9
世界は振動する。
大地はめくれ上がり、空は墜ちる。まるで皮がこぼれ落ちるように世界は剥がれ墜ちていく……。
空が剥がれ墜ち見えた先には、えもいわれぬ空間が存在してた。空間と空間の裂け目――次元の穴、とでも言うべきだろうか。
次元の穴の先には光り輝く球が幾つも存在していた。浮遊しているというべきだろうか。その内部には緑があり、青があり、そして白があった。
緑は木々らしき物、
青は海らしき物、
そして白は雲らしき物であった。
つまり、あれは球に包まれた箱庭みたいな世界だろうか。地球とは違い球状の世界ではないみたいだが、もしかするとあの中に命があるのかもしれない。
そもそも神の視点で見れば地球世界も箱にはに過ぎない。ならば次元の穴から覗く箱庭も、一つの世界と言い換えるべきだろう。
――異世界。
崩壊から見えた先は地球とは違う異世界が存在していた。
この閉ざされた地獄道の抜け道としては解脱以外の唯一のルートが現れたのだ。
しかしそれを一人の男――猛は気付かない。彼はあることに気を取られ、自分の進むべき先が誕生したことにはまだ、気付かないのだった。
猛の目には一人の男――怨敵が映っていた。そう、怨敵が世界の崩壊に巻き込まれ、次元の穴へと堕ちていく様を……。
男は剥がれた大地の崩落に巻き込まれ、一つの球体へと堕ちていく。
それを猛は眺めることしか出来なかった。
初めは猛も追いかけるつもりだった。しかし怨敵の男は虚空に躍り出た瞬間、一つの光の玉へと変わる。そこで、もし追いかけたら自分も光に――死ぬのではないかと畏れてしまった。
(くっ……、ここに来て――ッ!)
二の足を踏むとはこの事か。畏れ怯え今一歩が踏み出せなかった。
復讐よりも自身の生存を選んだことには否応も無い。けれど心にしこりが残ってしまうのも感じられた。
生まれ変わって初めての汚点とも言えるだけに、それがとてつもなく不愉快に思えてしまう。
(やはり、行くべきかっ! 絶対強者相手でもあるまいし、ここで逃げたら俺は俺じゃなくなる!)
それと何時崩壊するか分からない状態なのも問題だ。もしかすると一刻の猶予もないかもしれない。
猛はそう決断するや否や、『羅刹の衣』だけではなく、新たに手に入れた十一面観音の力――『風の羽衣』および『水の羽衣』を纏って飛び立った。
まだ手に入れたばかりで十全に発揮し得ないせいか、『二つの羽衣』はどこか形が定まらず頼りない様子が窺えた。けれども猛は他に身を守る道具を持っていない。
『力』が馴染めば固有能力と同様に使えるはずだが、固有能力――そう名付けた――は未だ完全に掌握を仕切れていない。現状では我慢するほかはなかった。
また、固有能力以上に能力の種類があるのも扱いきれない理由の一つであり、十一面観音の記録が手に入らなかったのも習熟に不備があった。
(ここで座して錬磨する選択肢など、もはやありえんな!)
猛は『風の羽衣』に心気を注ぎ込み、身体を浮遊させ、そして飛翔した。
目指す場所はただ一つ。あの男が消えた光り輝く球体へ……。
猛は次元の穴を潜り虚空へと躍り出た。その瞬間、身体が軋むのが分かる。
(クッ、これは――っ!)
身体が別の形になろうとする感覚というべきだろうか。今の形態がまるで相応しくない、正しき形へと生まれ変わりたいと猛の身体が訴え始めた。
宇宙空間のように、身体が耐えきれないから崩壊する――ではなく、魂が――身体が修羅道を離れ、維持できなくなる現象だった。
その事を漠然とながら推測すると、外部を守る『衣』よりも、己が身の形を保つように心気を活性させることを心がけた。
ある程度目的の球体に近づくと、不意に引っ張られるような感覚に襲われる。重力に引かれるとでも言うべきだろうか。
(――なるほど。引力……とは限らないが、あの男の魂らしき物が急激に加速したのはこれが原因だったのか)
逆らおうと思えば逆らえるが、未だ飛ぶことに慣れていない猛にとっては誘導されているも同然の干渉。つまり逆らう必要などなく、ただその力に身を委ねるだけでよかった。
段々と近づいてくる光球。それは遠くで見れば小さな球であったが、思った以上に大きいようだ。まだ遠く離れているため視界に納めきれるが、やがてそれも不可能になるだろう。
(ひょっとすると地球と同じくらい……の大きさか?)
