善人ぶる婚約者が、いつも私だけを悪者に仕立て上げるので、もう我慢するのをやめました
私の婚約者は、本当にいい人だ。
だから社交界での評判もいい。
「エドガー様って、本当にお優しい方よね」
「あんなに親切な方、そうはいらっしゃらないわ」
いつも正しく、誰にでも親切で、まさに善人の鑑。
誰もがきっと、彼の婚約者である私のことを、この上なく幸せな令嬢だと思っているのだろう。
けれど、それは違った。
彼――エドガー・ナルシアンは、いつだって私の神経を逆撫でする。
たとえば、今みたいに。
「ジェーン、この名簿はどういうことですか?」
侍女のジェーンは、私の前でうつむいたまま、おろおろしていた。
私の誕生祝いの夜会が間近に迫り、私は準備の進み具合を確認していた。
ところが、ジェーンは招待客名簿から、大切な客人の名を漏らしていたのだ。
「夜会の招待客名簿は重要なものです。不備がないようにと、念を押しましたよね?」
「申し訳ございません、お嬢様」
「もう少し慎重に確認なさい。前にも同じ不手際が……」
そのとき、そばにいたエドガーが、横から口を挟んできた。
「ジェーン、大丈夫だよ。些細なことじゃないか」
私は割って入ってきたエドガーを見て、眉をひそめた。
些細なこと?
「招待客名簿からアデル公爵夫人のお名前が抜けていました。それが些細なことですか?」
「一人くらい抜けていたっていいじゃないか」
「あの方は亡き母の親友です。しかも、社交界で最も影響力のある方ですよ。もし招待状をお送りしないままになっていたら、私は社交界に顔向けできなくなるところでした」
「ルア、君は評判を気にしすぎだよ」
エドガーは私の前に立ちはだかると、ジェーンに優しげな笑みを向けた。
「ジェーン、このことは気にしなくていい。ルアは少し厳しいところがあるだろう?」
「……」
いつの間にか私は、些細なミスをした侍女に必要以上に厳しく当たる令嬢に仕立て上げられていた。
ジェーンは胸の前で両手を組み、涙をためた瞳でエドガーを見上げた。
「抜けている名前があるなら、あとから足せばいい。大したことじゃないよ。誰にだって失敗はある。大丈夫、大丈夫」
出た。
いい人、エドガー・ナルシアンの「大丈夫、大丈夫」。
彼はいつも「大丈夫、大丈夫」と言って、責任をうやむやにしてしまう。
それが他人の責任でも、自分の責任でも。
「ナルシアン様……」
「ルアは下の者を追い詰めてしまうところがあるけれど、根は悪い子じゃないんだ。だから誤解しないであげて」
そう言って、彼は頼んでもいない私の弁護まで勝手にしてくれた。
呆れて見ていると、エドガーは眉尻をこれでもかと下げ、慈悲深げな表情で私を見た。
「ルア、公爵家で大切に育てられた君には分からないかもしれないけれど、僕は幼い頃から使用人たちとも親しくしてきた。だから、彼らの気持ちはよく分かるんだ」
「……そうですか」
「立場の弱い者には、優しくしてあげるべきだよ」
「……はい?」
立場が弱いことと、不手際を指摘することに、いったい何の関係があるのだろう。
「ジェーン、ずいぶん傷ついたようだし、今日の仕事は休んでいい。もう下がって休みなさい」
「ありがとうございます」
ジェーンは感激した顔でエドガーに一礼し、下がっていった。
私は呆れ果てて、エドガーを見つめた。
ジェーンには今日やってもらう仕事がいくつもあるのに、午前中から休ませるだなんて……。
しかも、うちの使用人なのに?
