表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

【Lesson4・晴輝の章】




 最近、晴輝は悩んでいた。

 友人の直之と奏がなんだか険悪な感じなのだ。

 どんな風に仲直りさせたものかと考えてみるが、妙案を思いつかない。


 そんな時、学校終わりに直之がこんな事を言ってきた。


「今日ちょっと時間とれる? 相談したいことがある」

「いいよ」


 予定が無かった晴輝が即答する。

 学校帰りの制服のまま、二人は全国展開してるチェーン店のカフェに寄ることにした。


「相談ってなに?」


 晴輝は水を向けた。

 ひょっとしたら奏のことなのかなあと予想する。


「実はさ……なにから説明したらいいか……僕が文芸部なのは知ってるよね?」

「ああ」

「ある短編を書いたらさ、彼女がそれをいたく気に入ってね。褒めてくれたんだ」

「彼女って、直之が付き合ってる彼女のこと?」


 無言でうなずく直之。


「そりゃ良かったじゃん」


(なんだ? ノロケか? 俺は何を聞かされるんだ?)


「まあそれ自体は良かったんだけどね……それ故というか、ちょっと困ったことになって……」

「話が全く見えないのだが。どんな短編を書いたの?」

「こういうやつ」


 と言って、直之はカバンの中から紙の束を取り出した。


「読んでみて」


 と言って、直之は端がホチキスで止めてある紙の束を晴輝に差し出した。


「どんな作品?」


 晴輝が短編を受け取る。


「読めばわかる。短編なんですぐ終わるよ」


 直之が作品を見せてくれるのは珍しいと思いながら、渡された短編を読み始める。




─────直之が書いた短編─────




『賢者の教え』




 旧石器時代。

 ある村はダイアウルフに襲われ、何人か殺されてしまいました。

 生き残った者は皆、ダイアウルフから身を守る方法を必死に考えました。

 ダイアウルフから身を守る方法は村の最も大切な知識として何代にも渡り、語り継がれていきました。


 数千年後。村の若者が言いました。


「ダイアウルフから身を守る知識って必要なのか?」


 長老が答えます。


「必要に決まっておる。それが村に代々受け継がれてきた知の財産なんじゃから」


 若者は納得いきません。


「ダイアウルフなんて見たこともない。本当にそんな猛獣いるのか?」

「おるよ。お前が知らないだけの話じゃ」

「なぜ襲ってこない?」

「それはわしらがダイアウルフを撃退する方法を知ってるからじゃよ。ダイアウルフは人の言葉も理解するほど賢い生き物でな。今も息をひそめてわしらを狙っておるのじゃ」

「………」


(ホントにそんな生き物いるのかよ……)


 人の言葉を理解する野生動物など見たこともありません。

 若者のモヤモヤした疑問は残り続けました。


 村の教えは長い年月を経て変遷していました。

 なぜかダイアウルフが人の言葉を理解する猛獣へと変わっていたのです。

 そして長老は知りませんでした。


 ダイアウルフは数千年前、とっくに絶滅していたことを……。


 長老に質問した若者より少しだけ年上の先輩が言います。


「おい。ダイアウルフの恐ろしさを知らない無知なクソガキよ。長老に逆らうとは何事だ? 俺たちはダイアウルフの恐ろしさを後世に伝え続けねばならんのだ。そうじゃないと村が滅んでしまう。ダイアウルフに滅ぼされてしまう。お前は村が滅んでもいいというのか?」

「村が滅ぶのは嫌だ」

「だろう? だったらもっとダイアウルフについて真剣に学べ」


 先輩は勝ち誇ったようにドヤ顔をしました。

 この先輩もダイアウルフが絶滅したことを知りません。

 ただ、この先輩はダイアウルフについての知識を誰よりも熱心に勉強し、長老を始めとした大人たちから可愛がられていました。


 この先輩にとってダイアウルフの知識とは、とても重要なものでした。

 ダイアウルフの知識は本質的、直接的に役に立たなくても───副次的、間接的には十分役立つものだったのです。


「………」


 いっぽう先輩にドヤ顔で説教された若者は面白くありません。


(何がダイアウルフだ。ダイアウルフについて学ぶ時間を削って、代わりにマンモスの狩り方を勉強したほうがよっぽど役立つだろ)


 数日後。

 村に異変が起こりました。

 若者を中心として、村の半数ぐらいが突如いなくなってしまったのです。


「見よ! ダイアウルフへの恐れを軽んじた愚か者たちが、ダイアウルフに食われたのじゃ!」


 長老は声高に言い放ちました。


「そ、そうだ! ダイアウルフにさらわれて食われたんだ!」

「なんて恐ろしいダイアウルフ!」


 周りの大人も長老に追随します。

 その大人たちの中には若者にドヤ顔で説教した先輩もいました。


 実際はダイアウルフの存在を疑問に思う若者達が集団で結託して村を捨てただけの事だったのですが、長老達は気付きません。

 いや、もしかしたら、うっすら気付いていたけど気付きたくなかっただけなのかもしれませんが……。


 いっぽう村を捨てた若者たちは遠く離れた地に新しい村を作りました。


「今日からここが俺たちの村だ。俺たちはマンモスを効率よく狩る方法を学ぶぞ!」

「ダイアウルフなんぞクソくらえだ!」

「そうだそうだ!」


 ダイアウルフについての知識を学ばされることに疑問を持っていた若者たちは気勢を上げました。

 なんの役に立つのか全くわからず、また実際役に立たない知識を押し付けられ、無駄な時間を浪費させられる事に大きな不満を持っていたのです。


 新しい村は効率よくマンモスを狩る方法を研究し、大きな成果をあげました。

 大きな賑わいと歓声に包まれ、新しい村は大成功でした。


 数千年後。

 ある年の冬、とても大きな寒波が発生しました。

 それは誰も経験したことがない程の厳しい寒波でした。


 これによりダイアウルフから身を守る方法ばかりを語り継いだ村は滅んでしまいました。

 飢えと寒さに対抗できなかったのです。

 古い村の人々は、飢えと寒さで死ぬ間際まで「これはダイアウルフの呪いだ」「もっとダイアウルフの知識を深めなかったから、奴らに精霊を操られて寒波が来たのだ」と言い合っていました。


 いっぽう新しい村は生き残ることが出来ました。

 マンモスを上手く狩ることが出来たので、飢えに対抗することが出来たからです。


 ……そして更に数千年後。

 マンモスは残念ながら絶滅してしまいました。

 マンモスはいないので、ウサギや鹿を狩るようになっていました。


 マンモス用の大きな落とし穴や巨大な槍は、ウサギや鹿を狩るには効率の悪い方法でした。

 弓矢や小型の槍、小型の落とし穴やスネアトラップのほうがよほど効率的にウサギや鹿を狩ることが出来たのです。


 ふと村の若者が長老に向かって言います。


「マンモスを上手く狩る知識って必要なのか?」




─────




 短編を読み終えた晴輝は感想を口にした。


「面白かったよ。ドヤ顔の先輩がいいね。いるわ、ああいうヤツ現代にもたくさんいるわー。最後のループする所もオチとして良かった。良い作品だと思うよ」

「そんなに褒められても困る」

「なんで困るの? 面白かったよ?」


 直之は決まり悪そうに声を潜めて言った。


「……いや、実はそれパクリなんだ」

「マジか!?」


 褒めた途端にこれか、という軽い衝撃。


「うん」

「誰の作品なの? あ! もしかして文芸部の誰かからパクってそれで悩んでるとか───」

「違う違う。文芸部の誰かではないよ。外国の作家」

「誰?」

「言ってもわからないと思うけどハロルド・ベンジャミンって人。あと丸パクリはしてない。アイディア部分を借りた感じ」

「丸パクリじゃないなら良いって問題でもなくね?」

「それはまあ、うん……悩みってのはこれでね。彼女はこれをすごく気に入ってくれたけど、僕のオリジナルとして認識してるんだ。この作品がきっかけで付き合い始めた───みたいなトコもあって、これがパクリってわかったら幻滅されそうで怖いなって……」

「………」


(……………く、くだらない!! なんだこのくだらない悩みは!!)


 何かと思えば、史上最高にくだらない悩みだった。

 こんなくだらないことを相談されるとは夢にも思わなかった。


「そりゃもう、正直に言うしかなかろ。なんでパクりってことを言わなかったのさ?」

「言うつもりだったよ。でも彼女すごく面白がってくれたので言うタイミングを逃して、そうしてるウチにますます言い出せなくなって……」

「つまり彼女の前でいいカッコしたかったから言い出せなかったと」

「うん、まあそんなトコ……」


 気持ちはわからなくないが、アホ過ぎる。

 そんなんで彼女の歓心を買っても仕方ないだろうに。


「そもそも、なんでパクったんだ?」

「日本語訳がないから」

「そうなん?」

「うん。僕だってパクりたくてパクったわけじゃないよ。日本語訳がないから仕方なく……それに丸パクリではなくオリジナル要素もあるので、インスパイアと言ってもらえるとありがたい」

「だったら、その彼女にもそう言ってやれば?」

「………」


 直之は何も答えなかった。


「もしかして、打ち明けると付き合いが終わりそうな感じ?」

「その可能性はけっこうある」

「だからってなあ……隠してても、しょうがなかろ」

「………」

「よくわからんけど、この短編のおかげで彼女と付き合えた、みたいな部分が大きかったんだろ?」

「まあ、うん……」

「だったら正直に打ち明けたほうが良いと思うよ」




 自宅の地下室。


「ハル兄、ありがとね」


 佳織は晴輝に言った。


「なにが?」

「お祖父ちゃんに言ってくれたんでしょ? 優斗のこと」

「ああ、まあ。一番大きな理由は優斗のプチ家出だと思うけど」

「プチ家出したの!? 優斗が!?」

「そんな大げさなもんじゃないよ。優斗がウチで暮らしたいって言ってきてね。それで優斗の父親も巻き込んでの、ちょっとした騒ぎになったんだ」

「そんなことがあったんだ。小学生でプチ家出するって、なかなかやるね、優斗も」


 ここに避難場所があったというのは大きい。

 子供が壊れるのは他に避難場所を持ってないから、というのも原因の1つとして大きなものに思われる。

 晴輝はそんな風に感じていた。


 佳織が話を続ける。


「優斗、明るくなったよね。中受はやりたくないなら、やらなくていい事になったみたいだし」

「そうらしいね」

「伸子さんも、なんだか前より表情が柔らかくなったよね。以前は子供を教育虐待するカルト信者みたいな禍々しいオーラがあったんだけど、そういうのも無くなってきた」

「いや、言い方」

「ふふ」


 軽く晴輝が突っ込むと佳織は悪戯っぽく笑った。


「そういうお前も、前よりなんだか吹っ切れたような雰囲気はあるよ」

「わかる? アイドルになりたいっていうのを親に真剣に伝えたら、あたしが望むなら高校は通信制の学校に変えてもいいって言ってくれたの」

「通信制?」

「特定の分野に特化した学校ね。通信制だから自由度が大きいし高卒資格もちゃんと取れるよ」


 よくはわからないがしっかり考えてるらしい。


「ダンスレッスンも増やしていいって言ってくれたし、夢に向かって頑張れる環境があるのはすごく楽しいよ。応援してくれる人もいるしね」


 佳織は中谷のことを思い出した。

 子供の夢をあざ笑うクズ教師もいれば、応援してくれる良い教師もいる。

 いつか有名になった姿を中谷に見てほしいというのは小さな目標になってる。


 今日収録のダンス動画をハンディ撮影しながら晴輝は思った。


(コイツの表情も前より良くなった感じするよな。幸福感が顔に出てるというか、そういうオーラがあるというか)


 佳織も優斗も楽しそうで何よりである。

 幼い頃から親しくしてきたイトコが幸福そうなのは自分としても嬉しい。




 その日の夜。

 夕食後、リビングでくつろいでると昭雄は晴輝にこう言ってきた。


「次の日曜、空いてるか?」

「予定はないけど何?」

「教育界のお偉いさんと料亭で会食の予定があるんじゃが、お前も来るか?」

「ええ!?」


 突拍子もない提案に驚く晴輝。


(なんかこの流れ、前にもあったな)


「なんで俺も?」

「以前、言っておったじゃろ。古典の授業はなぜ必要なのかって。説明してくれるらしいぞ。古典がなぜ必要なのかを。どうする?」


 かなり昔のことのように思えるが、祖父が覚えいてくれたことに驚いた。


「それは聞きたい」

「友達も連れてきてええよ」


(友達、どうしよう……)


 この疑問を発したのは直之だが、奏にも話を聞かせてやりたい気持ちもある。

 以前のマスクマンの話は腹の立つこともあったが、面白かった部分もあるのだ。


(でもあの二人、いまだに険悪な雰囲気なんだよなあ……)


 二人同時に連れていくという選択肢は無さそうに思える。

 せっかく祖父が用意してくれた場でケンカなんか始められたらたまったものではない。


 どちらを連れていくべきか?




 日曜日。

 待ち合わせ場所は以前の一軒家タイプの料亭とは違い、高級ホテルの中にある料亭だった。


「ホテルにも料亭ってあるんだね」


 晴輝の言葉に昭雄が答える。


「なに言っとる。政治家が使う料亭はホテルのほうがメインじゃよ。他の客と鉢合わせしないための動線が多く裏口や専用エレベーターもあるので、誰と会っているかを知られたくない密談には最適。話のあとホテルの部屋もいろんな目的で使えるし、番記者を撒きやすいし良いことずくめじゃ」

「なるほど」

「個室がある居酒屋やレストランを使う政治家もおるがの。料亭ってネガティブなイメージが一部にあるんで、それを避けたい政治家はそういう所が多い。まぁなんだかんだでホテルが一番便利じゃけどな」


 家にいるときは気のいいお祖父ちゃんなのだが、やはり政治家なのだなあと思った。


「まさか人生で2回も料亭に来ることになるとはね。全く予想できなかったわ」


 直之の言葉に、晴輝は笑いながら同意した。


「それな。俺も同じ気持ちだわ」


 結局、連れていくのは直之を選んだ。

 疑問を発したのは直之なので、やはりこちらのほうがいいだろうと判断したのだ。


 昭雄が学生二人に言う。


「ちなみにホテルの料亭は地下駐車場から専用口が繋がってる所もあるぞ。今日は仕事じゃないので一般客も使う入口から普通に行くがの」


 その一般客も使う入口を通り、奥の個室に行く。

 そこには、狐のお面をかぶった人物がいた。

 狐のお面といっても顔全体を覆うものではなく、口元だけ出ている半面タイプ。


(また? 料亭に来る人間は顔を隠さないと死ぬ病気なの?)


