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「起きるがよい」
猛はその一言で目を覚ます。
まぶたを開けて視界に飛び込んできた景色は、見覚えのない場所であった。
(どこだ、ここは?)
声の主を無視して、猛は情況を分析する。
まず冷静になる。それが猛の常であった。
しかし、猛の情況などお構いなしとばかりに声の主は告げる。
「ふむ、起きたようだな。これで目覚めぬ様ならば、鬼どもに起こさせねばならぬところであった」
(鬼……だと……)
普段聞く事のない単語を拾い、無視する訳にはいかなくなる。猛は少し苛立ちを覚えながらも声がする方向に顔を向ける。
すると――、……そこには巨大な男が鎮座していた。
その男の身長は猛の5倍以上。横は6倍以上だろうか……。
猛の身長が185cm、78kg。ゆえに相当な威圧感を放っている。
(なんだ……こいつは…………CGか、それとも舞台装置か?)
とても現実的な物と思えない猛はそのように考えた。
しかし、とても作り物には思えない。生の息吹を感じさせるところがどこかあったのだ。
「混乱しているようだな。まあ、確かに汝のような死者と我が会話する事はないのだが……」
――死者
猛の耳はその言葉を聞き止めた。
死者とは誰の事だろうか、猛はそう疑問を抱く。
辺りを見回し、死体がないかと確認をする……が、猛の他に、目の前の人物を除けば誰もいなかった。
(まさか……死者というのは俺の事か?)
何を言っているのだろうと猛は笑い飛ばした。
しかし、それを聞きとがめた巨大な男は威圧感を高めてくる。
その気配に猛は立っている事ができなくなる。凄まじいプレッシャーだ。
猛は両手を地に着き、這いつくばる事を拒否するために耐えていた。
「汝……言葉には気を付けたまえ。我は汝を裁く者――閻魔なり」
閻魔大王――仏教・ヒンドゥー教における冥府の裁判官。
日本では地蔵とも同一視されている菩薩の一種。
見るからに如来になれない、修行中の菩薩とは思えない存在感を放っている。
もっとも、如来とは悟りを開いた存在であって、強さ、威圧感とは関係のないことではあるが……。
少なくとも、仏法の守護者たる天部衆や、明王の類いではないかと思わせるものがあった。
(さすがに王……と付くだけの貫禄はあるということか)
猛はその時点で閻魔の言葉を受け入れていた。
化かされている可能性はある。けれど、記憶を呼び起こせば、自分が死んだ可能性は高いのだ。
あれだけの出血量だ。ショック死どころか、普通に死んでもおかしくはない。
どちらにしても、その閻魔に確認した方が早いと判断し、猛は尋ねようとした。
だが、猛の喉からは音が響かない。
「ふむ。何か言いたい事があるようだな。……よし、これでしゃべれるようになったはずだ」
閻魔が何かした様子はない。
しかし、閻魔がそう言うと猛の口から音が出るようになったのだ。
「あ、あ……確かにしゃべれるな。
――俺は……死んだのか……?」
「そうだ。汝の生は終わったのだ。
覚えがあろう。汝は他者に命を奪われたのだ」
(やはり……そうなのか)
猛は認めるしかなかった。己が死んだ事を。
それと同時に、今こうしてここにいる自分は何なのか疑問を持つ。
(まさか、死後の世界というやつだろうか)
天国と地獄。いや、閻魔大王がいるということは仏教の世界観だろうか。
ならもっと細かく分類されるはずだ。
(確か――六道)
六道とは――
天道、人間道、修羅道の三善道。
餓鬼道、畜生道、地獄道の三悪道で成り立つ。
そしてそれらを死ぬ度に巡ることを六道輪廻。
元々は五道であったらしいが……と猛は考えを打ち切る。
人間道を除けば、天道以外に真っ当なものはない。もしくは悟りを開き輪廻を脱却するかだが……。
何にしても閻魔の話を聞き、今後の事を考えねばならないのだ。
「それで、俺はどうすればいい?」
「思ったよりも驚きが少ないようだな……。さすが、如来さまより才能を付与された存在だ。だが、それが残念でもある」
(ん……? 才能を付与? 如来?)
「どういうことだ?」
「やはり、覚えてはいないようだな。ここに来た以上、前世の記憶が蘇るかと思ったのだが……」
さらに情報が追加された。もはや猛は理解が及ばなくなる。そこで猛は考える事を止めた。
「前世とか言われてもな。そういう話はありふれているが……俺とは関わりのない物だったからな」
「汝は転生者なり。餓鬼道よりこぼれ落ちた哀れなる魂であった。
それを如来さまが拾い、力と役目を与え、人間道へと送り込んだのが汝なのだ」
聞いているだけで猛は眩暈がしてきた。あまりに荒唐無稽な設定だ。
(これはあれか? 如来がチートを授けたってやつか? 俺の才能はチートだったって訳か?)