見れば、光球の中には白、青、緑といった色が散りばめられており、既にそれが何なのかはっきり分かるようになっていた。白は雲で間違いなく、青は海だろうか。そして緑は多い茂った木々が織りなす森で相違ないようだ。
まるで水の入ったボトルシップのように、光球の中に大地が存在している感じだろうか。大陸らしき物が揺れている様子はないことから、しっかりと固定されているのが分かる。
(箱庭……といった感じか? いや、それにしてはデカすぎる……。まさかこれは仏のおもちゃなんてことはないよな?)
これがどういったものなのかは分からない。けれど、もはや引力らしき力が強すぎて逃げることは叶わない。もちろん逃げるつもりはないが、ここまできては後は覚悟するだけ、と言ったところだろう。
そして猛は光球の膜へと触れ、中へと侵入した――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
金で覆われた世界――天道あるいは天界。そう呼ばれ称えられし世界に一仏が君臨していた。
――彼の物の名は釈迦。
如来に位置する最高位の仏であった。
その仏の眼前には空間が歪んでおり、一つの光景を映し出していた。いや、光景だったと言うべきだろうか。映し出された先には虚無の空間しか存在していなかったのだから……。
『こうなりましたか……。この様な結末になってしまったのですね。残念でなりません』
釈迦は先ほどの、修羅道が崩壊するところを見届け、そう呟いた。けれどその声には、とても落胆しているようには見受けられない。むしろどこか清々したと感じさせるものがあった。
釈迦はどうなるか知っていた、全て見ていた、そして座して動かなかった。
動けない、ではなく動かない。それが釈迦の決断。それゆえの崩壊だったと言える。いや、破壊を選んだと言った方がいいかもしれない。
釈迦は六道である必要性を感じていなかった。五道が六道となって以来、悟りを開くものが激変しているのがその結論に至った理由である。
羅刹もまた仏。負の感情から目覚める悟りもまた尊きものと釈迦は考えていた。それだけに羅刹の誕生を排除させるあの修羅道はいただけない。
作ってみたはいいが、阿修羅王の怨念が強すぎて、世界に止まるものを生きる屍――考えられぬ魂と化してしまっていた。それは釈迦の望むところではない。
しかしながら、作った以上は管理しなくてはならない。そんなとき修行を終え、仏へと転生したのが十一面観音だった。
ちょうどいい、彼に任せてしまえばいい。釈迦は当時そう考えた。もちろん彼の如来へと至らせる修行でもあったが。
もし、阿修羅王の嘆きを解消し世界の理を修正できたならば、彼は弥勒を超える才能であっただろう。が、彼はあるがままの状態を受け入れた。阿修羅族との親交があったせいか、むしろそれを維持しようとさえしていた。
なんと愚かなことか……。釈迦は嘆かざるを得なかった。
けれどそんな愚直な十一面観音が釈迦は嫌いではなかった。既に自分が捨て去った感情に固執している彼を眺めているのは楽しかった。
おそらく他の如来も釈迦と同じ考えだろう。如来となるには余計な感情を捨て去る必要があり、それだけに未熟なものを見ているのが昔を思い出させ、面白くて堪らないのだ。
『十一面観音には悪い結果となってしまいましたが……。退くことを選ばなかった、それが彼の仏道だったのでしょう』
一向に成長の一途を辿れなかった彼は菩薩の限界だったのだと釈迦は思う。魂が消滅してしまうとは予想は付かなかったが、護身も出来ないようでは資格はなく、如来には相応しくないのもまた事実であった。ならば消滅してしまった方が、彼にとっては幸せだったのかもしれない。
彼の仏が消失したところで、同じく役目も消えたので天道には何の差し支えもない。だから敢えて動く必要も無いと静観した。
『それにしてもあの餓鬼もとんでもない存在になった物ですね。力を分け与えたときにはこうなるとは思いませんでした。心気――いえ、神気を纏いかけていますか……。天地開闢までさかのぼれば分かりませんが、私が解脱をして以来ならば初めてのことです。それだけに恐ろしい』
もし自分があの餓鬼を滅ぼしに向かったとしたらどうなるものか。
