと指摘した。
朝鮮国からの移民でもなければ、生まれてすぐに日本自治国籍を取得しているのに合点がいかないと三条は切り返す。
九条はルーツだろうが移民だろうが関係ないと言ったきり黙る。朝鮮国そのものが大嫌いなようで、話にも混じらない。
九条の朝鮮国嫌いは一生直らないだろうなと思いながら、杏はモニターに映る東音内閣の顔ぶれを見ていた。
西野谷内閣府長官は、東音《あずまね》総理とは同じ伊達市出身で信頼し合っている仲と聞く。
杏は政治に興味があるわけではないが、絡まりがんじがらめになった日本という国の行く末をひとつひとつ紐解いていくように、様々な問題を解決しそうな二人だなと感じていた。
東音首相と西野谷内閣府長官は、早速他の国々との対等な関係を国内外に示した。
朝鮮自治国や中華自治国、ロシア自治国や北米自治国等、様々な国と友好条約や不可侵条約を締結することで外交関係を発展させた。
国内では朝鮮系や中華系の正式移民に対し、電脳化することでゲルマン民族と同じ生活水準を約束し、騒乱の収拾を計った。
そして、移民の中でも医療技術者や介護技術者においては国内での診療行為を全面的に認め、自由診療を許可した。
移民の健康を心配し移住してくる医療技術者も多かったので、ゲルマン移住区を含め移民からはおおむね好感触を得た素案であった。
電脳化を嫌う不法移民が論議の的になった時だけは威厳を各国に示し、電脳化と移住はセットであるとして譲らず、当該不法移民は強制送還で二度と日本自治国の地を踏ませないという強権を発動した。
西野谷が内閣府長官になるタイミングで、北斗は事務所を辞めE4に戻ってきた。
その日は朝からモニターが付いていて、西野谷たちの功績をコメンテーターが褒めている。
北斗が“伏魔殿に就職しなくて良かった”と溜息を吐くと、周囲の者たちは笑って北斗の頭を撫で回した。
杏が皆を代表するような形で北斗と話す。
「でも、仕事してるじゃない、内閣府長官殿は」
「ずっとこういう方でしたよ、下に対して威張ることも無かったし」
「あとはあのことが知られないようにするだけね」
「あのこと?ルーツですか?」
「あら、知ってたの?」
「はい、しょっちゅう朝鮮国の人達が陳情に訪れてましたから。そういうときは議員会館では会わなかったし、内緒ですけどね」
「じゃあ、議員会館の中でも有名なの?」
「知ってる先生はいたと思いますよ」
「よく槇野にばれなかったわね」
「みんな西野谷先生を守ってましたから」
「この政権が長く続くことを祈るわ」
近頃はナオミの機嫌がすこぶる悪い。
槇野を暗殺する前に首相が交代し、日北友好条約及び不可侵条約を締結してしまったからだ。
ナオミにしてみれば、槇野暗殺がCIAに戻る際の手土産だったのだろう。
外交に力を入れてこなかった春日井や槇野は、格好の標的となり得たのだが、もう、現在の東音首相を狙う要素はどこにもない。
槇野暗殺に傾いていたアジアの国は多かった。
それは北米とて同じこと。
第3次世界大戦時に突然一方的に不可侵条約を破棄され恥をかいた北米も、煮え切らない日本自治国に対し何らかのアクションを起こすことはやぶさかではなかっただろう。
それ自身は槇野のやったことではなかったが、その後も与しない状況が続いているのは、北米にとって恥の上塗りとでもいうべき状態ではあったらしい。
杏はそれを九条から聞き、何が本当に日本の為になるのか悩む日もあった。
そんなナオミが、もう仕事が無くなったことにより北米に帰る日も近いのだとばかり思っていた杏。
ナオミがもう少し日本にいる、E4に残ると聞いた時は、嬉しさ0、がっかり度100。
根っからナオミと杏は違うタイプだったし、不破と何度も外泊していることも杏にとって面白いケースではなかった。
剛田と2人じゃ家が危険から守られないとかなんとか言っておきながら、本心は今までいつもそばにいた不破がいないと、科研での一人ぼっちの日々を思い出し、どこかで寂しさを感じていた。そう、単純に寂しかっただけ。マイクロヒューマノイドに恋愛要素は組み込まれていないから。
それでも、自分の心境の変化に一番驚いたのは、杏自身だった。
近頃は互いが近くに居すぎてそれが当たり前だと思い不破に対する感謝の念を忘れていた。
日常は変わりゆくものだと知ったのはナオミが来てから。
杏は家に不破が戻らない日は、昔のように膝を抱えて壁にもたれかかっているときが増えたのも確かだった。
今日もナオミは相変わらず不破とベタベタしていたが、目つきが明らかにおかしい。クスリでもやっているのかと思わせるようなぼんやりした目で杏を見ていた。
不破に絡みつつ、視線は杏や九条に注がれているように見える。
ナオミに聞いたって話しやしないだろうと思いつつも、その不気味な視線はどこか杏の心を苛つかせた。
頭痛も相変わらずジンジンとした痛みが続き治らない。
杏は最悪の週末を迎えていた。
ナオミが今晩のエサと品定めしたのは北斗のようで一生懸命誘うのだが、北斗にその気はないようで、ものの見事にナオミはフラれていた。
心の中で“ざまあ”と見下したくなるのを押さえて、顔では残念そうに振舞って見せる杏。
