第二章 異常描写
第二章 異常描写
翌日の朝。
学校の授業が始まるまで暫く暇があるこの時間帯。音楽棟からは朝の練習をする吹奏楽部の楽器の音色が、隣の教室からは喋るために集まった生徒たちの声が、窓の外からは朝の迎えに歓喜する鳥たちの声が、それぞれ聞こえてくる。
そんな爽やかな朝。
この空間では、いつもと違う光景が繰り広げられていた。
「どうしたの? 突然」
この時間帯には人が入ってこないだろう。そう少女が推測した教室の中。爽やかな朝日が窓から差し込んできている。
今声を発したのは少年――松川径だ。
彼は教室の中央の机に腰をかけ、教室後方にいる少女に問いかけた。
対する少女は、俯いたままで彼の声を聞いている。顔は赤く、今にも燃え出しそうである。彼女は深呼吸をし、呼吸を整えているが、胸を抑える手は一向に激しい上下運動を繰り返している。
「まさか君から突然呼び出されるなんて、僕は驚きだよ」
彼は彼女の心境を察したのか、空間を和らげるために大きめの声でどうでもいい言葉を口にする。
「いやあ、今日も良い朝だね。文芸部に入ってからは朝に活動が無いから、こんなに早く学校に来る必要はないんだけど、僕はこの空気が好きでね。毎朝早く来ちゃてるよ」
その間にも彼女の心の動揺は続いており、展開の兆しはなかなか見当たらない。
しかし――
「径君!」
彼女は意を決して、彼の名を叫んだ。しかし、声を発するタイミングが、気持ちを抑えるための呼吸とかみ合わず、少女は声を詰まらせてしまう。
「はい、何でしょう」
呼ばれた少年は、あくまで優しく返事をした。
彼女の言葉はすぐには続かない。乱れる呼吸を抑えようと、彼女は再び深呼吸をする。深く深く。もう彼女には逃げる道が無く、こうして自分を落ち着かせるしかない。
彼にとっては数秒、彼女にとっては永遠とも感じられる時間を経て、彼女は顔を松川へと向け、ようやくその口から本題が出された。
「好きです!」
簡潔にして、明確。この状況でこの台詞を聞いて、誰を? などと考える人間はいないだろう。ただ単に好きだという事を伝えたいだけだ、と考える人間もいないだろう。
松川は、彼女のその叫びを聞いて、その続きの言葉を待った。
「径君が、好きです。中学校のときから、ずっと……。優しくて、私の事をいつも支えてくれて、私……私、径君がいないと駄目だった……。本当に、径君の事が好きなんです。だから、これからはずっと径君の傍にいたくて……」
そして、松川が待ちわびた言葉が、少女の小さな口から発せられる。
「よかったら……私と付き合ってくれませんか……」
泣き入るようなか細い声。彼女の心は、これ以上の声を出せないという程に固まっている。
「よかったら……お願いします……」
再び彼女の口から、小さな声が漏れる。だんだんしぼんでいくその声と同様に、彼女の視線もだんだんと下がり、再び自分の足元へと戻される。
その言葉を聞いた松川は、それほど取り乱した様子も見受けられない。
そして彼は、数秒の間を空けて、こう言った。
「ありがとう」
その瞬間、少女の表情が和らいだ。松川へと向けられた満面の笑みとも言えるその表情は、自分の愛の告白が成功するかもしれないという希望に満たされた。そして――
「僕も、君のことが好きだ」
この台詞によって彼女は、成功を確信した。
確信して、松川の方へ歩み寄る。まるで、自分と目の前にいる少年との間に運命の橋が架けられたとでも言うかのように。一歩ずつ、確実に、松川の元へと歩み寄る。
しかし、彼女はその足を止めることとなる。
「ただ――」
彼の、不審な接続詞によって。
彼はその後すぐには言葉をつなげなかった。その時間が、時計の針にして一秒だけのその時間が、少女の心に不安と闇を植え付ける。
そうして、彼の口から発せられたのは、
「ただ、僕は君と付き合うなんて事は出来ない」
という拒絶の言葉。その決定的な台詞に、彼女は存分に理解する間もなく、ほぼ反射的に、止まった。
「え……な、なな、なん……で?」
