前編
学校でやらされる勉強はなんの役に立つのか?
そんな問いに対する答えの1つ。
【Lesson1・序章】
西暦20XX年。
今の老人の多くは子供の頃からインターネットに親しみながら育ってきたという老若男女、誰もがインターネットを使いこなすようになった時代。
これだけ時代が進んでも変わらないモノもある。
なぜ勉強しなければならないのか?───という昔から子供が抱き続けてきた疑問も、その一つ。
「勉強ってなんの為にするんだろうね?」
西野直之は遠い目をして言った。
「そりゃ医学とか科学技術とかの為じゃない? スマホの作り方、車の作り方、病気の治し方、新しい薬の開発方法なんかも勉強しないとわからないからなんじゃない?」
佐藤奏がその問いに答えると、直之は更にこう言った。
「うん。俺もそういう知識が具体的に社会の役に立つというのはわかるんだ。主に理系の知識ね。でも文系の知識って謎なものがあるよね。古典の授業って必要? 古文や漢文がなんの役に立つのかマジでわからん」
「大学入試で使うじゃん。共通テストでは必須科目だし」
「それさあ……大学行かない人間にとっては無価値という意味になるんだけど……そうなの?」
「オマエは大学行かんのか?」
「……まだ決めてないよ」
「就職するってこと?」
「だから、将来のことなんてまだ決めてないっての」
「へー。ウチの学校、大学進学率9割越えてるんだが、進路指導でそれ言ったら先生怒るかもな。高2になるのに何考えてんだって」
「別にいいよ。怒られたって」
二人が通う高校は県内トップクラスの進学校で、大学進学が普通という感覚の高校だった。
「それよりさっきの質問に答えてくれよ。古文や漢文ってなんの役に立つん?」
「それ言い出すなら体育や音楽や美術も不要だろ? なんの役に立つんだ? 受験に使わないのにこっちのほうがよほど無駄だろ」
「体育や音楽や美術のことは知らないけど、古文や漢文が役に立つっていう証明にはならないでしょ。大学行かない人間にとっては無価値ってことでいいの?」
「無価値とは言ってないだろ」
「じゃあなんなん?」
「うざってえな。自分で調べろよ」
面倒になった奏は吐き捨てるように言った。
二人の会話を聞いていた久世晴輝が苦笑いしながら話に割って入った。
「うざったいはないだろ。答えてやりゃいいのに」
「メンドイ」
(とか言って、ホントは知らないだけなんじゃ?)
晴輝はそう思ったが、それは口に出さないでおいた。
「一般論でいいなら答えられるよ。古文や漢文がなんの役に立つのかっていうの」
晴輝が言うと、直之は興味深そうに晴輝の言葉を待った。
「よくある説明としては思考力や想像力を養うためっていうのがあるよね。これに対する批判としては『現代語訳でもいいし、他にも思考力や想像力を養うための知的訓練には代替方法がたくさんある』という反論がある」
ひと呼吸おいて晴輝が話を続ける。
「確認しておきたいんだけど、直之は古典という学問そのものを無価値と考えてるの? それとも学問としては価値があるけど全員に学ばせる必修科目である必要はないだろっていう考え? どっち?」
「学問としての価値自体を否定してるわけじゃないよ。学問の種類ってたくさんあるから。だから僕の答えとしては後者が近いよ」
「そっか。だったら後の議論は平行線にしかならないよ。『古典を全員に学ばせるべき』という意見と『全員にやらせる必要はないじゃん』っていう意見が対立し続ける平行線。”オマエがそう思うならそうなんだろうな。オマエん中ではな”と、お互いに思ってる状態。だからまあこれって不毛な議論なんだと思うよ」
「不毛な議論……」
直之は怪訝そうな表情を浮かべていた。
奏が突き放すように言う。
「やりたくなければやらなくていんじゃね? 末路がどうなるかは知らんけど」
(いちいちトゲのある言い方するなあ……)
晴輝は奏のことを友人と思ってるが、こういうトゲのある所はあまり好きではなかった。
「まあオレは古典の勉強でもしてきますわ。誰がどう言おうが古典は必須科目である以上、価値がある───というのが、まごうことなき真実なんで」
大学入試に備えて予備校に通ってる奏は駅で二人と別れた。
そんな捨てゼリフを残して。
残された直之が少し苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、晴輝はフォローを入れた。
「まあ言い方はアレだけどさ、大学に行かない道があってもいいと思うよ。大学だけが人生じゃないと思うし」
「………」
(しかしコイツ、すっかり変わってしまったな)
晴輝と直之は小学校時代からの友達である。
その小学校時代にこんな事があった。
クラスメイトの一人が「勉強って役に立たねえよなあ」と言った時、直之は「この教室の電気とかエアコンとか無いと困るじゃん。そういうのを作る為に勉強は必要だと思う」というような事を言ったのだ。
(昔は勉強肯定派だったんだよなあ……)
直之はクラスで一番頭が良かったので中学受験を乗り越え、中高一貫の進学校へと進むことが出来た。
だが高校生になってからは勉強に身が入ってないようで苦戦してる様子がみてとれた。
180度変わった、勉強を肯定する態度と否定する態度。
この違いは成績の良し悪しが影響してるんじゃないか?
と晴輝は密かに思ってる。
奏はクラスで一番、学年でも上位の成績。
直之はたまに補修を受けるような下位の成績。
晴輝は二人の中間というのが三人の学力である。
「晴輝は大学行くの?」
駅のホームで電車を待ってると、直之がそう聞いてきた。
「たぶん行くと思う。奏みたいにT大とかは無理だけど」
「大学に行く理由はなんなの?」
「特にないなあ。やりたい事は大学に行きながら探すつもり」
「良い大学に行って良い会社に入るとか、そんな感じ?」
「どうだろうね。良い大学に行けば確実に良い会社に入れる、ってのが保障されてるわけでもないからなあ」
晴輝がそう言うと、直之は何かを考える素振りをみせた。
「そういえばそれも謎だよな。なんで良い大学に行けば良い会社に入りやすくなるんだろうね?」
「………」
「理由わかる?」
「なんだろう……いわゆる学歴フィルターってやつじゃない? Fラン大学は書類選考で落とされるけど上位の大学なら書類選考に通りやすくなる、みたいな?」
「なんで上位の大学は通りやすくなるの?」
「さあ……? なんでだろうな?」
「企業に入社後も学歴差別があるよね。同じ仕事をしても高卒と大卒で給料が違う。これはなんでなの?」
「さあ?」
「同一労働同一賃金の原則───つまり同じ仕事をしてるなら給料も同じにしようっていう考えがあるんだけど、これを無視してるのはなんで?」
「だから知らないってば」
「そっか……」
肩をすくめる晴輝を見て、直之はガッカリした顔をした。
納得のいく答えを期待してたのだが、それを得られなくて残念という感じ。
誰かにガッカリされるのは気持ちいいものではない。
晴輝は直之の疑問に答えてあげたい欲求に駆られた。
「───っていうことがあったんだけど、ジイちゃんわかる? 古典の授業がなぜ必要なのかっていうのと、高卒と大卒で給料に差がある理由」
自宅に帰った晴輝は、飼ってる猫を撫でながら祖父の昭雄に尋ねた。
「なんじゃろうな? 古典はよくわからん。後者のやつは幹部候補と平社員の違いじゃないかの?」
「同一労働同一賃金の原則って、無視していいの?」
「ええよ」
「そうなの!?」
晴輝は驚いた。
「そうじゃよ。同一労働同一賃金の原則というのは高卒と大卒の給料の違いには適用されないという考え方があるんじゃよ。適用されるという考え方もあるが、その辺は曖昧というか企業によって違うというのが実情じゃないかの」
そうだったのかと納得。
「幹部候補に平社員と同じ仕事させるのは現場の仕事を勉強させる為じゃろ。儂はおかしいとは思わんよ。高卒と大卒の給料差っていうのは」
「でもさ、ジイちゃん。同じ仕事しても給料同じってのはやっぱり変に感じるよ。幹部になってから差をつけるならわかるんだけどね」
「んー……」
納得いってない晴輝が食い下がると、昭雄は喉を鳴らした。
「だったらお前が起業して、そういう会社作ったらどうじゃ? 同じ仕事なら学歴で給料に差をつけない会社。実際そういう会社はあるぞ」
「俺は別に起業したいわけじゃないんだよ、ジイちゃん」
苦笑する晴輝。
ここは晴輝と祖父母の三人が住んでる邸宅。
複数の家政婦、ハウスキーパーがいる大きな日本家屋であり、大物政治家である昭雄の持ち家である。
大きな屋敷に三人は広すぎるとも思えるが、ハウスキーパーもいるし猫が7匹、犬が1匹いるので寂しさはあまりない。
猫や犬、主に猫を目当てに親戚が遊びに来ることが頻繁にあり、この屋敷はさながら無料の猫カフェと化していた。
和室の畳の座布団に座り、晴輝は猫を撫で続けている。
畳の上で使うテーブル、つまり座卓を挟んで昭雄は煎茶をすすっている。
ゆったりとした平和なひととき。
「晴輝、もうすぐ誕生日じゃろ? 何か欲しいもんはあるか?」
おもむろに昭雄が晴輝にたずねる。
「特にないよ。ジイちゃんから貰ってる小遣いで十分なんで。小遣いで足りなければバイトしろって、ジイちゃんいつも言ってるじゃん」
小遣いは月に一万円で、晴輝にはそれで十分だった。
「まあな」
(誕生日ぐらいは甘えてもええんじゃがなあ……)
孫が甘えてくれない寂しさもあるし、お金を自分で稼ぎたがる頼もしさもある。
昭雄は少し複雑な心境だった。
そんな会話をしてると、部屋に猫を抱きかかえた伸子が入ってきた。
主婦の伸子は猫好きの親戚の一人で、この家に来る常連である。
「新しい子、入れたんだね」
「ああ、頼まれてな」
伸子が抱いてる猫は最近入った猫だった。
この猫カフェはたまに地域の動物愛護センターから猫を引き取っている。
政治家の昭雄にとっては地域貢献という意味あいもあった。
ここにいる猫は皆、昭雄が頼まれて引き取った子たちなのだ。
「ちょっと聞こえたんだけど、晴輝くんバイトするの?」
「へ?」
「するなら良いバイト先、紹介できるよ」
言いながら伸子は抱いていた猫を畳の上にはなした。
「良いバイト先って、どんな?」
興味本位で晴輝が尋ねる。
「小学生の……というかウチの子のカテキョ。時給二千円出すわよ。どう?」
高校生にはありがたい時給でしょう?───そう言いたげな得意気な顔を伸子はしていた。
「小学生って、優斗君の?」
「うん」
「中学受験ですか?」
「そうね」
「どこを狙ってんです?」
「それはね───」
伸子が挙げた複数の候補は、どれもそれなりの難関校だった。
晴輝自身も経験あるが難関校の中学受験はけっこう面倒くさい。
「せっかくだけど今バイト探してるわけじゃないんで……」
「そうなの?」
無言で頷く晴輝。
「じゃあやりたくなったら言ってね。いつでも歓迎だから」
伸子が帰った後、晴輝がこぼす。
「家庭教師代を浮かせようっていう腹積もりがすごかったね……」
「そう言ってやるな。どこの家も教育費は悩みの種じゃよ」
昭雄が晴輝を窘める。
「………」
「まあ気が進まなければ断りゃいいさ。バイトはいくらでもあるんだから。なんなら儂もバイト紹介できるし」
「ジイちゃんが紹介するバイトってどんなの?」
「ATMから現金を引き出し、依頼人に渡す仕事」
「それ出し子じゃん! 闇バイト!!」
晴輝が突っ込むと昭雄は楽しそうに笑った。
普段温厚な教師が怒るとびっくりする。
そんな場面を見た晴輝はちょっとした衝撃を受けた。
「くだらない質問をするな!」
普段温厚な教師が、そう吐き捨てて休み時間になった教室を出ていく。
(なんなんだ!?)