と、次にナオミが誘ってきたのは、なんと杏と九条だった。
「アン、尚志。今日付き合ってくれないかしら」
げーっ。
なんであたしが、としかめっ面をする杏。
九条はスマートに誘いに乗っている。
「チーフもご一緒しませんか」
げげっ、九条、こっちに振るなよ。
杏は思わず口に出しそうになった。
不破が杏の脇腹に勢いよくパンチを2.3発入れる。
「行って来いよ、迎えに行ってやるから」
杏はつきたくもない嘘をついてその場をやり過ごそうとした。
「あたし酒場は性に合わなくて・・・」
「あら、E4創設時は一番酒に強かったって聞くけど」
ナオミに昔のことを持ちだされ、不破が話したのだとわかると逆に不破の脇腹を2,3発突くが、もう、どうしようもなかった。
「強いんじゃなくてマイクロヒューマノイドだから酒が身体に入り込まないだけ。素面でもいいなら付き合うけど」
「OK.素面でも大歓迎」
スレンダー美女ナオミが前を歩き、九条と杏が後ろから付いていく。
周囲はナオミに圧倒されているというか、皆がナオミを振り向いていく。
(そりゃ、この大女だったらびっくりして皆振り返るって)
腹の中でまで、意地悪ムードを醸し出している杏に、九条が耳打ちする。
「今日は帰れないかも知れませんよ」
「それは困る」
「どうして」
「不破が迎えに来る」
「おや、そうでしたか」
くっくっく、と控えめに笑う九条。
「笑いごとじゃないでしょ」
「さて、どうなることやら」
ナオミが入っていったのは外国人バーと呼ばれる場所だった。
日本人もいるが、周りは皆外国語で会話している。英語が主ではあったが。
「アン、尚志。何か飲む?」
「適当に見繕ってもらえれば。僕もチーフも酔わない体質ですから」
「そう、じゃ、お任せということで」
ナオミは店のスタッフに一声かけると飲み物を3つくれと言っていたようだが、杏の場合、英語はからっきし。久々に味わうこの雰囲気にさえも酔いそうだなあと周りを見回していた。
「で、2人が酔わないなら単刀直入にいうわ」
ナオミがE4では見せないようなキリッとした目をして口元を揺らす。
「北米に来ない?」
杏はナオミが旅行にでも誘っているのかと首を傾げ笑い出した。
「あたしパスポート持ってないし」
隣を見ると、九条もナオミ同様真面目な顔つきでじっとナオミを見たかと思うと、その眼は杏に向けられた。
「そういう意味ではないようですよ」
そういう意味ではない。では、どういう意味だ。杏には見当がつきかねていて、ナオミを直視することができなかった。
九条は運ばれてきたグラスに口をつけるとテーブルに置き、もう一度ナオミの目を真っ直ぐに見た。
「再び暗殺部隊として活躍できるのが嬉しいのは本音です。ただ、僕は日本人としてのアイデンティティーを大切にしたいのもまた確かでして。お誘いは有難いのですが、僕は海を渡ることはできません」
ああ、そうかと杏は気付いた。
ナオミは、CIAの暗殺部隊に九条と自分を誘ったのだ。
そして九条は断った。
自分はどう答えればいいのか。実際のところ、暗殺部隊なんてまっぴら御免だし、剛田や不破と居る今の生活を壊したくはない。
仕事に託けるのが一番か。
「ごめんなさい、あたしは今の仕事が気に入ってるから。剛田さんとも離れたくないし」
「剛田さんじゃなくて、不破と離れたくない、でしょ」
ナオミが笑いながらいう言葉に手を振ってみるが、違うとは答えられなかった。
「いや、不破は別に」
「本当はね、北斗も狙ってたの。でも無理ね。彼はE4のスパイとして仕事をしていくことが自分の使命だとはっきりいうのよ」
「彼ならそうかもしれませんね。ただ、ひとつ教えて下さい。僕たちをこのように誘うと言うことは、YESの返事を期待した訳ですよね」
「そうね」
「NOの場合、どうするおつもりでしたか」
「手土産のない長期出張は有り得ない」
「ならどうするんです、今のE4で辞めそうな人間なんていませんよ」
「E4なら誰でもいいわけではない。あなた方、という指示を受けている。NOの返事が向こうに聞こえたら、あなた方はCIAに狙われる可能性だってあるの」
杏の腹は決まっているがゆえに、危険が待ち受けているとしても今の生活を変えることなど有り得なかった。
「危険と望まない生活のどちらかを選べと言われたら、あたしは危険を選ぶ」
「僕もそうですね、今迄だって危険と隣り合わせで生きてきた」
ナオミは大きく溜息をついたが、それ以上、誘ってこようとはしなかった。
「了解。これ以上は言わない。でも、危険を避けることができないのもわかってもらえたわね?」
杏と九条は、頷くとナオミをその場に残して店を出た。ほんの30分程の出来事だった。
「危険と隣り合わせか、結構デンジャラスな生活してたのね、九条さん」
「杏さんだって、デンジャラスゾーンに足を突っこんだわけですから、これから大変になりますよ」
「剛田さんに伝えた方がいいわよね」
「そうですね、任務に差し支えることだってあるでしょうし」
「CIAか。美春さんのことも関係してるのかな」
九条は一瞬、歩く動きを止めた。
「なるほど、そういうことだったか」
