01. 応えてあげられない
「うわぁぁあああああ?!」
悲鳴をあげながらベッドから飛び起きた主は、赤い髪を振り乱して何かを掻き消そうとしていた。
肌寒い季節なのに汗がだらだらと流れ、心音が破裂するほどに波打つ。
「ぐっ……はぁ、はぁ……」
また、夢を見てしまったのだ。
シェイクベルに停泊してある船に乗り込み、2日後。一睡もしないという試みなど、成功するはずがなかった。睡魔に負けて夢の世界へ引きずり出された世槞を襲った、悪夢。
いや、悪夢ではない。なのに、どうしてこうも恐怖を抱く――。
「ああ」
そして気がつく。
――涙。
頬を拭うと、生暖かく滑っていた。世槞は、泣いていた。これは何の涙だ。
悲しみ?
淋しさ?
悔しさ?
怒り?
「わからない……」
だが涙は止まらない。世槞は自分自身が恐ろしくなった。まるでおかしくなってしまったみたいだ、と。
「紫遠……」
意識なく、唇から滑り出た言葉が弟の名前である。
急に弟に逢いたくなった。携帯電話で時間を確認しようにも、すでに電池は切れており、充電をする術も無く世槞は、今の時間を推測するしかなかった。
――おそらく、深夜2時から4時の間。
眠りの妨げになるかもしれない――などといった、気遣う余裕は今の世槞にはなかった。ただ、逢いたい。ひどく強く、切ない想いだったように思う。
部屋を出て、紫遠の部屋へ向かう。月明かりの届かない暗い船内は先が見えなくて、果てない闇のようにも感じる。全方向から闇が手を伸ばし、今にも引きずり込まれそうな恐怖。
(早く、早く)
足取りは速度をあげ、ただひたすらに弟の部屋を目指す。
「ん……?」
辿り着いた部屋の中からは、息も絶え絶えの弱々しい声が漏れていた。弟の声である。扉を押すと、開く。部屋の鍵は掛かっていない。
世槞はするりと部屋の中へ入り、紫遠が横たわるベッドへと駆け寄った。
「……っ……う」
ベッドの上で紫遠は目蓋を強く閉じ、歯を食いしばり、右手にシーツを強く掴んでいる。誰かに助けを求めているような呻き声が、ひどく痛々しい。
「紫遠?!」
夢にうなされていたのだ、紫遠は。
冷や汗が流れ、心臓の動きが速い。
(私と同じ症状……)
早く助けてあげないといけない。
「紫遠! 紫遠! 大丈夫なの、起きて!!」
「くっ……う……ぁ……」
「紫遠!!」
「――――っっ!!」
「紫遠っ……」
紫遠は飛び起きた。これも、世槞と全く同じ様である。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
紫遠は額を押さえ、背中を大きく揺らして激しい呼吸を繰り返している。いつでも冷静沈着な弟がここまで魂を揺さぶっているのは、過去にあまり例がない。ただ事ではない。
「紫遠、大丈夫? 怖い夢でも見たの??」
必死に呼びかけるも、紫遠は世槞の存在に気付いていないかの如く両手で顔を覆っている。
「紫遠……」
こんなに苦しそうな弟の姿をもう見ていられなかった。世槞は紫遠の身体を強く抱き締めた。
「……。姉さん……?」
やっと世槞の存在に気付いたらしい。暗闇の中でしばらく視線を彷徨わせていた紫遠と目が合ったその瞬間、世槞の目線が反転した。――素早く起き上がった紫遠に腕を掴まれて手前に引かれ、ベッドに身体を押しつけられたのだ。
「紫おっ」
瞬時に唇を奪われ、それ以上の言葉を発せられなくなる。
熱を帯びた紫遠の舌が世槞の口内を支配する。絡めても絡めても、まだ足りないと世槞のそれを求める。呼吸が苦しくなってきた頃にやっと解放されたかと思うと、紫遠の唇はそのまま首筋へと流れた。
「ひっ」
全身に鳥肌が立った。こそばいような、痛いような、妙な感覚。
「紫遠、どうしたの……寝ぼけてる?」
首筋に赤い花びらがいくつも咲く。これは『このヒトは自分のものである』という印だ。紫遠はそれらを指で確かめるように撫でる。
「――姉さん、好きだ」
首筋から唇を離した紫遠の、真っ直ぐな眼差し。そしてお決まりの文句。でもこの時の世槞には、目の前の人物が自分の弟だとは思えなかった。加えて、お決まりの文句であるはずのその言葉が、どうしても聞き慣れたものには聞こえない。
誰か、知らない男性が自分を見下ろしている。
「ねっ、ねぇ……紫遠……なにしてんの……?」
