出逢い
前日の配属初日には、営業部の殆どの人に挨拶を終えていた。
でも、一人だけ、まだ自己紹介が出来ていない人がいて……。出張中の営業職の男性とだけ聞いていた。それ以上の情報は無い。
朝、昨日のように自分の席に着き、メモとペンを机に出して緊張に固まる私。当面の仕事は、電話に慣れること。いつ鳴るのか――と、電話と睨めっこをしていた。
呼出音が鳴ったら、2回以内に取るのが鉄則。慣れない言葉づかいで、舌を噛みそうになりながら……時には本当に噛んで、ひたすら頑張った。
「おはよう」
何気ない、ごく普通の朝の挨拶が聞こえてきた。当たり前に、皆が自然な挨拶を返す。
ふと、私も声のした右側に顔を向けて――固まった。
ありがちな表現で、“時が止まった”。
(――だれ!?)
頭の中で、自分の声がする。何秒ほど、私の目はその人に釘づけだった。
「あっ、いっちゃん。昨日、新人さんが来たんだよ」
黒田さんが私を指して、「ほら、あの子」という仕草をする。
“いっちゃん”と呼ばれた、その男性が私に視線を向けた。
ドキン! ――何故か解らないけれど、胸がドキドキする。意味も判らず高鳴る鼓動が、うるさくて仕方がない。
後になって気付いた。
〈一目惚れ〉というものを、初めて経験した瞬間だったんだ。
彼は、ゆっくりと私に近づいて来た。
切れ長の涼しげな目元、シャープな鼻筋と顎のライン。端正な顔立ちをしたその人は、少し目元を緩めて、ニコッと微笑んだ。
「井沢です。よろしくね」
それを受けて、反射的にというか、身体が勝手に動いていた。慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「椎名です。よろしくお願いします!」
短い挨拶をした後も頬は熱を帯びていて、いつまでも鼓動が鳴りやまない。
その日一日…いや、まさか……
それから何十年間もの永い歳月を、想い続けるなんて、心から離れなくなるなんて、思いもしなかった。
私は自分でも、この井沢という男性が気になって仕方がないことに気付いていた。
今、心の中にある想いは、多分、“恋”なのだろうということも。
だけど、それまでの私は、同級生の男子や学校の先輩、若い先生に対して、憧れの対象という感情で、友達と盛り上がったことしか無かった。
それらは単に、アイドルを追いかけるような“憧れ”だったのかもしれないけれど。
一瞬で恋に落ちてしまったとしても、私と井沢さんには接点が無かった。同じ課でも、会話をするようなきっかけなんて、何一つない。学校で、クラスメイトに話しかけるのとは違う。気軽に声を掛けることなど、出来るはずもなくて、チラチラと横目で窺うだけの、もどかしい毎日を過ごした。
誰にも聞けず、まだ彼のフルネームを知らない。
彼女の有無なんて、とんでもない。
唯一知れたのは、6歳年上の、24歳だということ。
彼が私の背後を通り過ぎるたび、纏っていたコロンの香りと、煙草の匂いがふわりと漂う。細身で、スラリとしたスーツ姿が素敵で、大人の男性だと思った。
きっと、私には足元にさえ及ばない。ただ、そっと見つめることしか出来ない相手。
井沢さんと笑顔で話している、周りの女性が羨ましかった。対等に話せる彼女たちが、羨ましかった。
高校を卒業したばかりの少女が、大人の世界にたった一歩だけ……いや、半歩かもしれない。社会に足を踏み入れたばかりで、“対等に”なんて、おかしな話だ。
仕事を覚える前に、“恋”を覚えてしまった。
だらしない、というか、みっともないというか。なんとも、恥ずかしいことのようにも思う。
でも、何をどう考えても、考えようとしても、頭の中は井沢さんのことでイッパイ。
(どうしたら、あんな風に、気軽に話せるんだろう)
気軽に話しかけている先輩を眺め、軽くヤキモチのような、落ち着かない気持ち。
そんなことで唇を噛むなんて、やっぱり子供だ――。