第八話:九十歳の視線 —— 命の川のほとりで
第八話:九十歳の視線 —— 命の川のほとりで
窓の外には、かつてと同じ寒椿が咲いている。
けれど、その花を見つめる瞳は、もう、かつてのように「何とかしよう」という焦燥に揺れることはない。
九十歳になった小石川陽子は、安命院の縁側に座っていた。
その背筋は驚くほどに真っ直ぐで、深く刻まれた皺は、彼女がこれまで聞き届けてきた数万人の「嘆き」が形を変えた勲章のように見えた。
今の陽子は、もはや積極的に「問う」ことはしない。
ただ、そこに在る。
庭を流れる風のように、あるいは静かに燃える灯火のように。
「……先生。私、もう、頑張れないんです」
目の前で、かつての自分と同じ年頃の、三十代の女性医師が俯いている。
彼女は、最新の医療システムの中で心を病み、噂を頼りにこの古びた庵へと辿り着いたのだ。
陽子は、震える手で、ゆっくりと湯を注いだ。
九十年の歳月が染み込んだ陶器の茶碗。そこから立ち昇る湯気は、六十年前、あの雨の日に陽子が初めて患者に出したものと、全く同じ温もりを持っていた。
「頑張る、という言葉はね。自分の外側にあるものに、必死で縋り付こうとするときに使うものです」
陽子の声は、枯れ木の擦れる音のように掠れていたが、その響きには抗いがたい慈しみがあった。
「あなたは、すでに十分すぎるほどに『命』そのものです。それ以上に、何になろうとしているのですか」
若い医師は、顔を上げ、陽子の瞳を真っ向から見据えた。
そこには、知識や技術を超越した、すべてを許し、すべてを包み込む「虚空」のような静けさがあった。
陽子は、傍らに置かれた『女人産科方医術抄』に手を触れた。
ボロボロになり、幾度も修復されたその古書。最後の一頁には、かつての若き陽子が記した言葉に重なるように、今の彼女が書き加えた絶筆があった。
「医は、治すにあらず。ただ、共に在るなり。命がその人自身の輝きを取り戻すまで、静かに影として寄り添うのみ」
「先生……私は、どうすれば先生のような医者になれますか」
陽子は、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「なりたい、と願っているうちは、なれません。ただ、目の前の人の悲しみを、自分のこととして『痛む』こと。その痛みを、誤魔化さずに抱きしめること。……それだけでいいのです」
日が傾き、安命院に長い影が落ちる。
陽子は、自分の身体が次第に軽くなっていくのを感じていた。
血は巡り、やがて海へと帰る。
彼女が六十年間、この畳の上でほどき続けてきた無数の糸。それらは今、美しく織り上げられ、一つの巨大な「生」の曼荼羅となってこの部屋を満たしている。
陽子はゆっくりと目を閉じた。
耳の奥で、かつての自分の声が聞こえる。
――「私の医は、ここから始まる」。
いいえ。
医に、始まりも終わりもない。
それは、ただ、受け継がれていく「温度」のこと。
小石川陽子、九十歳。
彼女は今、人生という名の長い往診を終えようとしていた。
その顔には、一点の曇りもない、朝の光のような平安が満ちていた。




