第2章 偽りは時に真実になり真実は時に偽りになる
目を閉じても開けても写る世界は白と黒、灰色しかなかった。
何の音も聞こえない。
手を伸ばしても空を切って。彼女の顔が浮かばない。
タクシーの中で母は一言だけ喋った、「彼女、言ってたわよ。笑ってて、て……」称汰はそれを聞いても何も答えなかった。
称汰笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、全ての表情を落としてしまった。
空が黒に染まる。
称汰は静かに息を吐いた。体が動かなかった。
「笑えない。泣けない。お前がいない世界で俺は何をしたらいい?」
問いかけてもなにも返ってこない。
頭の中の彼女は少し照れたようにうつむいて笑った。
あの時、あれだけでた涙はもう流れない。
あの時、あれだけ悔やんだ思いはもう無い。
すべて落としてきたのだ。
ゆうみに投げかけた冷酷な笑みももう無い。
すべて捨てた。
もう必要がないから。
彼女がいない世界で表情はいらない。
優しさも悲しみも必要性を失ったから。
繋いだ手。触れる唇。撫でる手。携帯の着信音。濡れる床。叫ぶ声。
不幸が重なり彼女は1人で死んだ。
称汰は携帯を投げた。
無惨にも床に転がる携帯を見つめて、目をそらした。
全部が鬱陶しかった。
*
夕日のせいで全てが赤になっていた。
「来てくれたんだ××××」
「あ、はい…………すみません」
「ううん、なんで謝るの?」
首を横に振ると彼女はまた窓の外に顔を向ける。
「これ、母さんから。あなたへって」
持ってきた花を側にあった机に置く。
彼女はピクリともせず窓を見続けた。
「あの、俺、もう帰りますね」
突っ立ったままに疲れ、ドアノブに手をかける。
「また来てね」
その時、体が硬直したのを覚えている。
でもなんで?
いつも呼ばれていたはずなのに。
慣れているはずなのに。
初めて呼ばれて、そして間違われたような感じがする。
称汰は帰った。
手を力無く振る彼女を残して。
*
どこかの記憶にずれがあった。
*
「称汰!カニがいるよ」
「そんなにはしゃぐなよ!××××、お前も早く来い」
駆け寄ると彼女がカニに指を挟まれていた。
称汰が苦笑いしながらカニを指から放した。
「お前がカニの邪魔すんのが悪いんだろ」
「だってっ!」
彼女は怪訝そうに称汰を睨む。
「はいはい、うっし。泳ぐぞっと、て……××××何突っ立ってんだよ、ほら行くぞ」
名前を呼ばれた男の子は操られるように手を引かれた。
その後は夕方近くまで泳いでいた。
帰りは電車で、彼女も称汰も寝ていた。
男の子はそんな二人を遠くで見ていた。
幸せそうに−…
*
自分自身の記憶に間違いがある。
それはパズルを解くように、ひとつひとつ明らかになっていく。
でもどこかで邪魔が入る。
あの少年は誰?
*
「おい、あれ、お前の兄きじゃね?」
少年は言われたまま友人が指す方向を見る。
称汰と彼女が恥ずかしそうに、けれども幸せそうに歩いていた。
「かぁあっ羨ましいな」
男の子は目を細めながら少し二人を見つめ、目線をずらした。
そして、友人の服の袖を引っ張り、走っていった。
見たくない。
壊したくない。
男の子は遠くで二人を見つめた。
*
どこかで栓をした。
あふれ出す思いを止めるために。
罪悪感を感じないために−…
そして彼女はその栓を抜いた。
俺自身の今までの思いが、感情が全部押し出された。
あふれてもあふれても尽きることがない思いが。
彼女の一言であふれる。
止められない。
彼女自ら抜いた栓を、彼女を愛する俺が止められなかった。
怖くて。
恐ろしくて。
いつのまにか自分を偽って。
いつのまにか自分が一番傷つくことをしていた。
「母さん」
傷つくのが怖い。
それが一番俺自身を傷つけていた。
そして閉じた。
聞くのが、問いかけるのが怖くて。
ああ、そうか。そうなんだって納得できる俺が怖くて。
触れたら壊れるガラス細工を俺は自分で壊した。
粉々に砕いて。
消えればいい。
「俺の名前は−?」
*
全部が全部嘘で出来たおもちゃだった。
称汰は笑った。
扉の前でにこやかに発つゆうみに対して。
『笑った』−…
それは冷酷な笑みでも暖かな笑みでもなくただの笑い。
感情もなにも込められていない笑い。
「こんにちわ」
「よくここが分かったな」
愛の力、と笑うゆうみを無視して扉を閉める。
だが、それも止められる。
「あげてよっせっかくきたんだし」
称汰は変わらず笑った。
それは肯定でも否定でもない。
なにを考えているのかなにを思っているのかも伝わらない。
称汰は静かにため息をついた。
「じゃあ俺の名前を言えたら入れたげる」
「しょうたくんでしょっ」
ああ、そうだったな。
「はずれ」
確かに、そうだったよ。
俺は『称汰』だったよ−……
「それじゃあ」
ゆうみは止めることをしなかった。
いや、止めれなかった。
はずれ、と言ったときの彼の心が読めなかった。
前のように傷ついているわけでもない。
怒っているわけでもない。
悲しんでいるんでもない。
なんにも。
そう、無だった−…
「もう違うんだ」
俺はもう『称汰』じゃないんだ。
もう、『称汰』じゃなくていい。
役目が終わったんだ。
一時の夢だったんだ。
「違う違う違う違う違う違うっ! 俺は違う! 違う!」
全部嘘でした。
ちゃんちゃん。
それで終わって欲しかった。
彼女は死んでいなくて。
俺は『称汰』で。
ゆうみと出会わなかった。
でも、全て、本当で。
唯一の嘘は俺が『称汰』ということだけ。
それだけが嘘。
そして最大の罪。
「あはは………は、はあはははあははっっははっは、はっあはは……は」
もう止められない。
全部が全部真実で偽りなのだから−…
今更、全部無かったことになんて出来ない。
全部が回り始めてしまったのだから。