教壇近くで直之が立ちつくしている。
どうやら怒鳴られた相手は直之らしい。
「なんだ!? どうした?」
側に行った晴輝が直之に声をかける。
「………」
怒鳴られてバツが悪かったのか、直之は教室を出て廊下に移動したので晴輝もついていった。
「普段から何でも質問してほしいって言ってたから質問しただけ、なんだけどな」
「何を質問したの?」
「古典の勉強ってなんの役に立つんですか?───って」
(お前……それを古典の教師に聞くかね……)
「そしたら『中国人と商売する時に役立つぞ』って言ったから『中国人と商売しない人にとって古典は役に立たないって事ですよね?』と聞いたんだ」
「………」
「そしたら黙ってたから『なんで役に立たない勉強をしなきゃならないんですか?』って聞いたら、いきなりキレられたよ。マジでびびったわ」
「古典の先生にそんな事を言ったら、そりゃキレるだろうよ……」
呆れたように言う晴輝。
「古典になんか恨みでもあんの?」
「それはないけど、さっきの授業ちょっとイラっときてね」
「イラっとくる箇所なんてあったっけ?」
晴輝が尋ねると直之は小さくため息をついた。
「そっか……やっぱアレをおかしいと思ったのは僕だけなんかね……」
「なに? なんの事を言ってるの?」
まったく話が見えない。
「あの先生、授業中に言ってたじゃん。『参考書出して。せっかくあるもんは使わないとね』って」
「言ってたね。それがなんなの?」
「僕はアレを聞いた瞬間、呆れてしまったね」
「なんで?」
「だって参考書を使わなくても授業が出来るってことじゃん。あのセリフが意味してるのはさ」
「……??」
まだ話が見えない。
「僕ら生徒は使わなくてもいい副教材を買わされてたんだと思うと、呆れてしまってね」
ようやく話が見えてきた。
「それって、呆れる気持ちはわからなくもないけど今更じゃないか?」
「いまさら?」
「だってそうだろ。学年ごとに上履きの色が違って毎年買わされるとか、辞書なんてスマホで十分なのに全く使わない紙の辞書を買わされるとか、小学校の書道セットは学校で買って持ち回りで使えば十分なのに個人購入を強要されるとか、鍵盤ハーモニカも小型ピアノに変えて学校の備品にすれば衛生的にも十分なのに頑なに変えようとしない。こういう例ってたくさんあると思う」
「………」
「これって業者との癒着なんだよな。要らない物を買わされるってのは。でもそういうものなんだと思うよ。学校っていうのは」
「汚い商売だよな」
「うん、まあ……そうだね。気持ちはわかるよ」
直之のイラっときたポイントがようやく理解できた晴輝は共感を示した。
「こういう汚い商売しといて闇バイトはいけませんとかよく言えるよな」
「いや、それとこれとは別の話でしょ。闇バイトって思いっきり違法じゃんか」
「同じだろ。汚い商売って意味では。仮に闇バイトは違うとしても、じゃあ転売やぼったくり店はどうだ? これらは違法じゃないぞ?」
「………」
「法律じゃなく倫理の話なのよ、これは。倫理的に考えてこういう汚い商売をどう思うかっていう。違法じゃないならOKという理由を持ち出すなら、転売ヤーやぼったくり店を叩くのも間違ってるよな? 違法じゃなければ何やってもいいってわけじゃないだろ」
「………」
闇バイトは明確に違法なので議論の余地なし。
だが違法じゃなければどんな商売してもいいのか、と聞かれると考えさせられるものがある。
何を言えばいいのかわからなくなった晴輝は沈黙した。
休日。
晴輝が祖父母と暮らす家は和室が多いが、洋室もあるし地下室もある。
完全防音の地下室は広めのスタジオとなっており、音楽好きの人間に重宝されてる人気の部屋だった。
中学二年生の久世佳織も地下スタジオをよく使う一人だった。
「ハル兄、ちょっと待っててくれる? 準備してくるんで」
佳織は晴輝を『ハル兄』と呼んでいる。
二人の名字は同じだが実の兄妹ではなく、イトコという関係。
電車で2駅ほどなので、佳織は昔からよく遊びに来ていた。
「準備ってなんの準備?」
「それは見てのお楽しみ」
佳織は動画サイトに、ダンス動画を頻繁に投稿していた。
一人で動画を作ることもあるのだが、晴輝に手伝ってもらうこともしばしば。
固定カメラだけじゃなく、カメラを動かしながらの手持ち撮影は一人では無理なのだ。
ハンディ撮影は臨場感や躍動感を演出できるのが長所である。
しばらくして佳織が地下室に戻ってくる。
「どうかな? この衣装」
「初めて見る服だね。買ったの?」
佳織は普段の装いとは全く違う、ミニスカートを身に付けていた。
「うん。買ったんだけど……そうじゃなくてさ。いつもと趣向を変えたんだけどわかる?」
「いつもよりスカートが短いね」
「どうかな? 似合ってる? 可愛い?」
「可愛いと思うよ」
「ホント? 良かった」
褒められた佳織は嬉しそうだった。
「でもちょっと短すぎるんじゃない? そのまま踊ると下着が見えたりしないか?」
「ヘーキだよ。見せパンなんで。ほら」
佳織は自分でスカートを捲りあげた。
「見せなくていいよ。何やってんだよ」
(痴女かコイツは……)
と思ったが、口には出さないでおく。
「今日はこれで踊るから、きわどいトコ撮影してもいいよ。ちょっとぐらいなら見えてしまっても大丈夫」
「………」
いきなりの路線変更に晴輝は言葉を失った。
「……いや、あのさ、純粋にダンスで勝負するのはやめたのか?」
晴輝にそう聞かれた佳織は表情を曇らせた。
小さくため息をつき、力なさそうに言う。
「だってさ、再生数ぜんぜん伸びないじゃん。2年近くもやってるのに登録者も再生数も3ケタってどういう事よ……」
「再生数4ケタいってるのもあるだろ」
「あるけどそれは流行りの曲のおかげだと思う。マイナーな曲のやつは全部ダメじゃん」
「………」
それはたしかに佳織の言う通りだった。
流行りの人気曲を使ってるものは再生数をそれなりに稼いでるが、それ以外はあまり伸びてないのだ。
「だからって露骨なパンチラで再生数を稼ぐのはどうなんだろうな。あざといよ、そういうの」
「ハル兄は反対なの?」
「どちらかと言えば反対かなあ。邪道と感じる人はけっこういそう。仮に再生数が増えても同じぐらいアンチも増えそうな気がする。何よりお前、そんなやり方で再生数稼いで嬉しいか?」
「………」
晴輝の問いが頭の中をぐるぐる駆け巡る。
(そういうやり方で再生数稼いで、私は嬉しい……?)
「お前は再生数を稼ぐことだけが目的なのか?」
「………」
「炎上商法やパクリ動画、サムネ詐欺やタイトル詐欺、再生数を稼ぎたいだけなら色々あるがたいていは低評価だし嫌われてるぞ」
「………」
「そういうのが目標なのか?」
「……違う。私はただ、見た人が楽しくなるような動画を作りたくて……」
「だったらこのやり方は違うだろ。ダンスの楽しさじゃなくて、エロ目的になってる」
「………」
「今日の撮影は悪いが協力できない。やりたいなら一人でやってくれ」
ふと見ると佳織が泣きそうな顔になってるのに気付く。
(しまった……言い過ぎた)
晴輝は慌ててフォローを入れた。
「その、なんていうか、普通にやろうよ。再生数を伸ばす為のアイディアなら俺も考えるからさ」
「……アイディアって、どんな?」
「そうだなあ……お前、以前にクッキー作ったことあるよな?」
「ああ、うん」
「あれすごく美味しかった。それを活かしてクッキング動画なんてどう?」
「レシピ開発なんて無理だよ」
「開発の必要はないよ。世にたくさんあるレシピは本当に美味しいのか確かめてみるという体当たり企画。実際に作ってみた系なら、いけると思う」
(あのクッキーはあたしだけが作ったわけじゃないけどね……でもクッキング動画か。なるほど。実際にやってみた系ならあたしにも出来そうだし考える余地はあるかも……?)
佳織は前向きに考え始めた。
ある日の夜。
昭雄は晴輝に尋ねた。
「次の日曜、空いてるか?」
「予定はないけど何?」
「とある大企業のお偉いさんと料亭で会食の予定があるんじゃが、お前も来るか?」
「ええ!?」
突拍子もない提案に驚く晴輝。
「なんで!? 行っていいの? 仕事なんじゃないの?」
「ええよ。仕事じゃないし」
「なんで俺が??」
「この間、言っておったじゃろ。高卒と大卒の給料に差があるのはおかしいって。その話をしたらな、なぜなのかを説明してくれるって話になって。お前が聞きたければ説明してくれるそうなんじゃが、どうする? 聞きたいか?」
「え、それ、高卒と大卒の給料に差があるのはなぜか?───っていうのを、大企業のお偉いさんとやらが説明してくれるってこと?」
「うむ」
「大企業のお偉いさんって、どんな人?」
「経営陣の一人じゃよ」
祖父の人脈の広さには改めて感心する。
さすがは大物政治家といったところか。
いきなりの提案には驚いたが、晴輝の心は決まっていた。
「もちろん聞きたいよ。大企業の経営者に質問できるチャンスなんてまず無いだろうし」
「では会食に参加という事でええか?」
「いいよ───あ、でも1つだけいいかな? ついでにお願いしたい事が───」
当日。
晴輝と昭雄は料亭に来ていた。
仲居に案内され廊下を歩いていく。
そこには直之の姿もあった。
晴輝のお願いというのは、直之も会食に参加させてほしいというものだった。
もともと『高卒と大卒の給料に差があるのはなぜか?』というのは直之が発した疑問なのだ。
当人を連れて来れば喜ぶだろう、という晴輝の計らいでこの状況に至ってる。
「料亭って初めて来たよ……」
ボソっと直之が呟く。
「俺もだよ」
晴輝が小声で返す。
高級な佇まいの料亭は初めてで、なんだかワクワクする。
仲居に案内された部屋に入ると仮面をつけた男が座っているのが見えた。
仮面パーティなどで使われる、顔の上半分を隠すタイプのいわゆるドミノマスク。
ベネチアンマスクとも呼ばれるもの。
「先生、お疲れ様です」
仮面の男は昭雄を見て立ち上がり、深々と礼をした。
「こんにちは。待たせたかの?」
「いえ、いま来た所ですし、先生の為ならばいくらでも待たせて頂きます」
「堅苦しい挨拶はええよ。ラクにしてくれ。儂らも座ろう」
一同はコの字型にテーブルを囲んだ。
(なんで仮面??)