まるでクラディエ公爵家の主人にでもなったかのような振る舞いが、どうにも理解できなかった。
エドガーに言いたいことは山ほどあった。
「エドガー様、本気で大したことではないとおっしゃるのですか。アデル公爵夫人に非礼を働くところだったのですよ」
「ルア、君は細かすぎる。さっきのジェーンの顔を見た? 今にも泣きそうで、本当にかわいそうだったよ。この程度のことで人を傷つけてはいけない」
「……」
私の婚約者は、本当にいい人だった。
だから人々に好かれている。
けれど、このままこの人と結婚して、本当にいいのだろうか。
◇◇◇
やがて、私の誕生祝いの夜会の日がやって来た。
美しい生花で飾られた広間には、貴族たちが集まっていた。
音楽が流れ、ワインが振る舞われていた。
客人たちは皆、口々に祝いの言葉をかけ、贈り物を差し出してくれた。
気づけば、贈り物は山のように積み上がっていた。
その間にもエドガーは、花瓶を割った侍女に「大丈夫、大丈夫」と声をかけ、ドレスの裾につまずきかけた令嬢を支え、幼い令嬢には私の分のケーキを勝手に譲っていた。
そしてついに、エドガーは爆弾を落とした。
「ルア、君はもう十分に恵まれているだろう? 今日いただいた贈り物を、孤児院の子どもたちに寄付してはどうかな」
私は一瞬言葉を失い、彼の顔と贈り物を交互に見た。
「……あの贈り物を、ですか?」
「そうだよ。我がナルシアン伯爵家では、昔から孤児院に金品を寄付してきた。あのかわいそうな子どもたちがこんな贈り物をもらったら、どれほど喜ぶだろうね」
「ですが、それは私への贈り物です」
いくらなんでも、誕生日の贈り物を寄付しろだなんて……。
思いもよらない提案だった。
困惑した私の顔を見て、エドガーは失望したような表情を浮かべた。
「ルア、そんなに惜しいのかい」
「いえ、そうではなくて……」
「大丈夫、大丈夫。言い訳しなくてもいいよ。僕が皆に、ルアのことをきちんと説明しておくから」
エドガーはため息をつき、周囲を見回した。
いつの間にか、私たちの会話に興味を持った者たちがこちらを見ていた。
エドガーは、その人々にも聞こえる声で言った。
「皆様、どうかルアを誤解しないでください。ルアはただ裕福な家で育ち、世間を知る機会がなかっただけなのです。決して心の狭い令嬢ではありません」
すると、会場の空気が微妙にざわついた。
何も言っていない私は、いつの間にかまた、かわいそうな子どもたちを見捨てる冷酷な令嬢に仕立て上げられていた。
私の様子を見てさらに調子に乗ったエドガーが、一段と大きな声で言葉を重ねた。
「さあ、僕の言う通り、これらの贈り物を孤児院に送ることを真剣に考えてみたらどうだい? ルア」
貴族たちのざわめきは、少しずつ大きくなっていった。
ざわめきが大きくなるほど、エドガーはますます得意げに胸を張った。
私はゆっくりと息を吐き、口を開いた。
「そうですか。そこまでおっしゃるなら、ここにいらっしゃる皆様に伺ってみるべきでしょうね」
私は客人たちのほうへ体を向けた。
そして、はっきりとした声で告げた。
「皆様、ナルシアン伯爵令息が、皆様からいただいた贈り物をすべて孤児院に寄付してはどうかとおっしゃっています。皆様はどうお考えでしょうか」
「孤児院ですって?」
「とんでもないわ。孤児院だなんて」
「それは少し……」
貴族たちの反応が自分の思惑と違ったのか、エドガーの表情がこわばった。
そこでようやく、自分の失言に気づいたのだろうか。
彼は慌てて口を開いた。
「い、いえ、私はすべてを寄付しようと言ったのではなく、重要な方々からの贈り物は残して、一部だけを寄付すればと……」
けれど、取り繕おうとしたその言葉で、彼はさらに墓穴を掘った。
私は優雅に扇を閉じ、手のひらにぱちんと打ちつけた。
「エドガー様、そのお言葉はまるで……この場に、重要ではない方がいらっしゃると言っているようにも聞こえますが」
私は静かに会場を見渡した。
「この場にいらっしゃる方々は皆、私の誕生日を祝うために足を運んでくださった大切なお客様です。その中に、重要ではない方などいらっしゃるのでしょうか?」
私の言葉に呼応するように、客人たちが一人、また一人と口を開いた。
「そうですわね。では、わたくしども子爵家の者は、重要ではない客人として扱われるのでしょうか?」
「ナルシアン令息は、そういう意味でおっしゃったのですか?」
「そんな方だとは思いませんでしたわ。重要ではない贈り物だなんて、少々ひどいのではなくて?」
エドガーの顔から、みるみる血の気が引いていった。
そのとき、アデル公爵夫人が一歩前に進み出た。
「ナルシアン令息、今のご発言は看過できませんね」
重みのある彼女の声が響くと、周囲の貴族たちは自然と一歩身を引いた。
「慈善は立派な行いです。けれど、他人に贈られた祝福と厚意の証を使って慈善を行うのは、礼を欠く振る舞いです」
「っ……私は、その……」
エドガーは言葉を探しているようだったが、結局うまい返事は見つからず、赤くなった顔を伏せた。
「それに、以前から気になっておりましたが、あなたは婚約者であるクラディエ令嬢を、ことあるごとに貶めています。それが婚約者として正しい態度と言えるでしょうか」
公爵夫人の声は、針のように鋭かった。
彼女の言うとおりだった。
いつも人目を気にしながら優しく振る舞い、「いい人」でいようとしていたエドガー。
エドガーが善人ぶるたび、私は悪役に仕立て上げられていた。
