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信頼の証、二人で進む道

ネリーは水浴びをしている時、その音に気付いた。


何かが暴れているような音。

木が倒れていく音。


嫌な予感がした。


すぐに着替えて戻る準備を始める。


リグ様に何かあったのだろうか。


音は自分たちの寝床の近くから聞こえてきた。

リグが敵に襲われていて、窮地に立たされていたらどうしよう、と不安が募る。


川を離れて走って向かう途中にネリーは出会ってしまった。


それは理性を失い、ただ本能のままに殺戮を行う獣のようだった。


「リグ様!」


ネリーはその場で立ちすくみながら悲鳴のような声を上げた。


リグは恐ろしい目つきでネリーの方を睨みながらその場に立っていて、何も答える事はなかった。


ネリーはすぐさま香水を体に吹き付け、擦り込んだ。


リグは何もしゃべらなかった。

しばらく必死で歯を食いしばっていたが、よく見ると口が少しだけ動いていた。


声なのかどうかすら認識出来ない声を聞いた。



「・・・に・・・げ・・ろ・・」


リグはきっとぼんやりとしている意識の中で必死に自分を守ろうとしてくれている。


自分の内にある凶暴な本能に出会い、それに支配されようとする恐怖に飲み込まれそうになりながらも抗い続ける事が、どんなにか苦しいだろうか。


今ここで逃げなかったら、自分は無傷では済まない。少し離れた所に避難して数時間が経てば発作だって治まる。


逃げ出すのも一つの選択だし、それに正直怖い。


でもここで逃げてはいけない。

もうあんな思いはしたくない。

・・・弟の時のように。


ネリーは震えを隠しながら堂々と向かい合った状態で言った。


「私が逃げろと言われて逃げる女だと思いますか?」


一瞬の隙を狙い背中に腕を回す。


発作が起きるとまず周りにいる人間に対して傷を付け、そこからで出た血を吸っていく。

この病に感染しても牙が生える訳ではない。


だから対処としては手足を抑えれば血を吸われる可能性が極めて低くなる。

リグも暴れてはいるが、何とか抑えられる事が出来た。


これで香水の効き目が早く効く事を願う。

前回よりも多めに刷り込んでいる。きっと早めに効いてくるはずだ。


今までなら効いてくるはずの時間を過ぎて

も今夜は全く効いていないようだった。


この薬が効く人は多めに匂いをつけてあげれば、その分早く発作が治まっていた。


ネリーは焦りながらもハンスの言葉を思い出していく。


必死に抑えている時、ふと空がいつもより明るいことに気が付いた。今日が満月である事を思い出した。


満月の光はこの病による力を強くするから気を付けるように、と聞いた事を薄っすら思い出す。


そのうちネリーの体力が尽き始めてきた。


暴れようとする人間一人を抑え続ける事に加え、ネリーもこの二日間で大分疲弊していた。


それでも効果が出るまでは、と必死でリグを抑えてきたネリーであったが、とうとう抑えきれずに片手を離してしまった。



ネリーは左の側頭部に鈍い痛みを覚えた。

みるみる頭から血が流れ始めた。


一瞬、リグがひるんだように見えた。

リグに頭を殴られ、手で拭いたいのを我慢しもう一度リグに両手でしがみついた。


またリグが暴れ出し、ネリーの腕や肩を強く爪を立てて掴んできだ。


痛みで悲鳴を上げそうになりながら、耐えてリグを抑えた。


早く効いて・・・早く・・・。


心の中で何度も祈り続けた。


1秒が過ぎるのに気の遠くなるような時間がかかっている気がした。


「血を・・・血を・・・。」


出血している部位を噛まれないように体勢を保ちながらリグの発作が治まるのを待った。