数十秒前の声の弱さに戻ってしまった少女は、目元に涙を浮かべる。何かにすがるように手を小さく差出し、彼の顔を見つめている。その見つめる対象も、既に涙で滲んで識別ができなくなっている。
「確かに僕も君のことが好きだ。中学の時に同じ部活で、しかも君を近くで見てきた。君は可愛いし、才もある。僕の彼女にするには申し分ない人間だ」
「なら……ならどうして!」
彼女は、彼の言葉を理解できない、と、掠れる声で叫んだ。その声は教室の外にまで響き、果てしない虚しさを誘う。
「僕は、決めたんだ。……彼女を作らないってね」
「……えっ?」
その一言で、なぜか少女の涙は止まった。まるで、信じられない物でも見たかのように、その涙は止まってしまった。
「わけが、分からない……」
少女は呟くも、既に彼にはその声は届いていないのだろうか。彼は、語り出した。
「僕は、確かに君のことが好きだ。でも、僕には他にも好きな人がいる。沢山。別に、女たらしとかそういう話じゃあない。……そもそもそんな事が出来る風采でもないしね」
彼は、彼女を自分から遠ざけようとしているのだろうか。自分に利のない事を彼女に聞かせ続けている。
しかし、それでも、少女の彼を思う気持ちは、その話を聞いても変わらなかった。彼女は、涙の止まったことを良い事に、自分が彼に一番したかった事を、思い切る。
彼に倒れ込むように、自分の沢山になった気持ちを込め、机に座っている彼の胸元へと飛び込む。松川は、それを抵抗をするでもなく抱き止め、それでも、彼女が存在しないかのように彼は語り続けた。
「僕は、中学校の頃に何人かの女の子と付き合った事がある。でも、それだって続いたのはほんの数週間さ。そうさ、情けないことに僕は飽きやすい人間だったんだよ」
「私の事も好きなら、それでもいいから、私は径君が好きなの!」
「そんなのは、女の子を傷つけるだけだ」
「だったら、径君が飽きないように、私がどこまでも好きでいるから!」
「まあ、そんなのは理由の一つに過ぎない。僕は思うんだよ。付き合ったりなんかしたら、終わりだって。考えてみてよ。僕が好きな小説のほとんどは、主人公とヒロインが付き合ったりなんてしない。互いに思うところがあるのに、それなのに恋が成就しない。その、何とも言えないもどかしさこそが、物語の醍醐味なんだと思うんだよ」
「径君! 径……君」
彼の胸元から顔を上げ、下から松川を見上げる少女。その目からは、再び涙があふれ出ていた。
「だから、ごめんね」
「うう、うあぁ……」
嗚咽を漏らし、泣きじゃくる自分を見て、松川はどう思っているのだろうか。もう、そんなものは分からなくなっていた。昔の彼とは全く違う。優しさや、そんなに格好良くない所は変わっていない。それなのに、何かが違う。
「お前は、可愛いな」
そう言って少女の頭をなでる松川。まるで恋人同士が行うような行為だが、彼らは違う。現に今断り、断られた間だ。
「うう……こみ、ち……君……」
それから暫く時間が経つ。なんとか、少女は落ち着いてきたようだ。嗚咽も収まってきている。
そんな少女を、松川は自分の体から離した。
彼女はいとも簡単に床へと崩れ落ち、再び嗚咽が大きくなる。
松川は、寂しくなった両手を、再び机の淵に戻して、自分の足元で泣き崩れる少女に声をかけた。
「さっきも言ったけど、僕は君が好きだ。この事実は変わらない。だから、今まで通りに接してくれて構わないよ」
しかし、少女は一切反応を示さない。ただ、顔を隠して泣くだけ。少女の嗚咽がこの空間に響き、同時に松川の心にも罪悪感が響き渡る。
彼は天井を仰ぎ、自分も涙が出そうなのかも知れないと、心の中で思った。
「ごめん……なさい……」
すると、下から少女の声が聞こえてきた。
どうやら、なんとか元に戻ったらしい。未だに嗚咽は続いているものの、立ち上がるまでにはなれたようだ。
――謝らなくたって、良いのに。
――悪いのは、全面的に僕なんだから。
謝ったその少女は、心残りがあるのか、暫く松川の胸元を見続け、その後に踵を返した。きっと彼女は、この教室から出た後も泣き続けるだろう。今よりも、深く深く。