 晴輝は心の中でツッコミを入れた。

 以前のマスクマンといい、今回の狐面といい、なんでこう素性を隠す人間ばかりが来るのだろうか。


「お疲れ様です、先生」


 掘りごたつから立ち上がり、昭雄に頭を下げる狐面の男。


「お疲れ様。今日はありがとう。わざわざ来てもらって」

「いえ、先生の頼みとあれば断るわけにもいきませんので」


 昭雄が晴輝と直之に向かって言う。


「なんでまた仮面?───という疑問はあるかもだが、素性を隠したほうが本音を言いやすくなるので、あまり触れんでやってくれ。君らもどうせ聞くのなら、本音のほうがええじゃろ」

「いや、うん、なんかもう慣れたよ」


 晴輝たちも掘りごたつに座る。


「呼び名はどうする?」


 昭雄が狐面の男にたずねる。


「狐でもフォックスでも阿紫でも野干でもウルピスでも何でもいいですが……シンプルに狐でいきますか」


 男は自分を狐と名乗った。

 教育界のお偉いさんと聞いているが、どんな話を聞かせてくれるのだろうか。


「古典がなぜ必要なのかっていう話だよね」


 狐が晴輝と直之に向かって話し始める。


「大きく言うと理由は2つあるよ。これは後で必ず答える。君たち学生が納得のいく理由をね。でもその前にしておきたい話があって、そっちからいくね」


 なんだか仰々しいなと思いながら狐の話に耳を傾ける。


「忍者学って知ってる? 忍者の歴史や忍術を古文書から読み解き、現代のサバイバルや精神修養に活かす学問。国際忍者研究センターという名前の組織まである」

「初めて聞きました」


 直之が答える。


「ではビートルズ学は知ってる? ビートルズを通して文化や経済の研究。ファンにはたまらない学問だね」

「知りません」

「ゾンビ学というのもある。ゾンビを通してメディア論とかパンデミックとかを研究する学問」

「それも知りません」

「他にも魔法学とかピザ学とかアイスクリーム学とか、ビヨンセ学とかテイラースウィフト学なんてのもある」


 どれも聞いたことがない学問だ。


「こういう学問、どう思う? あっていいと思う? やめちまえと思う?」

「あっていいと思いますよ。面白そうだし」


 狐に問われた直之はそう答えた。


「それはオレも同意。もっと面白いことに、こういうのをスタンフォードやイェールという超名門がやってるという事実も面白いよね。ビヨンセやテイラースウィフトのファンは熱心に学ぶだろうね」

「かもしれませんね」

「では古典という学問はどうだろうか? 仮定の話───今のような必修科目ではなく、学びたい人だけが自由に学べる位置付けだとしたら?」

「あっていいと思いますよ。必修科目じゃないなら」

「グッド! じゃあ話は半分終わりだね。古典不要論はたまに出てくるけど、これは”古典を必修科目にするか否かの論点と、古典の学問としての存在価値を問う論点”を混同するから、ややこしくなる議論なんだよ」


 どういう事だと話の続きを待つ。


「古典の学問としての価値を問う論点、これはさっき君も認めたけど、忍者学やゾンビ学やビートルズ学みたいに、『そういう学問があってもいいんじゃない?』というのが多くの人が感じる答えだと思う。これと古典を必修科目にするかどうかの論点は全く別次元の話なんだよね。これをゴッチャにするから古典不要論みたいなのが出てきてしまうんだよね。忍者学不要論やゾンビ学不要論やビートルズ学不要論が出ないのと同じで、そもそも古典不要論なんか出ないはずなんだよ。別次元の議論だと弁えてるならね」


 話が見えてきた。

 直之が言う。


「でも必修科目にしてるじゃないですか。古典不要論を言いたくなる人の気持ちもわかるというか、しょうがないと思うのですが?」

「そこは間違えちゃいけないよ。キミかい? 古典の先生に『役に立たない勉強』と言ってキレさせたのって?」


 晴輝はあの出来事を祖父に話し、それを狐は事前に伝え聞いていた。


「はい、まあ。キレることないと思うんですけどね」

「フフ、そりゃキレるさ。自分の存在価値を否定されたわけだからね。キレないほうがおかしい。質問したいならこう聞くべきだったんだよ。『古典の価値は認めてます。必修科目じゃないなら大いにやってほしいと思います。古典は忍者学やゾンビ学やビートルズ学みたいに、学ぶかどうかを自由に決められる位置付けではダメなんでしょうか?』ってね」

「なんでそんな回りくどいことを? 結局は古典の価値を問うのに?」

「うん、だからそこが違うんだよ。ケンカしたいならそれでいい。でも議論がしたいなら『古典は価値がある。でも必修科目にするのは違うと思う。古典はやりたい人だけが勉強する学問でいいと思う』という姿勢が必要なんだ」

「どうしてですか?」

「古典を生業にしてる人にとって、古典は自身の存在価値と密接に結びついてるからだよ。質問の裏側に古典なんか価値ないだろ、という事を匂わせるからダメなんだよ。普通キレるって。まあ古典の先生側も余裕ない人が多いけどね。『君がそう思うのは否定しない』ぐらい言っとけばいいものを、ムキになって反論しようとするから、中国人との取引に有利とかいう苦しい弁明が出てくる。わからないものはわからないと素直に言っとけばいいんだよ」


 話が錯綜としてきたので、直之はたずねた。


「そもそも、なぜ古典って必修科目なんですか?」

「その昔、なんの学問を必修科目にするかを決める時、多くの人が『古典を必修科目にしよう』と思ったから、というのが答え」

「その人たちはなぜ、そう思ったんですか?」

「それは当時の人に聞かないと全てはわからんね。温故知新とか伝統的な日本の文化を守る為とか国民の連帯感を醸成する為とか、もっともらしい説明はできるけど、君らが聞きたいのはそんな優等生的な答えじゃないでしょ?」

「………」


 それはその通りだった。

 狐の言う通り、聞きたいのは優等生的な答えではなく、腑に落ちる回答なのだ。


「昔に『古典を必修科目にしよう』と決めた人たちがいて、それが連綿と続いてきて今に至ると。パス依存性や制度的ロックイン効果というのがあってね。一度決まってしまうとそれが硬直化して、改革が困難になるんだよ。巨大客船が舵を切りにくくなるようなもの。氷山にぶつからなければいいが果てさて……」


 狐がそう言うと、直之は怒りの感情を込めて返した。


「なんかあれみたいですね。左利きは矯正すべきとか部活中に水を飲んではいけないとか、今までがそうだったから、これからもそうしていこうみたいなクソみたいな価値観を延々と続けている状態」

「フフ、これは手厳しい。まあ前例踏襲主義でいってるのは否定しないよ。省庁から地方役場まで、お役所というのはそういうもんだし」


 この狐は省庁の人間である官僚か、元官僚なのかなあと晴輝は思った。


「そろそろ、君らが最も知りたがってる核心部分に答えるよ。問いも正確に修正するね。古典がなぜ必修科目なのか?」


 狐は居住まいを正して言った。


「1つ目の理由は知ってる人も多いけど、物理的利益を守る為だよ。言い換えると必修科目にすることを前提としたマーケットが成り立ってるからなんだ。つまり古典というジャンルの教育市場を守るため、というのが理由だね」


 ピンときてない様子の晴輝と直之を見て、狐は補足した。


「古典というジャンルの大きなマーケットがあってね、そこでご飯を食べてる人が多いんだ。その人達がこれからも安定してご飯を食べ続ける為に、古典は必修科目にしておく必要があるんだ」

「そんなくだらない事が理由なんですか!?」


 直之は反射的に詰め寄った。


「まあ第三者にとってはくだらないと見えるかもね。でもご飯を食べてる人達にとっては切実な問題だよ。仮に古典を必修科目から外すとマーケットが縮小して旨味が落ちてしまう。ローン抱えた人は手取りが減って大変だろうね。いや給料が減るだけならまだしも、失業する人が出るかもしれない。それを防ぐためにも古典を必修科目にしておくことは重要なんだよ」

「ご飯って……転職でもなんでもすればいいじゃないですか!」


 怒鳴るように言う直之。


「そうもいかんのよ。年とってからの転職は厳しいものがあるからね。これは古典でご飯を食べてる人だけじゃなく、全員が同じだよ。それまでやってきた仕事を突然クビにされて、さあ明日から異業種でイチから頑張って働いてくださいなんて言われたら、誰だって嫌がるさ。転職は面倒くさいものなんだよ。誰にとってもね。君の親だって、そんな状況に置かれたら嫌がると思うよ?」

「っ……!」


 親を例えに持ち出され、直之は言葉に詰まった。


「もっと具体的に説明しようか。マーケットというのは大学入試が一番わかりやすいね。大学入試っていうのは単なるテストじゃなく、巨大な富の再分配システムなんだ」


 狐は軽く咳払いをして言った。


「文科省の役人、政治家、教授会、そして出版社や塾や予備校という教育産業。この人達が古典という伝統的な集金システムを必修科目の座に縛り付けているんだよ。もし明日、古典が必修から外れたらどうなると思う? 教育出版社の売り上げは激減する。古典の教科書、ガイド本、演習資料、それら古典の解釈は昔から完成しているので体裁を整えるだけの微修正で済む。古典というのはコストの低いドル箱コンテンツなんだ。現代文は著者に高い著作権料を払う必要があるけど清少納言や紫式部に著作権料を払う必要はないでしょ? 政治経済のようにデータが古くなってゴミになるリスクもないし、理数系のように学習指導要領の細かな変更に弱いという欠点もない。そういうコストの低い古典というドル箱コンテンツを守るために彼らは政治家に働きかける。教科書検定や採択に影響力を持つ政治家にとって教育産業は大事なスポンサーの1つなんだよ」

「わしはそっち方面に絡んではおらんぞ」


 昭雄は晴輝に言った。

 万がいちでも、孫にそんな風に思われるのは遺憾だ。


「ですね。先生は教育産業に噛んでません」


 狐もフォローを入れてから、話を本題に戻す。


「次に大学の共通テストだ。ここは文科省の天下り先としての側面もある。共通テストの科目を変更するには膨大な議論と実務が必要になる。特に古典のような安定した配分を持っている科目を削るとなると、各大学の文学部や教授会から猛烈な突き上げを食らう。政治家だって地元の国立大学の教授連中を敵に回したくないだろうし、結果として変えないことが一番波風立たないという力学が働くんだよ」

「………」

「最後に塾や予備校。彼らにとっても古典は都合がいい。独学が難しく、かつ配点が高い古典は生徒を塾に縛り付ける最高の撒き餌だ。こうして国民には古き良き教養という美しい看板を見せながら、教育で美味い汁を吸ってる人達は皆、この古典というドル箱の集金マシンを不可侵の聖域として、手放せなくなっているのさ」


(……………うん、酷い。これは酷い)


 以前のマスクマンも話もエグかったが、この狐の話も負けず劣らずエグい。

 晴輝はちょっと気が重くなった。


「で、2つ目の理由なんだけど、実はこっちがけっこう厄介なんだ。ある意味、1つ目の理由以上に。2つ目の理由は精神的利益を守る為だよ。わかりやすくイメージしやすいように話そうか。中世の職業に写本家っていうのがあったのわかる?」

「………」


 直之が黙ってるので晴輝が代わりに答える。


「手書きで本を複製する仕事ですよね?」

「その通り。彼らはインテリで皆から尊敬されてたんだ。ところが活版印刷が登場してね。短時間で大量の本を複製できるようになった。それで写本家はどうなったかというと、一部の写本家は宗教の文書や芸術的価値を買われて尊敬を集め続けることができた。でも多くは尊敬を得られず『尊敬される写本家』から『ただ字が上手い人』という価値に転落してしまったんだ。権威が崩れてしまったんだよ」


 一息つき、狐が話を続ける。


「古典を必修科目から外すと、これと似たような現象が起こると予想できる。古典が必修科目から外れても大学に古典という学問は存続するので、一部の人は大学で尊敬を集め続けることができる。でも多くは『尊敬される古典の先生』から『古典好きのおじさんやおばさん』という価値に転落してしまう可能性がけっこうあると。尊敬されて当然だったのに、ある日を境に尊敬されなくなる。これが苦痛というのはわかる?」

「……わかります」


 また晴輝が答えた。


「『尊敬される古典の先生』というアイデンティティが崩壊するのは耐えがたい苦痛なんだよ。彼らにとって古典というのは知性という名の宗教なんだ。宗教を破壊されたらキレるに決まってる。実際、写本家の話でも活版印刷が登場して多くの写本家がブチ切れた。印刷機を導入するなという抵抗運動とか、ねちっこい抗議文とか、印刷機は悪魔の道具だというネガキャンとかね。明日のご飯の心配もあっただろうけど権威が崩壊して『ただ字が上手い人』という存在になり下がる、アイデンティティ崩壊の苦痛も大きかっただろうというのは想像に難しくない」


(高速で切符をきる駅員が尊敬を集めていたのに、自動改札機の登場で尊敬されなくなったようなものか)


 晴輝は自分なりの例えでこの話を理解した。


「精神的利益を守る為に古典を必修科目にしておく必要がある、というのは理解できた?」

「ええ、まあ」

「古典はなぜ必修科目なのか? それは古典を必修科目にすることによって発生する物理的利益と精神的利益を享受している人たちが、これからもそれらの利益を享受する為───というのが答えになる。納得できたかい?」

