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波動を身に纏い、押し寄せる物――剣・槍・鎌・斧・鎧を打ち払う。払う手足には無駄な力など込められていない。つまり、一切の無駄がなくなった。
それも当然だろう。
長く続けていれば、このような事は誰にでもできるようになる。頑丈で疲れない肉体が前提条件だが……。もちろん食事を必要としないことも重要だろう。それを満たすならば誰でもできることであった。
確かに物覚えが早い者もいる。だがそれは、掛けた時間でどうとでもなってしまう。
無論、新しい物事を作り出すには才能がいるだろう。しかし、やっていることはただ無駄をそぎ落とすだけ。
だからこの場で必要とされていたのは、忍耐力だけであった。
猛が費やした時間は1年や2年程度ではきかない。100年も続けたとは言わないが、おそらく20年近く経っているだろうか。
もちろんこれは猛の主観である。
これは自らの人生の尺――前世の感覚から推測した物だ。楽しい時は、過ぎ去る時間も早く感じる……。だから実際には、それほど経っていないかも知れない。猛の人生は常に楽しい物であったのだから。
あまり我慢強くない猛が耐えられた理由は一つだけ。
――アイツをぶちのめす!
ただそれだけであった。
辺り一面は武器や防具の残骸で埋め尽くされていた。これは全て猛が破壊した物。
それらは元の――原形をとどめてすらいない。
多くの者はこう言うだろう、「物を大切にしなさい」と。
猛もここまでするつもりもなかった。あとで大鎌の代わりを物色するつもりだったのだ。だから全てを破壊する気など毛頭なかった。
けれど、そこまでする必要があった。破壊し尽くさないと創造主の意志が途絶えない。攻撃を延々と繰り返されてしまうのだ。
ただでさえ武器や防具の生産は止まっていないのだから、それを許してしまえば敵の手数が増えてしまう。驚異ではない事だが、ウザイ行為には変わりない。
だから徹底的に破壊し尽くす。それが猛の意志であった。
猛には隙や死角という物はもはやなかった。とはいえ、謎の生物――装備製造主を倒す目処も付いていなかった。
かつて……それも動きが様にならなかった時の事だ。敵の弾幕から逃げるために距離を取り過ぎた。退路と足場を確保するためにも仕方なかった事なのだ。
それが原因で今の情況を作り出している。
あまりの物量により、猛はなかなか前に進む事ができない。迫り来る物を打ち払いながら一歩ずつ一歩ずつ進んでいた。確実に破壊するためには近づかなければならない。そのたび瓦礫で足場が悪くなる。それを踏み潰して進んでいく。
しかし、敵もマヌケではない。緩急を付ける事で、猛に下がるしかないという情況を作り出してくる。
まさに一進一退というあり様であった。
だが、それでも距離は縮めている。
年単位で装備製造主との距離を確実に詰めていた。
(もう少しだ。……待ってろ! もう少しで破壊してやる)
猛は目をギラつかせて前方をにらみつける。
それは長く苦しい戦いであった。
猛がたった一つの事に集中することなど、あり得ない事であった。
何でも直ぐにできた。たとえできなくとも金で解決してきた。全てが思い通りにいった。
だからこうして『コツコツと何かを為す』という事は、初めての行為であった。
とはいえ、それに新鮮みなど感じない。たとえ初めての行為だろうと苦痛なのだ。ウザイという感情以外、何も思う事はなかった。
だが、一つのカタルシスは感じていた。
あの装備製造主を倒せば解放される。そしてそれによる達成感みたいな物も猛の中にはあった。
未だ実行前にも関わらず、既に彼の中では確定事項となっていた。