晴輝と直之は仮面の男をマジマジと見た。
他人に不躾な視線を投げるのはマナーとして良くないが、面妖なマスクを見ずにはいられない。
察した昭雄が説明する。
「なんでこの人は仮面をつけてるんだろう?───という疑問があるだろうから答えると、ホンネを語ってもらう為じゃよ。対面だと本音が出にくいからの。人間は自分の匿名性が担保されるほど本音を言いやすくなる。学生諸君が聞きたいのもありふれた綺麗事ではなく、赤裸々なホンネのほうじゃろうと思ってな。こういう形をとらせてもらったわけじゃ。だからあまり気にするな。君らの為にやってる事なんだから」
納得いくようないかないような。
まあたしかに、匿名性を担保したほうが本音は言いやすいかもしれない。
そう考えた晴輝は質問責めにしたい気持ちを押し殺した。
「名前も秘密なんですまないね。適当にマスクマンとでも名乗っておくよ」
仮面の男は自らをマスクマンと名乗った。
見たままの名前である。
「さっそく話を始めようか。『高卒と大卒の給料に差があるのはなぜか?』───っていう問いだよね。
結論からいうと経験則と惰性だよ」
「??」
経験則と惰性と言われても、なんのことやら。
意味が分からなくて晴輝と直之はポカンとした。
「経験則の説明からいこうか。例えば高卒100人のガチャと大卒100人のガチャをやった場合、大卒ガチャのほうが当たりが出やすい───優秀な人間が出やすいっていう経験則があるんだよ。だから多くの企業は大卒のガチャを回したがる。大卒ガチャのほうが当たりを出しやすいわけだからね」
マスクマンが話を続ける。
「大卒のほうが優秀な人間が出やすかった経験があるので企業は大卒を集めたがる。で、効率的に集めるにはどうしたらいいのか? そこで給料の差が役に立つんだよ。ウチは大卒に多く給料を払いますよ、優遇しますよとアピールすれば必然的に大卒の応募者が多くなるでしょ? 大卒の人間が多く集まれば大卒のガチャを回す機会も増える=当たりを引く確率があがるってわけなんだよ」
就活してる人間をガチャに例える表現はとても無礼に感じる。
「高卒でも当たりのレアキャラは出るというか優秀な人もいますよね? 大卒でもハズレのキャラはいますよね?」
そう言った直之の表情には微かに怒りが滲んでいた。
「もちろんいるさ。だが高卒より大卒に当たりが多いのは事実だ。ガチャを回すコストもあるのだから、わざわざ高卒ガチャを回すメリットなんかないよ。使い捨て用の単純労働者を募集するなら高卒でもいい……というかFランでもいいね。ついでに言うとFラン大学ガチャも回すメリットはないよ。要するにいかにコストをかけずにレアキャラを引き当てるか、ってのが問題なわけ。これは経営戦略というか人材確保戦略の話であり、確率論や統計学的な話なのよ」
「………」
「まぁ確率論や統計学的な話でいうと大卒と高卒の給料に差があるのは、集団平均として教育投資が労働生産性に寄与するというエビデンスがあり、企業が学歴を使うのは期待値に基づく合理的判断という説明方法もあるのだが、オレは納得いってない」
「それはどうして?」
「納得いってない理由は簡単で、教育投資が労働生産性に寄与するというのは基本的な読み書きや計算、医学、薬学、半導体などの最先端工学、プログラミングなど市場価値があるものに限られ、市場価値のない分野の教育など企業にとってはゴミ同然であるという事実を知ってるからだ。市場価値のない知識を携えた人間に高額な給料を払いたがる企業などあるわけがない。あの説明方法は視点がマクロに偏り過ぎたデータのレトリックで、こういった現実を全く説明できないんだ。もっとも、企業内教育でイチから叩き直す場合は別だがね」
「うーん……」
話が複雑になってきたので晴輝は頭の中で整理した。
こういう時はなるべく単純化したほうがいい。
疑問・高卒と大卒で給料に差がある理由は?
答え・大卒を優遇することで、大卒の応募者を増やすため
疑問・なぜ大卒の応募者を増やしたい?
答え・大卒ガチャのほうが優秀なレアキャラが出やすい経験則があるから
ここまで整理して納得。
なるほど。一応スジは通ってる。
だが、疑問も残る。
晴輝はマスクマンに尋ねた。
「学歴不問で大きな成果をあげてる企業も存在しますよね?」
「するね」
「大卒ガチャのほうが優秀なレアキャラが出やすい───その考え方を正しいとするなら、全ての企業が学歴重視の人材確保戦略でいいはずなんだけど、そうじゃない現実がありますよね? 例えば外資系企業、国内でもIT企業などは学歴不問だけど大成功してますよね?」
「そうだね」
「これは何故なんでしょうか?」
マスクマンは苦笑いを浮かべた。
「それは単に人材確保戦略の違いでしかないよ。学歴不問の企業は学歴の代わりに、独自の試験とかポートフォリオとか面接パフォーマンスとかをメチャクチャ厳しく見てくる。独自の試験やポートフォリオなどの選別方法でガチャをしたほうが優秀な人材を引きやすい、という考え方なんだ。その会社とウチの会社、この2つはどちらが正しいって話ではなく、単に経営戦略の違いというか信念の違いでしかないよ」
「信念の違い……?」
「そう。どちらの戦略もありえるという話。誤解のないように言うと外資系企業も書類で足切りはするし、ウチの会社も面接はするしポートフォリオも見る。でもウチの経営陣は多くが思ってるんだよ。『高卒や大卒、一流やFランなどの学歴という選別方法』でガチャをしたほうが優秀な人材を引きやすい、ウチの会社はそういう戦略でいくぞってね」
「信念をもってガチャというか、学歴差別をしていると?」
晴輝が聞くとマスクマンは自信満々に答えた。
「その通り。ウチの経営陣は確固たる信念をもって学歴差別をやってるよ。ウチの会社は高卒の人間が出世しにくいシステムになってるんだけど───まぁよほど飛びぬけて優秀なら例外もあるがね───学歴差別は積極的にするし、そういうシステムを続けたいし循環させたいとも思ってる」
「循環ってどういう?」
「皆が学歴を欲しがる世の中であってほしいってこと。つまり親を学歴差別すれば、その親は子供に学歴をつけさせたがるでしょ? 給料に差をつけて、学歴差別を身をもって思い知らせることで親から子へ学歴重視の価値観を伝承させ、この仕組みの維持を狙うという事。ウチの会社は高卒が出世しにくく給料に差があるのは、そういう理由もあるんだ。まぁこれは高度経済成長の名残という面もあるが」
「思い知らせるって悪意を感じるのですが」
あんまりな言い草に晴輝は少し呆れた。
「悪意があるわけじゃないよ。それが会社の為であり、ひいては社会の為になってるという明確な信念があるわけだからね。皆が学歴を欲しがれば社会はより良くなると信じてる。悪意どころか、むしろ善意に近いよ」
「………」
善意と言われても、すぐには納得しがたいものはある。
「惰性のほうの説明もしておくと、これは要するに面倒くさいという事。それに尽きるよ」
「何が面倒なんでしょうか?」
「学歴差別システムを変えること。個々人の能力を細かく評価するシステムを構築すること。業務設計を変えること。慣行を変えること。全てが面倒くさい」
「面倒って……そんな理由アリなんですか?」
「アリだよ。経営陣も人間だからねえ。面倒くさいって欲望には勝てないものなんだよ」
「………」
(酷い、これは酷いな……)
もっとマシな言い方はないものかと、晴輝は辟易した。
顔を隠せば本音が出やすくなるというのは大いに頷ける。
「まあまあ。一旦やめてメシでも食おう」
仲居が料理を持ってきたので、昭雄はそう言った。
刺身や天ぷらなど豪華な盛り付け、いかにも高級そうな料理を目の前にしてもイマイチ感動が沸かない。
(なんかメシがまずくなる話だったなあ)
口に出したりはしないが、晴輝は心の中で苦笑した。
刺身も天ぷらも美味しいはずなんだけど味がイマイチに感じられてしまう。
「直之、食べないの?」
険しい顔の直之は箸を持とうともしなかった。
「いまちょっとお腹痛くて……」
「マジ? 薬とか病院とか必要?」
「いや、そこまではいってない。しばらく休めば大丈夫だと思う。たぶん」
直之は昭雄に向かって言った。
「せっかくの料理なのにすみません」
昭雄が答える。
「ええよ。具合悪いなら無理することはない。横になるなら部屋を用意させるよ?」
「いえ、大丈夫です。すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます。食事中なのに申し訳ないです」
「いいよいいよ。行ってきなよ。たしかお手洗いは部屋を出て左の突き当りだったと思う」
青い顔の直之は部屋を出て行った。
(大丈夫かコイツ……?)