「ロジックが理解できるという意味で、納得はできます。ただなんていうか……」


 スッキリしない感情はある。


「エゴ丸出しじゃん」


 口ごもった晴輝の代わりに、黙っていた直之が口を開く。


「なんでそんなエゴイズムの為に税金使わなきゃいけないのさ。なんでそいつらが保護されなきゃいけないのさ。意味わからん」


 吐き捨てるように直之が言う。


「昔に『古典を必修科目にしよう』と決めた人たちがいて、それが続いてきたってだけの話だよ。何度も言うけどパス依存性や前例踏襲主義ってやつ。社会の舵取りをする、社会システムの中枢に食い込んでる人は古典を必修科目にしておいたほうが都合のいい人が多い、というのも理由としてあるのかもね」

「………」


 口を尖らせた直之は不満アリアリという様子だった。


「……ハロルド・ベンジャミンを知ってますか?」


 直之が狐にたずねる。


「もちろん知ってるよ。サーベルタイガーカリキュラムね」

「サーベルタイガーカリキュラムの教えを、あなた達は微塵も活かしてないですよね。それどころか愚弄してるといっても過言ではない程に踏みにじっている。あなたの話を聞いてるとハロルド・ベンジャミンの作品を日本語訳しないのは、あなた達が邪魔してるからという妄想まで浮かんできます」

「ブハハハハ!! いやー面白いこと言うね、キミは!」


 何かツボだったのか、狐は豪快に笑った。


「まぁ、なんていうか、それはキミの妄想だと返しておこうか」

「………」


 一応、古典は高校から一部が選択制となっていて学校で教える分には途中から必修ではなく、サーベルタイガーカリキュラムの教えを微塵も活かしてないわけでもないのだが、狐はそう弁明する気にはなれなかった。


 中学や高校で古典を完全選択制にし、大学入試という超巨大なマーケットからも古典を選択制、ないし排除しない限り、この目の前の高校生とは議論しても無意味に感じたのだ。


 毒気にあてられたのか、直之は疲れ果てたような表情になっていた。


「……もうあなたの話を聞いてると手が出そうになるのでこれ以上は聞きたくないのですが、最後に1つだけ質問させてください。そんな腐ったシステムを子供に押し付けて、罪悪感はありますか?」

「………」


 一拍おいて狐が答える。


「無いよ。罪悪感なんて”感じたら負け”だから。システムが腐ってるとも思っておらんよ。やってる人達の多くは善意なんで。物理的利益と精神的利益をハッキリ自覚してる人は少ない。後者に至っては気付いてる人が本当に少ない。子供に何を学ばせるか決める権限を持ってる偉い人達ですら、自覚してない人はけっこういるよ」




「あのふざけた狐野郎! 死ね!」

「ちょ、それは言い過ぎ」


 話があるという昭雄と狐を残し、晴輝と直之は駅までの道を歩いていた。


「以前に僕が言った、使わなくてもいい副教材を買わされてムカついたという話を覚えてる?」

「そんなことも言ってたね」

「大正解じゃん。金儲けの為の汚い商売そのままじゃん」

「代わりに高卒の資格を得られるでしょ。一方的に非難するのも違うと思うよ」

「………」


 晴輝がそう言うと、直之は一瞬無言になった。


「……じゃあ高卒の資格を返上すれば一方的に非難してもいいと?」

「そういう問題じゃないんだが……」

「じゃ、どういう問題なの?」


 直之は汚い商売に憤っていた。

 たしかに人間には汚い部分もあるが、誰だって汚い部分の1つや2つはある。


(お前だって、今の彼女を騙してるだろう……)


 このタイミングでそれは言わないが、言いたくなる気持ちはちょっとある。

 水清ければ魚棲まず。

 汚い部分を拒絶するばかりでは生き辛くなるだけなのに。


 晴輝は直之のことが少し心配になった。

 うまく言えないのだが、なんていうかこう、いろいろとバランスが悪い。




 学校。昼休み。

 晴輝と直之が昼食を終えて雑談をしていると、隣のクラスから奏がやってきた。

 晴輝と直之は同じクラスなのだが、奏は違うクラスなのだ。


「前に『古文や漢文がなんの役に立つのかわからない』みたいなこと言ってたよな」

「ああ」

「回答するよ。アインシュタイン曰く『倫理なき科学は暴走であり、科学なき倫理は盲目である』と。つまり理系は文明のエンジンを作り、文系は文明のハンドルを握る。ハンドルだけあっても1ミリも進まないが、エンジンだけだと崖に突っ込む。アインシュタインはこの両輪の欠如を恐れたんだ」

「………」

「………」


 どう反応すればいいかわからなかった晴輝と直之はフリーズした。

 古典がなぜ必修科目なのか、二人は既に狐からシステム的には納得のいく回答をもらってる───それが良いことなのか悪いことなのかはさておき。

 要するに、今更の話題なのである。


 晴輝が言う。


「えと、アインシュタインが言ったのって、宇宙への畏怖みたいなニュアンスじゃなかったっけ?」

「倫理のほうがわかりやすいだろ」


 奏が答える。

 今度は直之が言った。


「古文や漢文が倫理を鍛えるという根拠はどこにもないのだが……。それに高度な文系学問を習得した人間が社会へ悪事をなした例も枚挙に暇がない程あるし。古文や漢文を学んでもエンジンだけで崖に突っ込む人は多いと思うよ」

「………」


 直之がそう言うと、奏はニコニコと笑顔を浮かべていた。


(ん? 反論ないの? おかしいな。いつもの奏なら反論しそうなものだが)


 晴輝は反論しない奏の様子がいつもと違うと感じていた。

 奏はアインシュタインの話題をやめ、こう言った。


「社会のルールは全て頭の良い奴らが作っている。そのルールは頭の良い奴らに都合のいいように作られているんだ。騙されたくなかったら、損をしたくなかったら、勉強するしかないんだよ」


(なんだなんだ? 今度はドラゴン桜か? 奏、なに考えてる?)


 直之が言う。


「ドラゴン桜ね。それも問題あるよねえ。ルールを作る人=悪人なの? 騙す人なの? 損をさせることをなんとも思わない人なの? そういった倫理的に問題のある人間なの? そう決めつけるのは良くないと思うよ。これがまず1つ。あとドラゴン桜の説明を鵜呑みにすると、自分がルールを作る側になった時、また自分たちに有利な倫理的に問題のあるルールを作ってしまう危険性があるんだよね。トップに立つ人間が変わっただけで、クソルール自体は変わらないだけの社会になる危険性。これが2つめ。この2つの欠陥があると思うけど、どう思う?」

「………」


 奏はニコニコ笑顔を浮かべるだけで何も言わなかった。

 直之が話を続ける。


「個人的に一番問題だと思ってるのは、こういった指摘を誰もしないということ。得意気にドラゴン桜を紹介するだけで、その教えが抱える危険性を誰一人として指摘しないということ。指摘しないというその事実自体が倫理的な欠陥を抱えてるし、とにもかくにも子供に勉強をやらせようという欲望が暴走しすぎて倫理的な問題に気付けないという教育の闇を感じるのだが、どう思う?」

「……そうかもね」


 奏は満面の笑顔を崩さず、ニコニコしながら言った。

 晴輝は驚いた。


(マジかー。反論しないのか! 奏どうした? なにか悪いモノでも食べた?)


「いや、ちょっと待ってくれ」


 晴輝は口を挟んだ。


「ドラゴン桜は単に生徒の為を思ってのアドバイスだろうし、その教えだって今あるルールが悪であると見抜く力を養う為に勉強する、つまりルールを作る側に立った時、既存のルールが悪だったことに気付ける───と解釈すれば問題ないでしょ」

「そういや晴輝はドラゴン桜好きだったよな」


 奏がそう言ってきたので晴輝が答える。


「まあね。砂の栄冠も好きだよ」

「野球のやつだっけ。オレはプレイボールやキャプテンが好きだな」


 と、晴輝と奏は漫画の話を始めた。

 しばらくの間、漫画の話で盛り上がる二人。


 直之は蚊帳の外だったが、一度だけ奏が直之にも話を振った。


「直之のお勧め漫画ってある?」

「……………ない」


 ぼそっと答える直之。

 場に一瞬、緊張が走る。


「そっか」


 奏はあっさり返し、再び晴輝と話し始めた。

 昼休みが終わったあと、晴輝は思った。


(そうか。たぶん奏は仲直りしにきたのか。だから反論せずニコニコしてたんだ)


 惜しむらくは、奏が手を差し伸べた時、直之がその手を取らなかったこと。


(直之もなあ。意固地にならず、仲直りすればいいのに)


 とはいえこれは良い兆候かもしれない。

 仲直りする日も近そうな、そんな気がした。




 数日後。

 朝のホームルーム。


(また遅刻か。直之は)


 直之の姿が見えなかったが、いつもの遅刻だと晴輝は考えていた。

 ホームルームの終わり際、担任の教師が言った。


「皆に伝えなければならないことがあります。西野直之くんが、昨日亡くなりました。詳しい事情については、ここでは話せません。心身の不調を感じたら必ず大人に相談してください」


(…………………え?)


 晴輝は固まった。

 教師が何を言ったのか、全く理解できない。

 いや、理解はできたのだが、感情が追いつかない。

 冗談だと言ってほしいが、こんな冗談を言う教師はいない。


 じわーっと、暗い感情が体中に湧き上がってくる。


(なん……で……………)


 詳しい事情はここでは話せないとは、どういう意味なのだろうか?

 突然のことにクラス中がざわついている。

 なかでも、直之と一番仲の良かった晴輝の動揺はひとしおである。


 担任教師が退出したあと、クラスメイトの多くはスマホを見ていた。

 ニュースを見れば直之について何かわかるかもしれない。

 事件や事故に巻き込まれたなど。

 遅れてそれに気付いた晴輝もスマホを見てみることにした。


 ニュースには、関係ありそうな事件や事故はなかった。

 地元のローカルニュースもチェックするが、やはり何もない。


 あまりにショッキングな出来事。

 授業が始まったが、動揺が激しい晴輝は全く身に入らなかった。




 休み時間。

 またスマホでニュースを見ていた晴輝に、クラスメイトの話が断片的に聞こえてきた。

 聞き逃せなかったワードは自殺という言葉。

 晴輝はそのクラスメイトの元へ向かった。


「ちょっと話が聞こえたんだけど、さっき自殺って言った?」


 女生徒が答える。


「西野くんのこと?」


 小さく頷く晴輝。


「私も聞いた話なのでハッキリとはわからないけど……親が看護師で病院で働いてる子がいて、そういう話を聞いたって。昨日の夜、自殺した高校生の男の子が病院に運ばれてきたって」

「どこの病院?」

「たしか中央病院とか言ってた」

「ホントに自殺なの?」

「だから私もハッキリとはわからないよ。そういう話を聞いたってだけで……」

「そっか。ありがと」


 晴輝が踵を返そうとした時、女生徒が心配そうに言ってきた。


「あ、ねえ、大丈夫? 顔色悪いけど……気分悪いなら保健室行ったほうがいいと思う」


 たしかに気分は最悪だ。

 ずっと胃が痛い。

 体中がざわつき、落ち着かない気持ち悪さ。

 心を健全に保つための安全装置を壊されてしまったかのような感覚。


 授業どころじゃないと思った晴輝はすぐさま職員室へ向かい、担任に早退を願い出た。

 直之と晴輝が仲が良かったことを知ってる担任教師は、早退をすぐに了承した。

 今日はゆっくり休むようにと。




 夜。自宅の自分の部屋。

 ベッドの中で晴輝は大粒の涙を流し嗚咽を漏らした。




 翌日。

 まだ少し胃が痛い。

 昨日よりはマシになったものの、気分は良くない。

 泣いたせいで、目もちょっと腫れている。


 祖父は学校を休むことを提案してきたが、学校へは行くことにした。

 スマホで『目のむくみを取る方法』を検索。

 熱いタオルと氷水につけたテッシュを交互にあて、マッサージをしたら少しマシになった。




 休み時間。

 奏と廊下で話す。


「大丈夫か?」


 晴輝は奏に言った。

 自分も気分は良くないが、奏は自分以上に憔悴しきってるように見えた。


「ああ……」


 そう答えたものの、全然大丈夫に見えない。


「奏は何か聞いてる? 直之のこと?」

「自殺って噂あるけど本当なのかなあ?」

「ホントだと思うよ。事件ならニュースになるし事故なら隠す必要がない。親が病院で働いてるっていう人の証言も嘘つく理由がないし、たぶんホントだと思う」

「………そっか」


 状況証拠からは、自殺の可能性が一番高いと思われる。


「いきなりだよなあ」

「うん……」

「なんで自殺なんか……理由が全くわからない。奏は何か心当たりある?」

「!!」


 晴輝の問いに、奏は表情をこわ張らせた。


「………」

「………」


 重い沈黙が流れる。


「……奏、何か知ってるの?」

「………」


 無言のまま、視線を伏せている奏。


「何か知ってるなら教えてほしい」


 親友はなぜ死んだのか?