その振る舞いは、私だけでなく、我が家の名まで傷つけるものだった。
「ルア、僕はそういうつもりじゃなくて、本当に君の評判のために……」
しおれた声でつぶやくエドガーの言い訳は、あまりにも見苦しかった。
「私の評判、ですか? あなたの隣にいるせいで、いつも下がっていたその評判のことですか?」
私は鼻で笑った。
「あなたはいつも、誰かにとっては優しい人でした。困っている人には手を差し伸べるほど親切で、失敗した人には『大丈夫、大丈夫』と言えるほど慈悲深かった」
「……いったい何を」
「でも、そのたびに大丈夫ではなかったのは、私のほうでした」
「……」
「私はもう、あなたの隣であなたを引き立てるための悪役を演じるつもりはありません」
「ルア、それはどういう意味だ……」
「あなたとの婚約を終わらせるという意味です」
「何だって?」
エドガーは一瞬眉をひそめると、すぐにいつもの尊大な態度に戻り、腕を組んだ。
「ルア、君はいつもそうやって感情的になるね。分かっていないようだけれど、貴族の婚約は感情でどうこうできるものじゃない。家と家との契約だ」
「その契約を続けるつもりは、当家にはもうない」
いつの間にか、父であるクラディエ公爵がそばに立っていた。
「公爵閣下……」
エドガーは腕を組んだまま固まった。
私と目が合うと、父は静かにうなずいた。
それから、言葉を続けた。
「ナルシアン令息。君が本日の夜会の準備に干渉し、使用人に勝手に休暇を与えたという報告を受けている。それは明らかな越権行為だ。そして今日は、娘の客人たちから寄せられた厚意までも、自分の善行を見せびらかす道具にしようとした」
「公爵閣下……それは」
「君はクラディエ公爵家の後継者であるルアの夫にはふさわしくない。ナルシアン伯爵家との婚約は破棄する」
エドガーは力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。
皆が、冷ややかな視線を彼に向けていた。
「そういえば、ナルシアン令息はずっとお優しかったけれど、周りの目を気にしている感じがしたわね」
「親切な自分に酔っていらしたのかもしれませんわね」
「人から称賛されるのを楽しんでいたようにも見えましたわ」
囁き声に耐えきれなくなったのか、エドガーは耳を塞いで叫んだ。
「ありえない。僕がこんな目で見られるはずがない! ……そんな目で見るな。僕は、僕は……いい人だろう?」
けれど彼が泣き叫ぶあいだ、これまで彼に親切にしてもらったはずの者たちは、誰一人として彼を庇おうとはしなかった。
これからエドガーはどうなるのだろう。
そもそも彼は、公爵家の跡取りである私と結婚し、婿入りする予定だった。
けれど私との婚約は破棄され、貴族たちのあいだでの評判まで地に落ちた今、伯爵家の四男である彼に行き場などあるのだろうか。
彼には行く場所も、継ぐ爵位もないはずだった。
少なくとも、彼の父であるナルシアン伯爵は激怒して、彼を家から叩き出すに違いない。
胸のつかえが取れたような気分だった。
彼から視線を外したとき、アデル公爵夫人がワイングラスを掲げて口を開いた。
「さあ皆様、本日はクラディエ令嬢の誕生日を祝う席です。不快なことは忘れて、改めてワインを楽しみましょう」
会場には甘やかな音楽が流れ、皆は床に座り込んだエドガーなど見えていないかのように、ワイングラスを手に笑いさざめいた。
「それにしても、今夜の主役にエスコート役がいないのは困りますわね」
アデル公爵夫人がにこりと笑うと、そばに控えていた一人の男性が前に出た。
アデル公爵家の嫡男、カイス・アデルだった。
輝く銀髪に、涼やかな青い瞳。
すらりと背の高い彼は、目を引く美貌の持ち主だった。
「よろしければ、息子にエスコートを務めさせましょう」
「お気遣いありがとうございます、夫人」
歩み寄ってきたカイスが腕を差し出し、私はその腕にそっと手を添えた。
「庭を少し歩きませんか」
「ええ、喜んで」
カイスと歩き出そうとしたところで、彼が私にそっと囁いた。
「ご決断、お見事でした」
そう告げる彼の青い瞳には、かすかな笑みが宿っていた。
私が微笑み返した、そのときだった。
いつの間にかそばに来ていたエドガーが、切羽詰まった声で呼びかけてきた。
「ルア!」
私はうんざりしながら振り返った。
「……何かご用でしょうか」
「聞いてくれ。君の隣にいるのは、僕のはずだ」
「いなくても結構です」
ぴしゃりと切り捨てると、彼は唇を噛みしめ、覚悟を決めたように口を開いた。
「ルア、僕が悪かった。本当に反省している」
「……」
「君の未熟なところを教えてあげたのが、そんなに気に障っていたなんて知らなかったんだ。善意でやったことだったのに……。これからはしない。……だから、こんな茶番はやめてくれ」
本当に、何ひとつ反省していないのね、この人は。
「茶番ではありません。私たちはもう、何の関係もありません」
「……」
エドガーのひどく虚ろな視線が、私とカイスのあいだをさまよった。
まるで魂が抜け落ちたような顔だった。
そんな彼の前で、私は見せつけるように、カイスの腕に添えた手にそっと力を込めた。
そして、エドガーへ最後の言葉を投げかけた。
「大丈夫ですよ、エドガー様。生きていれば、婚約を破棄されることも、家を追い出されることもありますわ。誰にだって失敗はあります。大丈夫、大丈夫」
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