その間にもネリーの腕や首に傷が出来ては増えていき、それでも耐え続けるネリーの目からはやがて涙が溢れてきた。


怖い、痛い、逃げたい、もう放したい。


私は何をこんなに一生懸命やっているのだろう。


発作なんて間もなく治まるし、私自身、かなりの傷を負っている。


だからもう手を放そう。もう充分だ。よくここまで耐えられた。


・・・放してしまおう。


ネリーの腕の力が少しずつ弱くなっていき、その分リグは動きやすくなった事で余計に暴れ、ネリーの傷を増やした。


一瞬・・・ふと突然にある者の顔が浮かんできだ。


ネリーにとっては懐かしく愛おしい弟のディエルの顔だった。


ネリーはあの泣きながら獣のような目付きに変貌していった弟の姿を思い出した。


ネリーは目が覚めたかのように瞳を大きく開き、温かみのある茶色い瞳に再び力が宿っていった。


諦めの表情はたちまち消えていき、もう一度腕に力を込めてリグの動きを抑していった。


それでも・・・それでも・・・放してはいけない。


「ごめんね・・・ディエル。」


最後の力を絞り出し、弟の名前がふと口から溢れながら、ネリーの意識は頭の出血と疲労で遠ざかり始めていた。


薄れゆく意識の中で、ネリーは無意識に弟の名を呼び続けた。


「ごめん・・ごめんねディエル、私を・・・許して・・・。」


リグの力が弱まってきているのを感じた頃、ネリーにはもう意識がなく、ただリグを強く抱きしめていた。


あともう少し・・・もう少し・・・。


リグの発作が治まってきた頃、ネリーは完全に意識を失い、二人はその場で倒れこんだ。



発作が起きてどれくらい経ったのだろう。

リグは寒さで目を覚ました。


発作が始まってあの場所から離れようとしていたところまでは覚えている。


しかし、それからどうしていたのか、何があったのか記憶が全くない。

なぜか身体中血まみれだった。


そして、その血の原因jを探ろうと周りを見渡し、頭から血を流しているネリーが横で倒れている事に気付く。


すぐに自分の発作が原因であるとわかった。


ネリーの身体中に傷が出来ているのを見て、酷く後悔した。


なぜ、彼女を連れてきてしまったのだろうか。

彼女を巻き込まなければこんな事なんて起こらなかったのに・・一人で何とか出来たかも知れないのに。



罪悪感の重みで、心が押し潰されそうになった。


ひとまず、ネリーを寝床まで運び、横に寝かせた。

ミミからもらった薄い毛布を鞄から取り出して、ネリーの全身に覆い、その上に自分の上着も掛けた。


ネリーの体はかなり冷えていた。

大木の近くで火も起こし、温まるまで頭に付いている血を拭き取った。


左目の周りには痣が出来ていたので、川に水を汲みに行って布で冷やし、ぬるくなったらまた冷やし、また川に行って水を汲んで・・・を一晩中繰り返した。


しっかり処置したからか傷もどんどん引いていった。


空が明るくなり始め、リグはもう一度川へ水を汲みに行った。


ネリーの身体はしばらくすると温かくなってきたが、反対にリグの身体は冷え切っていった。

ずっと薄着で看病していた上に、冷たい川の水を何度も汲んでいた事で、徐々に体温を奪われていっていた。


しかし、これでネリーが元気になったところで、何の罪滅ぼしにもならないだろう。


自分と一緒にさえ居なければこんな事は起きなかったのだから。


やっぱり引き返してネリーだけでも元の生活を何とか送らせる事が出来れば・・・。


そうだ!あの食堂に行って頼みこんでみよう。

ネリーは屋敷では給仕だったんだ。

どこへ行っても引く手数多のはずだ。


それにミミだって本当の娘のように気に入ってたじゃないか、きっとうまくやっていけるだろう。


寒さと不眠で頭が回らず、そんな事をぼんやりと考え、またそれが一番正しいとも考えていた。