食事が終わった後もマスクマンの話は続いていた。
「───だからだな、仕事のやり方というのは仕事で実績を残してきた偉い人達が決めるものなんだ。入社したばかりのペーペーが仕事のやり方をどうこう言うのはとんでもない思い上がりだ。アイディアを求められたら言ってもいいさ。だが求められもしないのに、仕事のやり方にあれこれ口を出すのは間違ってる。何様のつもりなんだか」
「言われたことだけやってればいいと?」
晴輝が尋ね、マスクマンが答える。
「実績がない新人のウチはね。まあさっきも言った通り、求められたらアイディアは言ってもいいよ。だが意見を求められてないなら黙って従っときゃいいんだよ。意見したいなら、まず仕事で結果を出せ。実績を作れ。会社というのはいかに仕事が出来るかが重要なんだ。仕事が出来ないのにタイパがどうとかコスパがどうとか偉そうに講釈たれる、無駄にプライドが高いバカはいらないんだよ」
「………」
「実力もないザコのクセに仕事のやり方をどうこう言われてもムカつくだけなんよな。挙句の果てには『この仕事はなんの為にやるんですか?』って聞くアホまでいやがる。バカか!! 実力もないザコは言われたことをやってりゃいんだよ。意見していいのは仕事で結果を出し、実績を残してきた奴だけだ。なんで実力もないザコに仕事のやり方をどうこう言われなあかんのよ。無駄にプライドの高いバカはこれがわかってない。学生達は自分が仕事できないザコだというのをもっと自覚すべきだ」
(酷いこと言うなあ……)
このマスクマンはかなり口が悪いようだ。
「でも無駄にプライド高いのは仕方ない部分もあるのでは?」
「仕方ないとは?」
晴輝が説明する。
「SNSを見てると特に感じるのですが高学歴の人間は自分自身を優秀だと思い込んでる人が多いと思います。プライドが高くなるのも仕方ないのではないでしょうか?」
「それは教育システムの欠陥だわな。会社ってのは仕事がどれだけ出来るかが重要なのに、それがわからないからクソみたいなプライドだけが温存される。本来なら、どれだけ仕事ができるかでプライドを持つべきなのにな。実力もないのにプライドだけが無駄に高いバカが多い。教育システムの欠点だよこれは」
「………」
晴輝は苦笑した。
ここまで悪く言われると、一周回って笑えてくる。
「オレが学生諸君に言いたいのは学歴だけじゃなく、もっと基本的な人間力も磨けということだ。学歴はシグナリング理論やスクリーニング理論として役に立つが、具体的に何を学ぶかについては抜本的に見直すべきだよ」
「シグナリング理論って何ですか?」
「文字通りシグナルとしての価値。簡単に言うなら耐久性や忍耐力、従順度や一定の知能を示すシグナルとしての学歴のこと。これがシグナリング理論。スクリーニング理論は書類選考でバカを弾く為の学歴のこと」
わかりやすいが、言い方はどうも引っかかる。
いちいちカンに触る言い方しか出来ないんだろうかと、晴輝は心の中で思った。
と同時に、マスクマンの主張にはどこか引っかかるものを感じた。
「『耐久性や忍耐力や従順度や一定の知能を示す』方法というのは、学歴以外でも証明する方法があるのでは?」
「……………例えば?」
「『寮生活が義務付けられた強豪校の運動部』なんてのはどうでしょうか? 忍耐力や従順度をある程度示せてると思うのですが」
「昔は重宝されたけど今はそうでもないよ。でも考え方の方向性は合ってる」
「禅寺で修行が出来る所ってありますよね? 住み込みの修行。そういう所で何年か修行すれば忍耐力はかなり鍛えられそうですが、どうでしょうか?」
「ふふふ、面白い発想をするね君は」
マスクマンは楽しそうに笑った。
「たしかに忍耐力や従順度は鍛えられそうだね。どこの寺でどんな修行を何年受けたのか、その証明書の発行はしてもらえるのか、などがポイントになりそうだね。それを企業がどう評価するかは未知数だし、よくある体験修行はお客様扱いのレジャーなので問題外だが」
他に何か学歴の代替手段はないかなあ……と晴輝は考えたが、思いつかない。
そんな晴輝を見てマスクマンが言う。
「実は今までの学歴肯定は経営陣の総意としての意見でね。俺個人の意見はちょっと違うんだ」
「???」
いきなり何を言い出したのか、意図がわからない。
「学歴は使える道具だ。でも盲目的に神聖視すべきものでもない。俺はそこがクソだと思ってる」
「それってどういう……?」
「あのね、実は学歴の代替手段はあるんだよ。禅寺の修行は良い線いってるが、もっと良いものがある」
「それは何……どんな?」
「自衛隊だよ。ウチの会社には高校卒業後、自衛隊で数年勤務という経歴を持つ人材が2人いる。二十代半ばの時に1人は士長、もう1人は3曹まで出世してる」
「忍耐力や従順度は優秀そうですね」
「それだけじゃないよ。1人は日商簿記1級、もう1人はITストラテジストとメンサの資格を持ってるという異色のキャリア」
メンサというのは高いIQを持つ者だけが入ることを許された国際的な非営利団体。
入会テストは生涯3回までしか受けられないという制約がある。
「頭も良いってすごいですね」
「うん、2人ともすごく優秀だよ。ウチの会社では大卒以上の高待遇だし。実はね、この『自衛隊に数年勤務し、ある程度出世する+頭の良さを証明する資格』というのは、就職にすごく強いのよ。ある意味、一流大卒など比べものにならないぐらいにね」
「そうなんですか!?」
就職には一流大卒がベストだと思っていた晴輝は驚いた。
「そうだよ。二十代半ばでそういう経歴の人は珍しいのでほとんど知られてないが、いま言ったものって忍耐力や従順度や一定の知能を示すシグナルとして優秀な指標なんで」
「あれ? でもちょっと待ってください。それって例えば自衛隊勤務を数年こなしてある程度の出世+難関高校出身というのも価値があることになりませんか? 難関高校って、一定の知能が保障されてるわけですし」
「良い指摘だね。結論から言うと、ITストラテジストや日商簿記1級より指標として弱いよ」
「なぜでしょう? 難関中学や高校って、頭が良くないと入れないじゃないですか。知能の証明としては十分だと思うのですが?」
「それが実はね、十分じゃないんだよ」
「どうして?」
「難関中学や高校って、周りの大人たちがよってたかって作り上げた学歴マシンの可能性があるからね。企業が求める頭の良さっていうのは、そういう受動的なものじゃなく自分の意思で積極的、能動的に動ける頭の良さなのよ。ITストラテジストや日商簿記1級が本人の意思や頑張りが明確に見えるのに対して、世の中全体で高学歴を得ることを推奨してる状態だと、単なる高学歴というのは周りの大人に玩具にされただけの学歴バカの可能性があるってこと。そんな学歴バカを企業は求めてないって話だよ」
「………」
マシンだの玩具だの学歴バカだの、好き勝手言ってくれる。
(ホント品のない人だなあ……言ってることはわからなくもないけどさ……)
「自衛隊に勤務して出世するってそんなに価値のあるものなんですか?」
「あるよ。出世がベストだが、出世できなかったとしても一定の評価は得られる。頭の良さを示すなんらかの資格は必須だが」
「たしかに異色のキャリアですね」
「まあ自衛隊に抵抗あるなら外国の外人傭兵部隊でもいい。要は”下っ端としてどれだけ組織に尽くす気概があるか、そのポテンシャルがあるか。そして組織の中で出世できるほど上手く順応できるか”っていう話なんだから。コイツは下っ端として組織に尽くすだろう、出世するほど組織に順応できるだろう───と思うことが出来れば、自衛隊でも外人傭兵部隊でもいいのさ」
「ん? たしか防衛大学を卒業すれば最初からある程度の階級がもらえますよね?」
「企業が見るのは階級じゃないよ。その階級にどうやって到達したかのプロセスだよ。防衛大学卒の人間を企業がどう評価するかはわからん。その企業によるとしか言えない」
「でも防衛大学じゃなくて一般採用で入隊したとしても、出世となると狭き門ですよね?」
「部隊やスタートラインにもよるが一般的な自衛官候補生なら3~4割ってとこだよ。出世しやすさは部隊によって違うし、幹部候補生や一般曹候補生でも話はまた変わってくるので、興味があるなら調べてみるといいよ」
意外と出世できるんだなあと晴輝は思った。
もっとも自衛隊に興味はないが。
「周りの大人が敷いたレールに乗ってるだけの人間は要らない。企業が欲しいのは自らの頭で考え、動くことが出来る自走する人間なんだ。皮肉なもんだよね。世の中が学歴を推奨すればするほど、反比例的に学歴の価値は落ちていくのだから。能動的な学習意欲がある人材なのか周りの大人に玩具にされただけの学歴バカなのか、過剰な学歴推奨は後者の可能性を高めるという皮肉な構造がある。悲劇というか喜劇というか……」
「悲劇だと思いますよ。頑張って高学歴を獲得したのに、企業に評価されないって悪夢じゃないですか」
「まあ学歴バカを評価する企業もあるけどね。ウチは違うけど。ああ、もう1つ悲劇の副産物があってね。高学歴の人間は『苦労して高学歴を獲得したのだから、それ相応の待遇で報われるべきだ。周りは自分をリスペクトするべきだ』と考えてる人が一定数いるんだ。企業は『どれだけ仕事が出来るか』でしか評価しないんだけど、彼らの頭の中はこうなので仕事が出来ない奴は冷遇されてギャップに苦しむという悲劇も昔からあるね」
「そこまで学歴の価値を疑ってるのに、学歴差別はするんですね」
「そりゃね、俺は否定的だけど経営陣の中には学歴大好きな人もいるからね。会社の方針としてはそうなってる。面接やポートフォリオで学歴バカは落とすけどガチャを否定する理由にはならないし。俺個人としてもそうだよ。学歴は盲目的に神聖視すべきものではないが、選別に使える道具だとは思ってる。だからせいぜい利用させてもらうのさ。クソだと思いながらな」
「………」
晴輝は押し黙った。
一応、進学校に通ってる身としては、あまり楽しい話ではない。
饒舌になってるマスクマンが話を続ける。
「ウチの会社の新卒の話をしようか。電話の応対ができないのはまあ仕方ない。だがメールの応対すらできないとは思わなかった。ビジネスメールに顔文字を使いやがってな」
「顔文字ってダメなんですか?」
「絶対ダメってわけじゃないがな。会社のPCで業務としてメールを送る時は、良くはない。いやただ問題はそこじゃないんだ」
「なにが問題だったんでしょう?」
「百歩譲って顔文字がいいとしてだな、問題なのはこちらの納品が遅れたのに『台風なんだから納品遅れたのはしょうがないだろ、モンスタークレーマーにならないよう気を付けたほうが良いぞ』みたいな上から目線のメールを送りやがってな。台風だろうがなんだろうが遅れた以上ひと言でも謝るのが普通だ。それをあんな上から目線の煽りメール送りやがって。しかも顔文字つきで。取引先は激怒して後始末が大変だったよ」
場は完全にマスクマンが喋って晴輝が聞き役になるという状況になっていた。
「他にもこんな事があった。別の新卒なんだがな、『地味なデスクワークは飽きたので外の仕事もしてみたい』って言うから取引先との挨拶回りに連れて行ったんだよ。場は和やかに進んでいたんだけど、たまたま同席していた取引先の社長の娘───二十歳ぐらいの子かな?───話の流れでこう言ったんだよ。『イデオロギーってなんですか?』ってな。そしたらその新卒の奴がドヤ顔で言いやがったんだ。『観念形態』ってな」