 晴輝はただ真実を知りたかった。

 どんな情報でもほしい。


「……放課後、話すってことでいいか?」


 奏は絞り出すように言った。


「いいよ。そうしよう」


 本当は放課後に会いたい人がいたのだが、その予定は後回し。

 奏から話を聞くほうが先決だと、晴輝は判断した。




 放課後。

 二人は公園のベンチで話すことにした。


「直之が死んだことに関係あるのかはわからないけど……」

「どんな事でもいいよ。教えてくれ」

「ああ……」


 奏は自分の知ってることを晴輝に話した。


 奏と直之はケンカした。

 こちらから歩み寄ってるのに塩対応をしてくる直之に腹が立ち、つい補修を受けてることをバカにしてしまった。

 そしたら直之のほうも、奏に彼女がいないことをバカにしてきたので、売り言葉に買い言葉。

 二人ともヒートアップして罵り合い。

 ケンカ別れしてしまった。

 言い過ぎたかな、謝ったほうがいいかなと考えてるウチに直之が死んだという訃報。

 これが奏が語った内容だった。


「……直之に、どんな事を言ったの?」

「底辺とか落伍者とか、深海魚野郎とか……」


 酷いことを言う。

 晴輝は胸が痛くなった。


「でもアイツだって色々言ってきたよ。非モテとか恋愛弱者とかインセルとか」


 インセルというのは不本意な禁欲者という意味で、モテない故に人格が破綻した人のような侮蔑のニュアンスが強い悪口のこと。


 こちらもこちらで、なかなか酷いことを言う。

 どっちもどっちなのかなと晴輝は思った。


「歩み寄ってくれたらケンカする必要もなかったんだが……」


 奏は遠い目をしていた。


「でも、オレもたしかに良くなかった部分があった」

「どんな?」

「直之の彼女を、黒魔術好きそうと言ったのは良くなかったわ」


(そんなこと言ったのかコイツ)


「それなに? 本人に言ったの?」

「昔、直之と彼女を見かけた時にたまたま。悪気はなかったんだけどね」

「悪気あるだろ。なにやってんだよ……」

「失敗だった」

「彼女を貶されたら、そりゃ怒るってば。だからあんな長い間、険悪だったのか」

「………」


 以前、モールでも奏は彼女の悪口を言っていた。

 その時もっと強く窘めておけば良かったと、晴輝は後悔した。


「その彼女には謝ったの?」


 ふるふると首を振る奏。


「ハァ……お前がしなきゃいけなかったのは、その彼女への謝罪だと思うよ」

「………」


 ケンカした時、直之が傷ついた可能性はある。

 だが、直之もけっこう言い返してる。

 たしかに酷いことを言い合ったようだが、それはお互い様な感じがした。


 自殺の原因として、ありえなくもないが、ちょっと弱い。




 さらに翌日。

 胸の痛みはいくらかマシになってきた。


 放課後。

 今度は昨日会えなかった、直之の彼女に会いに行く。


 名前は白川美月。

 一年生でクラスは知らないが、部活は知ってる。

 直之と同じ文芸部だ。


 校舎の一角に文化系の部活が集まるエリアがあり、文芸部もその中にあった。


 晴輝はノックをして文芸部のドアを開けた。

 ナントカ準備室と似たようなコンパクトな部屋に、三人の女生徒がいた。

 皆、一斉にこちらを見る。


「ええっと、いきなりゴメンね。白川さんってキミだよね?」


 幸い、目当ての彼女は部室の中に居た。


「はい」

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、話せないかな? 食堂あたりで」

「なんの話ですか?」

「えと、すぐ終わるよ。5分か10分で。直之のこと」




 食堂へ移動。

 隅のほうにあるテーブルに向かい合って座る。

 自販機で飲み物でもと思ったが、美月はそれを丁重に断った。


「そういえば自己紹介まだだったね。俺は久世晴輝、直之の友達」

「知ってます。友達というのは聞いてるし何度か会ってますよね」


 たしかに顔を合わせたことは何度かある。

 知っててもらえるなら話は早い。


「直之のこと……何か……聞いた?」


 晴輝が聞くと、美月は表情を曇らせた。


「……西野先輩、亡くなったんですよね。自殺という噂は聞きました」

「うん……」


 こういう事実確認は辛い。


「……それで、白川さんは何か知ってるかな? 自殺の理由に心当たりがあったりとか……?」

「………」


 美月は答えにくそうに下を向いた。

 なんだか奏の反応と似ている。


「白川さんは直之と付き合ってたんだよね? どんな些細なことでもいいんだ」

「すみません。私もホントにわからないんです。付き合ってのは事実ですが、もうやめようって言われまして……」

「そうなの?」


 別れていたというのは初耳だ。


「はい。お試しの付き合いは解消したいって言われました」

「直之から言い出したの?」


 美月が頷く。


「理由はなんて?」

「短編をパクった事を打ち明けられなかった自分はダメ人間だとか、キミに相応しくないとか」

「もしかしてダイアウルフの話?」

「それです。先輩も読んだんですか?」

「ああ、面白かったよ」

「ですよね。私も面白かったです。今の教育システムの空虚さを上手く捉えてるなって」

「パクりというのは本人が言ったの?」

「ええ。私は違うと思うって言ったんですけどね。商業作品だってパクりみたいなのは氾濫してるし、ましてや素人文芸ならインスパイアなんてよくある話です。オリジナル部分が半分以上あれば問題ないと個人的には思います」


 別れは直之から切り出した、ということは失恋が自殺の原因という線も消えた。

 では自殺の理由とはいったいなんなんだろうか?

 と、晴輝は考え始めた。


 美月が言った。


「……あの、参考になるかわからないですけど、西野先輩の作品、読みますか?」


 直之の作品。

 そこに何かヒントがあるんだろうか?


「実は西野先輩が書いた作品の中に、自殺が出てくるものがありまして」

「マジで?」

「ええ。西野先輩が亡くなって文芸部の皆も動揺してます。それで先輩の作品を皆で読み直してみようってことになって」


(なるほど。さっき部室で集まってたのは、直之の作品を読み直していたという事か)


「うん、それは是非読んでみたい」




 文芸部の部屋に二人は戻ってきた。


「これです」


 美月は二枚の紙を差し出した。

 一枚目にはタイトルと名前。

 本文は二枚目にあるのだろう。


「短編?」

「ですね。西野先輩は短編が多かったです。寓話みたいな感じですね、それは」


 とりあえず読んでみる。




─────直之が書いた短編─────




『注文の少ない激辛料理店』




 ある国に大人が子供に無理やり激辛料理を食べさせるという儀式がありました。


 無理やり激辛料理を食べさせるのが子供の成長にはいいだろうと思われていたのです。


 だけど実際、無理やり激辛料理を食べさせることにどんな効果があるのかはわかりませんでした。

 だが、やめるわけにもいきません。

 子供たちに無理やり激辛料理を食べさせないと、国中にあるエスニック料理店が潰れてしまうのです。


 いつしか無理やり激辛料理を食べさせるのは神聖な儀式として祭り挙げられるようになりました。


 ある日、一人の子供が自殺しました。

 遺書にはこう書いてありました。


「儀式が嫌なので死にます」


 大人たちはこう言いあいます。


「神聖な儀式から逃げるなんてとんでもない弱虫だ」

「激辛料理を我慢するぐらい出来るだろ」

「何も死ぬことはないのに」


 子供の遺書には続きが書いてありました。


「無理やり激辛料理を食べさせられるも嫌でしたがそれ以上に嫌だったのは、意味もわからず無理やり激辛料理を食べさせられるのは苦痛であると───そう問題視する大人が一人もいなかったことです」




─────




「たしかに自殺を扱ってるね」


 この寓話はどう捉えたらいいのだろうか?

 晴輝が難しい顔をしてると美月が言った。


「最大の苦痛は共感性の不在であると。そういう事が言いたかった寓話なのでは───って話を皆でしてましたが、先輩はどう思いますか?」

「共感性の不在か……たしかにその解釈は妥当だね。この短編から読み取れるのは。手段を正当化する為に目的が捏造されてるというのも罪深い点だね」

「私も同じこと思いました。ダイアウルフの話にちょっと似てますよね。目的の為の手段だったはずが、手段を正当化する為に目的を書き換える、みたいな倒錯があります」


 しかしこれだけでは、直之との繋がりがよくわからない。


「他にも短編があるの?」

「ありますよ。いっぱい。たぶん100以上あります」

「そんなに!?」

「西野先輩、短編が多かったですからね。作品数が多い代わりに長編が1つもないんです」

「他にも自殺を扱った短編あるの?」

「ないと思いますが、皆で読み直してる状況です」

「もし迷惑でなかったら、俺も参加していいかな? その読み直す作業」

「私は構わないですが……」


 美月が他の部員の反応を窺うと、他の部員は『西野くんの友達なら』という事で、読ませてもらえることになった。


「他の部の先輩にもお願いしておきますね。久世先輩が来たら作品を読ませてあげてくださいって」

「ありがとう」


 なかなか気が利く。


(いい子だなあ)


 これまで話してきた感じ、とても黒魔術が好きそうなタイプには思えない。

 髪が長く、前髪がちょっと目にかかってるので、それで印象を損してるような気がした。




 次の日、晴輝は文芸部のメンバーと一緒に直之の作品を読んでいった。

 だが、なかなか自殺の理由に関係ありそうな作品が見つからない。

 そんな時だった。


 その日の夜。

 自宅に日付指定のゆうパックで封筒が届いた。

 宛名は晴輝になっていて、差出人は西野直之と書かれていた。


「!?」


 自分の部屋で封筒を開けてみる。

 中にはこう書かれていた。




─────直之から送られてきたもの─────




 先に結論を書くとワガママなダメ人間だから死んだ。

 ただそれだけ。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 これはダメ人間の証拠。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 善意にはうんざり。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 空役はもう疲れた。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 罪石はもう疲れた。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 踏み台はもう疲れた。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 蟲毒はもう疲れた。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 僕の人生は一事が万事、こんな調子なんだろうね。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 常にこういう苦しみがついて回る人生。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 それは絶望しかない。


『皆が我慢できることが我慢できない』

 もう死ぬよ。バカバカしい。


 皆が我慢できることが我慢できない。

 とどのつまりは、冒頭の言葉に尽きるということ。


 晴輝には感謝してる。ありがとう。

 お祖父さんにもよろしく。



PS

もし機会があれば美月ちゃんにも「ありがとう」と伝えてほしい。




─────




「………」


 晴輝は絶句した。

 なんだかとても気が滅入る文章だ。

 こんなサイコな遺書、初めて見た。


 リフレインされる言葉が呪詛のように響く。

 まるで呪いのマントラを聞かされたような気分。


 仮にも文芸部ならもっと綺麗な文章を書けただろうに。

 なぜこんな文体にしたのだろうか。


 そこまで考えてハタと気付く。


(……………それほど、それを強調したかったということ?)


 いったい直之は、何が我慢できなかったのだろうか?




 次の日。

 晴輝はまた文芸部を訪れた。


「皆はまだ?」


 この日は美月だけがいた。


「はい。というか、来るかどうかもちょっとわからないです」

「そうなの?」

「西野先輩の作品は部誌のコピーでも読めますからね。自宅で読んでるのかもしれません。私は一年生で昔の部誌は持ってないので、ここで読むしかないですけど」

「他の部員は二年や三年が多いの?」

「一年生は私だけです。あと元々そんな毎日来るような部活でもないですし。ああいう事があったんで私は今日も来ましたが、いつもは週に2~3回です」


 一年生であんな仕切ってたのかと、晴輝は少し驚いた。

 まぁ文化系の部活はいろいろ緩いところが多いので、絶対におかしいというわけではないが。


「なにか見つかった?」

「それなんですけど、自殺の理由に関係ありそうなものを1つ見つけました」

「どんなの?」

「これです」


 美月は紙の束を差し出した。

 晴輝は受け取った作品を読み始めた。




─────直之が書いた短編─────




『言いたいセリフ・ランキング第7位「お前の苦痛など、どうでもいい」』




 ある旅人が、レンガを積んでいる4人の人間に「あなたは何をしているのですか?」と同じ質問をしました。


 4人はそれぞれ次のように答えました。


1人目「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ」

2人目「大きな壁を作っているんだ。これで家族を養う金を得るのさ」

3人目「歴史に残るような素晴らしい大聖堂を造っているんだ」

4人目「私は、この大聖堂で人々が祈り、安らぎを得るための場所を造っているんだ」


 旅人は考えました。


 1人目は単なる作業としてこなしているため、仕事に喜びがなく苦痛だろう。

 2人目は目的は明確だけど仕事自体は手段にすぎないので疲れやすいだろう。

 3人目は自分の仕事が「誰のために、何のために役立つのか」という大きなビジョンを持っているので高いモチベーションを維持できるだろう。

 4人目はその先にある人々の幸せを見ているので高いモチベーションがあり、かつ幸福だろうと。


 もう少し進むと5人目の作業員に出会いました。

 同じ質問をしてみます。


「あなたは何をしているのですか?」

「……………」


 しかし作業員は何も答えませんでした。


 この作業員が最も不幸なのかもしれないな。

 そんな事を思いながら旅人はその場を立ち去りました。


 旅人が立ち去り、その日の仕事が終わります。

 5人目の作業員は、仕事の監督官にたずねました。


「私はなぜこの仕事をやらされてるのでしょうか?」


 監督官は無言でムチを振るいました。


「痛い。やめてください」

「黙って働くなら、やめてやる」

「わかりました。黙って働くのでやめてください」


 作業員は黙って働くようになりましたが、最低限の仕事をこなすだけなので作業効率は良くありませんでした。

 その様子を若い監督官は見ていました。


 ある時、6人目の作業員が若い監督官にたずねました。


「私はなぜこの仕事をやらされてるのでしょうか?」


 若い監督官が答えます。


「これは大聖堂を作る為です。大聖堂が完成すれば多くの人を幸福にできます」

「なるほど! それは素晴らしいですね!」


 6人目の作業員は自分の仕事に誇りを持ち、自ら進んで熱心に働くようになりました。

 その様子を髭を生やした監督官が見ていました。


 7人目の作業員が髭の監督官にたずねます。


「私はなぜこの仕事をやらされてるのでしょうか?」


 髭の監督官は言いました。


「これは大聖堂を作る為です。大聖堂が完成すれば多くの人を幸福にできます」


 すると7人目の作業員は言いました。


「なるほど大聖堂ですか。しかし私はハヤシライス・クリーチャー教の信者なので、これを作る意味がわかりません。正直とても苦痛です」


 髭の監督官は激怒しました。


「お前の苦痛など、どうでもいいんだよ!」


 髭の監督官は7人目の男を異端審問にかけ、拷問して殺してしまいました。


 それから数十年の時が流れました。

 大聖堂もようやく完成です。


 大聖堂完成の翌日、隣の街から軍隊がやってきました。

 その軍隊はハヤシライス・クリーチャー教を名乗り、街の人間を次々と殺していきました。

 ようやく完成した大聖堂も無残に破壊されてしまいます。


 髭の監督官が抗議します。


「なぜこんな酷いことをするんだ!?」


 軍隊のリーダーは言いました。


「お前の苦痛など、どうでもいいんだよ!」




─────




「これはあれか。有名な三人のレンガ職人のアレンジだね」

「ええ、ピータードラッカーが紹介してたやつですね」


 前半は元の話のままだが、後半は直之のオリジナルと思われる。

 良くも悪くも、直之らしい作品だ。


「タイトルからぶっ込んでるよなあ。なんだよ言いたいセリフ・ランキング第7位って。1位はなんなんだよ」

「あはは。それは私も気になりました」


 美月は笑った。

 それを見て晴輝が思う。


(ふーん。笑うと可愛いじゃん)