確かに猛には才能があった。しかし、それが与えられた物だと言われたら首をかしげるしかない。
そもそも役目だと言われたところで、何をしろと言われた覚えもない。
普通そういうものはお告げがあって然るべきだろう。けれどそれもない。
ならば、自分の生を自由に生きたところで何の問題があるというのだ。
「どうやら納得がいっていない様子……しかし事実である」
「もし、そうだったとしたら……どうだっていんだ?」
猛としては納得のいかないところではある。とはいえ、超越存在である仏たちがそうだと決めつけたならば、どうにもならない。覆す事などあり得ないだろう。
「大役を果たせば汝は解脱を約束されていた。だがしかし、汝は我らの期待を裏切った。ゆえに輪廻の輪に戻り、修行をやり直すことが必要となろう」
「修行……ねぇ。どういうものだい?」
猛は強がっているものの、未だ圧力を掛けられ這いつくばりかけていた。
そのことから、閻魔は淡々と会話を続けているが、怒りが如実に表れている事がわかる。
「本来、人間道から転生するのは天道と決まっている。そこで仏に仕えながら徳を積み、人間道に舞い戻って修行し、やがては解脱を――または、悟りを開く事を志すものである。
しかし、道に外れた物は畜生道、餓鬼道、そして地獄道で汚れを清めねばならぬ」
話の流れから、猛は嫌な予感を覚えた。どう考えても天道はあり得ないだろうと。
「汝は、確かにやり過ぎた所はある。
――だが、その程度では汚れる程ではない。もっとも寿命を全うするまで過ごしたならば……その限りではなかったがな」
(ん? ……大丈夫なのか)
予想とは違う答えに、猛は安堵しかける。しかし、それはまだ早かったようだった。
「とはいえ、汝は与えられた才能で世に貢献しなかった。それは罪である。ただ汚れるよりも遙かに悪徳な事だ。
才能を享受しながらも我欲に走り、人生を謳歌していただけである。よって汝は地獄でその罪を浄化しなければならない。
地球時間にして1000年。それが汝が新たな生を得るために、身を清めねばならぬ期間である」
「――馬鹿なっ!?」
その言葉を吐くなり、猛は凄まじい重圧に押しつぶされた。
感覚的なものではない。これは実際に、物理的なものだ。とても人間業じゃない。
「ぐぶぅ」
「言葉には気を付けたまえ。
我らは汝に呆れているのだ。魂を消滅させることは許されてはいないが、この様にして痛めつける事まで禁止されている訳ではないのだ」
重力を操るような力だろうか。まるで魔法のような何かに猛は手も足もでない。
「鬼たちよ!」
閻魔がそう声を上げると、空間に扉が生まれ、そこから額から角を生やした――まさに鬼と呼べる異形の存在たちが現れた。
筋肉は盛り上がり、怪力の持ち主だという事が見て取れる。そして目は瞳がなく、黄色一色であった。もちろん牙も出ている。そこから見ても鬼と呼ぶに相応しいものだった。
肌の色は様々であった。赤、青、緑、黄、そして黒。階級の差なのか、それとも種族が違うのかはわからない。しかし、猛の頭にある生物学から、鬼たちが同一種族だとはとても思えなかった。
「「「「「はっ、お呼びですか。閻魔さま」」」」」
「うむ。そこな者を地獄へ放り込みのだ」
「了解しました」
そう返すのは黒鬼。中央に位置し、直接閻魔とやり取りをしている。つまり彼の鬼が一番階級が高い……ということだろう。
「それで、期間はいかほどで」
「……1000年を予定しておる」
「せ、1000年ですか!?」
そう驚きの声を発したのは黄鬼。黄色というのは三下属性が付いてしまうのか。
小さい頃に見た戦隊物の特撮を思い出し猛は笑ってしまう。鬼が特撮ヒーローのように見えてどこか滑稽である。
「ぐはっ」
その様子をつぶさに見ていた閻魔によって、猛はさらなる力を加えられてしまう。
「見ての通りだ。反省の色もなく、俗世に塗れた存在。
さらには如来さまから与えられし力で使命――人類に新たな道を照らす、という事を全うできなかった低俗な者だ」
「確かに、汚れきった魂と感じられますな」
「じゃあ、最下層まで連れて行く必要がありそうですね」
閻魔、赤、そして青。彼らは思い思いに猛を扱き下ろす。
「理解できたならば、そやつを連れて行けぃ。
見るのももう勘弁ならない。そもそも次の者たちが我の裁きを待っているゆえにな」
「はっ。承知しました! おい、引っ立てぃ」
黒がそれを受け、他の鬼たちに命令する。やはり黒が一番偉いようだ。
命令された鬼たち――緑と黄色が猛を捕縛し引きずり始めた。
現在猛は縄で捕縛されたままではあったが、二本の脚で歩いていた。
当初は立たせて貰えず、引きずられたままであった。それはいい加減勘弁してほしかった猛が交渉を持ちかけたのだ。
「なあ、こうして引きずるより、俺が歩いた方が早いぜ?
