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第四話:効率という名の正義 —— 決別の白衣


第四話:効率という名の正義 —— 決別の白衣


 その日の医局の空気は、朝から刺すように冷えていた。

 陽子がデスクに座ると、隣の席の医師たちが露骨に会話を止める。回診のスケジュール表には、陽子の担当患者だけが意図的に後回しにされ、まるで彼女の存在そのものが、この効率的なシステムの「不具合」であると宣告されているようだった。

「小石川先生。ちょっと、話がある」

 声をかけたのは、循環器内科の権威であり、医局の「規律」そのものである佐久間部長だった。

 招かれた部長室。重厚な革張りの椅子の対面に座らされた陽子は、壁に飾られた数々の功労賞や医学会の認定証を見つめた。それらはすべて、この病院が積み上げてきた「正しさ」の結晶だ。

「君の熱心さは否定しない。だが、ここはボランティアセンターじゃない」

 佐久間は、陽子が昨日書いたカルテのコピーを机に放り出した。そこには、医学用語ではない言葉——「孤独」「役割の喪失」「声なき叫び」といった文字が躍っていた。

「君が一人に三十分かけることで、救急外来のベッドが一つ埋まり、三人の初診患者が帰宅を余儀なくされる。君の言う『寄り添い』は、システム全体から見れば『無責任』なんだよ」

 陽子は、指先を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。

「部長。でも、数値に出ない苦しみを抱えたまま帰される患者さんは、どこへ行けばいいんですか? 私たちが扉を閉めたら、その人はもう、死んだも同然ではないですか」

「それは宗教家か哲学者の台詞だ。医者は、病気を治すのが仕事だ」

 佐久間の声は、冷徹な判決のように響いた。

「明日から、一診あたりの時間を七分以内に制限しろ。できないなら、君にこの外来を任せることはできない。……これが最後通牒だ」

 部屋を出た陽子の足元は、ひどくおぼつかなかった。

 七分。

 それは、患者の目を見て、その奥にある「震え」に触れるには、あまりにも短すぎる時間だ。その短縮された時間の分だけ、命の欠片が零れ落ちていくのが見えた。

 その日の午後の外来は、地獄だった。

 陽子は、部長の指示通り「効率」を演じた。

 患者が話し始めようとするのを、遮る。

 脈診を簡略化し、モニターの数値だけを見る。

 「大丈夫ですよ、様子を見ましょう」という、中身のない魔法の言葉を繰り返す。

 

 外来は驚くほどスムーズに回った。看護師たちは安堵し、電光掲示板の待ち時間は見る見るうちに減っていった。

 けれど、陽子の心は、冷え切った空洞になっていた。

 診察室を出ていく患者たちの背中が、以前よりもずっと重く、暗く見えた。

 最後に診た、過呼吸で運び込まれた五十代の女性。彼女が陽子に縋るような目を向けたとき、陽子は思わず目を逸らした。

 

 ――私は今、何をしている?

 ――これは「医」なのか? それとも「仕分け」なのか?

 夜、誰もいなくなった医局。陽子は一人、デスクの奥からあの古書を取り出した。

 『女人産科方医術抄』。

 頁をめくる指が震える。行間から、名もなき先達たちの怒声が聞こえるようだった。

「数を診るは役目なり。人を診るは、覚悟なり。医が効率を求むるとき、命は商品となり果てる」


 その言葉が、陽子の喉元に突き刺さった。

 

 陽子は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、自分の名前が刻まれた白衣の胸ポケットから、ネームプレートを外した。

 

 「決別」は、驚くほど静かに訪れた。

 

 陽子は、退職願の代わりに、真っ白な便箋を取り出した。そこにはただ一行、「私は、人を診るために、ここを去ります」とだけ書いた。

 

 医局を出て、深夜の廊下を歩く。

 磨き抜かれたリノリウムの床が、街灯の光を反射して冷たく光っている。

 正面玄関を出た瞬間、冬の凍てつく風が陽子の頬を打った。

 

 肩書きを捨てた。

 安定を捨てた。

 「正しい医者」という看板をすべて投げ捨てた。

 

 けれど、陽子の足取りは、これまでにないほど確かなものだった。

 ポケットの中にあるのは、一冊の古書と、一人の女性として、一人の医者として生きるという、剥き出しの意志だけ。

 

「……見ていてください、やよいさん」

 

 暗闇に向かって、陽子は呟いた。

 行き先はない。保証もない。

 けれど、あの古書が指し示す「血の通った医」の場所を、自分で作る。

 

 小石川陽子、三十歳。

 彼女の本当の誕生日は、この、すべてを失った冬の夜だった。



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