「何が?」
「叔母様の誘拐未遂がなぜ起きたか、たかが文書の翻訳程度で探し回るのも変だと思っていたんです。翻訳で殺されるなら、今頃世界中の翻訳者が皆殺されてますよ」
「それはそうかもしれないけど」
「あれは元々僕らをターゲットとした翻訳の仕事だった。叔母様や剛田室長の身の安全を盾に僕らを北米に連れていくつもりだったとしたら?」
「でもナオミは誘ってこなかったわ」
「ナオミは僕らが絶対に渡米しないことを見抜いている。でもCIAではどうです?まだまだ叔母様たちを盾にして僕らを望まない世界に引き入れようとしませんか?」
「そんな、じゃあ、あたしたちが日本にいれば美春さんや剛田さんに迷惑がかかるということ?」
「そうとも言えるでしょうね」
2人はそれからぐるぐると歩き回り伊達市内の公園に入り、こちらを狙ってくるハンターがいないかどうか確認することにした。
ナオミの入った外国人バーに、ナオミの仲間がいて会話を聴いていたはず。
それは間違いのない事実だと2人の間では暗黙の了解がなされ、夜遅くまで2人は公園内をうろうろしていた。
「美春さんは九条の家にいて大丈夫なの?」
「先程マイクロヒューマノイドのSPを増やすよう連絡を入れました。下手にこっちにくるよりも九条家の息のかかった地域の方が過ごしやすいことは確かです。以前もこちらのホテルで誘拐されましたし」
「剛田さんは、もうあっちこっちに行かなくちゃいけないから誘拐しようと思ったら簡単にできる」
「不破さんをボディガードにつけたらどうです?ナオミはもうE4には来ないでしょう」
「あたしが付こうかな」
「いけません、2人とも狙われてしまう。僕らは叔母様や剛田さんから離れなければ。杏さんはしばらくの間、家にも帰らない方がいい」
「悔しいったらないわ。これってズルいやり方じゃない」
「しっ」
九条が杏の手を握る。
「あの樹の陰に入ってカメレオンモードになりましょう。会話はダイレクトメモで」
どうやら九条がハンターに気付いたようだった。
杏たちは素知らぬふりをして木陰でカメレオンモードになると、そこから公園内を見回した。
九条が杏にハンターの居場所を教えてくれた。
(ほら、今ベンチに腰かけた2人組。一見ゲイのカップルにも見えますけど、先程外国人バーにいた2人組です)
(よく見てたわね)
(仕事柄、人の顔を覚えるのが早いんですよ)
(あたしも不破に連絡しようと思うんだけど、ホントの事言って信じてもらえるかしら)
(今は無理でしょう。E4に行って仮眠取りませんか。あそこなら大抵IT室の2人がいる)
(そうね、それなら不破も許してくれそう)
杏と九条は公園内を出るとカメレオンモードを解き、E4を目指して速足になった。
ハンターはどうやらマイクロヒューマノイドではなかったようで、すぐに尾行をまくことができた。
ESSSビルまで着いた2人はすぐにビルに入ると地下に降り、そこから地下通路を歩いてE4ビルに入り49階に上がった。
いつもどおり、八朔はゲームで遊んでいて、設楽は酒を飲みながら寝袋に入っている。IT室には顔を出さず、杏はダイレクトメモで不破を呼んだ。
(不破、聞える?不破!!)
(おいこらお前、今どこにいる)
(E4)
(さっきナオミが泣きながら連絡してきたぞ、お前と九条に置いて行かれた、って)
(それ、嘘泣きだってば。つーか、大事な事話すから聞いてよ)
(九条と一緒にいるんだろ、なんか雰囲気怪しかったってナオミが言ってた)
杏の脳内で、ブチッと回線が切れる音がする。
(あんた、あたしとナオミのどっち信じるのよ。何年も一緒に暮らしてきたあたしのこと信用しない訳?てか、そこに剛田さんいる?)
(どっちって。剛田さんなら寝てる)
不破のトーンが1段階収まった。
(明日から剛田さんのボディガードやってくんない?)
(なんで)
(あたし、北米CIAに狙われてるみたいだから)
(なんだよそれ)
(明日E4に来たら教えるから。しばらくの間、あたしE4に寝泊まりする)
(お前支離滅裂。大丈夫か?酒に酔うわけないのに)
(素面よ。とにかく明日剛田さんと一緒にこっちに来て)
九条はその頃もう仮眠を取っていて、すやすやと眠っていた。
この状況下で5分もしないうちに眠れるとは、九条はよほど強心臓なのだと思い、杏は安心するどころかおかしくて笑ってしまった。
杏の笑いに気付いたのか、八朔がIT室から出てきた。
2人を指さし、首を捻る八朔。
「八朔、早く寝ろよ。しばらくの間、私たちもこっちで暮らすことにする」
「何かあったんですか、チーフ」
「明日剛田室長が来てから説明する」
八朔は不思議そうな顔をしながらも、何か事情があるのだろうと尋ねることを止めてくれた。八朔のように設楽も物分りが良ければいいのだが、なにせ設楽はおしゃべりが過ぎる。
ナオミはもうE4には来ないと言う九条だが、ナオミの野郎、不破には自分と九条が逃げ出したと連絡していたらしい。
自分と不破との不和を狙ったのか、それとも明日からもいけしゃあしゃあと顔を見せるのか。
あの演技力で明日以降も来られたら、九条と自分が浮いてしまわないかと心配になる。
浮く?