「リグ様、おはようございます。」


突然の事で驚き、声のした方を見ると、リグのすぐ後ろにネリーが立っていた。


まだ驚いたままの表情で固まっているリグはゆっくりと顔を見上げた。


目の周りはまだ青くなっているが、ほとんどわからない程度には治ってきている。


リグも「おはよう」と挨拶してから、さっき考えていた事を提案しようとした。


「素敵な朝焼けですね。」


ネリーはこちらの意図を察しているかのように間髪入れずに話を続けた。


「私、今までこんな綺麗な景色見た事なかったんです。昔からずっと私の知らない世界に興味がありまして、この街の外はどんな風景になっているんだろう?その風景の中を歩いて旅をしたら、どんなに素晴らしい物に出会えるんだろう?・・・そして・・・この世界はどんな色をしているのだろう・・・って、いつも空想ばかりしてました。」


リグはまたネリーの意外さに驚かされた。自分とは違う世界に生きてきたネリーと同じ疑問を抱いている。


こんな空想をしていたら何てメルヘンな奴だといじめられるに決まっている。だから今まで誰にも言わなかったが、こんな身近にいたというのを知って嬉しかった。



そして、ネリーは少しだけ、自身の過去について話してくれた。



「私、子供の頃、剣で未知の怪獣と戦い、

まだ誰も踏み入った事のない世界を冒険するお話が大好きで、一度は自分も、って憧れてたんです。それで第三地区近くにある雑木林の中を棒切れとパンを持って進んだら迷ってしまって、父に凄く怒られました。女の子がそんな事をするもんじゃないって。剣も取り上げられちゃいましたけど、でもずっと憧れていたんです。」



優しく、穏やかな表情で話すネリーに気付けば魅入られていて、これ以上巻き込みたくないという思いと、一緒にいてもっとお互いを深く知りたいという思いが交錯し、次に何を話せばいいのか迷っていた。



「こんなに楽しいのは久しぶりです。これって本物の旅なんですよね?想像していた以上に面白いです。この5年間、こんなに心から楽しんだ事なんてありませんでしたから・・・。」


二人は五年前この国を揺るがした反王国軍によるクーデター事件を思い出した。

この国中の国民が思い出したくない過去であった。


五年前まで、この国は王国として、決して豊かではないが、平和な国であった。


しかし、王制に反感を持つ組織が国王を失脚させ、国民は歓喜に沸いた。


しかし、反王国派の政治は王国時代よりも独裁的で国が大きく傾く程の悲惨な状態になっていった。


居住地を区分ける制度もその一つで、自分達が広大で豊かな今の第一地区に住みたいがためにその地区から区画整備と称し、全ての住民を追い出した。


そして、自分達に反感を持つ者や危険と思われる人物を遠ざけるため、区画を作り、その地区に無理やり住まわせた。


リグの父は王国内で働いていた。高級住宅街に住んでいたが、王の失脚と共に第五地区へと移住を余儀なくされた。


きっと、ネリーもあの地区で同じ境遇にあっていたのだろう。


同じ辛い過去を背負っている同士なのにどうして彼女はあんなに強いのだろうと疑問に思った。


「クーデターが起こって以降は生活が一変し、毎日がとても辛くて耐えられなかった事ばかりで・・・。でもこうやってリグ様といる二日間は今までの辛さや悲しさを全て忘れられるくらい楽しかったんです。本当ですよ。家族と一緒にいた時でもこんな楽しい事なてありませんでした。だから今、凄く楽しくて幸せなんです。」


「ごめん。」と俯いていたリグは一言だけ謝った。


「でも俺といたらまた・・・。」


ネリーはここで遮った。



「私はリグ様から沢山もらいましたよ。形がなくても人に与えたり、貰ったりする事は出来ます。私はリグ様から数え切れない程の大切な物をもらいました。それだけで十分です。」