「西野先輩によると言いたいセリフ・ランキング第14位は『オマエの代わりなんか、いくらでもいるんだからな!』だそうです」

「アイツらしいセンスだわ」


 晴輝は苦笑した。


「ああ、そうだ。忘れないウチに白川さんに伝えることがあったんだ」

「なんでしょう?」

「昨日の夜、直之から封筒が届いたんだけどね。なかには遺書らしきものが入ってて。『機会があれば美月ちゃんにありがとうと伝えてくれ』───みたいなことが書いてあったよ」

「……………ありがとう、ですか」

「うん」

「他には何か?」

「白川さんへのメッセージはそれのみだけど……えっと、良かったら読んでみる?」

「いいんですか?」

「いいよ。帰りに直之の家族に渡す用に持ってきたコピーを、今ちょうど持ってるんで」


 晴輝は遺書のコピーを美月に手渡した。

 美月がコピーを読み始める。


「……………これはまた……不謹慎かもしれないですけど、西野先輩らしい個性的な遺書ですね」

「個性的というかエキセントリックというか……」

「でもこれでわかりました。西野先輩の自殺の理由」


 美月はサラっと言った。


「え!? これでわかったの!?」

「ええ、たぶん合ってると思います」

「どういうこと? 直之が我慢できなかったものってなに?」

「おそらく『理由を説明されないまま、意味のわからない勉強を強要されること』だと思います」


 わけがわからないという顔をしている晴輝。

 美月はテーブルの上から、ごそごそと何かを探し始めた。


「注文の少ない激辛料理店を覚えてますか?」

「覚えてるよ」

「あれの『無理やり激辛料理を食べさせる』という部分を『無理やり勉強させる』という言葉に置き換えるとしっくりきます」


 テーブルの上からお目当ての作品を探し出す。


「ありました。これですね」


 美月は晴輝に注文の少ない激辛料理店の作品を渡した。

 晴輝は美月に言われた通り、言葉を置き換えて読んでみた。


「特に最後の部分ですね。『無理やり勉強させられるも嫌でしたがそれ以上に嫌だったのは、意味もわからず無理やり勉強させられるのは苦痛であると───そう問題視する大人が一人もいなかったことです』と読み替えると、ほぼ答えだと思います」

「答え……」

「だと思いますよ。西野先輩、意味のわからない勉強を強要されるのはものすごく苦痛だと、よく言ってたんで」


(そんなこと言ってたのか)


 自分はあまり聞いてない。

 いや、聞いたかもしれないが、深刻に受け止めてはいなかった。


「それってそんなに苦痛なの?」


 ピンとこない晴輝は思わずそう聞いてしまった。

 美月は少し苦笑いを浮かべて言った。


「感じ方に個人差があるとは思いますけどね……遺書の中に『空役』や『罪石』って書いてありましたよね?」

「ああ。昔の刑罰でしょ、空役って。罪石という重い石を背負って歩かされるだけの、ただ苦痛を与えることを目的とした刑罰。シーシュポスの神話とか、賽の河原の石積みにも似てるね」

「似てますね。たぶん西野先輩にとって勉強って、空役や罪石やシーシュポスの神話と同じレベルのものだったと思うんです。主観的には、無意味なことを強要される苦痛を与えられてると───主観的にはですよ───それが、だからつまり、意味のわからない勉強の強要=無意味な刑罰みたいな感覚だったんじゃないかなって」


 ぼんやり話が見えてきた。


「日光過敏症というのを御存知でしょうか?」

「日光に弱い病気だよね」

「ええ、軽いのだと皮膚にちょっとダメージが出る程度で済むけど、重いのだと最悪死に至る病です。たいていの人は日光を余裕で我慢できるけど、日光に弱い人はいるんですよね。西野先輩も同じで、たいていの人が我慢できる無意味な勉強を、西野先輩は他の人より過度な苦痛を感じるタイプだった───そういう感性を持ってた人なんじゃないかって」


 なるほど。

 美月の説明はわかりやすい。


 日光に過度な苦痛を感じる人がいるのと同様に、無意味な勉強に過度な苦痛を感じる人もいる。

 直之にとって無意味な勉強の強要とは、空役や罪石のような無意味な刑罰と同じものだったと。


 そして人生において、一事が万事この調子だと思ってしまったと。

 つまり『皆が我慢できることが我慢できない』という状況が、この先の人生もずっと続くと考えてしまった。

 なぜなら直之は自分自身をダメ人間と評価してるから。

 ダメ人間の人生は辛いことばかりが訪れる。


 そんな風に考えて生きるのが嫌になってしまったと。

 自殺したくなる気持ちも、わからなくはない……。


 美月が話を続ける。


「実際、一人もいないですからね。『子供は意味のわからない勉強を強要される苦痛に晒されている。これは大きなストレスであり深刻な問題であり、早急に解決しなければならない!』と主張してる大人って。いるのはただ、煙に巻こうとしたり声を封じようとする大人ばかり。意味のわからない勉強を強要される苦痛って、ほぼ完全に黙殺されてるというのが社会のリアルだと思います」


 理系学問は医学や文明での社会貢献がわかりやすいが、高度な文系学問や体育や音楽や美術などは、それがなんの役に立つのかが不鮮明で、理系と違って巷にあふれる説明に多くの人が納得できるレベルものはない。

 煙に巻こうとしたり声を封じようとする人間が多いのは理解できる。


(ああ、いや、あれなら───)


 晴輝は狐の話を思い出した。

 あれは古典についての話だが、実は他の教科についても部分的には有効な説明方法だ。


 昔の価値観が前例踏襲主義やパス依存性や制度的ロックイン効果によって延々と続いてる状態。

 経済についてもそう。

 大学入試という巨大マーケットに限らず、紙の辞書や参考書やリコーダーや鍵盤ハーモニカや習字セットを買わされるなど、庶民の肌感覚でも納得しやすい事実はある。


「……………」


 晴輝の頭の中は、さまざまな思考が錯綜し始めた。


「さっきは日光過敏症の話を持ち出しちゃったけど、西野先輩が普通の人とは違う特殊なダメ人間だったかと言われると、それも違うと思うんですよね。実際、私は体育が嫌で嫌でしょうがないんだけど、なぜやらなきゃいけないのか納得のいく説明は1つもないし、それを痛みと捉えて問題視してくれる大人もいません。それどころか『苦手から逃げたがる子供は問題』なんて批判する大人までいる。自分たちだって苦手なことから逃げ回って生きてるくせに、何を抜かすのかと」


 一息ついて畳みかける美月。


「昔の給食の『完食指導』と同じですよ。自分たちは嫌いなものを絶対食べないクセに、子供には強要する。やらせたいなら納得のいく理由を言えばいいのに、ごまかす。ごまかすぐらいなら『勤務評定の為』とか『お金の為』とか正直に言えばいいのに。真実を隠してごまかされる苦痛というのも西野先輩は感じてたはず───というか、そう言ってました」


 思考が渋滞中の晴輝をよそに、よほど不満があったのか、美月は教育システムを批判した。


「普段の日光は平気でも、真夏の直射日光を長時間浴びると、それを苦痛に感じる人のほうが多くなるはずです。熱中症とか。西野先輩が抱えていた苦悩は、わからなくはないんですよね。今は無意味な勉強をやらされる苦痛をみな我慢してるけど、真夏の照り付ける太陽みたいに、それは簡単に毒になりうると思います」


 考えがまとまらない晴輝は完全に聞き役になっていた。


「たぶん西野先輩は自分を『ハヤシライス・クリーチャー教の信者』みたいに感じてたんだと思います。最後に逆襲した人じゃなくて、拷問されて死んだ人の立ち位置。いつの時代も異端者は苦悩するし、社会からは弾かれるのが常ですよね。異端者が声をあげても『お前の苦痛なんかどうでもいいんだよ!』───みたいな反応が返ってきやすいというか、だからこその異端というか……」


 美月は最後にこう言った。


「異端者って、生まれた時点で詰みなのかもしれませんね」




 数日後。自宅。


「ねえ、ジイちゃん。頼みがあるんだけど」

「なんじゃ?」

「以前に誕生日プレゼントくれるって言ったの覚えてる?」

「覚えとるよ」

「それ今もらっていい?」

「欲しいものは自分で買うとか言ってなかったか? どういう風の吹き回しなんかの?」

「お金で買えないものなんだよ。そしてそれは、ジイちゃんしか頼める人がいないんだ」

「何が欲しいんじゃ?」

「それはね───」


 晴輝は欲しい物を祖父に告げた。


「そりゃまた、ずいぶん豪気なプレゼントじゃのう。わしが知る限り世界で最も高価なプレゼントじゃ……」

「ジイちゃんしか頼めないでしょ、これ」

「まあな。しかし、はいわかりましたとは言えんぞ。社会に与える影響も大きいからの」

「わかってる。全部説明するよ───」






【Lesson5・終章】




─────12年後─────




 ホテルのカフェ。

 結婚披露宴が終わった頃。


「お待たせ」


 ホテルのゲスト更衣室で着替えた佳織は席についた。

 披露宴で着ていた華やかなパーティードレスから、黒のスラックスにロンT、上から大きめのジャケットを羽織り、足元は履き潰したスニーカー。

 完全に実用性重視の仕事着である。


「早いな。着替えるの」


 晴輝が言うと佳織は笑った。


「いつ電話くるかわかんないからね」

「お前、披露宴の最中も電話してただろ。何回か席を立って。そんな忙しいのか?」

「うんまぁ、それがデフォルトだからねえ。芸能事務所って」


 佳織は芸能界を裏から支える、芸能事務所の社員として働いていた。

 一応、アイドルをやっていた時期はある。

 数えきれないぐらいに挑んだオーディションを奇跡的に通過し、大人数アイドルグループの一員になれたのだ。


 最初は何もかもが新鮮で楽しかったが、それは三か月も続かなかった。

 ある選抜メンバーが同期の新人を陰湿にイジメていて、それに我慢できなかったのだ。

 収録後のスタジオでぶち切れて大騒ぎになった。

 その選抜メンバーは人気があったので、自分がグループを脱退させられることに。

 この仕打ちにもぶち切れて盛大なケンカ別れに。


 しかし捨てる神あれば、拾う神あり。

 たまたま、その現場に居合わせた別の事務所の偉い人にスカウトされたのだ。

 アイドルを勧められたが、もうアイドルはいいかなと思い、それは断った。


 代わりに裏方として働きたい旨を伝え、芸能事務所で働くことに。

 ダンスの技量を評価され、事務所が提携するダンススタジオで講師のアシスタントをしながら、事務所としての仕事も手伝う感じ。

 性格が姉御肌なので、今は若いタレントの良いお姉さん的ポジションに収まってる。


「でもね、今の仕事を一生続ける気はないよ。今の事務所には感謝してるので、ちゃんと話をしてスジを通して、恩返ししてから辞めるつもりだけど」

「そうなの?」

「アイドル時代に仲良くなった本当に尊敬できる子が二人いてね。一人はバレエでローザンヌ入賞までした逸材、もう一人は英語ペラペラの帰国子女。その子たちと三人で、英語教室もある総合ダンススタジオを作ろうって計画してるんだ」

「ローザンヌ入賞? あれってたしか奨学金出るんじゃなかった?」

「スカラシップね」

「そこまでいった逸材なのに、バレエを諦めたのはなんで?」

「しばらく入院するような病気になって、通院が必要になって留学は断念。同時に家庭の事情がいろいろあってバレエの道も諦めたけど、踊ることは諦められずアイドルを目指した感じ」

「ダンスと英語をいっしょにやる意味は?」

「バレエ留学は英語圏のところもあるからだよ。もちろん全年代向けの英語教室もやるけどね。元アイドルやローザンヌの肩書きで集客して、たしかな技術や手厚いケアでリピーターを掴む。深夜や空き時間はレンタルスタジオとして有効活用。ボイトレ教室もやりたいけど、防音工事費とかの予算を考えて、今はまだ検討中って感じ」