マスクマンが晴輝に尋ねる。
「ちなみに君、この話の問題点はどこにあるのかわかるかい?」
晴輝は少し考えてから答えた。
「ええっと……イデオロギーの意味を聞かれたのに、その説明の仕方ではわかりにくいとか、でしょうか?」
「おお、正解。やるねえ。さすが先生のお孫さんだ。ウチの新卒の奴にも同じ問題出したけど何人か答えられなかった。君はウチの新卒より優秀だよ」
「いえ、そんな事は」
「そうなんだ。君の指摘通りイデオロギーの説明として『観念形態』という答えは不適切なんだよな。なぜかっていうと、イデオロギーという言葉を知らない人は観念形態という言葉も知らないのが普通だから。その普通の感覚を新卒の奴は持ってなかったんだよ。普通に生きてたくさんの人と関わると、こういう感覚は自然と身につくものなんだがな。ドヤること、知識をひけらかす事ばかり考えてるから、ああいう世間知らずでバカ丸出しの回答をするんだよな」
(ほんと口が悪いなあ、この人……)
「『イデオロギーって何ですか?』と聞かれたとき、ドヤ顔で『観念形態』と答えるようなバカを大量生産してるのが今の教育システムなのさ。知識はあっても使い方を知らないんだ。直訳としては100点でもコミュニケーションとしては0点───いや0点どころかマイナス100点だわ。あんなの。社長の娘さんは怒ってたよ。意味わかんないってね」
「1つわからないことがあるのですが」
「なに?」
「なんでそんな新卒を採用したんでしょうか? 入社前にわからなかったのかなって」
「そりゃわからないさ。その困った新卒たちは大学から押し付けられた『推薦枠』という名の『押し付け枠』なんだから。ありていに言うと大学や教授からのコネ入社ってやつ」
「そういうのあるんですね」
「あるある。ウチは大学の研究成果を貰ってる代わりに使えない学生を引き取ってるんだよ。問題を起こすのは圧倒的にコネ入社の連中」
企業と大学は持ちつ持たれつで、中にはこういう関係の所もある。
「だから君ら学生たちに言いたいのは学歴だけじゃなく、もっと基本的な人間力を磨いてくれってこと。納品が遅れたら謝る、相手の知りたいことを正確に察知して適切な答えを返す、こんなんは当たり前のことだよ。謝らず相手をバカにするとか、独りよがりな回答で悦に浸るとか、挨拶や報連相すらできない奴もいてね、勘弁してくれホントに。勉強だけ出来てもダメっていうのは覚えておいてほしいよ」
「あのふざけたマスク野郎、1発殴っておけばよかった」
「………」
直之にそう言われ、晴輝は返答に困った。
あの日の話は腹の立つ部分もあったが、それなりに面白かった部分もある。
月曜日の学校。放課後。
廊下を歩きながら二人はあの日のことを話していた。
「いや、あのマスクマンは学歴を否定してたよね?」
「それがムカつくんだよ。学歴を否定するならやめりゃいいじゃん」
「経営陣の総意ってことで、逆らえないんじゃない?」
「汚い大人の代表みたいな奴だよな。わかっていながら、それに与するってのはタチ悪いわ」
「………」
誰でも生きてれば、個人的信条と周りの総意がぶつかることはままある。
そこまで言うのはマスクマンが可哀想かなと晴輝は思った。
「ったく、どこが善意だよ。ふざけやがって! 悪意100%じゃねえか!」
「直之がそう感じるのは否定しないよ。でもあれは単に経営陣の主観的な話ってだけの事だと思うよ。善意云々ってのは」
「学歴差別が善意なのか!?」
「うん。善意というか、経営陣の人達は正しいとは思ってるみたいだね。学歴差別を。皆が学歴を欲しがれば社会はより良くなると信じてるんだろうね。学歴差別が会社のためであり、ひいては社会の利益にも繋がると信じてるんだよ、本気で。事実、学歴差別する会社はたくさんあるからね。経営陣というのは概ね、ああいう感覚なのかもしれないね」
「学歴差別が正しいと?」
「ちょっと語弊があるな。差別が目的なんじゃないよ。手段として学歴差別するのは正しいという感覚なんだよ」
「それで社会がより良くなると本気で信じてんの?」
「うん。まぁ大抵の経営者は単に優秀な人間を欲しがってるだけ、その為に学歴差別を利用してるだけ、というのが実情だと思うけど」
「当たりガチャを引きたいから?」
「そう」
「………」
直之は不満そうな表情をしていた。
その表情を見て、なんとなく心が痛む晴輝。
(あの日の話を直之に聞かせたのは失敗だったかな? 直之より、奏のほうに聞かせたい話だったかも?)
これ以上、この話を続けるのは良くない。
そう思った晴輝は話題を変えることにした。
「今日どっか寄ってく?」
正面玄関の靴箱前で晴輝が聞くと、直之が何やら口ごもる。
「ああ、えっと……」
「なに? なんか用事でもあるの?」
「用事というか……」
「歯切れ悪いな。なんだよ」
ふと気付くと、下級生だろうか。
おとなしそうな女の子がこちらを見ていた。
「ゴメン、今日は彼女と帰ることになってて」
直之は照れくさそうに言った。
「カノジョ!?」
晴輝は素っ頓狂な声をあげた。
「え、彼女って、付き合ってるってこと!?」
「まあ一応」
「聞いてないんだけど!? どういう経緯で?」
「言ってないからな。彼女は部の後輩だよ」
直之は文芸部に所属している。
「波長が合う感じがしたので、じゃあ試しに付き合ってみる?───って話になって」
「試しなんだ」
「うん、まあその辺は特にこだわってないよ。ちょっとでも合わないと感じたら、すぐお試しはやめようって話になってるし」
合わないならすぐやめるというのは、なんとなく直之らしいと思った。
「いやまあ、そういう事なら先に帰るわ。とりあえずおめでとう───でいいのかな? 後で話きかせてな」
「うん、ゴメンな」
晴輝はその場から逃げるように小走りで、そそくさと学校から出た。
(奥手と思ってたら意外なことするなあ。まさか彼女を作るとはね)
祝福したい気持ちと羨ましい気持ちが半々ぐらい。
同じ道を並んで歩いてたと思った友人に、一歩先を行かれた気分。
そういう寂しさも晴輝はちょっとだけ感じていた。
昭雄と晴輝が暮らす本宅は応接室とキッチンだけがやや特殊な構造になっている。
応接室は独自に玄関がついていて外から直接出入り可能になっていて、本宅に繋がる部分は二重扉になっている。
猫が苦手な来客の為の仕組みである。
同じようにキッチンもよくある対面式ではなく、独立した部屋のクローズド型となっていてドアは二重扉。
猫が入れないようになっている。
そのキッチンで佳織と優斗の二人はエンゼルシフォンケーキを作っていた。
優斗は猫好きの親戚の一人で小学五年生の男の子。
晴輝と佳織と優斗はそれぞれイトコ同士という関係である。
猫好きの親戚はこの家に来ることが多く、この三人は実の兄弟姉妹のように仲が良かった。
「なんでエンゼルシフォンケーキなの?」
優斗が佳織にたずねる。
「完成図が美味しそうだったのと、脂質や糖質が抑えられるから」
「お姉ちゃん、ダイエットしてるの?」
「軽くね。もうちょっと痩せてもいいかなあとは」
「今のままで十分可愛いのに」
「はは。ういやつ。ありがとね」
年下の小学生とはいえ、褒められたのは嬉しい。
喋りながら優斗は左手で卵を割り、右手でエッグセパレーターを使って、卵黄と卵白を器用に手早く分けていた。
(前から思ってたけど器用なやつだな)
「片手で卵を割る小学生って珍しい」
「クッキンアイドルのマリアちゃんがやってたからね。自分も出来るようになりたくて動画で勉強した。やってみたら案外簡単だよ」
「誰なのよマリアちゃんって……」
優斗はクッキンアイドル・マリアちゃんの大ファンで、それがきっかけで料理動画を頻繁に見るようになり、料理が好きになったという男の子だった。
佳織は卵白を泡立てるため、ハンドミキサーを取り出した。
「?? お姉ちゃん、砂糖使うの?」
「そりゃ使うよ。レシピにも書いてあるじゃん」
二人はレシピが書かれたタブレットを見ながら料理をしている。
「そうじゃなくて、ラカントのほうがいいんじゃない?」
「ラカントって?」
「植物由来の甘味料なのでカロリーや糖質を抑えられてダイエット向きだよ。たしかこの辺に───」
言いながら優斗は戸棚をゴソゴソと探し始めた。
「あった。これこれ。これのほうがいいと思うけど、どうする?」
「じゃあ、そうしようか」
ラカントを入れて卵白をハンドミキサーで泡立てる。
この作業は佳織が担当した。
「余った卵黄どうしようかな」
「醤油とみりんで漬けておくか、そのまま保存して今日のご飯に使うとか?」
「TKG?」
「それでもいいけどカルボナーラうどん、なんてどう? あ、パラパラの炒り卵にして小分けしたものをキャットフードに混ぜて猫にあげてもいいと思う」
(あたしよりよほど料理に詳しいんだな)
自分では猫にあげるという発想が出てこない。
佳織は優斗の料理の知識や手際に感心した。
実は以前に作ったクッキーも佳織は補助の感じで、主な工程は優斗が担当したのだ。
(クッキンアイドル・マリアちゃん恐るべし……)
シフォンケーキを焼いている間、佳織と優斗と晴輝の三人はリビングで猫と戯れていた。
「優斗は久しぶりだね」
「うん」
晴輝がそう言うと優斗は笑顔で頷いた。
優斗はレザーバウンサー、俗にいう猫じゃらし型の玩具で猫と楽しそうに戯れている。
「ハル兄は何もしなくても猫が寄って来るんだねえ」
猫を抱きかかえ、指先で猫の頭を優しく撫でている佳織が言う。
「まあそりゃ一緒に住んでるからな。ある程度は懐かれもするよ」
晴輝は優斗や佳織のように猫を構うわけでもなくお茶を飲んでるだけなのだが、周りには数匹の猫が寄ってきていた。
「いいなあ。お兄ちゃん。僕もここに住みたいなあ」
羨ましそうに優斗が言う。
「いつでも遊びに来ていいよ」
「うん。そうしたいんだけど……」
顔を曇らせる優斗。
「けど、なに?」
佳織が尋ねると優斗は言いにくそうに答えた。
「ここへは来ちゃいけないって親がうるさくて……」
「来ちゃいけないって、なんで?」
「受験勉強しろって……」
優斗の親というのは伸子のこと。
(そういや家庭教師をやってくれとかいう話があったな)
晴輝は以前のやり取りを思い出した。
「中学受験、優斗するんだ?」
「まだわからないよ。僕はあまり気が進まないし。公立でも全然いいし」
「お母さんにそう言ってみれば?」
「言ったよ。言ったけど聞いてくれない。中受やれっていう圧力かけてくる」
(伸子さん、教育ママっぽかったからなあ。しかし、自分はたまに猫カフェで遊んでるクセに、優斗君には禁じるってのも、なんだかなあと感じるよ)
晴輝はそんな風に思った。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは中受やったんだよね? やって良かった?」
優斗は晴輝と佳織にたずねた。
「どうだろう? 俺は良かったとも良くなかったとも……んー、どちらも感じてないかな。友達が受けるから自分も受けてみたっていうのが理由だからな。あ、一緒の学校行けたという意味では良かったという答えになるのかな」
友達というのは直之のこと。
話の途中でそのことを思い出した晴輝は、中受をやって良かったという答えに訂正した。
「あたしは良かったとは思わないよ。というか、むしろ後悔してる。正直、無駄な時間を過ごしたって感じてるよ。あんなものやるんじゃなかった」
「お姉ちゃん無駄だったんだ? それはなんで───」