両者の戦いに巻き込まれたのか、辺りには光人が存在していなかった。そう、何年も。
装備製造主の攻撃を防ぐ猛の波動により、ここへと運ばれてきた光人たちは一掃されてしまったのである。
それはある事を意味している。
――戦いの消失。
争う相手がいなければ戦いは起こりえない。
方々に散っていた修羅たちも数を減らし、彷徨っても敵とあわなくなっていく。
修羅道の理は、魂の怒り、恨み、嫉み、嫌悪、と言った感情を増幅および支配する。
未だに強固な魂はそれに支配されるが、疲弊した精神はその理から受けづらく、外れやすくなる。つまり、解脱しやすくなるのだ。
やがて戦いを止めた修羅――いや、魂は救済される。
オン・ロケイ・ジンバ・ラ・キリク・ソワカ
六観音菩薩、その内の一化身である十一面観音の降臨によって……。
その物、11の顔を持つという名の観音であるが、その実、顔は一つしか持っていない。彼の物が持つのは11の面――能力であった。
その能力とは――。
不意を突かれても、自らが死んだと認識しない限りは死なない。
火による攻撃では絶対に死なない。
水による攻撃では絶対に死なない。
武器による攻撃では絶対に傷つかない。
毒による攻撃は無効化される。
高貴なるモノに絶対に好かれる。
病気には罹らない。
呪術による影響を一切受けない。
風を操る力を持つ。
水を操る力を持つ。
そして治癒の力を持つ。
修羅道を司る主として君臨する十一面観音。彼の物に願う事で、これらの恩恵を僅かばかり享受することを許される。
この修羅道において彼の物を打倒する事は敵わない。武器を主体とする修羅では彼に勝てる要素などないのだから。
暴風雨の力を以て、破壊をもたらすその姿はまさに阿修羅。その一方、癒やしの力で救済をもこなす仏でもあった。
そんな暴風の化身がとうとう修羅道に顕れた。解脱の資格を有した者を救いに……。
しかし、その情況に彼の物は混乱していた。数が多すぎる、と。それでいて魂自体の総和が少なすぎる、と。
何か異常が起きたに違いない。
それを確かめる為、彼の物は有資格者たちの救済も兼ねて、世界を徘徊する事に決めた。
やはりおかしい。
十一面観音が異常を感じ取るのに、それ程時間はかからなかった。
有資格者だと思っていた者はどれも違っていた。確かに争いは止めている。しかし、それは自我の目覚め故にできた事ではなかった。
ただ敵がいなかった。そして疲弊して、うずくまっていただけに過ぎなかったのだ。
何故この様になったのかはわからない。けれど、何か元凶があるに違いない。この世界はシステムなのだ。簡単にそれが崩れるはずもない。
十一面観音を召喚するのも、この世界のシステムによる物であった。
普段、彼の物は天界にて如来の補佐をしている。そして解脱者が現れたときだけ、ここ修羅道へと赴くのだ。
しかし、そのシステムとて万全ではない。
このように戦いを止めたというだけで、有資格者と判断してしまう。条件の上では、確かに当てはまる事だろう。だが、その魂の成熟ゆえにそれを為さなければ意味がない。
彼らは自らの意志で脱した者ではない。何者かの手によってそうなってしまっただけ。
そのことが十一面観音には簡単に識別できた。
十一面観音は世界の外周部から徐々に探索の輪を縮めていった。魂がほとんどないという事以外は、特に変わった様子はなかった。
だがそれも、中央部に近づくまでの事だった。
ドドドドドドドドドド
凄まじい轟音が耳に入り込んできた。
音だけではなく、ピカッピカッと短い間隔で光り輝くのも見て取れた。
あそこだ! あそこに元凶がいる!
そう思うや否や、十一面観音は移動する速度を速め、目的地へと飛翔していった。
あと少し……と言ったところで、天へと光が立ち昇った。
何だ、何があった!?
