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第3章  死にきれない思い、そして化膿する心

「母さん、いる?」

 暗い部屋。

 でも人の気配がある。

 『あの日』から母はおかしい。

 何をするにも上の空だった。

 俺は自然と視界に母さんを入れなかった。

 見たくない。

 父さんと分かれて悲しむ母の姿なんて……。

「ねえ、俺の名前ってなんだったっけ?」

 彼女は俺を見ない。

「ねえ、母さん」

 この人はいつまで父さんを追い続けるのだろう。

「………俺の名前、なんだっけ」

 病院にいた父。

 『称汰』の恋人の彼女。

 その死に悲しむあいつ。

 そんな権利などない!そう、叫んでやりたかった。

 そして聞いてやりたかった。


 なんで母さんの隣にいる?−




       *



 おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。

 異常。

 信じられない。

 信じたくない。

 これは夢。

 目覚めればすべてが幻影でそして、愛おしい人が目の前で笑っている。


 無造作に手は受話器を握りしめていた。

 父の携帯にかける。

 でないでくれ。

 でてくれ。

 でないで。

 でて。

『はい、浅野です』

 その瞬間もうどうでもよくなった。

「お久しぶりです。………俺だよ」

 もう『あいつ』はいない。

 血はつながっていおうともう『あいつ』は父さんじゃない。


『称汰か?』

「へえ。まだ覚えてたんだ」

『………何のようだ』

 もう何も関わりがないんなら遠慮する必要はない。

 言ってしまおう。

 それで、終わり。

「母さんが倒れた」

 あいつは今どんな顔してる?

「あんたと離婚してから日増しに病態が悪化していくんだ」

 せいせいしてるのか?

「まだ、俺らに情があるなら」

 それとも、

「見舞いに来てくれ」

 つらいのか?


 電話は切れてしまったように静まりかえっていた。

 何を考えているんだろう。

 嫌なら断ればいい。

 でもそうはしない。

 たった一つの『会いに行く』理由がある。

 あいつは来る。

『…………わかった』

「ありがとう、父さん」

 そして、さよなら。

 もう俺には何もない。

 母さんにしてあげれること、それはなんだろう?

 これで正しかったのだろうか……。

 もしかしたら望んでいなかったのかもしれない。

 もういい。




      *




 病室のドアをたたく。

 ドアを開けば彼女がいる、そんな錯覚が頭によぎる。

 でもそこには唯一の肉親と憎むべき人。

 俺は平静を保てるのかな。

 大丈夫。俺は全て捨てた……もうなにも残っていない。

「本当に、来てくれたんだ」

 ああ、来るだろうな。

 あいつは望んでいたはずだ。

 いつか呼び出されることを。

 会いに行くいいわけができることを、あいつは望んでいた。

 あつかましく待っていた。

「………すぐ出て行く」

「そう」

 静寂。

 母さんは眠っている。

 少しだが顔色がいい。

 俺は安堵する。

 これ以上大切な人は失いたくない。

 そして、失ったときの喪失感、絶望感をもう味わいたくない。

「父さん、なんで離婚したの?」

 聞きたくない答え。

 会話を作るためとはいえ最悪なことを聞いてしまった。

 後からの絶望感がひどかった。

 また後悔だ。

 あいつはたっぷり間をおいてから口を開いた。


「おまえが壊れていきそうだったからだ」

「えっ」

 耳を疑った。

 俺?

 壊れそう?

 何を言っているんだ。

「………おれのせいで、おまえがおかしくなったんだと思った」

 何を、

「おれと兄さんを重ねているんだと」

 言っているんだ。

「だからそれを否定するために、『称汰』になっていたんだと」

 こいつは、

「だから」

 何を言っている?

「別れた」

 俺は違う?

 兄さん?

 誰だそれは。

「言っている意味、が……」

 重ねる?

「………『勇汰』」

 頭が痛い。

「おまえは『称汰』じゃない。『勇汰』なんだ」

 働かない。

「目を覚ませ」

 違う。

「おまえは『称汰』じゃない。違うんだ」

 何も違わない!