優斗が言いかけた時だった。
「なにやってんのアンタ!!」
怒鳴りつける声と共に、伸子がすごい形相で部屋に入ってきた。
「塾サボってこんなトコで遊んで!!」
「塾なんて行きたくないよ……」
「体験の予約したって言ったでしょ! いいから来なさい!!」
伸子は優斗の腕を掴み、ひきずるように連れて行った。
「優斗君、大変そうだな」
心から同情したくなった晴輝は独り言のように呟いた。
「こう言っちゃなんだけど、伸子さんってちょっとおかしいんじゃない? 嫌がってたよね、優斗」
「………」
返答に困ることを言われ、晴輝は何も言えなかった。
「中受なんて本人がやりたくなければ無理にやらせることないのにね」
「それはまあ、そうかもね」
「ハル兄、お祖父ちゃんに言ったら? このままじゃ優斗が可哀想だよ」
「ジイちゃんになあ……」
晴輝は言葉を濁した。
優斗が可哀想という気持ちもたしかにあるのだが、他人様の家庭事情に口出していいものかどうか、迷いはある。
そんな乗り気じゃなさそうな晴輝を見て、佳織が言う。
「なに? ハル兄は優斗が可哀想じゃないの?」
「そうは言ってないだろ」
「じゃあなんとかしたほうがいいと思うよ。伸子さんを止められるのって、たぶんお祖父ちゃんぐらいでしょ」
「うーん……わかった。伝えておくよ。今日のことは」
「うん、お願いね」
そう晴輝が返答すると佳織は満足そうな顔をした。
「今日のクッキング動画どうしようかなあ。一応、撮影はしたけど」
「作ってみた系なら、食べるまでがセットだろ? 優斗がいないと違和感あるんじゃないの?」
「それね。お蔵入りのほうがいいような気がする。動画はまた改めて撮るよ。アタシ一人で」
「シフォンケーキは後で優斗に届けてやろう。市販品みたいにカットしたやつを」
「今日さ、久しぶりにモール行かね?」
放課後。
奏は晴輝と直之に言った。
「予備校はいいの?」
「今日は休み。なんか建物の補修点検だってさ。今日の分の講義は別日に振り替え」
晴輝が聞き返すと奏はそう答えた。
「ふーん」
「だから今日はヒマなのよ。放課後オマエらと遊ぶのも久々だし」
「俺はいいよ。付き合えるよ」
提案に賛同する晴輝。
「じゃ、決まりだな。直之はどうせヒマだろ?」
(そんな決めつけなくてもなあ)
「……悪いけど、今日は先約あるんで」
「は? 先約ってなに?」
直之に断られたことが意外だった奏はすぐに聞き返した。
「先約は先約だよ」
「だからそれは何かって聞いてんだよ」
「……まあ来ればわかるんじゃない?」
「はぁ?」
煙に巻いたような直之の言葉に、奏は苛立ちを感じていた。
(んん? もしかして直之、奏に言ってないのか? 彼女がいるってことを)
先約というのは彼女との約束と思われる。
1階の靴箱付近に来ると案の定、彼女の姿が見えた。
直之と彼女はいつもここで待ち合わせをしてるらしい。
「そういうわけで僕、彼女と先約があるんで」
直之は親指でクイと彼女を指差した。
「カノジョ……? って、どういう彼女なんだ?」
意図的なのか天然なのか。
察しが悪いのか、わざと気付きたくないのか。
奏はとぼけたように質問した。
「普通、付き合ってるって意味に受け取ると思うんだけどな」
直之が笑いながら言う。
笑われた奏は奥歯を噛みしめたような、不快そうな表情をしていた。
結局モールには晴輝と奏の二人で来ることになった。
モール内にあるハンバーガー店で奏が怒りをぶちまける。
「彼女って言われてもさ、付き合ってるって意味にはならんだろ普通」
「そうかもね───って、さっきも言ったじゃん」
モールに向かう途中も怒りをぶちまけていたので、これは二回目である。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってはいないけどさ、あんなんで勝ち誇る意味がわからん」
(怒ってんじゃん)
と思ったがそれは言わないでおく。
「勝ち誇ってた……かなあ?」
「してただろ、ドヤ顔」
言われてみればドヤ顔をしてたような気もするが、だから腹が立つ───という事もない。
晴輝は奏の怒りに共感できなかった。
何を怒っているのかも、よくわからない。
「成績悪いのに、あんな事にうつつを抜かしてる場合じゃねーだろ。あんなんだから深海魚状態の落ちこぼれになるんだよ」
たまに補修を受けている直之の成績はお世辞にも良いとはいえない。
ハッキリ言うと悪い。
だが、落ちこぼれという表現は悪意を感じる。
「まあ落第しない程度にはやってるんだから、それで良くない?」
「底辺志向だよな。向上心のない者はバカだ」
「夏目漱石? あれって悲劇の結末になるんじゃなかったっけか?」
「オレはそうはならんよ。あんな暗そうな女タイプじゃないし」
奏は笑いながら言った。
「だいたい、あの女もなんか地味だったよな。いかにも陰キャのカップルって感じ」
「それは酷すぎないか? なんか恨みでもあんの?」
「恨みはないよ。ただ事実を言っただけ。ブサイクとは言わないけどね、なんか暗そうな女。呪いとか黒魔術とか好きそう」
あまりの悪口に晴輝は心の中で苦笑した。
いったいなんの恨みがあるのだろうか。
「奏は……あんまり祝福してやれない感じなの? 友達に彼女ができたことを」
「祝福ねえ。ちゃんとやることやってりゃいいんだけどね。補修受けてるような底辺は恋愛してるヒマなんかないだろ」
(友達を底辺呼ばわりとはね。ほんとトゲのある言い方するなあコイツ……)
「奏は彼女とか欲しくないの?」
「今はいらないよ。そういうのは大学入ってからでいい」
「例えば、好みのタイプの女の子が告ってきたらどうするの? 断るの?」
「どうだろうな。受験の邪魔なら断る。邪魔しないと誓えるなら───考える余地はあるかもね。まあ仮定の話なのでわからんよ。なってみないと」
(なるほど。そうなった場合は付き合うんだろうな)
好みのタイプに告られて、断る人はあまりいない。
断る場合は大きな理由が必要なのだが、受験の邪魔というのは理由として少し弱いと思われる。
好みのタイプなら付き合う可能性は大いにアリと、晴輝はそう受け取った。
(たぶん『今はいらない』というのは嘘なんだろうな。条件によっては付き合う気アリアリのようだし)
そこまで考えてふと気付く。
(……待てよ。もしかして嫉妬なのか? 直之の彼女をボロクソに貶した理由って。自分に彼女がいないのに何故コイツが───みたいな?)
嫉妬と考えると怒っていた理由も腑に落ちる。
晴輝は少し暗い気分になった。
【Lesson2・佳織の章】
佳織には秘密の夢があった。
それはアイドルになることである。
昔からダンスだけは得意で踊ることが好きだったし、褒められることも多かった。
歌は特別上手くはないが、歌うこと自体は好きだった。
大好きな歌や踊りで生きていける、アイドルというのはとても魅力的な夢に思えたのだ。
中学受験を突破した時、その夢への思いは強くなった。
勉強はもう十分やった。
これからは自分の夢を追いたいと思ったのだ。
アイドルになる為のオーディション、イベントはたくさんあるので手当たり次第に応募した。
大手から地元密着型のローカルアイドルまで幅広く。
だが結果は全て落選。
書類選考すら通らないという狭き門なのを痛感させられた。
(やっぱダメか……)
「はぁ……」
ティーン向けファッション誌を読みながら、佳織はため息をついた。
読モといわれる読者モデルにも応募し続けてるのだが、今回もダメだった。
得意のダンスを見てほしく、動画投稿も続けてるのだが再生数はパッとしない。
せめて動画で人気を出したいのだが、これすら上手くいかないという現実に佳織は焦っていた。
(なんか工夫が必要だよなあ)
自分なりに考えてみた結果、思いついたのは色気を出してみるという方法だった。
これなら再生数が期待できるんじゃないかと思ったのだ。
動画の収録は従兄の晴輝に協力してもらうこともある。
その日の収録で佳織はミニスカートを履いてみた。
「そのまま踊ると下着が見えたりしないか?」
晴輝がそう言ってきたので───
「ヘーキだよ。見せパンなんで。ほら」
と、佳織は自分でスカートを捲りあげた。
「見せなくていいよ。何やってんだよ」
もっとあたふたするかと思ったら冷静に突っ込まれた。
(ヤバイ! ドン引きされてる! 『痴女かコイツは……』って目で見られてる!!)
これは想像したリアクションじゃない。
佳織は違った意味で恥ずかしさがこみ上げてきた。
結局、そんな風に再生数を稼ぐのは邪道。
普通に頑張ろう、クッキング動画を検討してみて、という感じでその日の収録は中止になった。
「もうびっくりだったよ。あんなドン引きされるとは思わなかった」
佳織は親友の梓に先日の失敗談を話した。
「いや、そりゃドン引きもするでしょうよ……あんたのやったことってコートをはだけて全裸を見せつけてくる変態おじさん? 露出魔というか露出狂? そういうのと同類だよね」
梓は呆れ気味に言った。
「さすがにそれは酷くない!? 一緒にされたくはないなあ」
「行為としては同じでしょ」
「まあねえ」
廊下でそんな雑談をしていたら、通りがかった担任教師の中谷が二人を訝し気に見てきた。
「おまえら、色付きリップ使ってないか?」
「え、色付きってほどじゃないと思うんですけど……」
梓が自信無さそうにモゴモゴ言う。
それを見た佳織はすかさずフォローを入れた。
「先生、体調悪いと顔色も悪くなりますよね? 逆に体調がいいと血色良くなりますよね? だからそう見えてしまったんだと思います」
「体調……?」
「はい。そう見えてしまったのも仕方ないと思います」
「………」
釈然としない様子だったが、中谷は去っていった。
「うるさいよねーアイツ。他の先生はなんも言わないのに」
中谷の後ろ姿を見送りながら佳織が吐き捨てる。
佳織と梓を含む、女子の半数ぐらいは色付きリップを使ってる。
一応、色付きリップは校則で禁止なのだが、それを注意する先生はほとんどいないのが実態なのだ。
だが、この年に赴任してきた中谷は細かい小言をいってくるタイプで生徒には煙たがられていた。
「早く担任変えてくれないかなー。うざったくてしゃあない」
「あと半年ほどの我慢だよ。それより佳織すごいね。よくあんな言い訳を思いついたね。堂々としてたんで感心したよ」
「アイツうるさいから事前に考えといたのよ。色付き日焼け止めを注意された時のバージョンもあるよ」
「え、どう言えばいいの?」
梓は興味津々に食いついた。
こういう対処法はメチャクチャ知りたい情報なのだ。
「それはねえ……」
いかに上手く切り抜けるかという話題で二人は盛り上がった。
数日後。
日直の佳織は職員室にプリントを届けに行った。
「先生、プリントです」
中谷に机にプリントの束を置き、佳織は足早に立ち去ろうとした。
正直この教師にはあまり関わりたくない。
「まて、久世」
背後から声を掛けられ、さも嫌そうな顔をする佳織。
一瞬で表情を切り替え、振り返る。
「なんですか?」
「おまえ、真面目に勉強してるのか?」
「え? やってますけど」
「そうは思えんな。こないだのテストの平均50点ぐらいだったじゃないか」
(人のテストの平均点を堂々とバラすなよ……)
こういう無神経さも嫌いな部分だ。
「追試は無かったんだからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃない」
じゃあ何が問題なのだろうか?
