ピアノと女神
隣の席からシャカシャカやかましい音がする。幸先の悪い朝。
朝一番の新幹線に乗っていた。隣の席にいたサングラスの若い男が、イヤフォンでやかましい曲を聴いていたのだ。通路側の席では景色を眺めることもできない。仕方なく目を閉じて、眠ったフリをした。
隣の県で法要が行われる。それに出席するハメになった。当初親が行くはずだったが体調を崩し、代わりに行くことになった。今日は地元で行われるピアノ・コンサートに行くはずだったのに。断ることもできた。親は高齢になってから妙に信心深くなった。今回、法要に行けなくなりひどく落胆してしまった。そんな様子をみて「じゃオレが行こう」と言ったら「そうか、そうか」と少しは気を持ち直してくれたのだった。
私にとっては遠い親戚。出席者は知らない顔ばかりだろう。さっさと済ませて昼過ぎには帰るつもりだ。小一時間で降りる駅名がアナウンスされる。隣のサングラスは口を開けて寝ていた。相変わらずシャカシャカ音が漏れている。これでよく眠れるものだと、呆れて席を立った。
駅を出る。駅前広場では、派手な服の道化師が路上パフォーマンスの準備をしていた。この手の大道芸が好きではない。クラシック音楽を愛するものとしては。道化師がマジメな顔で小道具のセッティングをしている、何だか可笑しかった。中々いい眺めだ。道化師を見送り、すぐ近くにある法要会場へ向かって歩き出した。
昼前に法要は終わった。思いの外はやく帰れると、足取りは軽い。再び駅前広場に着くと、もう道化師は居なくなっていて、代わりに意外なパフォーマンスが行われていた。ピアノの路上ライブである。白のワンピースを着た女性が一心不乱に鍵盤を叩いている。いい趣向じゃないか。私も観客の輪の一部となり演者を囲む。腕を組み、演者の奏でるメロディに聞き入る。と、向こう側にいる女性に目が留まった。サングラスをかけたギャルがいたのだ。「完璧だ」思わずつぶやいた。彼女はキャップまで被っていたのだ。
いつからかは分からない。女性に縁のない私は中年と呼ばれる歳になり、ついに妄想を抱いた。「キャップを被った、サングラスのギャルと運命の出会いを果たす」と。私は彼女にくぎ付けになった。ジーンズ履きのスラリと伸びた足、長い金髪、健康的に焼けた瑞々しい肌。全てがしっくりきている。じっくりと彼女を見つめる。もうピアノのメロディなぞ耳に入って来ない。
不意に彼女が振り返る、彼女は観客の輪から姿を消した。逃がすものか!輪の向こう側へと足早に歩き出す。これは運命である、妄想を現実のものにするため、突き進め!。が、彼女は居なくなっていた。向こう側には信号機があり、赤に変わってしまった。これが現実だ、運命は絶たれたのだ。あの完璧なギャルは幻だというのか・・・
朝の失敗を生かし帰りは指定席で窓側の席を取った。何だか振り回されたが、まだ今日という日は残っている。サッサと帰ってピアノソナタのCDを聞きながらワインでも飲もう。窓の景色も悪くない。遠い山には未だ雪が残っていて、真っ青な空で、まるでアルプス山地の眺めのようで・・・。そんな疑似アルプスの眺めに人影が映りこんだ。隣の席に誰かやって来たのだ。「誰か」が腰かける。甘い匂いがした。さっきのギャルだ、完璧なギャルが再び目の前に降臨したのだ!
運命には続きがあった。いよいよ妄想が現実のものになろうとしている。さて、どう声をかけるべきか?ここに来て我ながら恐ろしいほど冷静になる。「さっきのピアノ良かったですね」、「キャップ、どこのですか」。いやいや、ここはまず天気の話をするべきだ。「春も近いというのに今朝は冷え込んで」というような。
さあ声をかけよう、としたら、彼女はサングラスを外した。彼女は何というか、三十は過ぎているように見えた。私からすれば十分若いし美人といえる部類だ。しかしさっき目の前に顕れたギャルと比べれば完璧とは程遠い、見間違いだったのか、勘違いだったのか。別人かもしれない。老眼が進んだと思っていたらこんなところで弊害が出てしまった。
私は目を閉じた。朝以上に時間の経つのが遅く感じられる。
あと一歩というところだったのに。やはり、予定通りピアノ・コンサートを観に行くべきだった。