あたしと九条さんが?
そうか、そうすればいたたまれなくなり渡米をOKするかもしれない。そういった腹を決め込む可能性だった大いにある。まったく、どこまで行っても面倒な女だ。
剛田さんには話しを信じてもらえると仮定しても、不破が無理では剛田さんの身が危ない。自分が付いても剛田さんの身には危険が生じる。杏はどうすれば上手く回るのか考えても考えても答えは出てこなかった。
考え出すと眠れないタイプの杏は、爆睡する九条を見ながら、向かいのソファで羊の数を数えるのだった。
翌朝。
結局、杏は一睡もできず、目の下にクマを作りながらE4の窓辺から差し込む朝の光を浴びていた。
不破は剛田をガードしながら出勤してくれるだろうか、剛田に危険は及んでいないだろうかと心配しながら待つ杏。
そこに、剛田が早めに出勤してきた。
不破を傍らに伴って。
杏の心配は徒労に終わり、安堵が心の中に広がった。
早く昨日のことを話したい一心で、杏は2人の腕を掴み、会議室に入ろうとする。
「剛田さん、不破、こっちこっち」
目の下にクマを作った杏を見て、剛田が心配そうにしていた。
「どうした、五十嵐。寝てないのか」
「寝られる状況じゃなかったのよ」
「何があった」
「だから、こっちこっち」
杏の声が聞こえたのか、爆睡から目覚めた九条が後から会議室に入ってきた。
会議室に入り鍵を掛けると、杏と九条は昨日の出来事を剛田と不破に話し始めた。
ナオミからCIAの暗殺部隊入りを打診されたこと。
2人ともその場で断ったこと。
ナオミがYESの返事を期待して杏と九条を誘ったこと。
NO=手土産のない長期出張は有り得ないとナオミが話したこと。
E4なら誰でもいいというわけではない、杏と九条という指示を受けているということ。
NOの返事なら、CIAから狙われる可能性があるといわれたこと。
「危険と望まない生活のどちらかを選べと言われたら、あたしは危険を選ぶ」と杏が答えたこと。
「今迄だって危険と隣り合わせで生きてきた」と九条が答えたこと。
ナオミは大きく溜息をついたが、それ以上、誘ってこようとはしなかったこと。
これ以上は言わないが、危険を避けることができないのもわかってもらえたかとナオミに念を押されたこと。
それにより、導き出されたひとつの答えがあったこと。
その答えとは、美春の誘拐未遂はCIAが九条取り込みのために仕組んだある種のゲームであったこと。
同じように、杏取り込みのために剛田がこれからCIAに狙われる可能性が高いこと。
春に起きた美春や剛田の誘拐未遂の際、剛田に来た手紙はCIAが出した可能性があること。
「おいおい、それを全部信じろっていうのか」
不破は呆れたように隣に座る九条を睨み、剛田の隣に座った杏に疑問符を投げつけた。
「じゃあ、あんたはナオミを信じれば?」
「いや、剛田さんのボディガードをするのが嫌なわけじゃない。ナオミがそういう役割をもって日本に来たのかが疑問なだけだ」
杏も負けてはいない。不破に向かって低くドスの効いた声で応戦する。
「この場合、ナオミには2つの使命があったと見るべきよ。槇田の暗殺も重要な役どころではあったでしょうけど、結局暗殺できず仕舞い。残りの使命のヘッドハンティングは成功させなければと焦ったんじゃないかしら」
九条も自分たちの自慢ではないと前置きしつつ、剛田や不破を見ながら話し始めた。
「僕は叔母が朝鮮国の諜報機関から狙われる理由がわからなかった。たかが文書の翻訳ごときで狙われるなんておかしいと思っていました。今回のヘッドハンティングがその裏に隠れているとしたら、全ての辻褄が合うんです」
不破が嫌味を言おうとするのを制止して、剛田は杏と九条に尋ねた。
「自由と危険はいつの世でも隣りあわせだ。お前たちは本当に自由と危険を選ぶつもりなのか」
「あったりまえじゃない、剛田さん。あたしは自由も効かない人形のような生活は科研で卒業したの。いくら危険が待ち受けていようとも、あたしは自由を選ぶ」
杏の言葉を引き取った九条も頷きながら向かいに座る剛田を見た。
「チーフの言ったことが全てです。僕だって向こうで働くという望まない生活などまっぴら御免だ。日本のヒエラルキーの中で日本のために尽くすことこそが僕のモチベーションに繋がると思っています」
不破はそれでも何かしら言いたげに杏を見ていた。
ナオミの芝居を見抜けないなんて、バカヤローと叫びたくなる杏だったが、剛田の手前、それは止めた。