 佳織は生き生きと夢を語った。

 こうして見ると、アイドルになりたいと語っていた頃と目の輝きが少しも変わらない。


「いろいろ考えてんのな」

「うん。ダンススタジオで働きたいというのも昔から考えてたことなので」


 晴輝はコーヒーをひと口飲んだ。

 佳織が晴輝にたずねる。


「ハル兄はどうなの? 最近?」

「ぼちぼちやってるよ。そろそろ全国に打って出るつもり」

「おお、いよいよ国会議員様になるのか」

「まだ当選したわけじゃないよ」

「当選は確実でしょ。地盤、看板、カバン、お祖父ちゃんのを全部引き継ぐんだから」

「まあね」


 晴輝の今の職業は県議である。

 大学卒業後、民間で何年か働き、祖父の公設秘書に転身。

 修行を積みながら、地元有権者に顔と名前を覚えてもらう。

 県議は圧勝で当選。

 祖父が全国、孫が地元政治家という世襲議員の二枚看板は強いのだ。

 その祖父が引退を控えてる状態で、祖父の地盤を引き継ぎ、全国へ打って出る準備をしているところ。


「そういや知ってるか?」


 晴輝が佳織に質問する。


「なにを?」

「今日の披露宴の料理って、一部は優斗が作ったんだってさ」

「マジで!?」

「うん。テリーヌだったかキッシュだったか、なんかそれっぽいやつ」

「へー、知らなかった」

「司会の人が説明してたのに、お前は電話中でいなかったからな」

「披露宴の主役が料理するのか」

「そういう演出なんだろ」


 今日の披露宴の主役は優斗だった。

 ホテルの厨房で働いてる料理人。

 その優斗が結婚したのである。


 優斗は公立中学から調理師免許をとれる専修学校へ進み、卒業後はホテルの厨房に就職。

 見習いから始めて、少しずつランクアップしていき、今はシェフ・ド・パルティという部門責任者にまでなっていた。

 その昇進をきっかけに結婚した感じ。


「伸子さん、感極まって泣いてたぞ」

「へー、それはちょっと見たかったな。鬼の形相で怒鳴り込んできたあの光景、今でも覚えてるよ」

「忘れてやれよ、もう」


 晴輝が笑うと、佳織も茶目っ気たっぷりに笑った。




 晴輝の友人宅のマンション。

 三十歳が目前に迫ってくると、友人からの連絡で結婚しましたとか子供が出来ましたとか、そういうのが増えてくる。

 晴輝はこの日、結婚を目前に控えた大学時代の同級生のマンションに来ていた。


 大学時代のフットサル・サークルの友人たち。

 結婚すると趣味の集まりは少なくなるだろうということで、昼にフットサルをし、夜はそのまま飲み会へなだれ込むことになった。


 酒のツマミが足りなくなってきたが、外は雨なので買いに行くのは面倒くさい。

 こういう時はフードデリバリーが便利だ。

 居酒屋にある酒のツマミ盛り合わせセットを注文する。


 しばらく飲んでいると、フードデリバリーが到着。


「俺、出るよ」


 注文した当事者である晴輝が玄関へ受け取りに行く。

 ドアを開けるとそこにはびしょ濡れのレインウェアを着た配達員が立っていた。

 やはり外へ買い出しに行かなくて正解である。


(ん?)


 晴輝は何かに気付いた。

 びしょ濡れのレインウェアに気を取られたが、配達員の顔に見覚えがあったのだ。


「奏……………なのか?」


 配達員も驚いた顔をしている。


 そうだ。

 やはり間違いない。

 この配達員は学生時代の旧友である奏だ。


 二十歳の同窓会で出会ったきりで音信不通になっていた、かつての同級生。

 有名大学に入ったことは知ってるが、そこから先が全くわからない。


「………」


 奏は無言でデリバリーの品を差し出してきた。

 だが、晴輝はすぐに受け取れなかった。

 受け取ったら奏がすぐに立ち去ってしまうような気がしたのだ。


「………」


 躊躇している晴輝に対し、奏はもう一度、今度は押し付けるようにデリバリー品を押し付けてきた。

 そんな風にされて、晴輝はそれを受け取らざるを得なかった。


 デリバリーを晴輝に強引に受け取らせ、背を向けて帰ろうとする奏。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 背を向けたまま、奏が一瞬立ち止まる。

 何を言えばいいのか?


 高速で思考を回転させた晴輝はこう言った。


「連絡くれ。俺のスマホは昔と同じ。連絡先変わってないから」

「………」


 奏は何も言わず去っていった。

 それを名残惜しそうに見送った晴輝はデリバリーを足元に置き、ポケットからスマホを取り出した。


 配達員の名前は『k.sato』となっている。

 佐藤という苗字はありふれてるので気付けるわけがない。

 まだ配達員にメッセージを送る機能が有効だったので、短くこう書き込む。


 今度、飲みにいこう。俺のおごりで。




 数日後。

 居酒屋で晴輝と奏は再会を果たしていた。

 先日のやり取りを別にすると同窓会以来、久々の対面である。


「音信普通になったから、心配してたんだぞ」

「………」


 何も言わない奏。


「……まぁ飲もう。久しぶりに会ったんだから」


 晴輝がレモンサワーをぐいと飲むと、奏も生ビールを少し飲んだ。

 話題はもっぱら漫画や映画や音楽や最近ハマってる動画など、趣味の方向に終始した。

 奏は口数が少なかったが、ぽつぽつと話題に乗ってきてくれた。


 ほどよく酔いがまわってくる。


「……………オレのこと、何も聞かないんだな」


 奏は小声で言った。


「聞いてほしいなら聞くし、聞いてほしくないなら聞かない」

「………」


 しばらくして、奏が突然笑い出す。


「ふふふ……オマエのそういうとこ、昔から嫌いではなかったよ」


 奏は自分のことを話し出した。


 有名大学に入り、大学院まで進む。

 卒業後、就職するがバカな上司に我慢できず退社。

 次の会社は周囲から浮いて、馴染めずに退社。


 そこから再就職は全くうまくいかず、短期の仕事で食いつなぐ。

 ダラダラ年をとり現在に至ると。


「負け組ですわ。まごうことなき負け組」


 自嘲気味に言う奏。


「俺はその言葉嫌いだな。他人様の人生にそんなレッテルを貼りつける奴のほうが、よほど負け組に思える。生きる事をディスるのは間違ってると思うよ」

「綺麗事は聞きたくない」

「そりゃすまなかった」


 本心からの言葉なのだが、そういう話は聞きたくないらしい。

 晴輝はレモンサワーを飲み干し、タッチパネルでおかわりを注文した。


「大学院まで出たならさ、そのスキルを活かしてみたらどう?」

「例えばどんな?」

「塾や予備校なら重宝されるんじゃない? 高い学力って」


 晴輝が言うと、奏は鼻で笑った。


「何がおかしいの?」

「いや、オマエのことは一目置いてるが、そんな凡庸なことを言われるとはねえって」

「凡庸で何が悪いのか、意味がわからんのだが」

「悪いとは言ってないよ」

「じゃあ何で笑ったん?」

「笑いたくもなるさ。そんな事を言われたら」

「なんで?」

「………」


 その質問に奏は答えなかった。


「ポスドク問題を知ってるか?」

「知ってるよ。高学歴ワーキングプアだろ?」

「オレはまさに、その罠にハマってしまったんだよ」

「罠?」

「そう、罠。社会が仕掛けた壮大なペテン」

「ペテンって、どういうこと?」

「社会は高学歴を持てはやすが、その高学歴はなんの役にも立たないっていうペテンさ」

「………」

「就職に大事なのは年齢と、どんなスキルを持ってるかっていうそれに尽きる」

「理系の院卒なら分野によっては需要あると思うけど」

「文系だよ、オレは」


 これは意外だ。

 高校の時は理系クラスだったのに、文系にシフトチェンジしたらしい。


「文系の大学院卒なんか、どこにも需要なんてないのさ」

「そうなの?」


 その事実はなんとなく知ってるが、確認の意味でたずねてみる。


「そう。法律ってあるよな。いかにも役に立ちそうなものなんだが、それですら就職には全く役に立たないという罠があるんだよ。実際、自殺したポスドクは法律を学んでた人だったし」

「あれは憲法だからという部分も大きいのでは? 商法や民法なら評価してくれる企業もあると思うけど」

「どうだか。民間企業は高学歴の文系に冷たいよ。年を取るとゴミ扱いされるのが現実だ」

「まだ三十路にもなってないのにそんな」

「いや、アラサーになるともうダメだね。書類審査すら通らない。無機質なお祈りメールが届くだけ」

「………」

「ペテンなんだよ、全てが。社会に求められるままに高学歴を得たのに、なんの見返りもなくハシゴを外される。驚いたね。まさかこんな壮大なペテンが待ち受けてるとは夢にも思わなかったわ」

「………」


 晴輝は昔、優斗のプチ家出騒動の詳細を祖父から聞かされたことがある。

 その時に祖父が言ったことを思い出していた。


 『学歴というのはクソ強い武器ではなく、炎属性の呪われた武器。炎が弱点の敵にはクソ強いけど、普通の敵には普通の武器、そして炎無効の敵にはなんの役にも立たないガラクタ。呪いが発動して壊れた人間は少なくない』───という話を。


「でも卒業直後は就職できたんだよね?」

「ゴミみたいな上司がいるゴミみたいな企業にな」

「次の会社は?」

「いろんな意味で噛み合わなかった。遠巻きにオレを見てコソコソ笑いやがる。そんな陰湿な会社なんかこっちから願い下げだわ」


 奏はビールを一気にあおった。

 グラスを乱暴に置き、何かを睨むような眼をしている。


「学歴ってなんなんだろうな。人生をフルマラソンに例えるなら、学歴って3キロ先からスタートできる権利みたいなもんだよな。元々体力のある奴は3キロ先からスタートだけでもすごく有利にレースを展開できるけど、体力のない奴はすぐに脱落する。本当は完走する力こそが必要なんだけど社会はそれを鍛えることは全くしない。人生なんて、就職してからのほうが長いのに……」

「………」


 どうやら奏は呪いが発動してしまったらしい。

 マスクマンや狐の話は奏に聞かせてやった方が良かったかもしれない。


 『自衛隊に数年勤務し、ある程度出世する+頭の良さを証明する資格というのは、就職にすごく強いのよ』


 あの時は異色のキャリア過ぎて現実味が無かったが、いま考えると、それも十分アリな気がした。

 目の前の奏を見てると、そんな風に思える。


 向上心のない者はバカだとか、奏は自衛隊に入ってその無駄に高いプライドを徹底的に破壊してもらうといいよ。そこで出世できるまで死ぬ気で頑張るといいよ。そのほうが就職できると思うよ───と言いたい誘惑に駆られたが、それは言わないでおく。


「まぁ飲めよ、今日は。俺のおごりなんだから」


 晴輝は奏の為にビールの追加注文をした。

 奏が晴輝に言う。


「オマエはいいよな。県議としていろいろ美味い汁を吸ってるんだろ? 税金チューチューしてるんだろ?」

「なんだよそのイメージ。俺はしてない───してるっぽい奴はいるけど───議会の下っ端は大変なんだぞ。政務活動費の領収書切るのも大変だし、本会議や委員会や地域の会合や終わりの見えない資料読みや資料作りで、美味い汁なんか吸うヒマないっての」

「そうか。オマエも苦労してんだな。いつか知事を狙ってるのか?」

「いや、次は全国を視野に入れてるよ」

「国会議員?」

「ああ」

「だったら公設秘書でオレを雇ってくれよ」

「悪いが予約済だ。私設も公設も全て」


 晴輝がそう言うと、奏は視線を伏せた。


「……そうか。オレみたいな奴は要らないよな。どこにも誰にも必要とされてない」

「いや、そうじゃなくて、ホントに予約済なんだってば」

「いいんだ。オレなんか社会のゴミなんだ。要らない存在なんだ」


 だいぶ酔ってきたようで、奏はテーブルに突っ伏し、グダグダとくだをまき始めた。


「こんなペテンを放置してるゴミのような社会で生きる意味って、どこにあるんだろうな? 直之がさっさとドロップアウトした気持ちがわかるわ。今は……」

「やめろ。冗談でもそんなこと言うな」

「………」


 学歴の呪いは想像以上に深刻に見える。

 命は大切とかなんとかの、キレイゴトの類は言わないほうがいい。

 そういう下手な慰めは逆効果だ。


 だが、ここで旧友を放っておくわけにもいかない。

 ホントに自殺してしまいかねない危うさは、少しある。


 と同時に、晴輝は教育システムの闇も感じた。


 ポスドク問題。

 高学歴の文系は年をとるほど就職が難しい。

 本当は完走する力こそが必要なんだけど、社会はそれを鍛えることは全くしない。

 人生なんて就職してからのほうが長い。

 いずれも事実だ。


 こういった大事なことを教える人が奏の周りに一人もいなかったというのは、何気ないことに見えて───実は非常に闇深く感じる。


 世間は奏を社会勉強が足りない学歴バカと見做すだろう。

 しかし甘言をもって教育というレールに乗せ続け、さんざん玩具にしておきながら、用済みになったら捨てる。

 これは果たして道義的にどうなんだろう、という思いは少しある。


「………」


 晴輝は奏を元気付ける為にこう言った。


「……なあ、さっきペテンって言ったよな? そのペテンを潰せると言ったらどうする?」


 突っ伏してる奏が顔をあげる。


「……そんなことが、可能なのか?」

「今すぐってわけじゃないけどな。まだ青写真の段階だけど───」


 晴輝は奏に大雑把な計画を話した。

 話を聞き終わった奏がたずねる。


「それ、本気なのか?」

「もちろん。プランはもっと詰めなきゃならないし、根回しもかなり骨が折れそうだが、本気だよ。直之の自殺はどうすれば防ぐことが出来たのか、ずっと考えてた。その問いに対する俺なりの答えが、いま話したものなんだよ」

「………」


 酔いが冷めたような真顔で奏は晴輝を見ている。


「それを本当に実現してくれるなら、ちょっとは救われるかもな……」

「上手くいくかはわからんけどね。まぁやるだけはやってみるさ」

「是非やってくれ。いつかそれが叶うならオレは次の選挙、オマエに入れるよ」


 奏は少し、ほんの少しだけ笑いながら言った。


「そうしてもらえると、ありがたい」


 晴輝も笑顔で返した。




 自宅。リビング。


「ジイちゃん、ありがとね」


 晴輝は祖父に言った。


「何がじゃ?」

「誕生日プレゼント」

「ああ、十二年後の誕生日プレゼントじゃな。たぶん世界最長なんじゃないかの?」


 昭雄は豪快に笑った。

 老いてますますさかんな、エネルギッシュなお祖父ちゃんである。


「本当に実現してくれるとはね。さすがジイちゃんだよ」


 十二年前、直之の自殺直後。

 晴輝はある計画を胸に抱き、祖父に選挙権の年齢引き下げをお願いした。


 選挙権は十八歳から十六歳への引き下げ。

 この法案が最近可決されたのだ。


 子供が苦しむ理由は複数あるが、その中には選挙権がないから、というのがある。

 つまり選挙権がない為に、政治家は子供の利益を真剣に考えようとはしない。

 票を持ってない子供に対しては、利益の代弁者になりにくい構造があるのだ。


 そこで選挙権年齢の引き下げである。


「ベルギーやオーストリアでは既にそうなってるからのう。若者の政治参加は、わしは良いことだと思っとるよ」


 ただ、選挙権の年齢引き下げは計画の一部に過ぎない。

 本当にやりたいことは、また別にある。




─────5年後─────




 永田町にある議員会館。


 国会議員の晴輝は執務室で仕事をしていた。

 仕事といっても荷物をダンボールに詰める荷造り。

 解散を目前に控えたタイミングでは荷造りをしておくのが議員の通例である。


「先生、後援会の方々がいらっしゃってますが……」


 前室から秘書が声をかけてくる。


(後援会がわざわざ永田町まで? このクソ忙しい時になんの用だ?)