彼女とは結構深い間柄だった。
中学校の頃には、彼女に告白しようかと思った自分もいた。でも、現在自分は彼女を振ったのだ。こんな罪深いことがあるか。
少女が教室から出た後も、松川はじっと、机の上に座っていた。
ただし、そんな感傷的な時間も、束の間で終わってしまったのだが。
「しかし随分と、罪深い男ね」
「はっ、言ってくれるよ」
「もしかして、あんた告白されるの常習犯?」
「まさか。高校に入ってからは初めてだよ」
教室のドアから入って、彼に話しかけたのは、桑井だ。
「ふうん、それにしても見事な振り様じゃない」
「妄言を語ったまでさ」
そう言って松川は机から飛び降り、窓の方へ歩き出した。差し込む朝日に目を細め、風になびくカーテンをバックに外を眺める松川。
――行動とか、話すことはたまにカッコイイのにな……。
そんな彼を見て、教室の壁に背を預けながら思う桑井。
「それにしても……」
「彼女は可愛いよね。身長の低い僕でも胸元で抱けるんだから」
彼女の話を遮りながら、なにやら不審な事を語る松川。そんな彼に呆れ、正直な事を口にする桑井。
「はぁ……。あんたの恋愛観が異常だって話、佐竹から聞かされてたけど。……ここまで変だとは思わなかったわ。せいぜい萌えの対象が変わってるだけかと……」
「妹萌えなんて、そこらにわんさかいると思うけどな」
「あたしは女の子だから、そこら辺は分からないのよ」
そう言って、桑井は両手を大きく広げて背伸びをする。
――私がここで告白しても、同じように振られるのかしら?
そんな事を考えて、彼女は一人頬を赤らめていた。
彼女の考えていることを知ってか知らずか、松川は、視線を緑に染まる木に向けながら質問をした。まるで、世間話の一環であるかのように。
「お前は、俺の事が好きか?」
その質問を聞いて、考え事をしていた桑井は、身体もろとも心の中の時計まで停止した。
――お前は、俺の事が……好きか?
――お前って……あたし?
それでも、彼女の脳は稼働しているのか、その顔面は先ほどと比べ物にならない程の朱色に染まっていく。
そして、彼女の頭の中は混乱する。
――こみちの事?
――そりゃあ、好きかもしれないけど……。
――でも……。
その混乱を起こした彼女から発せられたのは、
「あ、あんたの事なんて、好きなわけがないじゃない! さっきの子の事で調子に乗るんじゃないわよバカ!」
という言葉だった。
「そうかいそうかい」
しかし、好きではないという言葉をかけられた筈の松川は、さほどショックを受けているようには見えなかった。むしろ、彼女からは見ることのできないその顔には、笑みさえ浮かべている。
「じゃあ、僕の事は嫌いなのかい?」
と、松川は続けた。嫌がらせなのか、単なる確認なのか、挑発なのか、未だに彼の表情は笑みを表している。
それに対し、未だに動揺を隠せないでいる桑井は、途切れ途切れの小さな声で答える。
「き、嫌いでは、無いけど……。そんな、好きでもないし、普通の友達というか、部活仲間というか……。嫌いでも好きでもないというかごにょごにょ……」
彼女の声は後半になるほど籠り、最後には何を言っているのか分からなくなった。
「そうかいそうかい」
松川は、さっきと同じ言葉を発した。
しかし、先程とは違う点がある。彼はその声を発した後、視線を桑井の方に向ける。彼女の視線が自分とは正反対の方向へと向けられている事を確認して、そのまま彼女の傍へと歩み寄った。
「……」
松川が傍にいることにも気が付かないまま、ついに彼女は無言になった。
彼は自分よりも背の低い少女に背を向け――つまり再び視線を窓の外へと向け、彼女が彼の事を『本物』と認めてしまう内容を言う。
「だったら、お前が僕の事を好きになるように、僕は頑張るまでさ」
すぐ背後から聞こえたその声に、一瞬体を飛びあがらせ、後ろを振り向く。しかし、そこには彼の視線は存在しなかった。
松川の背中を見つめる形で、彼女は想像を続ける。
――あたしに、好きになってもらう?
――あたしに、好きになってもらいたい?
――そ、それって……!