『おそらく私は勝てないでしょうね……。私の神気を分け与えていますし、再誕した際に私と同質の神気となっていることでしょうね』
ならば一切の攻撃が通じない可能性がある。
けれどあの餓鬼は阿修羅王に続き十一面観音の力まで強奪している。攻撃の際、その属性に変更されてしまえば一方的な蹂躙になってしまうと釈迦は読んでいた。
『まあ、倒すだけなら薬師さんや阿弥陀さんにお願いすればいいのですけど……』
ただそうするには大日如来に話を通す必要があった。それは本意ではない。
『あの飾り立て趣味の大日さんに関わるなんてとんでもないことです』
説得するのは簡単なことだった。自分では勝てず、負けた時点であの餓鬼は釈迦の存在を吸収するだろう。
そうなったら泣きをみるのが他の如来に相違ない。自分の力を得た餓鬼は天地開闢以来最強の力を有し、勝てるモノなど存在しなくなるのだから……。
けれど自分が赴かなかったら、敵対しなかったらその限りではない。
餓鬼は空間の狭間に躍り出て次元の先へと行ってしまい、この世界から消えようとしていた。
そうであるならば相手にする理由など端から存在しない。自分が分け与えた神気が多少名残惜しく感じるものの、所詮その程度の損失で済む問題なのだ。あえてヤブを突っつく必要もないだろう。
『さて、そろそろ職務に励みますか。五道にシステムを修正しなくてはいけませんしね』
釈迦は餓鬼が異世界に入り込んだのを確認すると、遠方を映し出す、目の前の空間を閉ざした。
この決断がどの様な結末に変えたかは分からないが、この決断が釈迦を救った事だけは間違いなかった。彼の恐れ通り、天見猛に挑んだならば敗北を喫していただろう。
イレギュラー――。
そう呼ばれる存在が閻魔大王の――いや、地獄の鬼のミスから生まれてしまったことから発生した世界を揺るがす一連の事件は、修羅道および十一面観音の消失、そして一匹の餓鬼が六道から消え去り、異世界へと向かったことで一旦の結末を迎える。
ただ、もし餓鬼が戻ってくる様な事があった場合はどうなるか……。
それは釈迦も知るよしもないことだった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日、世界――《アナトゥース・ナハル》に二つの流星が流れ落ちる。
一つはある妊婦の腹に落ち、もう一つは深い山奥に落下した。
妊婦に落ちた方は人目に付いたこともあり広く知れ渡ったが、山奥に落ちた方はその時空を眺めていた人が語ったことが全てであった。
山奥に消えた流星は燃えさかる炎であったとも、水の塊であったとも、視認出来るほどの暴風であったとも言われている。しかし、落ちたとされる場所には何一つ異常が残されておらず、その真偽が問われることとなる。
ただ、その数年先に辺り一帯の生物が消え去るという事件が発生したが、もしかするとそれが原因ではないか、と考える者が幾人ばかりいるくらいである。
一方で流星を浴びた妊婦が光り輝く男の子を産み落とす。文字通り光り輝いた赤子であった。
それゆえにその男の子を『神の子』ではないかと父親――一国の主たる国王ジークハナト・アル・イクスラール・ウィーンベルトは考え、三男であるにも拘わらず、生まれたばかりのジークハイドに継承権一位を授けることに決める。しかしそれは国を割りかねない行為であった。
長男は他国から嫁いできた王女――正妻が産んだ嫡子であるはずのジークロンド・アル・イクスラール。彼は成人した証しである『アル』の称号を授けられている。
次男は国内において最大の貴族たる公爵から嫁いで来た第一側室が産んだ保険たるジークリュート・イクスラール。あまり優秀でないため、もしかすると正室および側室が産んだ三男以降の者が代わりとなるのではないかと言われている。
このほかに正室・側室が産んだ王女も数人いるが、女性には継承権がないので特に問題とはなっていない。
王室・貴族共に嫡男であるジークロンドが次代の王と見なしていた。それに王も否応もないはずであった。
けれど三男ジークハイドが生まれたことで話が変わる。
彼は平民が産んだ庶子にしか過ぎないかった。正嫡と認められずに、数を数える予定はなかった。
にも拘わらず、流星を浴びた以外はただの『お手つき』と言ってもいい女が産んだ光り輝く子供を、国王は『神の子』と称して継がせようとさせる。
