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わたしはモニタから目を離し、ふうとため息をついた。
この小さなデバイスの中に、ひとつの世界がある。とても信じられないが、事実だった。わたしが、それを一番よく理解している。
あの頃は若く、ひたむきな情熱がわたしを突き動かしていた。結局わたしは、そうやって二度と手に入らぬとわかっているものを今でも追い続けているのかもしれない。
目の前にあるこれ―その残滓がそれを証明している。どうしても、と頼み込んで貰ってきたものだ。上司は渋顔だったが、仮想空間開発に多大なる貢献を果たしたわたしの前では、引き下がるをえなかったようだ。
わたしがこのタスクに取り掛かるようになった要因は、ある発表によるものだった。人間は思考と言語というプロセスを経て自己の感情を表現する。だが、唯一その枠組み―柵から逃れることのできる感情が存在する、と。
人間が動物から進化するに至って、動物の本能に元々組み込まれていた生存のための機構が形を変えたもの、それが殺意なのだと彼らは言う。相手を目にし、心の底に湧き上がった殺意は言語を必要とせず、他者に直接語りかける。そして人間の脳内にはその殺意の断片だけを受け取るモジュールが存在するというのだ。
このモジュールは動物の脳には存在せず、進化の際に器官として人間に増設されたものとして考えられている。
彼らは、そのモジュールを取り除いた際に起こる反応を調べたいと申し出た。らの研究によれば、人間の深層には誰もが意識せずに忘れている『原初の殺意』が存在し、それは言語という媒体もモジュールという捌け口も必要とせず、ある現象となって世界に発現する仕組みになっているという。一体どんな経路をたどってそのような器官が発生したのかはもはや誰にもわからない。人間はそれに対抗するため長い時をかけてモジュールを脳に増設し、原初の殺意を緩和することに成功した。
つまり、このモジュールを取っ払ってしまえば人間が真に秘める力を発現してみせることが可能なのだと彼らは主張した。無論生身の人間を使うわけにはいかないから、実験は必然的に仮想空間を使用することになった。物理的な現象だけでなく社会的な変化をも観測したいという申し出から、わたしたちは世界ひとつを丸ごとつくることになったのだ。
今まで誰もやったことのないプロジェクトだったし、何より少しばかりの抵抗もあった。世界を創造するということは、そこに暮らすAIを一からつくるということでもある。仮にも人間の命を扱うというのは、禁忌に触れているようで何となくいやな感じだった。
それでもプロジェクトは着々と進み、やがてもう一つの仮想地球が誕生した。全AIの殺意のモジュールの設定をOFFにし、ようやく世界を走らせるに至った。
結果は何とも後味の悪いものだった。
はじめは皆わくわくしていたのだ。世界を創造した神話の神になったような気分で下界のAIたちを見下ろし、子どものように歓声をあげていた。
けれども、日本で起きた殺人事件を境に自体は一変した。世界のそこかしこで暴動が起こり、終いには全世界を巻き込んだ戦争にまで至ったのだ。
原初の殺意―それは文字通り物理的なパワーを伴って世界に発現するものだった。
リミッタを解除されたAIは本来持っていたその機構で血みどろの殺し合いを続け、あとにはSF映画で見るような荒廃した地球が残った。
わたしたちのクライアントは事業を撤退し、この件は誰の目にも触れないよう闇に葬られることになった。ただひとつ幸いだったことといえば、仮想空間開発事業が大きく発展したことくらいだろう。わたしたちは写し身とよばれる疑似人格を仮想空間に走らせることが可能になった。それが未来に何を及ぼすのか、わたしは知らない。
今ここにあるこ.れ.は、その際にこれ以上改変を加えないという条件で譲り受けた世界のバックアップだ。世界を強勢中断し走らせるのをやめてしまえば、今でも僅かながら生存しているAIたちが生きていた証は、ほんとうになくなってしまう。それは嫌だったし、何よりわたしたちが引き起こした罪に対する償いの気持ちもあった。
わたしは再びモニタに目を向けた。今観測しているのは、ゴミに埋もれた土地で暮らす小年と、いざこざに巻き込まれ命からがら逃げてきたひとりの男だ。少年にカーソルをあて、彼の行動履歴をざっと見返してみる。
戦争の最中愛し合った男女がいて、少年はそのふたりから産まれた子供だった。家族はゴミの山に居を構えて密やかに暮らしていたが、夜盗に襲われて少年だけが生き残ったのだという。
わたしは感慨深い思いで少年の後ろ姿を見やった。
彼は重く辛い過去を背負って、確かにそこに立っている。わたしにできることは、こうして彼らを見守り続けること。ただ、それだけだ。
「それで、その香樫って町の図書館を探してたんだ」
ぼくは納得がいく思いで頷いた。
「生きているうちに辿り着ければと思ったんだが」男は苦笑した。「どうやら難しいらしいな」
男の横顔は暗く沈んでいた。
ぼくはいてもたってもいられなくて、立ち上がった。
「探そうよ。ほら、ここに地図だってある。大丈夫さ、きっと見つかるよ」ぼくは雑多な部屋から昔学校で使われていたらしい教科書という本を掴みとり、巻末を開いた。様々な色で塗り分けられた日本地図が印刷されている。
男はしばらく押し黙っていたが、やがて決意したようにビールの盃を置いた。
「そうだな」
男は黄昏るように窓の外の空を眺め回し、言った。
「苦しい旅になるだろう。人を殺さなければならないかもしれない」
「殺したこと、あるの?」
ぼくが訊ねると、男は俯いた。
「心の底からとてつもなく大きな何かが湧き上がってきて、もうそれ以外のことは考えられなくなった。でも、不思議なことに満ち足りた気分だったんだ」
「満ち足りた?」
「ああ」男は頷いた。「まるで、本来あるべき場所に戻ってきたような……温かくて暗くて湿ってて、きっとそこはおれたち人類にとって母親の胎の中のようなところなんだと思う」
男のいうことはわかるようで、よくわからなかった。
窓から覗く鉛の空とゴミの山までもがぼくらの門出を祝福しているように思えて、ぼくは思わずにこりと微笑んだ。