「僕、女の子が好きなんだ」
だが、そんな想像も、彼の歪んだ恋愛観は玉砕してしまう。
「優しくて、可愛くて、儚くて、小さくて。柔らかくて、温かくて、芳しくて」
「……」
「だから、僕は多くの女の子に好かれたいんだ。お前にも」
「……」
本来ならば、彼の背中から聞こえる言葉は、少女の心を癒し、彼を格好良く見せるものとなるはずの光景だ。しかし、その言葉は、どこまでもどこまでも狂っている。
桑井は、ここまで来てようやく、彼に歪みがあることを思い出し、それにもかかわらず彼の事を知ろうと、話を聞いていた。
「だから、僕は特定の人とは付き合えない。深い恋愛にまで至らないその空間を、ふわふわと足付かずに浮いているその空間を、僕は楽しみたいんだ」
「……」
彼女には、その姿は良い物として捉えられていない。
話の内容も内容だ。彼女が今まで生きてくる事によって育まれた思想、常識とは、全くかけ離れている。自分には彼の言っている事が理解できない。
そうしてまた、さっき自分が彼に嘘を吐いてしまったという後ろめたさも、彼女の心の中には大きく存在している。
「本当に変な考えだけど、これが僕なんだから仕方がない」
その気持ちが重なり、彼女は、彼に罵倒を浴びせたくなった。彼の目の前から一瞬だけ逃げ出したくなった。自分ひとりで考えたくなった。そして――
「……バカ」
それだけ言い残し、彼女は颯爽と教室から去って行った。
二人の少女と短い時間を過ごし、今は自分しかいないこの教室。
二人とも、泣くか怒るかという、悪い状況でこの部屋から去って行った。
――分かってるよ……。
その虚しさはもしかしたら、二人の少女が感じたよりも深い何かを、少年に植え付けているのかも知れない。
――分かってるよ……。
彼は、振り返ることもせず、惜しむこともせず、ただただ窓の外を眺めていた。深い自己嫌悪と悲しみを心の中に溜めたまま。
――分かってるよ、自分がアドベンチャーゲームの選択肢に弱いってことくらい。
ただ、彼の価値観が歪んでいる事には変わりはなかった。
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その日の昼休み。
文芸部の活動は基本的に放課後のみだ。
朝や昼休みの活動は、何かしらの行事や応募で、本当に切羽詰まった時にしか行われない。もっとも、普段かなりの時間を確保している彼らには、そのような状況は滅多に見られないのだが。
しかし、この日の昼休み、この部室に人影が存在した。
校舎内の一角にある教室を借りたような部室なので、本来は鍵と言う物は必要ない。だが、いつ頃からかは分からないが、歴代の先輩が個人的にその部屋に鍵をかけたため、三年生の誰かがその鍵を管理することになっている。
部室の入口から見て左側手前。その場所に彼は座っていた。
パソコンが起動しており、その人影は、キーボードを操作することなく、マウスのみを動かしてその画面に見入っていた。
その状態になって早くも十分が経とうとしている。
彼の視線は上下に動いており、そのパソコンの画面の文字列を映し出している。表情はあまり変わらない。本当に小さな変化はあるものの、それがどのような感情をもって出されているのか、分からない程だ。
そして、そんな彼を驚かす者がたった今やってきた。
《ガチャッ》
という、ドアノブを回す音が室内に響き渡る。
その音を聞いた彼は、こんな時間に人は来ないだろうと高をくくっていたため、素直に驚いてしまった。落ち着かない動きで、マウスを操作する。
だが、そのドアを開けようとした人間には躊躇と言う物が無かった。そのままドアを押し開け、勢いのまま彼の方へと近付く。
その素早い行動に、彼は対応しきれず、目の前のパソコンの画面を見られてしまった。
「やっぱり、思ったとおりね」
部屋に入ってきた少女は、腰に手を宛がい、彼を見下ろすような形で言った。
「……」
その言葉を聞いて、彼はどうすることもできずに手の動きを止めた。
教室のドアは開けたままになっている。そのため、開けていた窓から入り込む風がさっきよりも増した。五月だというのに、その風が異様に冷たく感じられる。
「なんやかんや言って――」
何も言わない少年の見ている画面を視線の先に、少女は言葉を続けた。
「――妹さんのこと大好きだもんね」
彼――梅沢幸太郎が見ていたのは、昨日の放課後の部活に書かれた小説だ。