九条は美春に及び危険性を剛田に力説し、九条の家でSPを増やすことも率直に話した。
「美春さんに危険が及ぶことはないのか」
剛田は少し声が大きくなった。また、我を見失いかけているように見えた。
「分りません。ただ、向こうの狙いが僕とチーフだとすれば、誘拐したとしても殺すことはないでしょう。殺せば僕らは永遠に手に入らない訳ですから」
無償の愛、と九条がいったことを杏は思い出した。
「しかし朝鮮国が絡んでいると厄介なのではないか?北米の思惑とは真逆のような気がするんだが」
「はい、心配なのはそこです。朝鮮国なら、叔母や剛田室長に危害を加えかねない」
不破はそれでも信じられないと言った表情で1人黙っていたが、あらためて剛田がボディガードを依頼すると、渋々ではあったが首を縦に振った。
会議室から剛田と九条が出ていった。
明かりを消そうと電源に近づいた杏のところに不破が寄ってきた。
「昨日、ナオミから連絡があったことは言ったよな」
「ああ、あの大嘘」
「ナオミはそのあと“九条の嘘に気を付けろ”って言ったんだ。どういうことか分るよな」
「どういうこと?あたしと九条さんは2人でナオミに会ってヘッドハンティングされたのよ。あたしも嘘ついてるっていうわけ?」
「そうじゃない。その話はお前が言うんだから本当だろう。でも九条は何を考えてるかわかんない奴だし、そこには絶対に嘘もある。だから注意しろって言ってんの」
「意味わかんなーい」
「たまには俺の言うことも信用してくれ」
「不破のことは信用してきたわよ。でもさ、今回に限ってはどうしてナオミが正しくて九条さんが嘘つきなのか、そこがわかんない」
不破との意思疎通は現段階では無理だと知った杏。
そこまでナオミを信じているとは。
不破の態度を見て杏は少々哀しい気持ちにはなったが、今はそれどころではない。
北米が自分たちのヘッドハンティングを諦め、朝鮮国も美春の拉致誘拐を諦めるまで負けるわけにはいかない。
先を歩く不破の背中を見ながら、杏は不破を思いっきり蹴りそうになった。
ナオミはその日以降、無断欠勤が続いた。
剛田が何も言わず杏も興味を示さないのを見て、メンバーは一様に驚きの表情を持ってそれを迎えた。
陰で設楽が、まるで剛田のボディガードのようにカバン持ちをする不破になぜだと尋ねていたようだが、不破ものらりくらりとかわしたらしく、設楽でさえ暗に何かが起きていることを悟ったようだった。
ナオミが消え失せてから1週間。
E4は普段と変わりない風景の中、ナオミの消息について皆が何かしら琴線に触れてはいけないことを考えているのは間違いなかったが、杏は敢えてそのことにも言及しようとしなかった。
剛田には不破が付いている。九条の家には屈強なSPを増やした。
それが今、杏と九条が取り得る一番安心できる方法だったが、九条は長期の休暇を取る、あるいは退職願を出して毛利市に帰る、など次第に伊達市から離れることを考えるようになっていった。
九条に相談された剛田は退職願ではなく長期出張を進め、九条は現在の身分のまま毛利市の実家に戻った。
何か有事の際はダイレクトメモやカメレオンモードも許可していたので、毛利市の状況は逐一剛田の耳に届いていた。
剛田としても、いくら屈強なSPとはいえ、E4における杏や不破、西藤に並ぶ猛者を基準に見ているわけだから、民間警備会社で雇う警察あがりのSPをやや不安視していたのは事実で、九条が毛利市に戻ることに何の異存もなかった。
むしろやり易くなったと喜んでいたのが事実ではあったのだが、九条だけでは心配だったのだろうか、三条まで長期出張という形で九条のアシストとして毛利市に派遣するのだった。
もちろん、北米が狙っているのは九条であるからして、毛利市で何か起きる可能性は決して0になったわけではない。それは杏が剛田のSPに付くようなものだったから。
E4でも、不破と一緒に西藤が剛田に付くことになり、剛田の身の安全をより強固なものにしようと動いていた。
杏が剛田のボディガードに入らなかったのは、いつかくるであろう危険を察知したときに、剛田を守るためだった。
杏は九条が毛利市に戻って以降、1人で行動することが多くなった。剛田がE4にいない時は不破もいない。事件もない日々は杏でさえも眠くなる。
杏はあれから家に戻っていない。
CIAから尾行され、剛田に危険が迫るのを回避するためだ。
ま、とっくの昔に家なんぞ突き止められているだろうが。
皆が帰り、夜になると暗く星さえも見えない物悲しい空を眺めては溜息を吐く。
