反抗期!
なんだか懐かしい夢を見た気がする。
だが、起きてすぐに頭の中から消えてしまった。
ほんの数秒で思い出せなくなってしまうのに、何かを見ていたという記憶だけが残る。
もどかしくて寂しい、脳の襞でゆらめく蜃気楼だ。
きっと忘れるのが正解なのだろう。
もしも悲しい内容だったなら、今日一日引きずるだろうから。
どうせ俺が見る夢なんて、目を覆いたくなるものばかりなのだ。
今朝のも悪夢だったに決まってる。
といっても、ごく稀に幸せなものもあるのだが。
そう、例えばエルザをゴブリンの巣穴から助け出した時の夢。最後にあれを見たのは、いつだったか。
あの光景だけは、俺の散々だった異世界生活の中できらきらと輝いていて、何度だって夢枕に出てくれて構わないのだけれど。
ベッドの上で伸びをして、目覚まし時計を手に取る。
六時三十二分。セットしていた時刻より早く起きてしまった。
今日はバイトが休みだから、もっと寝ててもよかったのだが。
どうも二十代後半くらいから、あまり長時間眠れなくなったように思う。
老化現象ってやつなんだろうか。
寝るのにも若さや体力が必要らしいしな。
現にアンジェリカは隣でぐーすか寝てるし。
……俺とこの子が同じベッドで寝起きするのって、不味いよな。
部屋のスペースが足りないという、物理的な制限があるからしょうがないんだけど。
いつ間違いが起こらないとも限らないし、さっさとなんとかしないと。
しかもこいつ、俺が寝てる間に体触ってきてる疑惑あるし。
なーんか昨日の夜遅く、ゴソゴソまさぐられた感覚があったのだ。
そりゃ男の体が珍しいのはわかるよ?
でもマナー違反だろうが。
上半身をぺたぺたやってるうちは見逃すけど、下半身に手を伸ばしてきた時は抵抗するつもりだ。
まだまだ大人の顔になりきれてない寝顔を眺めながら、そんなことを考える。
こいつは少女で、俺はおっさん。
なんとしても、正しい道に導いてあげないといけない。
ちゃんと俺以外の男を好きになれよ。
今日、俺はアンジェリカをアパートの外に出す。
現代人にしか見えない服を着せて、ただの女の子にしか見えないようにして。
それは即ち、アンジェリカは生まれて初めて、同年代の若い男を目にすることになるのだ。
ナンパだってされるかもしれない。……それでいい。
男から完全隔離されて育つ役職、神聖巫女。
神様のご機嫌取りをするための乙女。
人々を安心させるための、生きたお供え物だ。
さながら公共物としての人生を送ってきたのである。
この世界では、失った青春を存分に取り返すべきだ。
若いイケメン君に取られるのはちょっと悔しい気もするけど、それがアンジェリカのためなのだ。
俺は身支度を済ませると、ぱぱっと朝食を作り上げた。
それが済むと、アンジェリカを起こしにかかる。
ゆさゆさと肩を揺らし、
「朝だぞ」
と穏やかに声をかけた。
返事は「んんぅー」と、ぐずるような声。猫みたいだ。
本当に猫だったらよかったのに。
人間で外人なんて、損をするだけだ。
パスポートもビザもない、外国人の顔をした少女。
それが現代日本で生きようとしたら、とてつもない苦労が伴うはずだ。
異物として生きる辛さは、俺もよく知っている。
必ずこの子に相応しい居場所を作ってやらねば。必ず。
俺はぐっと拳を握って気合を入れ直すと、アンジェリカを叩き起こした。
「おはようアンジェ」
「おはようございます……ちょっと早くないですかー……」
寝ぼけ眼でのろのろとバスルームに向かう背中を見送りながら、今日の日程をおさらいする。
まずはアパート周辺を感知スキルで探索し、幽霊探し。
その後、街を探索。
最後に権藤を脅……説得して、アンジェリカの身分証明書を手配して貰う。
こんなとこだろうな、とコーヒーをすすりながら確認を終える。
ナチュラルに反社会的な発想が混ざるあたり、俺も来るところまで来ている。
別にいいさ。
俺の終わってる人生なんか、いくらでも台無しにしてやる。
たんまりと未来の残ったアンジェリカに、お父さんからの贈り物だ。
俺が一人でしんみりとしていると、しゃっきりと目を覚ましたアンジェリカが飛びついてきた。
いいもんめっけ、な顔をしている。
「どうした」
「ぶっしょうひげっ。ぶっしょうひげっ。ざりっざりっの、ひげー」
妙な歌を口ずさみながら、俺の顎を撫で回してくる。
「剃られる前に触っとこうと思いまして」
よほど男のザラザラした肌が珍しいのか、アンジェリカは一心不乱に感触を確かめている。
……境遇を考えればこうなるのも理解できるけど、心臓に悪いなこれ。
昨日使ったシャンプーとリンスの香りが、髪の毛から漂ってくるし。
なんでアンジェリカはこんなにいい匂いがするんだろう。
会った時からそうだ。
異世界人の癖に、来日一日目から現代女子高生とそう変わらない、甘く清潔な香りをまとっていた。
あっちの世界は石鹸くらいしかないだろうに。
それとも俺の部屋に召喚されたあと、俺が帰ってくるまでの間に勝手にシャワーでも浴びてたのかな、なんて想像したり。
ありえないけどな。アンジェリカは俺に教わるまで、蛇口のひねり方も知らなかったんだし。
「お父さん? 動き、止まってますよ?」
うにうにと俺の頬を押すアンジェリカと、目が合う。ぱっちりとした、大きな緑の眼。
「面白いか、俺の無精髭に自分の頬を擦り付けるのは」
「すっごく」
ちょっと息も荒くなってるし、完全に痴女だ。
性別と年齢が逆だったら、捕まるのはあっちだろうに。
「……アンジェってさ、初めて見る男が俺なんだろ?」
「ですよ」
「もっとあるだろ、他の反応が。怖いとか不気味とか思わないのか? あまりにも女の人と違い過ぎて、興味より先に恐怖が来そうなものだけど」
よく触ったり変な目で見たりできるよな。
ファーストコンタクトした宇宙人にムラムラするようなものでは?