自分の後輩が書いた、彼の書くものには到底及ばない小説。
その小説を、誰も来るはずがない昼休み、彼は熱心に読んでいたのだ。
「誤解だ。俺が深幸の事を好きだと? ふざけるな」
彼は後ろから見る人間には振り返らず、そう否定した。が、その表情はいつもの彼に似合わず、心なしか焦っているように見えた。
「そんなこと言って、私は分かってるのよ」
その少年を困惑させているのは白城で、何もかも見透かしているとでも言い出しそうな程、彼女は自信満々の眼差しをしていた。一旦開け放ったドアの方へと戻り、そのドアを閉める。
入ってくる風の量がさっきよりも少なくなり、部屋の中が少し暖かくなったように感じられる。彼の近くに戻った彼女は、遠くを見るような眼で話す。
「あなたと知り合ってもう、何年になるかしらね。同じクラスになったことは少ないけれど、それでも私は、あなたと深い関係を持ってるっていう自身はあるわ」
「……」
「だから、もう分かるの」
そう言って彼女は、彼の操作するマウスを、彼の手の上から操作した。梅沢の男らしいごつい右手に、白城の細くしなやかな右手が重なる。梅沢は少々気まずそうにしているものの、白城からは恥ずかしさが微塵も感じられない。
動くマウスのポインタは、wordの最上ページへと向かう動きをした。バーを掴み、そのまま上へとドラッグ。その簡単な操作によって表示されたのは、その小説の書き出し部分。
「うん。これは完全に径君の書いた小説ね」
白城は、彼の文章の癖や特徴をその文章に見出し、確信する。
「本当は昨日、読みたかったんでしょう?」
そのチェックメイトと言える一言に、梅沢は溜息を吐いた。
「はぁ……。もう、ばれちゃあ仕方がねえな。読みたかったというのは確かだ」
その潔いところが彼の良いところだが、彼は一つだけ、彼女の思い通りにはならない注釈を付け足した。
「でも、妹が好きなんて、そんなのはありえねぇよ」
それを聞いた白城は、少し残念そうな表情をした。
「なによ、好きじゃないの? いつもお弁当作ってもらってるくせに。おいしいおいしい言いながら食べてるじゃない」
「確かにそうだが、それが好きになる事には繋がらねぇって」
いつの間にか解放された右手を彼は動かして、小説の書かれたウィンドウを閉じる。『上書き保存しますか?』という表示が出てこなかったので、彼は付け足しや消去は一切していないようだ。
白城も彼の後ろから離れ、近くにある自分の椅子を引き寄せた。彼からほんの少し距離を取った右隣に、彼女は上品に座る。
それらの動作を終えてすぐ、白城は梅沢に質問をした。
「この部活って、恋愛禁止だったりする?」
この質問は、事務的なものなのか、何かの前置きなのか。彼には到底判断できないものの、彼は親切に答えた。
「いや、そんな物はないと思うぞ。それだって部活の足しになるかもしれないからな」
言葉を発すると共にパソコンを操作し、シャットダウンをしようとしている。
「まあ、そんなのはほとんど関係ないけどね」
そんな彼の操作する画面を見ながら、白城は独り言のように呟いた。
「どちらにしろ、もうすぐ引退するわけなんだし」
内容も同じく独り言のように、ただし彼に向って。
「そろそろ、私はあなたの事が好きですって、あなたに伝えようと思うの」
その言葉を聞いても、梅沢は手を止めなかった。開いていた他のウィンドウも閉じ終え、ついにはシャットダウンを完了させる。そこまでには一切の迷いもなかった。
「もう、高校卒業まで一年も無いからね。中学校の頃から先延ばしにしてたけど、さすがにもう限界だろうから」
白城は、彼女の衝撃的であるはずの言葉さえクールに流した梅沢よりも、潔いのかもしれない。いや、事実、潔いのだ。
「いつにするかなんて全然決まってないけどね。まあ、楽しみにしててね」
恥じることも言い淀む事も無く、彼女は自分の気持ちを率直に述べた。
本人を目の前にしてこのような事を語るなど、常人ならば理解しがたいだろうが、その相手である梅沢には彼女の事が理解できた。というよりも、既に理解していた。
「そうか、うまくいくといいな」
まるで他人事であるかのように返し、彼は立ち上がった。今度は、彼が白城よりも高い位置になる。さっきとは真逆の状態になり、白城は彼を見上げる。