IT室に寝泊まりしている八朔と設楽が酒を飲まなくなったのは、いや、飲めなくなったのは杏のせいかもしれない。
それでも杏にはここしかいるところがない。
なるべくE4から出ないように生活していた杏だったが、たまには外の空気が吸いたくなる。
毛利市の方でも特に動きがあるとは聞こえてこない。
杏は、九条も美春さんも無事という証拠だと解釈していた。
それなら、少しくらい、いいか。
杏はいつも外出する時のように隣のビルの地下に回って外に出た。
この道もナオミにはバレている。
まったく、面倒なお誘いを受けたものだと、杏はまた頭の中で当時のことを思い出していた。
(ああ、やだやだ)
杏はゆっくりと歩きながらビル街を抜け、公園に足を延ばした。
黒のハマーが自分を追い越していったのに気付いた杏は、福岡は長浜海岸での九条の取引を思い出した。
あの時のハマーのナンバーは伊達330 は 1001 確か色は黒。
福岡にいるのに伊達ナンバーだったので珍しい、と思った記憶が蘇った。
なぜあの時の車がここにいる。
いや、元々伊達ナンバーなのだから、こっちが拠点か。
杏は少し混乱気味で公園の入り口で立ち止まり、静かに考えていた。
すると黒のハマーは100m程行き過ぎたところでUターンしてこちらに戻ってきた。じっと運転席を見つめる杏は福岡での運転者の顔もなんとなくだが覚えていた。
スピードを緩め近づいてくるハマー。
だが杏を目の前にしたハマーは、突然加速すると杏の横を過ぎ去り、風が舞い杏の長い髪がバサバサに揺れた。
目の前で加速されたため運転者の顔はよく見えなかったが、なんとなく、あの時のハマーのような気がした。
あれは在朝北米人と杏は認識していた。さすればCIAに属する人物ということは容易に想像できる。
なんだ、やっぱり尾行されてるんじゃないか。
外に出ればすぐ尾行か。
尾行といえば聞こえはいいが、ストーカーに追われているようであまり気持ちのいいものではない。
杏は公園に入るとすぐにベンチに座り、九条にダイレクトメモで久しぶりに連絡を取ってみた。
(元気?九条さん)
(ええ、のんびりしています。長期休暇のようなものですから)
(ところで、長浜海岸で会ってたあのハマー。CIAの人なの?)
(長浜海岸?ああ、あの時ですか)
(なんか同じ車につけられてるような気がするんだけど)
(在朝北米人のスパイだったのは確かですね。今度はあなたのストーカーにでもなったかな)
(悪い冗談は止めてよ。そちらではストーカーはいないのね?)
(今のところ見かけません。でも外出したらいるかも)
(もう断ったのに何がしたくてストーカーするのかわからないけど。対決するなら、あたし負けない自信はあるのよね)
(僕もそうですね、相手がマイクロヒューマノイドだったとしても、僕より強いのは杏さんだけだと思うから)
(あら、褒めてるの?)
(もちろん)
そこにイレギュラーな雑音とともにナオミの声が聞こえてきた。
(ハロー、お二人さん。あたし、ナオミよ)
杏は仕事モードになって構えた。
(なんだ、無断欠勤)
(あら、あたしのチーフじゃないのよ、あなたは)
(休暇願も退職願も出てないだろうが)
(あたしはどこにも属してないもの)
杏の言うことなど右の耳から左の耳に流して聞いているのではとさえ思えるナオミ。
会話のキャッチボールすらもできず、杏はストーカーの一件もあり余計イライラした。
そこで杏は、在朝北米人でハマーに乗るストーカーの彼と対決しても負けない自信はある、とナオミを挑発した。そこに九条が割り込んできて、自分も同じだとナオミを煽る。
ストーカーしているのがあの在朝北米人なのかどうかを知るためカマをかけてみたのも多分にある。
すると、ひときわ雑音が酷くなる中、ナオミの低い声が聞こえた。
(北米との関係をこれ以上悪化させないで)
ナオミはひとこと返すと通信を遮断してしまい、雑音はピタリと消えた。
(これ以上悪化させるなって言われてもねえ。ストーカーしてくるのは向こうなのに)
(ナオミなりの忠告なんだと思いますよ。ハマー以外にもストーカーはいるでしょうから)
(ああ、ゲイの店?)
(語弊がありますよ。外国人バーと言ってください)
(あら、ごめんなさい)
(こちらには三条がいますから、彼を毛利市に残して僕がハマーの彼とご対面しましょうか?)
(あなたは元々面が割れてるじゃない)
(ストーカーを止めるよう進言するとか)
(あの様子じゃ無理っぽくない?)