 よくわからないが、秘書に通すように伝える。

 数分後、やってきたのは後援会の人間と、見覚えのない面子が半数以上。


 自分はデスクの椅子に座り、来客はソファーへ。

 席が足りない分は秘書にパイプ椅子を持ってこさせた。


「部屋が散らかってて申し訳ないです。引っ越しの準備中なもんで」

「いやいや構わないよ、若先生。こっちこそ悪いね。急に押しかけて」


 後援会の顔役が言う。


「初めて見る顔が多いのですが、どちら様でしょう?」


 晴輝の問いに顔役が答える。


「紹介するよ。彼らは───」


 と顔役は引き連れてきたメンバーを紹介した。

 地元大学の教授と講師、私立高校の理事長、予備校のエリア統括マネージャー、塾の経営者。

 そして後援会の顔役を合わせた六人が、やってきた面子である。


「とりあえず彼らの話を聞いてやってくれ」


 顔役に促され、予備校幹部の人間が晴輝に言う。


「先生、聞きましたよ、なんでも教育改革を考えてるんだとか?」


(ああ、なるほど。この話か)


 晴輝は彼らが何をしに来たのか瞬時に理解した。


「ええ。考えてます」


 それにしても、政策はまだ世間に公表してないのに耳が早い。

 秘書が人数分のお茶を持ってくる。

 晴輝はお茶を配ってる秘書に、あることを依頼した。


「本気なんですか? カリキュラムの全面的な見直しって?」

「本気ですよ。教育システムは抜本的な改革をするつもりです」

「今のカリキュラムをやめて、ビジネススキルを強化するとか聞きましたが」

「そうですね。ビジネススキル”も”強化はします」


 晴輝がそう言うと、大学教授は大げさにため息をついた。


「はぁ……それが国を担う代議士の言葉ですか。学問を軽視し、目先の市場価値で教育を裁く。そんな浅薄な政策は知性の自殺も同義です。大学は職業訓練校ではないんですよ?」

「いえ職業訓練校です」

「はっ?」


 教授の言葉によって、晴輝は”あるスイッチ”が入った。

 間髪入れずにそう言うと教授は目を丸くして驚いた。


「むしろ職業訓練校としての価値が低いことに、今の教育システムの欠陥が現れてると思いますよ。今の学校は全部とは言いませんが、社会とのミスマッチを量産する工場になってる。子供たちが社会に出た瞬間にゴミ箱に捨てるような知識に膨大な時間を捧げるのは、子供たちの未来を奪うのと同義です。その責任をあなた方はいつ取るんですか?」


 挑発的な言葉にしたのは浅薄な政策と言われたことへの意趣返しである。


「ゴミ? 学問はゴミなのか?」

「そうは言ってないでしょう」


 苦笑する晴輝。


「学問の価値は認めてますよ。ただ子供たちには選択肢を与えてあげたい。学問に身を捧げるも良し、仕事に必要なスキルを鍛えるのも良し、といった具合にね」

「そんなスキルを鍛えたいなら、大学以外の場所でやればいいだろう」

「そうはいきません。大学は多額の血税が補助金として投入されてる公的な空間です。大学進学が一般的になった現状、大学のカリキュラムに社会人として役立つ実務を加えることは、血税投入のスジ論としても現実的な解決策としても正しいと思ってます。改革を拒むなら大学という巨大な箱は手放してください。代わりに象牙の塔でも用意しますので」

「ふざけるな! 我々の研究や教育を公共事業と同じレベルで語るな! 補助金は学問の自由を守るためのものであって、国に魂を売るための代価ではない!」


 教授は怒鳴るように言った。

 象牙の塔の意趣返しはやり過ぎだったかもしれない。

 晴輝は教授を窘めた。


「まあ落ち着いて下さい。既に述べた通り、私は学問の価値を認めてるのだから」

「象牙の塔でやれと?」


 私塾経営者が問う。


「それは言いすぎでした。すみません」


 晴輝は素直に謝った。


「ボクはあなたの言うこと、わからなくもないよ。教育の実用性vsリベラルアーツというのは昔から議論されてきたことなんで」


 私塾経営者が話を続ける。


「しかし、あなたの改革案は高校生からなんだよね? そのビジネススキルを鍛えるというのは?」

「違います」

「え、違うの?」

「中学生からです」

「!?」


 高校のカリキュラムは変えないという話かと思ったら、中学からだった。

 予想外の答えに私塾経営者は驚いた。


「教育というのは極論、簡単な読み書きと計算があれば社会人として十分やっていけますからね。生きるのに必要な基礎的な能力は小学校で十分身につく。それ以降の高度な学問は役に立つのもあるけど、役に立たないものがあまりにも多い。これらは全員に強要するのではなく選択制にすべきです」

「学校の勉強は実用性に特化すべきだと?」

「違います」

「違うの!?」


 この議員がイエスと答えたらリベラルアーツの価値を語るつもりだった私塾経営者は、またずっこけそうになった。


「正直言うと、その対立構造にはあまり意味を感じません。教育改革の柱はビジネススキルではなく、コミュニケーション能力です」

「コミュニケーション能力?」

「はい。インテリの皆さんは御存知だと思いますが、アドラーっていますよね?」

「心理学者でしょ」

「ええ。『すべての悩みは対人関係の悩みである』という言葉は有名ですよね。ただそれは少し極論で、事故や病気など対人関係に由来しない悩みは存在します。ですが人生の質の大部分はやはり人間関係に左右されます。例えば幸福度が人間関係に依存することはハーバード大学の長期調査で示されていますし、社会神経科学者のアイゼンバーガーは仲間外れの苦痛が脳内では肉体的な痛みと同等であることを突き止めました。仏教の四苦八苦を見ても不可避な生老病死を除けば、精神的な苦痛の半分は人間関係に由来するものです。そう考えると幸福の少なくとも51%以上、つまり幸福の過半数以上は人間関係に由来するといっても過言ではないと思います」


 ここまで話して周りを見てみたが、特に反応もないようなので話を続ける。


「幸福の51%以上が人間関係に由来するものならば、コミュニケーション能力を上げるのは理に適ってます。小学校と中学校のカリキュラムに人間関係を上手くやる為の授業を取り入れます。高校と大学は必須にするか選択制にするか検討中ですが」


 大学講師が非難するような口調で言った。


「そんなものは学問としてやるべきことなのか? 授業での共同作業や休み時間や放課後で、他人との関りによって自然と学ぶものではないのか?」

「それではダメだから言ってるんですよ。イジメ問題は全く解決策がないし、パワハラ、モラハラなどの各種ハラスメントは横行してるし、対人スキルが低いことによって引き起こされる問題はあまりにも多すぎる。うんざりなんですよ、そういう社会は。もういい加減、誰かが根本的な対策を打ち出すべきだ」

「対人スキルを上げればそういう問題はなくなると?」

「ゼロになるとは言ってません。だが、確実に減る。今よりは確実にマシな社会になりますよ」


 講師が負けじと反撃する。


「待て。あんたは知らないだろうが教育への公的支出が長期的なGDP成長率を底上げするという推計データはたくさんある。リカードやシュルツ以来の人間資本理論を否定するつもりか? あなたが無駄だと切り捨てる学問こそが、巡り巡って社会の厚みを作っているんだ。そんな実用一辺倒なカリキュラムで学問の多様性を損なえば、この社会はますます貧困になるぞ」


 晴輝も反論する。


「その主張は知ってます。マクロ的な解釈としては正しいし、基礎能力である読み書きや計算が底上げをしてるのは認めます。が、教育投資が生産性を上げる主な要因は例えばAIや半導体や最先端工学、その他もろもろの市場価値に直結する分野が数字を牽引しているからです。役に立たない学問があるという事実は変わりません。そもそも対人スキルの低さは労働生産性を著しく下げる要因になります。各種ハラスメント、仕事における連携不足、離職率、メンタルヘルスに大きな関わりがあり、それは莫大な経済損失を生み、こっちのほうがよほど社会を貧困に向かわせる原因になってると思いますよ」


(うーん。まさかマスクマンの論法を使うとは思わなかったな)


 晴輝は心の中で苦笑した。


「あとそもそも、私は多様な学問があっていいという立場です。ただ強要ではなく選択制にしましょうと言ってるだけです」


(何度言わせるんだろうなコレ)


 私立高校の理事長が、苦々しい表情で身を乗り出した。


「先生、現場の混乱を無視しすぎだ。中学からの選択制導入など、私立の独自性を奪う選別と淘汰に他ならない。そんなものは教育ではなく、ただの職業訓練校や資格予備校への変質ですよ。あなたは理想のために巨大な教育インフラを潰す気ですか!」

「理事長は既存システムの維持と子供の未来、どちらが重要とお考えでしょうか?」


 晴輝の冷徹な問いに理事長が赤面して声を荒らげる。


「安定した環境が子供を守るんだ! あなたの急進的な改革は、ただの残酷な実験だ!」

「実験ではありません。最適化です。理事長、資格予備校への変質を嘆くのは今更でしょう。多くの私立校は『難関大合格者数』を競い合っている。それは親や生徒に対して高学歴というプラチナチケット、つまり社会で有利に立ち回るための資格を約束することで生徒を集めているわけです。それだけじゃない。子供に対しても幼い頃から良い学歴があれば良い会社に入れると、何度も繰り返し刷り込んでいる。実態は既に最高級の資格予備校でしょう。違いますか?」

「………」

「そして、職業訓練校としての価値を高めて何が悪いんです? 社会で使い道のない知識を詰め込むより、即戦力のスキルを教える方が生産性も上がるし経済も良くなりますよ」


 晴輝はさらに語気を強める。


「何よりあなたの話には『子供の幸福』という視点が決定的に欠けています。勉強はできるが他人の心の機微がわからず、会社で孤立して心を病む。そんな卒業生を、あなたは成功者として送り出しているのではないですか?」

「それは個人の適性の問題だ。学校がそこまで面倒を見れるわけがない!」

「だからこそカリキュラムとして組み込むんです。対人スキルを磨き、良好な人間関係を構築する術を身につけることは偏差値を5上げるよりも、その子の生涯の幸福度を確実に底上げする。いじめに加担せず、ハラスメントしないよう気を遣い、周りの人間と良好な関係を築き、孤独に苛まれない。そんな生きるための基礎体力を授けることこそが、教育の本来の役割であるはずだ。あなたは経営の混乱を恐れているが、私は子供たちが不幸な大人になる未来を恐れてます」


 最後にこう付け加える。


「この政策の最も優れているところは経済が良くなるというもあるのですが、それより何より、社会全体の幸福度を上昇させることにあります。政治というのはつまるところ、それが究極目標ですからね。その勉強がなんの役に立つのかを合理的に説明する事と、学問の選択制を導入すれば子供が抱える『意味のわからない勉強を強要される苦痛』を一掃できます。教育システムを抜本的に変えると既得権益はいろいろダメージを受けると思います。でも、既得権益を温存するには犠牲があまりにも大きすぎる───子供の貴重な時間を無駄に浪費するという大きな犠牲が……」


 ここで秘書が資料を持って部屋に入ってきた。


「お話し中、失礼します。遅くなってすみません。資料をもってきました」

「ありがとう。すまないが、この方たちに一部ずつ資料を配ってあげてくれ。あと私にも一部」

「わかりました」


 秘書は晴輝と来客の全てに資料を配った。

 晴輝が秘書に頼んだ『あること』とは、この資料を探して持ってきてもらう事だった。

 資料のタイトルは『教育改革案 叩き台の叩き台』と書かれている。


「皆さん、お手持ちの資料の35ページをご覧ください」


 同じ資料を開きながら晴輝が言う。

 その資料の35ページには、教育改革案における様々な論点が書かれていた。


 大前提として改革は緩やかに。

 大枠は国家四十年の計とする。

 それも四十年で完成ではなく、時代の変化と共に常にブラッシュアップされ続ける。

 なぜなら今の教育システムの欠陥は、昔に決めたものを前例踏襲主義によってダラダラと続け、システムが硬直化してしまったことが最大の要因だからである。


 過去の成功体験への固執は有害になりうるという自覚を持つ。

 武勇伝を語るより、謙虚に学ぶ姿勢が必要。

 時流の変化の先読みと、時代に合わせた柔軟な変化を意識し続ける。


 大規模な失業者は出さない。

 旧来の仕事が消滅するわけではなく、棲み分けや多様化が進むだけ。

 椅子取りゲームによる席の減少は、セカンドキャリアへのサポートによって対処。


 専門にカスタマイズされたAI技術の導入により、現場の教師の負担を大幅に軽減。

 学校における無駄な仕組みも無くし更に負担を軽減。

 それによって浮いた余剰資源や財源はセカンドキャリアへのサポートに全て回す。


 教材会社はAI教材会社へ転換。

 IT企業との連携を推奨。

 場合によっては公的な支援も視野に入れる。


 塾や予備校の新しい業務。

 不登校やグレーゾーンの子への伴走

 子供に対する人心掌握術の有効活用。

 進路や生き方の相談、キャリアガイド。


 経済力の上昇と共に学問へのサポートも厚くする。

 実務に追われて研究ができない状況を改善。

 雑用をしなくて済むよう、システムを根本的に作り変える。


 政策の語り方。

 非常にこじれやすいので、言葉の設計はとても重要。


 以下に例を挙げる。


×「これからは学力よりコミュ力の時代です」

○「学力だけでは生きづらい時代になったので学力+対人スキルを標準装備にしましょう」


×「今までの教育は間違っていた」

○「今までの教育があったからこそ次のステージに進めるだけの土台ができた」


×「高学歴なんてもう古い」

○「高学歴だけでは測れない力が社会で必要になってきた」


×「お前らのやってきたことは間違いだ」

〇「あなたたちが支えてきた時代が役目を終えるほど成功した」


 こういった受け手の心情に配慮する語り口は重要。

 一方的な断罪はしない。


 などなど。

 これらは資料のほんの一部で他にもまだまだたくさん論点があるが、タイトルが『叩き台の叩き台』だけあって資料にはこういった───悪く言えば荒っぽい内容が書かれていた。