一呼吸置いてネリーは続けた。



「だからこの先も二人で進んでいきましょう。」



完全に見抜かれていた。

でも何だかわからないが、嬉しかった。


さっきまで心に重くのしかかっていた罪悪感が薄れ、晴れ渡る空のように明るく、軽ろやかになり、リグは覚悟を決めて最後まで一緒に来てほしいと頭を下げた。


ネリーは屈託のない笑顔を浮かべながら「はい」と元気に答えた。



二人は更に森を進んだ。


昼前には森を抜ける事が出来て、目の前にはどこまでも続く草原が広がっていた。


日差しがとても強く、直射日光の弱いリグはこのまま進む事が出来ないと判断した。

ネリーも疲労の色が見えたので、今日の夕方から出発し、夜明けまで進む事を決めた。


夕方までは食料を探したりゆっくりする時間にし、昼食の後は各々で過ごした。


リグは川で釣りを楽しんだ。

昨日初めてした釣りが面白かったようだった。


ネリーは来た道を少し戻っていた。

ここまで来る途中に、甘く爽やかな香りのする場所があった。

きっと草花が群生しているのだと予想したが、リグには言いづらかったので、我慢をして通り過ぎた分、戻って確かめられる事が嬉しかった。


ネリーの予想通り、辺り一面に花が咲き乱れている夢のような場所だった。

見た事もない花、嗅いだだけで脳がとろけてしまうような甘い香りの花、珍しい種類の昆虫などもいた。


ふと、どこから飛んできたのか、一匹の青く光る蝶々がいた。


太陽の光に反射しているのではなく、自ら光る蝶々。その蝶を追いかけて花を出来るだけ踏まないように注意しながら奥に進む。


蝶が背の高い花の下に隠れた。


ネリーはその隠れた部分に顔を覗き込む。


すると数百匹の青く光る蝶の群れが飛び立った。

自分が蝶の中に呑み込まれ、光に包み込まれたネリーは周りの木々も足元も見えなくなる程で、自分も一緒に蝶と空を飛んでいるような心地になった。


ネリーを取り巻く光は全てを優しく癒してくれた。

今までの辛い経験も、悲しい思いも全部溶けてなくなっていくように目の前に現れては光の中に消えていった。


辛い事は山のように数多くあった。


楽しかった事の方が少ないと思う。


あのクーデター以降、生活は一変した。


王宮内で働いていた父は職を失い、慣れない仕事をした結果、過労で倒れてしまう。


母も出稼ぎをして働くようになり、母もまた働いた事のない不慣れな仕事から体調を崩し、

そこで伝染病にかかり、ネリーと幼い弟を残し、同時期に両親を失ってしまった。


そしてネリー自身もある富豪の屋敷内で給仕の仕事をもらい、働く事になった。


家も財産も失い、親戚の大家から狭いアパートの部屋を一室貸してもらう事が出来た。


そこで唯一残された弟と二人、貧しくもあったが楽しい生活であった。しかし、そこへ弟があの恐ろしい病にかかってしまう。


約半年で弟は亡くなった。


そしてネリーもまたこの恐ろしい病にかかり、それからの数ヶ月を自分の人生は一体何だったのだろう、と自問し続けていた。

何のために私は生まれてきたのだろうか。

そしてなぜ、こんな辛い思いをし続けながら生きなければならないのだろうか。


ネリーは気付かないうちに眠りに落ちていた。


周囲はもう陽が落ち始めていた。


蝶はどこにも見当たらず、夕日に染まった綺麗な花々だけがネリーを囲んでいた。


ネリーは急いで戻った。リグとの待ち合わせ場所へ向かう途中、リグの声がした。


リグはずっとネリーの名前を呼び続けていた。


遠くの方からとても心配そうな表情をして駆け寄ってくるリグの姿が見えた。


それを見てネリーは自問し続けていた答えをようやく見つける事が出来た。


過去を振り返れば辛い事ばかりで、この先だって考えれば頭の痛くなる事がお多い。


だから今出来る事を精一杯やり遂げよう。


辛い過去にしないために・・・後悔しないように。


きっと未来は明るくなるかもしれない。


でもそんな事より、ネリーにとって、今この瞬間が楽しくてかけがいのない、大切な時間であり、唯一の時間であった。


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