(じゃ、逃げるしかない)
(ちょっと腹が立つけど、剛田さんを心配させないためには逃げるしかないかしら)
(ええ、そう思います。何かあったらまた連絡下さい。すぐ伊達市に行きますから)
九条との会話が切れて、杏はきょろきょろと周りを見た。
いるいる。
ストーカーさまご一行。
あっちにも。
こっちにも。
雰囲気が一般人とは違うからそういった輩はすぐに分る。
こいつらもマイクロヒューマノイドか。
全部1人で相手にしたとして、怪我無く戦えるか。
怪我をするような戦いっぷりでは剛田さんに心配をかけてしまう。
その時杏の頭に浮かんだナオミの一言。
北米との関係を悪化させるな、か。
今日のところは何もしないで終わらせておこう。
でも、いずれ戦う時が来るような気がすると感じながら、杏はベンチから立ち上がり艶やかな髪を2,3度かき上げた。
E4に戻った杏を待ち構えていたのは不破のお説教だった。
「チーフ、今までどこに」
「散歩」
「大丈夫なんですか、出歩いて」
「うん、ストーカーがたくさんいた」
「ストーカー?尾行されてるじゃないですか」
「そのようね」
不破が寄ってきて杏の耳元で囁くと同時に、反対側の耳を抓る。
「剛田さんを心配させるな」
「いたたたっ。わかってるって」
「逃げ果せろよ」
「了解」
その日、剛田は午後から金沢市で警察府の会合があるため不破と一緒に出掛けることになっていたが、杏の姿が見えないため出発時間を遅らせていた。
「ごめんなさい、あたしは大丈夫だから」
「五十嵐、本当に大丈夫か」
「今日もここに泊まるもの」
「そうか。設楽と八朔がいるから1人にはならなくて済むと思うが」
「そうね、たまには1人で寝たいくらい」
「嘘をつけ」
剛田は笑いながら不破を伴いE4を出た。
直後、設楽が杏の脇にトコトコと歩いてくるのが目に入ったが、敢えて杏はそれを無視して珈琲を淹れにサーバーの場所まで移動した。設楽はそこまでついてくる。
「チーフ」
「なんだ、設楽」
「室長からの命令です。この探知機をつけろと」
それはやや幅のあるシルバーの指輪で、内側に探知可能な信号が入っている形式のものだった。
「室長が?私に?」
「はい。絶対に外すなと」
「そうか。了解した」
早速指に嵌めてみるが、杏の細い指にはサイズが合わず、両手の中指でもぐるぐる回る。杏はIT室にいる設楽の背後に立った。
「設楽」
後ろを振り向き、目を真ん丸にする設楽。
「はい、何でしょう」
「サイズが合わない」
「えっ」
「どうしたものかな」
「作り直すとあと3日はかかるしな・・・チーフ、親指でも無理ですか」
そう言われ、杏は親指に指輪を嵌めてみた。サイズ的には違和感が無かったが、親指というのがちょっと引っ掛かって、新しいのを作製してくれと設楽に頼みこむ。
「お洒落とか以前の問題として、何かと不便な気がしてな、済まない」
「じゃあ、サイズ計らせてください。どの指にします?」
「左手中指」
設楽にサイズを計ってもらい、当面の間は親指で我慢してくださいと言われて杏は素直に応じた。銃を撃つ時には非常に邪魔なのは確かだったが、最速で治してくれると言うので我慢した。早々、銃を撃つ機会も今はないだろうという思いもあったからだ。
これなら、部屋の中にいなくても居場所が分る。
不破に怒られる回数が激減する。
剛田さんに心配をかけなくてよくなる。
ま、不破だって心配しての説教なんだろうが。
杏は指輪を見ながら今日はもう何もする気になれなかった。
活字新聞を読み、地下2階でバグたちと遊んでいる北斗に声を掛け、また49階に上がり活字新聞に目を通す。
新聞を目の前にしながらも、考えるのはCIAの報復。そこで、通常は肩しか狙わない杏だが、この日は少し考えを変えた。相手を死に至らしめるシチュエーションがあるかもしれない。
脳幹と心臓に向け、あとで射撃訓練でもするか。指輪が邪魔で今は無理だが。
これで何があっても生き延びることができるはず。杏はまた地下に降りて自分用の銃を2丁手にすると、それを上衣のポケットとパンツのポケットに無造作に入れた。
翌日、探知機がどの辺りまで効果を発揮するのか試すために、杏と倖田は一緒にE4を出た。剛田からの指示でE4から出る時は誰かと一緒に、ということで、今日は倖田が付き合ってくれた。
すると、黒のハマーがまた近づいてきては去っていくのを2回ほど繰り返した。
杏でなくてもそれが何を示しているのかは理解できたようで、倖田はいつでも胸ポケットから銃を出せるように手を開けていた。
公園まで足を伸ばし、探知機の性能を計るためE4の設楽を呼び出した。
(設楽、どうだ)
(今公園ですね、大丈夫です)
(向こうの海岸まで行ってみるか)
(はい、お願いします)
倖田はちょっと咳が出ていた。風邪気味らしかったが誰にも言わないでついて来てくれたらしい。
無理をするな、と倖田を帰し、代わりに西藤に来てもらうことにした杏。
ただ待っているとストーカーが集まりそうなので、杏は海岸への散策路を1人で歩き出した。
この海岸は波が高く泳ぐには適さないが、夕陽が沈むロマンチックな光景を楽しみに、夕方になるとカップルが集まってくる。
海岸線に対して平行に走る道路もあり、駐車場も整備されている。
その駐車場を過ぎようとしたとき、黒のハマーが杏の前に立ちはだかった。
エンジンを止めた車から降りてきたのは、長浜海岸で見たあの男だった。
夕方の時間が迫りくる時間帯。
まだカップルの数は少ない。
男は相当な殺気を身に纏い、杏を凝視している。
ストーカーがキレたか。