佳織は中谷の言いたいことがさっぱりわからなかった。
「去年おまえ、新入生代表の挨拶したんだろ?」
「はあ」
「新入生代表の挨拶したという事は入学試験でトップだったはずだ。じゃあもっと出来るはずだよな?」
(誰か余計なことを吹き込んだな……)
たしかに新入生代表の挨拶はしたが、勉強はそこで燃え尽きた。
今はダンススクールに通ったり、おしゃれを研究したり、動画を作ったり、アイドルを目指す活動で忙しいのだ。
こう言っちゃなんだが、勉強などしてるヒマがないというのが正直なところ。
それでも追試を受けない程度には勉強もやってるのだから、褒められこそすれ、批判されるのは佳織的には心外だった。
「いやもう無理です。中受で燃え尽きました」
「燃え尽きたってなあ……」
不満そうな中谷。
「ウチは中高一貫だから高校には行けるだろうけど、その先苦労することになるぞ。今の内にしっかり勉強しておかないと良い大学に入れないぞ」
今度は佳織が不満そうな顔をした。
(なんでこの人は、あたしの進路を勝手に決めるんだろう……大学行きたいなんてひと言もいってないのに)
佳織が通ってる中高一貫校はそこそこの進学校。
だとしても、良い大学に入ることを既定路線のように言われても困る。
「あたし、大学行きたいなんて言ってないです。勝手に進路決めないでください」
「他の先生は何も言わないのに色付きリップをゴチャゴチャ言ったり、進路を勝手に決めたり、ホント最悪だよ、あの先生」
昭雄の家。
学校帰りの佳織はシュガーレスの高カカオチョコを食べながら昭雄に愚痴った。
「そう言ってやるなよ。生徒の成績は担任教師の勤務評定に響くんだから」
昭雄は佳織を窘めた。
「なんでアイツの評価をあたしが気にしなきゃならんのよ」
「そうではなく、教師として当然の言動って意味じゃよ」
「だからって勝手に進路を決めるのはおかしいでしょ」
「進学校なら、とりあえず良い大学に行くことを前提とするのは特段おかしくもないぞ。おまえは大学以外にやりたいことがあるのか?」
「んん……」
佳織は口ごもった。
アイドルになりたい───とは祖父といえども、ちょっと言いにくい。
オーディションに受かったとか読モに選ばれたとか、何らかの結果を出してから言いたい思いがある。
「ぼんやりした目標だけどね、大学以外の進路を考えてるよ」
「じゃあ先生にもそう言ってやればいい。大学行かない宣言だけじゃなく、進路はちゃんと考えてますってな」
(あの先生に言って通じるのかねえ……)
「まあ進路はともかくさ、色付きリップを注意するのはウザイよ。他の先生は何も言ってないんだから」
「それに関してはおまえの言う通りじゃろうな。他の先生が何も言ってないってことは、それがその学校の暗黙のルールなわけであって」
「でしょう?」
賛同してもらって佳織は気分を良くした。
「うるさく言わなくなるには、どうしたらいいんだろう?」
「そりゃ難問じゃな。話を聞いた感じ、その先生は”生徒の為になると思って注意してる”っぽいからのう。自分を正義と思い込んでる状態の人間を説得するのは難しい」
「お祖父ちゃんは地元の顔というか、この辺の有力者だよね?」
「?」
いきなり何を言い出すのかと目を丸くする昭雄。
「ウチの学校の理事長とも知り合いだったりしない?」
「それって儂の口から理事長に圧をかけて欲しいってことか?」
「言葉は悪いけど、まあ、そうなるかな。……………ダメ?」
「ダメではないよ。それがおまえの致命的なストレスになってるならな。孫が苦しんでるなら一肌脱ぐこともやぶさかではない。じゃが、そこまで深刻なストレスなのか?」
「う……」
そう聞かれると返答に困る。
ウザイことはウザイが、深刻なストレスかと聞かれると違うような気もする。
そんな大げさな問題でもないのだ。
「命に関わるような深刻な問題じゃないのに儂の権力に頼るのは良くないぞ。問題を自分で解決する力を育めなくなる。儂いつも言っておるじゃろ」
「うん、ゴメン……」
しおらしく謝った佳織を見て、昭雄は優しく言った。
「生徒手帳を持ってるか?」
「え?」
「生徒手帳じゃよ。学校の」
「どうだったかな……あ、カバンの中にあったような」
「見せてくれるか?」
「いいけどなんで?」
カバンの中をごそごそ探しながら佳織が尋ねる。
「ええからええから」
手帳を見つけた佳織が昭雄に渡す。
「あったよ。ほら」
手帳を受け取った昭雄は、それを読み始めた。
なにがしたんだろう? お祖父ちゃんは?
意味が分からない佳織は祖父を訝し気に見た。
そんな佳織をよそに手帳を読み終えた昭雄は佳織に言った。
「ふむ、良かったな」
「何が?」
「校則には色付きリップ禁止とは書いてないぞ。化粧禁止とあるだけじゃ」
「?」
祖父の言いたいことがわからない佳織は小首を傾げた。
「つまりじゃな、化粧目的はダメでも保湿目的とか健康目的とか、そういう理由ならリップを使ってもいいと解釈できるわけじゃ」
「え、でもあの先生は色付きリップは校則で禁止って言ってたよ?」
「それはその先生の独自解釈じゃないかの? 他の先生は何も言っておらんのじゃろう? 色付きリップは禁止っていうのを他の先生も言ったのか?」
「それは……言ってないと思う。てか、聞いたことない」
「だったら独自解釈ってことじゃろうな。校則にも書いてないのだから」
「ええっと、つまり保湿目的とか健康目的とかで通せってこと?」
ゆっくり頷く昭雄。
「それで上手くいくのかなあ?」
「生徒手帳に書いてない、ってのは自分を正義と思い込んでるタイプには効くと思うぞ」
「そうなのかな?」
「ああ。お堅いタイプは明確なルールを絶対的なものとして捉える傾向にあるからの。裏を返せば明文化されていない部分には弱いということじゃ。他の先生が何も言ってないってことは独自解釈ってことで、校則ならば押し付けられるが独自解釈なら押し付けるのは難しくなる。論法としては校則違反はしてませんというのを柔らかい言い方で伝えればええよ。あとパッケージには化粧品ではなく医薬部外品と書かれている、つまり薬用ということを主張するのも効くじゃろうな」
「それでうるさく言わなくなる?」
「まあ杓子定規なタイプは校則変更レベルの状況変化でもなければ、自分が正しいとゴリ押してくるかもしれないがの。マシになる可能性はあると思うぞ」
「結局、可能性レベルなのね」
「そりゃしょうがないじゃろ。最初に言った通り、自分を正義と思い込んでる人間を説得するのは難しいのじゃよ」
その夜。動画の集計ページを開いた佳織は、ため息をついた。
再生数は、また伸びていない。
好きで続けているはずなのに、胸の奥がじんわりと痛かった。
(向いてないのかな……)
梓には言えなかったが、転校のことも悩みのタネだ。
夢を追いかけることが、こんなに苦しいなんて思ってなかった。
佳織は暗い気持ちで眠りについた。
翌日。
休み時間の教室。
梓は佳織に尋ねた。
「佳織はなんて書いた? 進路調査」
「梓は?」
答えにくかった佳織はとっさに聞き返した。
「私? 私は理系にしようと思ってるよ。佳織は?」
芸能方面に強い学校に転校しようか佳織は少し迷っていた。
理系や文系の話ではなく、転校も視野に入れてるのだ。
「理系も文系も書かなかったよ。まだ迷ってるので」
「そうなんだ。良かったら理系にしようよ。高等部でも同じクラスになれるかもだし」
「うん。それはいいね」
「高校も佳織と同じクラスだといいなあ」
(うぐ……)
梓の笑顔が胸に刺さる。
転校も考えてる…とは、ますます言いにくくなった。
その日のホームルームの終わり際、中谷がこう言ってきた。
「久世と山田、進路のことで話があるので進路指導室に来い。最初は山田、次に久世だ」
(ええ!? なんなの? 面倒くさいなあもう。早く帰って溜まってる動画の編集したいのに)
佳織はあからさまに嫌そうな顔をした。
ホームルームが終わると、何人かのクラスメートに質問された。
「佳織ちゃん、進路希望なに書いたの?」
「いや、別に。文系も理系も書かなかっただけだよ。みんなは書いたの?」
「書いたってか、二択にマルつけるだけじゃん。それで進路が決まるわけじゃないし単なるアンケートでしょ。適当に書いた子も多いんじゃない?」
(そりゃそうか。あたしも適当にマルつければ良かった)
進路指導室。
山田の番が終わり、次は佳織の番を迎えていた。
「単なるアンケートなのに、書かなかった理由ってなんだ?」
中谷にそう問われ、佳織は答えた。
「理系とか文系とか、まだ決める必要はないと思いまして」
「単なるアンケートなんだから、なんとなくで答えても良かったんだぞ」
「そうですね。じゃあ理系にします」
投げやりな言い方に聞こえたのか、中谷は不快さを露わにした。
「おまえな、自分の進路のことなんだから、もっと真面目に考えろよ」
責めるような口調で言われ、佳織も少しピキっとなった。
「考えてますよ。自分の進路なんだから。先生よりずっと真面目に考えてます」
「ほう。どんな進路だ?」
挑発的な口調が気に入らない。
腹が立ってきた佳織は”あえて”本音を言うことにした。
「アイドルです。あたしアイドルを目指してるので芸能関係に強い学校か、勉強しなくても進級できる学校への転校も考えてます」
「ハァ!? 本気で言ってるのか!?」
「本気ですよ」
「アイドルって……選ばれた人間しかなれないだろ。あれって」
「あたしが選ばれた人間じゃないと?」
「そうじゃなくて、どんだけ厳しいイバラの道だと思ってるんだ?」
「そんなもん先生に言われなくてもわかってます。イバラの道だってことは」
「いやわかってないだろ。軽々しく口に出せる職業じゃない。そんな甘い覚悟で上手くいくわけないだろ」
「どこが甘い覚悟なんでしょう?」
「そうだろ。勉強しなくても進級できる学校でもいいなんて甘い覚悟と言わず、どう言えと?」
言葉が足りなかったと感じた佳織は補足を加えた。
「別に偏差値低めの学校で遊ぶわけじゃないですよ。進学校だと進級する為にある程度の勉強は必要になるんで、その勉強に使う時間を削って歌とかダンスとか練習する時間に充てたいんです」
「勉強しながらでも歌やダンスは練習できるだろ」
「今もダンス教室に通ってますが足りないですね、今のままじゃ。もっと練習が必要と感じてます。それこそ先生が言った通りイバラの道なんで。生半可な努力じゃ無理だってわかってますから」
「………」
中谷は呆気にとられた表情をしていた。
「いろんなオーディションや読モとかにも応募してます。結果は出てないけど簡単に諦めたくはないです」
「………」
鳩が豆鉄砲を食らったように呆けてる中谷を見て、佳織はここぞとばかりにぶっこんだ。
「色付きリップだってそうですよ。先生はどうこう言うけど、あれだって浮ついた興味でやってるわけじゃないです。アイドル目指すなら見た目に気を使うって、ものすごく大切なことなんで。他の先生は何も言わないのに先生だけですよ、あれをどうこう言うのって」
「………」
場には静寂が訪れた。
沈黙の後、真面目な面持ちで中谷が言う。
「……親御さんはなんて言ってるんだ?」
「反対はしてないですよ。ダンス教室に通ってるのも、ダンサーかアイドルになりたいからって言ってありますし」
「ダンサー?」
「それもなくはないです。ダンス好きなんで。本命はアイドルですけどね」
「………」
また沈黙。
少し間を置いて中谷は言った。
「それはわかったが、勉強はしろよ。学生の本分は勉強なんだから」
(勤務評定が大事ってか。ホントこの先生、自分のことしか考えてないなあ)
ここまで本音で話したのに、なおも勉強を強要してくる中谷に佳織は呆れた。
勉強するヒマがあったら歌やダンスやおしゃれなどに時間を使いたいのに、全く伝わってないらしい。
「極端な話さ、簡単な読み書きと簡単な計算が出来れば社会人として生きていけるよね。勉強がなんの役に立つのかホント意味わかんない」
大きな公園。
晴輝と一緒に犬の散歩をしながら、佳織は愚痴った。
社会を支える為に理系の知識は必要───という事を言おうと思ったが、晴輝は言葉を飲み込んだ。
じゃあ簡単な読み書き以外の文系はなんの役に立つの?