『称汰………』


 呼ぶな。

 その名前を呼ばないでくれ。

「呼ぶんだ。美里が呼ぶんだ………俺は『称汰』じゃなくちゃいけないんだ」

 でないと愛されない。

 美里が愛しているのは『称汰』だけなんだ。

 やっと死んだのに。

 なのに。

 美里は『称汰』しか見ないんだ。

「勇汰、悪かった」

 あいつが俺の名前を呼ぶ。

 そう、あの時まで確かに勇汰だった。




       *




 勇汰はドアノブに手をかけた。

 美里が呼び止めるように声をかける。

「また来てね。『称汰』………」

 そうか。

 美里の愛を手に入れるには俺が『称汰』になればいい。

 勇汰は笑った。




       *



 でもだめだった。

 結局。

 その愛は兄、称汰にしか向けられなかった。

 三ヶ月前のあの日から。

 そしてその前から。

 永遠に美里は称汰しか愛さない。

 例えどんなに似ていても、その愛はその俺をすり抜け称汰に届けられた。

 これじゃあ。殺した意味がないじゃないか。

 演じてきた意味がないじゃないか。

 母さんと父さんが離婚した意味がないじゃないか。

 ゆうみが、ゆうみを傷つけた意味がないじゃないか。

 こんなことなら。

 こんな事になるならあの時、称兄の背なんか押さなければよかった。

 最後の最後まで、称兄は俺を信じてくれていた。

 陰で美里に愛されている称兄を憎んで、妬んでいたことも知らずに。

「なんで、許してくれたんだよぉ……っ」

 知った後でも俺を愛してくれたんだ……。

 血まみれの手で俺の頬と頭をなでてくれたんだ。

『怪我は無いか………?』

 本当に、バカだ。




      *



「勇汰、行こうぜっ」

 称兄が勇汰の手を引く。

 向こうの車線では美里が手を振っていた。

 称兄も幸せそうに手を振っていた。

「あ、赤になっちまった」

 車が行き交って向こうが見えない。

 勇汰の心が弾んだ。

 今なら、そう思った。

 気がついたら手が出ていた。


 思ったより簡単だった。

 称兄は乗用車にひかれて死んだ。

 辺り一面に広がる赤が勇汰の罪を咎めるように広がった。

「しょうたぁあああああああぁぁああぁあぁぁぁああっ!!!」

 白くて綺麗なスカートが赤に染まる。

 勇汰はしゃがみ込んだ。

 足に力が入らない。

 体全部に力が入らない。

「しょ、にー?」

 近づくとまだ息があった。

「おぉ………ゆ、た」

 涙が流れた。

 早く救急車を呼ばないと。

「称汰! 称汰! 称汰!」

 美里が叫んでいる。

「待ってて今きゅ、急車、を……」

 手が震える。

 どんどん冷えていく。

「ゆう、た」

 怖い。


「怪我はないか……?」

 だから称兄は愛されたんだ。


「いやあっ! しょうたぁぁああぁっ!」

 そして崩れた。

 美里は崩壊した。

 称兄という支えを失い脆い柱は崩れた。

「残念ですが」

 何が残念なのか。

 勇汰はボーとする頭の中思った。

 そしてそのすぐ後、美里は倒れた。

 歯車が外れた。

 自分が殺したはずなのに。

 胸にぽっかり穴が開いたような思いが勇汰を蝕んだ。

 もういないんだ。




       *




「勇汰、帰ろう?」

 あいつが勇汰の肩をつかむ。

 さわるな。

 でも力が出ない。

 体中の力がゆけていく感触はあのときと同じように勇汰をおそった。

 忘れていた真実。

 俺は誰でもない。

 美里の愛する人じゃない。そして『称汰』じゃない。

 俺自身が壊した幸せ。

 あの海での二人を壊したのは俺自身。

『ほら行くぞ』

 俺の手を引いてくれた人はもういない。

 俺を愛していてくれた人はもういない。

 そう、自分で壊した。

 全ての不幸の連鎖は俺が巻き起こした……?

 称兄が死んだのも。

 美里が死んだのも。

 あいつと母さんが離婚したのも。

 母さんが倒れたのも。

 全部。

 俺のせい?

 

 本当にバカだ。


 それでも美里を愛している俺は。

 それでも称兄が妬ましい俺は。

 それでもあいつを憎まずにはいられない俺は。

 本物の大馬鹿野郎だ。


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