十一面観音はこの世界で起こりえない現象に混乱する。この様な事で狼狽えるから悟りを開けないと自嘲するが、それも仕方のない事だろう。預かっている世界で、自分の知らない事が起こり得ているのだから……。
そしてたどり着いたそこには――瓦礫の山が築かれていた。
見た感じでは、《アフラ・マズダー》が作り出した装備のようだ。しかし、どれも破壊されて使い物にならない。
これは信じられない事であった。
十一面観音には効かないものの、《アフラ・マズダー》が作り出す戦いの道具はとても強力な物だ。それだけではない。ちょっとやそっとでは破壊することなどできない程、頑丈なのだ。
今は自我を無くし、この修羅道に組み込まれているが、元は天龍八部衆の筆頭格、阿修羅王その物なのだ。
――それが作り出したはずの物。
その様な物が形を留めていない。それだけでも驚異的な何かが起きているとわかる。
十一面観音は唖然としてそれを見ていた。信じられない。今のこの情況を理解したくない。
けれど情況がそれを許さなかった。
突如、瓦礫の山が光を放ち……はじけ飛んだのだ。それはもっと信じられないことであった。
野ざらしとなったそれらは、いずれ《アフラ・マズダー》の力へと還元される。
その時は装備は大地に沈むので、今の現象はあり得ない。
《アフラ・マズダー》はこの世界全体に根を張っていて、大地に染みこんだ己の力を養分として再吸収する。だからこの様に、光になる訳がないのだ。
つまりそれは、《アフラ・マズダー》が死んだという事――。
とはいえ、システムに組み込まれた《アフラ・マズダー》が死滅すると言う事はない。ただでさえ修羅道は魂の循環が早い。魂の質が高い物はそれだけ復活するのが早く済む。
だから彼の物の死が即、修羅道――この世界が崩壊する事に繋がる訳ではない。
しかし、驚異的存在がいる事は間違いない。
意識はないとは言え、《アフラ・マズダー》は十一面観音以上のエネルギーを持っている。もちろん自我無きモノに自分は負けるはずがないと思っている。
けれどこの世界その物――《アフラ・マズダー》を砕いたのだ。理を乱す異物に油断できるはずもない。
やがて、膨大の量の瓦礫は光へと変わり、生まれた光が一点に集まっていく。それは《アフラ・マズダー》の新生を意味している。
ああ、阿修羅王……まだ輪廻の輪に戻れないのですね……。
システムに組み込まれた以上、彼の物が解放されるという事はない。少なくとも、この世界が必要とされなくなるまでは――。
それが阿修羅王に与えられた罰。
同じ天部である、帝釈天との争いの中で、悪鬼に墜ちた事の罪。
永劫とも言える時の中で、彼の物は贖罪を続けている。
……いずれ解放されるかもしれないが、今はその時ではないのだろう。
阿修羅王に敬意を表するために、彼の《アフラ・マズダー》への新生を見守ることにした。
ん? ――何かおかしい……。
十一面観音は一向にその姿が形成されない事に疑問を抱く。本来ならば既に集まっている光が《アフラ・マズダー》の姿を取り始めるはずなのだ。
けれど、それがない。いや、姿を取るどころか、光はより小さな一点へと集まっていく。まるで何かに吸収されるかのように……。
しまった!
十一面観音は己のうかつさに嘆く。
ここには理を壊すモノがいる。その事を十一面観音は忘れていたのだ。
それを嘲笑うかのように、《アフラ・マズダー》……いや、阿修羅王の魂その物が消えてなくなっている。その証拠に何者かに吸収される度に、阿修羅王の存在が薄くなっている。つまり、それは彼の物の消滅を意味していた。
そして十一面観音が介入しても、もはや手遅れ――という状態になっていた。
――ありえない……!
御仏の魂を奪うなど、あっていい事ではない! 冒涜にも程がある!
この修羅道でそれをできる事すら驚きであったが、『世界その物である阿修羅王』を食べるという行為に、十一面観音は己の価値観を崩されてしまった。そして、自らの役割も壊されてしまった。
ギリッ
いつの間にか歯を噛みしめていた。それは観音たる自分に相応しいと思えない行動。
けれど、もはや抑える事などできなかった。神仏の領域を侵すモノを許すわけにはいかなかった。
やがて阿修羅王の全てが消え去ると、そこには1つの魂――いや、悪鬼がいた。
――かつての阿修羅王を彷彿とさせる装い、まがまがしいオーラ、そして悪意に満ちた表情。
そのどれもが、この世界から生まれたとはとても思えなかった。
十一面観音は思わず一歩後ろに下がってしまった。
ま、まさか……私が威圧された?
悪鬼から放たれる尋常ならざるオーラに、いつの間にか萎縮してしまったらしい。
それに気付き、十一面観音は怒りが内から沸き上がるのを感じた。
許すまじ。修羅道に墜ちた憐れな者に、この私が怯えるなどあってはならぬ事……。
天意を、天罰を、そして魂の消滅を与えなければいけない! この世界のためにも阿修羅王を解放しなければならない!
そして告げる――死をもたらす言葉を。
「餓鬼道より迷い込みし者よ。私は十一面観音。この修羅道の主である。
悪鬼よ! 理を外れし外道よ! 世界に拒まれし憐れな者よ!
汝の存在はこの世界の理を乱す。故に存在する事など許されない。私は仏道に則り、汝を処分する!」