あんたたちも他に仕事あるんだろ。なら、そうしたほうが効率的ってもんだぜ?」
それを承知したのは以外にも黒鬼。
どこか猛を見下している様子であったから、まさかその言葉を彼の鬼が承諾するとは思っても見なかった。
猛としてはマヌケっぽい黄色か、一緒に引きずるという労力を費やしている緑に話かけたつもりだった。
だが、その二鬼は猛の言葉を無視して、続けて引きずる様子を見せた。
そこで黒鬼が動いたのだ。
「確かにその者の言うとおりだな。
我らにも仕事はある。なら早急に片付けるのはこちらとしても望むところ」
そう言って、猛の扱いを変えたのだった。
随分歩いただろうか。猛がそう思うにも無理はない。
既に彼の感覚からして4時間ほどは歩きっぱなしであった。引きずられていた時間を考えると、どう少なく見積もっても20kmは進んでいるはずだ。
「なあ、まだ着かないのか?」
似たような言葉を何度も口に出している。しかし、鬼たちは取り合わない。
まるで一切の情報を与えないという態度だ。
今回もどうせ駄目だろう、そんな気持ちがあった。何も猛は答えを求めて語りかけているわけではない。ようは暇つぶしであった。
辺りは岩肌がむき出しになっている荒れ果てた地。とても景色を堪能できるものではない。
最初の頃は、現世とは違った空の色――ここでは赤色――に戸惑い、興味を持った物だが、何時までもそれを楽しめる訳はない。
慣れてくると、どこか気味が悪く感じてしまうのだ。
だから暇つぶし以上に、精神の安定をはかるために話しかけていたとも言える。
一人じゃないという事は、それだけで心強いのだ。傍若無人であった彼だが、少なくとも人間らしさは持ち合わせていたのだ。
だがそんなときだった。
突如隣にいる黄鬼が猛に話しかけてきたのだ。
「もうすぐ着くぜ……ここが地獄の三丁目ってやつさ」
いちいち芝居がかってどこかうさんくささを感じさせる。
そもそも三丁目とはなんなのか、そのことにツッコミを入れたい誘惑に駆られたがそれは我慢をする。
せっかく出来た情報得られるチャンスなのだ。それを無駄にするわけにはいかない、と猛は考えた。
「三丁目が俺の行き着く先なのか? それともまた別の所に向かうのか?」
「へへっ、三丁目は地獄だぜぇ……。再び人間道に戻ったやつなど見た事も聞いた事もない」
地獄なのに『地獄』とはこれまたいったい。
そのことにどうしてもツッコミをいれたくなってしまう。けれど耐えた。閻魔のしごきよりも恐ろしい物があったが、耐えに耐えた。もちろん精神的に見たらの話だが。
「――っ。そんな恐ろしい所に送られるのか。
近くにある似たような場所……だったりしないか?」
「そりゃありえないぜ。500年以上はそこって決まってるんでな。
こっちの方面にあるのはどれも、とんでもねぇ場所ばっかりだぜ。まあ、中にも例外があるけどな」
「例外?」
「ああ、閻魔さまの管理下にない場所でな……。
ほら、あそこに見える場所。あの扉だ」
そう言って黄鬼が指さした場所には扉らしきものがあった。扉、というからには開け閉めの体裁が取れるものを指している。
だが、その扉は既に明け放れて、いや、戸がないのだ。
――框だけが残った扉
まさに『らしき』と表現するに相応しいだろう。あれではただの出入り口でしかない。
猛がそれを確認している間に、黄鬼は黒鬼に殴られていた。
(いったい何があった!?)
疑問に思った猛は耳を澄まし、彼らの会話を盗聴した。
それが必要だったのは、少し猛から離れているのと、小声だったからだ。
「勝手にしゃべるなっていつも言ってるだろ」
「でもよぉ。こう、何もないと暇で仕方がねぇ……」
「そうだぞ。クロスケの言うとおりだぞ。閻魔さまに言いつけるぞ!」
「すまねぇ……。つい魔が差しちまった」
「まあまあ、キーボウも反省してることだし、大目に見てあげなさいよ」
「――アオネに免じて今回ばかりは許してやる」
それによると鬼たちは、黄鬼、いやキーボウの軽率さを注意していたようだ。
冷静な黒がクロスケ。
太鼓持ちのように、先ほどから追随しかしない赤鬼は不明。たぶん長いものには巻かれろの精神が染みついていることだろう。
そして意外だったのは青鬼だ。なんと女性型だったのだ。アオネとかいう名前だが、この中で一番ごつい体付きをしている。とてもそうは見えない。が、クロスケが簡単に引き下がった事を鑑みて、鬼たちから見たら、おそらく美人の類いに入るのではないだろうか。
最後の一鬼の緑も不明だ。一度も声を出していないのだから、推測することも不可能なのだ。
だが、これはチャンスであった。
キーボウに注意を向けて、猛からは目を離してしまっている。加えて距離もある。
あの冷静っぽいクロスケすらもそうなのだ。この機会を除いて脱出することはできないだろう。
たとえ縄に似たような何かで拘束されていようとも、好機は今しかないのだ。
そう判断した猛は駆けだした。
そう、あのキーボウが示した扉の向こう側へ。
閻魔の管轄にないというあの先へ……。