起動していたパソコンが完全に落ち、機械の音が一切聞こえなくなった。静けさが包むその空間は、窓から音が入ってくることもなく、二人を温めた。
「まあ、うまくいくと思うけどな」
梅沢はそう言って、白城の頭にぽんと手を置いた。その手はすぐに離され、その手と共に彼自身も白城の元から去っていく。
「ほら、鍵閉めるぞ」
いつの間にか部屋から出ていた梅沢に声をかけられ、白城は苦笑交じりの微笑みを見せた。
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その日の放課後。
文芸部の部活になかなか来ない人物がいた。
他の部員が心配している中、その人物は現在、自身の教室の前の廊下で身を潜めていた。
「やべぇ、やべぇよなぁ」
「これは、楽しみだな……」
隣にはクラスメイトの森田がいる。
佐竹は現在、森田と共に、隠れながら教室の内部を観察しているのだ。
「そろそろ、この時期が来てしまったか」
「悔しいな、イライラするぜ……」
学校と言うのは、毎年同じような動きをする。
時期ごとの行事は勿論の事、一年生が学校に慣れ始める時、二年生が後輩に手を出し始める時、三年生が受験に本気になり始める時など、抽象的な事柄までが毎年似通ってしまう。
勿論それは、学年の性格によって多少の違いは出る。だが、似ている事には変わりがないのだ。彼らは、去年一年間をここの学校で過ごし、先輩からの情報も聞き、この学校の大まかな動きを把握している。
そして、五月というこの時期は――カップルが非常に増える時期だ。
「ああ、忌々しい。リア充め」
「うらやましいという気持ちもあるが、何よりも憎い、忌々しい。……嫉妬に似ているな」
一年生は、高校に入って一ヶ月ほどが経ち、学校に慣れるこの時期。別の中学から入ってきて一緒になった異性に思い切ってアタックをするという、ベタ過ぎる行動を毎年行うのだ。
二年生は、クラスが変わって、喋ったことのない人物と関わりを持つことになる。それがもし、自分が去年気にかかっていた人だったとしたら、言うまでもない。
そういう関係で、この時期は毎年カップルが増殖する。
ただ、そんな世界とは全く異なる世界にいると思っている彼ら二人は、そういう人達を『かわいそうな人』と見て嘲笑っているらしい。
「んなもん嫉妬じゃねえよ。憐みじゃね?」
「嫌いな人には憐みの感情は向けないと思う。きっと俺達は、喜んでるんだ」
そんな不可解な会話を掠れた小声で行う彼らの教室の中には、案の定男女がいる。
「おい、こりゃあ完全に来てるな」
「ああ、聞こえる聞こえる」
ドアに耳を寄せ、内部の音を聞こうとする二人。はたから見ると非常に怪しい光景だが、それを咎める者はだれ一人としていない。そもそも、カップルが闊歩する放課後の教室に残ろうとする単独者がいるだろうか。いるとしたら、彼らのような変人くらいだろう。
「ところで、この男の声誰だ?」
「ううん……。木村じゃねぇか?」
森田の話によると、教室の中にいるのは木村という男とその女のようだ。そしてどうやら、彼らにはその女に興味はないらしい。
「木村かよ……。あんなDQNに群がるような女じゃあ不純確定だな」
「その女マジビッチ」
その木村とやらは、いわゆる不良な男らしい。
佐竹は、ドアから耳を離し、森田に宣言した。
「よし、乗り込むぞ」
「mjk」
「それをローマ字読みで言う人初めて見たよ……」
せっかく意気込んだのに、とでも言いそうな表情をした佐竹。しかし、森田はいつもの調子で、木村と言う人物を地獄に追いやる一言を発した。
「はは。……行ってこい」
最後の森田の言葉を境に、佐竹のエンジンが稼働した。
彼は勢いに任せて教室のドアノブに手をかけた。が、彼も単なる馬鹿ではない。本当に優しくノブを回し、鍵がかかっている事を確認する。そして――鍵を開けた。
「おい、そんな鍵どこから盗ってきた」
「担任の机」
「そうか……。じゃあ、五分以内に終わらせろ」
「おっけ」
それだけ言い、再びドアノブに手をかけて、一気に開ける。
ドアについている窓が曇りガラスであるために見えなかった教室の内部が、彼の目前に映し出される。そしてそれは、
彼の想像する通りの修羅場だった。
教室の後方で、髪がツンツンの少年が、仰向けになっていた少女に覆いかぶさっている。言うまでもない状況と言えよう。彼の右手は少女の胸元に、左手は首裏に回っている。