胸元が肌寒くなる。服のボタンを外されて露わになった白くふっくらと盛り上がった柔肉に、弟の唇が落ちる。
「?! 紫遠、待って! だめ!」
弟が次に何をしようとしているのか、わかってしまった。世槞は声を荒げ、願うように叫ぶ。
「…………」
紫遠は、盛り上がった2つの柔肉の間に顔をうずめたまま、その動きを止めた。
「紫遠……ねぇ、そんなに怖い夢だったの?」
「…………」
世槞は両手をぎこちなく動かし、弟の赤い髪を撫でる。
「私も怖い夢を見た。それから、無性に紫遠に逢いたくなったよ。紫遠も私に逢いたくなった? なら大丈夫。私は今、ここにいるから」
「……そうだね」
紫遠の頬から伝う雫が、胸に流れ落ちる。紫遠は世槞の服の乱れを直し、背を向けた。
「すごく、恐ろしい夢だったよ」
それだけをポツリと語った。
紫遠の顔色はひどく悪い。世槞は、ここ最近の紫遠の表情が優れないことを思い出した。
「どんな夢?」
「思い出したくもない」
「毎晩、見てるんでしょ」
「だからできる限り寝ないようにしているのだけど、睡魔に勝てない時もある」
またしても世槞と同じである。世槞はポンと手と手を叩き、ウン、ウンと頷く。
「そっかぁ、悪夢が紫遠を操ってたんだよ。うん、なるほど」
陽気な調子を取り戻す世槞を、紫遠はしばらくの間を置いて横目で睨む。
「なにが」
「紫遠が自分の姉を襲うはずがないしなぁーって」
先ほどの不可解な行動は、紫遠の意思によるものではない――そう世槞は自分に言い聞かせていたのだ。
「…………」
紫遠は世槞へ振り返り、顔をしかめた。
「違うよ。あれは紛れもなく、僕の意思だ」
「冗談上手いわねー」
しかし紫遠の真剣な眼差しが冗談ではないことを証明している。これまでの紫遠であれば、冗談として受け止められたとしても、小さな溜め息と共に潔く諦めていただろう。だが今は。
「ならもう一度する? さっきは中断してしまったけど、僕は最後までやりたかった」
その発言によって世槞の全身が熱くなる。恥ずかしい気持ちと、信じられない気持ちと。
「わ、私は実の姉よ。そっ、そういうのは、えっと、テレビで誰かが言ってたけど、他人同士でないと、駄目なんだ――って」
「そんなの関係ないね。僕は姉さんが好きだ、愛している。もちろん姉ではなく1人の女性として」
「いい加減に……しろよ、怒るぞ」
これまで世槞は散々、紫遠に「好き」と言われ続けてきた。だからこそわかった。今の「好き」の意味が、これまでの言葉と同じであり、くわえて、大きな勘違いをしていた自分を。
「姉さんはズルいよ。キスは自分から求めてくるクセにそれ以上のこととなると拒否をする。僕はいつも生殺し状態だ」
行き場の無い高ぶった感情は、予想を遥かに上回って紫遠を苦しめていた。
「そ……んなこと言ったって……キスは親愛の印だし……」
世槞はしどろもどろになりながら自身の誤った見解を述べる。
紫遠は大きく溜め息を吐いた。
「……姉さんらしいや」
そしてベッドから降りて部屋の扉を開け、暗闇を指差した。
「出て行ってくれ」
その言い方が、とても冷たかった。
「…………」
世槞は無言のまま立ち上がり、扉へ近付く。部屋から出る直前、紫遠の顔を見上げてみた。紫遠は、とても冷ややかな目でこちらを見下ろし――
「しばらく、距離を置いた方がいいね。お互いの為に」
と、素っ気なく言い放った。
「えっ、なんで?!」
だが紫遠はそれ以上は答えず、世槞の背を押して無理やり部屋から追い出した。
バタンと閉められる扉。世槞はわけがわからず、閉められた扉をただ呆然と見つめていた。
「…………」
空気が冷えて固まる。息が、辛い。
自室へ戻る途中、何度か後ろを振り返ったけども、紫遠が顔を出すことはなかった。
世槞は自室の鏡の前に立ち、首筋に押された、赤い『所有印』をなぞる。悲痛なまでの弟の想い。それが理解出来ず、応えてあげられなかった自分。
「だって、私たちは血の繋がった姉弟だろ……」
鏡の中の自分が白く霞んで見えなくなった。
「あ……おかしいな」
またボロボロと涙が流れてくる。自分の意思とは関係なく、身体が勝手に反応をしているのだ。
「この辛く、悲しい思い……。あれ? 夢の中と一緒だ」
(……変なの)
本当に変である。このクロウへ来てから、全てが。
「天秤の均等が崩れてるからかなぁ」
世槞は窓から夜空を見上げ、そう呟いた。