これを暴挙と言わずなんと言うべきだろうか。
国王を除いた全ての者は愛妾の子供を継がせたい一心なのだと当然ながら邪推してしまう。
これを無理もないことと、自分は間違っていたと国王が改心すればそれまでの話だっただろう。しかし、国王は神の意志に逆らう異端者としてジークロンドごと担ぎ上げた貴族を処刑してしまう。
国内は騒然とした。国王は狂ったのではないかと誰もが皆、噂した。その結果国内は荒れる。
だがそれだけでは終わらなかった。
愛すべき子供を殺された、正妻たる隣国の王女は自殺をしてしまう。
それに激怒したのは王女の父たる隣国の王であった。それも当然だろう。愛する娘が産んだ孫が次期国王であり、それを楽しみにしていたのに、孫ばかりか愛娘までも失われてしまったのだから。怒り狂った隣国の王は報復とばかりに兵を向ける。
内戦をこなしつつ、対外的な戦争など以ての外だろう。事実、滅びることはなかったものの、多くの領土は隣国に切り取られてしまう。実質的な敗戦と言っていいだろう。
このとき奪われた領土は対外的なイメージのために戦後賠償として領土を委譲した形をとることになる。この他にも、内戦の――反乱の憂き目に遭っていた土地を払い下げることで一つの決着をつける。
この事が原因で大陸随一であったウィーンベルト王国は規模を縮小させてしまう。
大敗を喫して国益を損なった王は処刑されるはずだった。ところが、何故か責任を取ったのは次男ジークリュートであった。
何故? 誰もがそう思った。未成年たる王子が何故責任を取る必要があるのか。どうして王が責任を取らないのか誰もが理解に及ばなかった。
その時王は言った。
――内戦を起こすように煽ったのは次男ジークリュートである。戦争で負けた原因は内戦があるのは天が知っている。ならばリュートが責任を取るのは当然であろう。
開いた口が塞がらないとはこの事だろうか。言いがかりにも程がある。
誰もが言った。誰もが叫んだ。誰もが恨んだ。
――ジークハナト・アル・イクスラール・ウィーンベルトは狂王である。光と共に生まれたジークハイドは『神の子』ではなく『悪魔の子』に違いない。
と。
それを聞き咎めた狂王は激怒した。その言葉を口にした者は全て滅ぼした。
結果、数多くの貴族を抹殺し、その領土を国領とする事で王室の力だけは戦前と遜色のない物へと戻る。
その一方で割を食ったのは全て貴族だった。
こんな狂王には着いていけないと考えるのは自明の理だった。貴族はその想いに従い離反する。ただし、内乱ではなく他国に裏切るという形で狂王に報いで、だが……。
こうしてウィーンベルト王国はさらに規模を縮め、貴族が存在しない小国にまで落ち込んでしまう。
この時ジークハイドは三歳であった。
そしてこの日、一つの悪意が目覚める。
山に落ちたはずの流星。それが悪意の正体だった。
その悪意は肉体を持っておらず、この世に干渉する術を持っていなかった。けれども悪意はある行動を以てして己の肉体を造り出す――受肉させることに成功する。
――周辺に存在するありとあらゆる肉を喰らい尽くすという手段を用いて。
「ふー。食った食った。どれほどぶりのまともな食事だろうか……。いや、生肉は食事とは言いたくないな」
その悪意――天見猛は身体を動かし、出来映えを確認していく。やがて満足したのかその動きを止め、呟いた。
「さあ、新たな人生を楽しむか……。そして復讐を……。くふっ、くははは、はーはっはっはっはっは――っ!」
死生活編 -完-
to be continued......
釈迦と戦う予定でしたが敢えてこうしました。釈迦戦を含めれば10万字になる予定でしたけど、その分短くなった……感じで。
初期構想ははここまでだったので今後は続けるかは未定です。なので、一旦完結処理とさせて頂きます。
付録(命名:猛@廚二病)
固有能力
【風の調べ】
・風属性を帯びる
・風を司る能力
『風の羽衣』
【水の理】
・水属性を帯びる
・水属性の力では死なない
・水を司る能力
『水の羽衣』
【傷つかぬ観音の肉体】
・武器によるダメージの無効化
・不意打ちによる即死回避
・毒・呪い・病気の無効化
【救済者の威光】
・高貴の者に崇められる
・治癒の光
【雷帝招来】
・水と風を合成する力