そう考えると、畏敬の念すら湧いてくる。
俺が畏怖の目で見ていると、アンジェリカはそっと顔を離して言った。
「見た目の知識くらいはありましたから」
ある程度の性教育なんかは、神殿内でもしてたんだろうか?
まあ、でなきゃ俺に迫ることも出来ないか。
いやらしいこと、が何なのかは知ってるみたいだしな。
「神殿には男の神様を描いた絵画とか、石像なんかがいっぱいあるんですよ。さすがの神聖巫女でも、男の人がどんな造形かは把握済みってわけです」
「そういうので勉強してたのか」
「もう裸体像なんて搬入されて来た日には、全巫女が大騒ぎでしたね。皆で食い入るように見物してました」
「その現実は知りたくなかったな……」
乙女の花園のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「えっ、本当にこうなってるの? って皆で像を取り囲んで触ったりしてですね」
「女子校みたいだな」
「石ころの男性像を触っても味気ないだけですけどね。匂いも音も、なんにもないんですもん」
だからこっちの方が好きー、とニコニコしながらアンジェリカは俺の顎を撫で回す。
ニコニコというか、今にも溶け落ちそうな顔だ。
「人に見せられない表情してるぞ」
「だって幸せなんですもん」
優しくて好きに触らせてくれるお父さんが出来て、私は恵まれた娘ですね、とアンジェリカは囁く。
俺はそんな褒められた親父じゃないけどな。
それなのに懐いてくれるのか? こんなにも?
つい、俺はアンジェリカの頬に右手を伸ばしてしまった。いかん、何をやってるのだろう。
俺も俺で、手放すのに寂しさを覚えているのかもしれない。
「……わかるだろアンジェ。今日は外に出るんだぞ。俺より若い男がゴロゴロ歩いてるんだ」
「えっ!」
「いい目になったな。楽しみか?」
ふんふんと頷くアンジェリカの頬を、親指で撫でる。
完璧にセクハラ親父だな、俺。
これっきりということで、許して欲しい。
「アンジェ。家の外でいい男を見つけたら、そいつについて行ってもいいんだぞ」
「……?」
意味がわからない、と言いたげにアンジェリカから表情が消える。
「こっちの世界で暮らせるような手続きは、俺が色々やっておくから。後で必要なものを俺が届けるよ」
「……どうしてそんなこと言うんです?」
「俺は金がないし、もう三十を過ぎてるんだ。もしアンジェにぴったりな若者がいたら、そいつと一緒になった方がいい」
「私、邪魔ですか? 暗に出てけって行ってるんですか?」
「まさか」
お前といると楽しいよ。だからこそだ。
「アンジェを大事に思ってるから言うんだ。わかるな?」
アンジェリカの返答は、「俺の親指をパクッと咥える」だった。
「やふぁ」
「……それじゃ上手く発音出来ないだろうに」
ちゅっちゅっと俺の指を吸いながら、アンジェリカは言う。
「やふぁ。他の男の人なんて好きにならないもん」
聞き分けの悪い娘だ。相手が俺じゃなかったら今ので襲われてるぞ、と注意する。
「お父さんなら襲っていいもん」
よくもまあ生娘の癖に、そんな顔を作れるものだ。
「若い男の人なんて、要らないもん。彼氏とお父さんを両方やってくれる人は、おじさんじゃないと駄目だもん。……それに私、おとーさんの味が一番好き。……ふふ、おとーさんちょっと赤くなってる」