北米を怒らせるなとは言っても、向こうが仕掛けてくる分には自己防衛しなくてはならない。杏はポンポンと飛んで身体を解すと、利き腕の右腕をぐるぐると回す。
互いに声を立てぬまま、勝負の火ぶたが切って落とされた。
相手は銃を使わず素手でくる。
それならと、杏も銃を出すのは止めた。
ジリジリと相手の呼吸を探り、呼吸が乱れるのを互いに待つ2人。
しかし、杏はこの大事な時に頭がジンジンと痛みだし、思わずしかめっ面になってしまった。
それを見逃すはずもなく、最初に攻めてきたのは相手だった。
頭を押さえ突っ立っているように見える杏に向けて空手ともつかぬような動きで素早く杏を攻め立てる。
杏はといえば、怪力男と戦うのは西藤で慣れているので相手の突きやパンチを左右に頭を振るだけで凌ぐパターンが多く、今日も凌いで相手の体力を削ぐ方法を採るつもりだった。
ところが、運動不足からくるのか、そういった実戦が近頃無かったのが災いしたのか、胸に強烈な1発をくらい、息ができなくなった。
息が苦しくやや動きが鈍ったところに、立て続けに突きやパンチ、キックを浴びせてくる相手に、防戦一方の杏。
このままでは初めての負けを喫するのではないか、そう思った時だった。
相手の突きのタイミングが、一瞬ずれた。
よし。相手は体力を使い過ぎた。
そう思った杏はそこから怒涛の快進撃とでもいうべき反撃を見せる。
ボディブローにかかと落としや胸への突きなど、相手の技術そのままに反撃を続けていたが、相手も動きを止めたことで回復したらしく、また動き出した。
一騎打ちの様相を見せた2人の戦いは両者一歩も譲らず、杏はパンチで相手の利き腕らしき右腕の肘下を折る怪我を負わせたが、直後に相手のキックが右ふくらはぎに当たり右膝下が折れる怪我を負ってしまった。相手もマイクロヒューマノイドだった。
パンチ力を失くした相手と、立っていられない杏。
そこに、西藤と不破が走ってきた。
設楽に言われ付けていた探知機がここまで作動することを証明したものの、いつまでも帰らない杏を心配し2人が来たのだった。
そこに珍客が姿を見せた。
ナオミだった。
「この辺でマイクロヒューマノイドの部分交換をする研究所はないか」
不破が驚くような男性的な声で話すナオミ。
不破も西藤も、教える気は更々無かったようだが、杏が科研を教えろと不破に囁いた。
「お前、本気か?」
「北米との関係をこれ以上悪化させないためには、貸しひとつあればいいだろう」
「貸しねえ。やっこさん、借りた気になってくれるかどうか」
呆れながらも、不破は科研に連絡を取ってくれた。
杏とハマーの彼は科研に運ばれ部分交換オペを余儀なくされた。
「助かった。ありがとう」
男性ではないのかと思うほど、声が低いナオミ。杏はひとつ聞きたいことがあった。
「どういたしまして。ところで、ハマーの彼の名は」
「ハーマンだ」
ぶふっと吹き出す杏。余りに単純というか、取ってつけたような名前。
「偽名か?」
「そう」
「2度と忘れないでおく。今日のところは両者決着つかずだ、また機会があればお手合わせ願おう」
杏の言葉をナオミは否定した。不破たちにも聞こえるように。
「北米に近づいてはいけない」
杏も真面目くさったナオミの目の前に立ち、身振り手振りで反論する。
「ストーカーしたのはそっちだろうが」
ハーマンの交換オペが終わると、ナオミとハーマンはナオミが運転するハマーに乗って闇の中へ姿を消した。
今度は、杏の番。
「右膝下の他に異常はないですか」
「はい、いや、近頃頭痛が酷くて。ジンジンと頭が痛む」
すると、科学者たちは騒然となった。
杏は3日ほど検査入院という名目で科研に留め置かれた。
頭痛の原因は、一般人の場合痛みの中枢とされる大脳の視床、体性感覚野、帯状回、前頭葉、小脳等、様々な部位との機能的結合性によるものとされるが、杏のCTなどにその様子は映し出されない。
業を煮やした科学者たちは、脳を弄るかどうかの検討に入った。
このままでは、また科研の玩具にされる。
頭が痛いよりも恐れていたことが始まろうとしていた。
「頭痛の原因を調査してみませんか」
「断る」
「頭の痛みを失くすだけで生活も変わりますよ」
「いや、そちらで精製したマイクロヒューマノイド用頭痛薬さえもらえればいい」
その晩、杏は退院した。
薬は決して頭痛を完治させるものではなかったが、科研にいて玩具にされるよりはマシだ。
杏の脳が今まで感じなかった痛みを感じるようになったのは、科学者たちからすれば脳の進化、エボリューションであろうという見解に至ったようで、何かあればすぐにきてくださいと満面の笑みで皆が見送っていた。
それから3日後の事。
E4にメールが入った。
設楽が気付き皆に配布する。
差出人はナオミ・ゴールドマン。
内容は、杏たちのハンティングから手を引き、ハーマン・クリントンと一緒に日本を離れ北米に戻るというものだった。
やっと胸をなでおろす杏にとって、ナオミは苦手な人種だったのは確かで、いる時といない時とでは緊張感も違う。
杏に迷惑を掛ける存在、と思ったのは強ち間違いではなかったと思う。
不破は残念そうにしながらも、杏の笑顔をみて満足したようだった。
九条からも連絡が来た。九条の家も動きがないため、三条を毛利市に残しE4に戻るという。
不破の目は意地悪気に光ったが、杏や剛田は手放しで喜んでいた。
通常ベースでの日常が戻り、不破と剛田、杏の3人での生活が再開してようやく自分が取り戻せた気分になった。
忍び寄る影に、この時は誰も気付きようもなかった。