 予備校幹部が苦笑いを浮かべながら言う。


「いや、先生。資料と真逆じゃないですか。先生の態度は。今までの教育は間違いだ、みたいなことをさんざん言ってきたのに、これはないでしょう」


 これは正論。

 もっともな指摘である。


「それについては自分の未熟さを感じております。ただ……えっと、皆さんは私にケンカを売りにきたんですよね?」

「ケンカ……?」

「私を吊るし上げて改革案を潰してやろうと。その為に来たのでは?」

「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんな話になってるんです!?」


 予備校幹部が困惑したように言う。


「え、いや、だって最初からケンカ腰で来ましたよね?」

「最初というのは?」

「のっけから私の改革案を『浅薄な政策』呼ばわりしましたよね?」

「それは───」


 予備校幹部は言葉に詰まった。

 自分が言ったわけじゃないが、たしかにそういう言い方はあった。


「初手から『浅薄な政策』呼ばわりされたら、ああこの人達はケンカを売りにきたんだな、と思ってしまうのも無理はない───というか、この解散総選挙を控えた忙しい時にアポなしで突然やってきて、政策をディスられたら、腹が立つのも無理はないと思うのですが……」

「若先生、それについては申し訳ない。こちらも良くない部分があった」


 顔役は晴輝に謝った。


「いえこちらこそすみません。言い過ぎな部分が多々ありました。自分の未熟さを恥じ入るばかりです。不快な思いをされたと思います。申し訳ありません」


 頭を下げる晴輝。


「最初からこの資料を出したほうが良かったのでは?」


 私塾経営者が言う。


「そうしたかったけど、アポなしでいきなりやってきたのは皆さんのほうじゃないですか……。資料だってダンボールに詰めたものを、秘書がわざわざ探してくれたんです。事前にアポがあればすぐに資料を渡しましたよ」

「アポなしだったのはそうだね、こちらの落ち度だ。先生の言い分が正しいと思う」


 舌戦をしていた時の張りつめていた緊張感は薄れ、場は何となく和やかなムードになりつつあった。

 晴輝は穏やかに言った。


「今まさに皆さんが体感してくださった通り、対人スキルというのは重要なんです。ちょっとした事で軋轢が生まれてしまう。本来しなくてもいい、無駄な対立や憎しみを生んでしまうんです。私も至らない部分ばかりで汗顔の至りです。こういった無用なすれ違いを防ぐためにも教育改革が重要なんだという事を、少しでも感じて頂けましたら嬉しいです」


 更に言葉を続ける。


「あと私は別に自分の改革案が絶対に正しいとは思ってないですよ。異なる意見の方もいると思うし、私はその意見自体は尊重します。考え方が違うだけの話ですからね。考え方が違った場合、どう決着すればいいのか? 民主主義でいきましょう。私はこの教育改革案を掲げて次の選挙戦を戦うつもりですが、異なる意見の方は対立候補についたり、自分で立候補するのもいい。全ては民意に委ねます」


 話が終わり、アポなし陳情団は執務室を出ていったが、顔役だけは残った。


「すまなかったね若先生。教育の大改革など聞き捨てならないと、どうしても先生に会わせろとせっつかれて……」

「事情はまぁ……いろいろ想像できるので大丈夫です」

「オレは叩き上げで学が無いから難しいことはようわからんが、若先生の言ってることのほうが良さそうな感じはあったな。この5年間、若先生がひたすら地元の為に尽力してくれたことは感謝してる。若先生もそろそろ政策で自分の色を出したい頃だと思うし、オレは支持するよ。若先生を」

「あなたにそう言ってもらえると心強いです。でも後援会を一枚岩にしようとかは考えなくていいですよ。私の改革案に納得できない人間は絶対いるだろうし、それを批判するつもりもサラサラありませんので。後援会を抜ける人間もけっこういるだろうと予想してます。さっきも言いましたが、全ては民意に委ねますよ」




 解散を経て、いよいよ選挙戦が始まった。

 晴輝は教育改革案を盛大に打ち出した。


 わかりやすく簡略化したものを前面に出し、もっと知りたい人はサイトを見に来てねという風に。


 教育改革を掲げたことで、後援会からはそこそこの人数が抜けた。

 だが、新たに協力を願い出てくれた人間も居た。

 トータルでは以前よりやや減った感じ。


 しかし晴輝は焦っていなかった。

 これも想定済。

 この為に選挙権年齢の引き下げを祖父にお願いしたのだ。

 子供は票を持っていないから政治家に無視されるという事を憂慮する気持ちも本物だが、同時に打算的な意味あいもあった。


 今は十六歳から投票可能になってる。

 あの教育改革論に十六歳から十八歳ぐらいの若年層は共感してくれる人が多いだろう、自分に票を入れてくれる人が多いだろうと読んでるのだ。

 後援会が多少ガタつくのは想定済で、若年層の票をもってカバーするということ。


 選挙戦が始まった翌日。

 奏からメールがきた。

 会いたいと。


 選挙戦中は一分一秒が惜しいが、晴輝は奏に会うことにした。




 居酒屋の個室。


「見たよ、公約。教育の抜本的改革」

「ああ。いよいよだねえ。勝てればいいが、どうなるかはわからん」


 そう言って晴輝はフライドポテトをつまんだ。


「晴輝は今のままじゃ選挙、勝てないかもな」

「え!?」


 意外な人物が意外なことを言ってきた。

 なぜなのか、ものすごく興味ある。


「そのココロは?」

「オマエは虐げられた人間の気持ちをまるでわかってない」

「どういうこと?」

「改革案の大まかな部分に文句はないよ。だいたいは昔、聞かせてもらった通りの内容だ」

「どこに文句があるの?」

「わからない?」


 奏は挑戦的な視線を向けてきた。

 ちょっとイラつくが、我慢して話を聞く。


「わからない。教えてくれ。ダメな部分はちゃんと受け止めたいんで」

「セカンドキャリアだよ」

「え?」

「セカンドキャリア」


 同じ言葉を繰り返す奏。


「セカンドキャリアって何? 誰の?」

「本当にわかってないみたいだなオマエは」

「わからないよ。それだけ言われても。何がどう問題なのさ?」


 晴輝が聞くと、奏は苦々しい顔をした。


「改革案はけっこうだがな、なるべく失業者を出さないって、ありゃなんだ?」

「なんだって……言葉の通りだよ。なるべく失業者を出さないように改革を進めるっていう」

「四十年もかけて?」

「それは仕方ないだろう。急激に改革したら混乱が大きすぎる。ちょっとずつ変えていくのがベストだと思うよ」

「それがダメなんだよ。本当にいい改革と思ってるなら一年でやらなきゃいけない」

「一年って!」


 晴輝は絶句した。

 そんな短期間で改革など出来るわけがない。


「そんなの無理に決まってる。街に大量の失業者があふれ出るかもしれない」

「出てもいいじゃん」

「はい?」

「出てもいいじゃん。何が悪いんだ?」

「………」


 また言葉を失う晴輝。

 奏がいったい何を言ってるのか理解不能だ。


「失業者があふれる社会なんて、どう考えても良くないだろうよ。いったい何を言ってるんだ……」

「いいんだよ、あふれても。教育関係者に限ってはね」

「は?」

「そいつらが失業しても、なんの問題もないってこと」

「いや、あるだろ。さっきから何を言ってんの? まるで意味がわからんのだが」


 まるで宇宙人と話してる気分だ。

 本当に意味がわからない。


「わからないとはガッカリだよ」

「だから何がだよ! ちゃんと言ってくれ! 意味わからん」

「では聞くが、ペテンを仕掛けた奴らを、なぜ救済しなければならない?」

「ペテン……」

「そうだ。この腐った教育システムでペテンを仕掛けてる奴らだ。俺の苦しみは、そのペテンにまんまと騙されてしまったことによるものだ」


 晴輝は高速で頭を回転させた。

 これはちょっと厄介な問題かもしれない。


「なあ、答えろよ。なぜペテンを仕掛けた奴らを救済しなければならない?」

「ちょっと待ってくれ。俺が想定してるのは現場の人間であって、彼らはただ目の前の仕事をこなしてるだけだろう。奏の批判は、今の教育システムの舵取りをしてる人間に向けるべき言葉だと思うよ?」

「独裁者が部下の軍人に向かって『あのデモ隊を銃を撃ち殺せ』と命令した場合、民間人を射殺したその軍人は何の罪にも問われないと?」

「そんな極論言われても困るよ」

「同じだろ。ペテンの片棒担いでるのは十分罪深いとオレは思うがね」


(言ってることはわからなくもないが……)


 どう答えていいか、晴輝は迷った。


「あのさ、大前提として現場で働いてる人は悪人ではないよ。だってそうだろ? 今の教育システムはあまりにも巨大な闇だ。誰も逃れることが出来ない程のな。全員被害にあってるんだよ、義務教育システムの。それはあまりにも巨大な闇すぎて、正面から立ち向かえる人は本当に少ない。たいていの人は巨大な闇に飲まれて翻弄されてしまう。それが普通の人間のリアルじゃないか? 現場で働いてる人もある意味、被害者なんだよ。その巨大な闇の。そういう人間の弱さ、脆さというのをわかってやれないか?」


 ビールをひと口飲み、奏が言う。


「ハッ! わかりたくもないね。そんな弱さなど。高学歴さえあれば幸福になれる、みたいな誘導をさんざん仕掛けておいて、いざ高学歴を手に入れると何の保証もせず、幸福になれるかどうかはあなた次第ですと突き放す。高学歴を怪しげなツボと言い換えても成立する、とんでもないペテンだ。俺が苦しんでるのはそのペテンに騙されたからだ。しかも騙すだけでは飽き足らずオレみたいな奴に対しては、平気で負け組のレッテルまで貼りつけてきやがる。クソが! ふざけんな! こんなゴミみたいなシステムに加担してる奴は全員苦しむべきだ! そうだろう!?」


 晴輝もレモンサワーを飲み、静かに答える。


「そうは思わないよ。教育システムにクソだと思う部分はたくさんあるけど、俺がやりたいのは彼らを路頭に迷わせる事じゃない。全ての人を幸福に出来るとは思ってないが、可能な限りそうしたいと思ってる。そしてそれが叶いそうな現実的な方法があるならば、その方法を選ぶさ。俺がやりたいのは処罰でも復讐でもないんだから」

「オレがやりたいのはその復讐なんだよ!! オレが味わった苦痛はアイツらも味わうべきだ!!」


 奏は晴輝に怒鳴った。


(奏……そこまで……)


 晴輝は暗い気分になった。

 昔の奏はこんな人間ではなかった。

 他人を悪く言うこともあったが、同じぐらい良い部分もあった。


 学歴の呪いは想像してたよりずっと強烈で、恐ろしいほどに人間性を蝕んでるらしい。

 呪いが発動しない人間もたくさんいるのだが、ここまでこじれた人を晴輝は初めて見た。


 責めるような口調で奏が晴輝に言う。


「結局、オマエはあっち側の人間なんだ。弱者の味方のフリをして、あっち側の人間の利益ばかりを考える」

「………」


 あっち側の人間の利益ばかりを考えてるつもりはない。

 自分の教育改革論は、弱者救済の仕組みも含まれたものだと自負している。

 だが奏には全く響いてないらしい。


(そうか……俺は未来ばかりを見て、現実の”今ここにある苦痛”を軽視してるのかもしれないな……)


 例えば、ポケットマネーで奏を私設秘書として雇ったとしても、問題の根本的な解決にはならない。

 奏を救えても、奏のような境遇にいる人間は救えないのだ。

 むしろ奏のような境遇にいる人間は、なんでアイツだけが救われるんだと激怒するかもしれない。


 それは自分が目指す理想とはちょっとズレたものだ。

 この問題をどう解決すればいいのかは今後の課題である。




 翌日の早朝。

 墓地。


 晴輝は直之の墓の前に来ていた。


(直之は俺と奏、どっちが正しいと思う? せめて第二第三の奏……直之もだね。今の教育システムの被害者をこれ以上増やさないことがベストだと思ったのだが、それだけじゃ足りないんだろうか? なあ、直之はどう思う?)


 直之ならどう答えただろうかと、考えてみるがわからない。


(俺が政治家になったのも、あの教育改革論を作ったのも、全ては直之の為だよ。直之の死がなかったら、あの改革論は作ってなかったかもしれない)


 『異端者って、生まれた時点で詰みなのかもしれませんね』


 美月の言葉を思い出す。


(あの改革論が、少しでも詰みを回避する助けになってればいいのだが……どう見えた?)


 静かに墓を見つめる晴輝。

 もちろん直之からの答えはない。


(また来るよ。それじゃ……)


 墓を背に晴輝はゆっくりと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