少女の方は下着姿で、少年は制服を着ている。少女の制服は机の上に綺麗に置かれており、少年の無理矢理による行為ではない事を物語っている。
普通の人間ならば、この状況に直面したら何も言わずに去るか、謝って逃げるものである。しかし彼は、内部がこの状況だと知った上で、鍵を開けて侵入したのだ。
「どうも」
佐竹はいたって冷静で。
「……」
「……」
膠着する教室の二人に、この時点で勝利していた。
「駄目だよねぇ」
しかし、彼はこれだけでは終わらない。
「な、何だよ……」
少女を犯していた少年が、怒りの声を発する。見られたくないのか、顔は振りむけない。
「ひっ……」
少女は、恥ずかしさすら忘れ、今にも失神でもしそうなほどに困惑している。
「確かにさ、教室でのプレイは男の夢だよ。真っ盛りの少年少女が思い描く最高のシチュエーションだよ」
そんな二人をよそに、彼は一人で語り出す。
一気に、少年が間に口を挟む間もなく、少女が叫び声を上げる間もなく。
「でもさ、駄目だよね。……まずその制服。さすがに俺は松川と違って、制服萌えなんつう属性は持っていない。でもさ、俺には理解することができる。駄目だよな。どうして教室なのに学校なのに学生なのに女子高生なのに、制服を着させない? 醍醐味を捨て去ってるようなもんだよね。というかそもそも、三次元の人間がリアルで学校でやるとか、やめろよ気持ち悪いなぁ。教師に見つかったらとか、そういう脳は働かねぇのか? これだからリア充は駄目なんだ。教室でのプレイはゲームか創作物の中だけに限る。決して現実世界ではやろうと思わないこれ鉄則。そしてそのお前の不慣れさ。さっきから外で聞いてたけどよ、自分の欲望だけを基にやってんだろ。女の子の気持ちを考えて、なるべく彼女が気持ちよくなれるようにするこれ鉄則。ったくよぉ。これだからDQNは」
そこまで言って佐竹は、相手の反応を伺うかのように言葉を止めた。
そして、木村が声を発する。
「てめえ、調子に乗ってんのか……」
怒りに満ちた声で、振り向かずに言う。
「そんな、君に言われたくはないよ」
佐竹はさらに挑発する。
その挑発を聞いて、怒りを覚えるもどうにもなれない少年。
しかしここで、少年は一つの事に気が付く。自分の彼女である少女のほぼ裸体が、今目の前にいるクラスメイトに見られているということに。
そうして彼は突然、自らの学ランを脱ぎ始めた。
「あれ? どうしたの? 彼女と君の格好が対等じゃない事を指摘されそうで怖くなったの? 大丈夫。それは別に駄目じゃないと思うから」
「違ぇよ! お前にこいつの裸を見られてたまるかっつう話だ!」
木村は自分の学ランを少女の体にかける。
「あ……」
すると、少女は今の自分の状況に気が付いたのか、声を漏らした。
「て、てめぇ! マジキメェんだよ! 見てんじゃねぇ!」
そして次は、佐竹への罵倒が始まる。
しかし、その二人の叫びを聞いて佐竹は、未だに冷静だった。あきれたとでも言うかのように深いため息をついて、
「まったく君たちは、本当に馬鹿だな」
という前置きの後。
「俺はよぉ、処女以外に興味はねぇんだよ」
目の前の二人を破壊した。
――俺は、こいつとやるのは、今が初めて……だ、ぞ?
――なんで、知ってるの……?
――それって、俺以外にも……?
いろんなものが彼らの頭の中を巡る。
「実はさ、既に去年、君のことを見てるんだよね、中島さん」
そして、その声が佐竹から聞こえたかと思うと、木村が姿を確認する前に、彼は教室から立ち去ってしまった。ドアを閉めてから。
「……」
「……」
閉ざされた教室内を、沈黙が支配する。
あれから数分も経っていない。彼らは、閉ざされた空間に安心し、先ほどのままの格好で、続きを行うでもなく固まっていた。
もう、何をするにも出来ない。
これから、自分はどうなるのかも分からない。
そうして、再び教室のドアは開いた。
←↙↓↘→↗↑↖←
数分前、佐竹が教室に侵入してからの事。
森田は職員室に来ていた。
自分の教室から遠いこともあって、彼は少々息を切らしている。
「先生」
そうして話しかけたのは、自分のクラスの担任。
「教室に鍵がかかってて開かないんすけど」
後日、彼らが退学処分に追いやられたのは言うまでもない。
今までに書いたものを一気に三つ投稿という形なので、次の章からは遅くなるかも知れません。
でもまぁ、頑張ります。