と聞かれた時、明快な答えを返す自信がなかったのだ。
「あの先生、マジウザイわ。正直に話すんじゃなかった」
「まあまあ。半年の我慢なんだろ? なんとかやり過ごしてよ。皆がそうしてるようにさ」
「その半年は地獄だけどね」
うっぷんが溜まってる佳織は吐き捨てた。
「それよりお前、アイドルになりたいって、どれぐらい本気なの?」
「超ガチモード」
「そんなに?」
「冗談だと思う?」
「いや、冗談だとは思わないよ。そう考えるとダンス動画作りに熱心なのも合点がいくし」
「ハル兄から見てさ、あたしってどう思う? 可愛い?」
「うん、可愛いと思うよ。イトコの評価なんて、あてにならないかもだが」
いえす!!
イトコとはいえ、イケメンの晴輝に可愛いと言われたのはすごく嬉しい。
(でもなあ。ハル兄に対して恋愛感情みたいなのって無いよなあ。ウェスターマーク効果だっけ? あとやっぱりイトコというのも関係あるような気がする)
佳織は晴輝をマジマジと見つめた。
「……なんだよ?」
晴輝が怪訝そうな表情で聞いてきた。
「あ、いやその……ハル兄はどう思う? 勉強したほうがいいと思う? あたしは他のことに時間を使いたいと思ってるんだけど、それっておかしい? 間違ってる?」
「や、それはもうホント、お前の出した答えが正解なんだと思うよ。勉強やるもやらないも、それぞれにメリデメリあるんで」
「メリデメリってどんな?」
「………」
この質問が出てくるってことは、誰も教えてないってことか。
勉強をやった場合とやらない場合のメリデメリを教えるのが、親や教師の本当の役目なんだよなあ。
進路を真剣に助言するなら、考える材料を与えて、最後には自分で判断させるってのがあるべき姿のはずなのだが。
まあ自分の利益を切り離して、客観的な視点で助言するって難しいからなあ。
晴輝はそんなことを思った。
「勉強やる利益と勉強やらない不利益は、世にたくさん溢れてるので省略するね。勉強やる不利益とやらない利益について軽く述べると、教育虐待と無縁でいられる、他の有意義なことに時間を使える、強要されるストレスからの解放、塾や教材にお金を使わなくて済む、実社会で必要な知識の習得が遅れることを回避できる、勉強だけしてればOKという歪な価値観にならなくて済む、何をやるかやらないかを自分で決めることで人生の主導権を握る力を得られる、他人の価値観に縛られず自分の幸せを追及できるので長期的な幸福感が高まりやすい、学歴以外の評価軸を高めやすくなる、などなど。もっとたくさんあったと思うけど思い出せる限り、俺が説明されたのはこんなトコ」
「長っ! 長いよ!!」
あまりの長さに佳織は思わずツッコミを入れた。
「お前が聞いたんだろうが」
「そうだけどさあ……説明されたって誰に?」
「ジイちゃんしかいないだろ。俺の親は外国にいるんだから。あと敢えて断定口調にしたけどさっき述べたのはあくまでも可能性の話ね。勉強やらないメリット、生き方のほうが優れてるって話じゃないことは留意してくれ」
数日後。
ホームルームの終わり際、中谷がこう言ってきた。
「久世、進路のことで竹内先生が話があるとのことなんで、あとで進路指導室に行くように」
(また!? こないだ行ったばっかりじゃん!!)
竹内というのは学年主任の教師。
たまに生徒を小馬鹿にするような言動がある教師で、生徒にはあまり好かれていなかった。
(中谷も嫌いだけど、アイツもあんまり好きじゃないんだよなあ……)
関わりたくない教師からの呼び出しでユウウツになる。
「佳織、何したの?」
ホームルーム後、梓が聞いてきた。
「あたしが知りたいわよ。進路調査は提出し直したのに意味わかんない」
「今日一緒に帰るよね。待ってようか?」
「うん、じゃあ、そうしてくれる? ゴメンね。待っててもらえると嬉しい」
「わかった。待っとくよ」
進路指導室に行くと、竹内が既に待っていた。
「まあ座れ」
促されるまま佳織がイスに座る。
竹内とは机を挟んで向かい合う形となった。
「オマエ、どういうつもりなんだ?」
「何がです?」
「進路だよ。中谷先生に聞いたぞ。アイドルになりたいとかなんとか」
(あのバカ、余計なこと言いやがって)
「本気なのか冗談なのか、進路指導主事として聞いておきたいと思ってな」
この言い方はなんかイラっとする。
仮にも冗談の可能性を示唆するというのは、生徒の夢に対し失礼なことだとは思わないのだろうか?
「本気ですよ」
佳織はまっすぐに見つめて言った。
「転校するってのも本気なのか?」
「絶対そうするってわけじゃないです。その可能性があるってだけで」
「アイドルになる為に? 転校?」
「いけませんか?」
「いけなくはないけどな」
竹内は人をバカにしたような嫌らしい薄ら笑いを浮かべた。
「オマエは現実を知らないだろうから、そんな夢を見てるんだろうがな。地下アイドルなんてロクなもんじゃないぞ」
「!?」
(ナニ言ってんだコイツ……??)
佳織は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「やってることは水商売と一緒だよな。男に貢がせるだけのくだらない職業だ」
目を丸くしてる佳織に向かって竹内はせせら笑った。
(コイツ……!!)
地下アイドルでも普通に頑張ってる人はいる。
一方的に悪く言う権利なんてない。
もう1つ。
なぜ地下アイドル限定なのか?
全国区のアイドルになるという可能性だってあるのに、なぜコイツはその可能性を排除してるのか?
あまりに失礼な言い方に、佳織の怒りはマグマのように荒々しく煮えたぎった。
「ウチは上位校への進学率がウリなんだ。変な進路の奴がいると困るんだが……。まあいいか。毎年いるんだわ、一人か二人。オマエみたいな奴がな」
バカにする気マンマンの嘲笑。
明確な悪意を感じ取った佳織はすぐに言い返した。
「ふーん。そのセリフそっくり返すよ。たまーにいるんだわ、一人か二人。アンタみたいな教師がね」
佳織は竹内に侮蔑の笑みを返してやった。
その嘲られたことに気付いた竹内の表情が一瞬で硬くなる。
「おい、そりゃどういう意味だ? アンタだと? 口のきき方が───」
「さあねえ? どういう意味なんだろうねえ?」
竹内の言葉を遮り、なおも嘲笑で返す佳織。
更によほど怒りが収まらなかったのか追撃を入れる。
「アイドルはくだらない職業ですか。まあマシな部類だと思いますよ。教師という、世界一くだらない職業に比べたら、ね」
ガタン!!
大きな音を立てて竹内が立ち上がる。
そして鬼の形相で佳織に近付き、右の拳を思いっきり振りぬいて佳織を殴った。
パンチは佳織のこめかみにヒットし、佳織は殴られた衝撃でイスから転げ落ちた。
場は一瞬、静まり返り、妙な沈黙が訪れた。
「いったーい! 殴ったー!!」
こめかみを押さえて佳織は叫んだ。
ジワジワと痛みが沸き上がる。
大人の男に殴られたのは生まれて初めてで、涙がポロポロ流れてくる。
「なんだその口のきき方は! 舐めてんのかオマエは!!」
仁王立ちで怒鳴る竹内。
佳織はそんな竹内は相手にせず、進路指導室を飛び出した。
「誰か助けてええええ!! イヤアアアアアアア!!!!」
佳織は絶叫した。
あらん限りの金切り声をあげる。
「うるさい! 黙れ!」
竹内の怒鳴り声が後ろから聞こえるが、そんなのは無視。
「助けてえええ!! 誰か助けてええええ!!!」
「黙れって言ってるだろ!!」
叫び声が聞こえたのか、何人かの生徒がやや遠巻きに集まってきた。
その生徒に向かって佳織が泣きながら叫ぶ。
「助けて! 誰か呼んできて! コイツが殴ってくるの!」
と、片手でこめかみを押さえながら、もう片方の手で竹内を指差す。
泣きながら叫ぶ佳織を見て、ただ事じゃないと感じた一人の女生徒が誰かを呼びにいこうと駆けだした。
その女生徒と入れ替わるように梓がやってくる。
「な!? 佳織どうしたの!?」
梓は佳織に駆け寄った。
「うぇーん! 痛いよおおお!!」
佳織は寄りかかるように、梓の胸で泣き始めた。
どうしていいかわからなかった梓は、自分の胸の中で泣く佳織をそっと抱きしめた。
結局、野次馬がたくさん集まる大騒ぎになった。
駆け付けた教師たちにまずは場所を移そうと言われたが、佳織は断固拒否した。
殴られた頭がメチャクチャ痛い。
今すぐ病院行きたいと突っぱねたのだ。
体罰を受けた時の心得。
一分一秒でも早く、病院に行って診断書をもらえ。
佳織は祖父にそう教え込まれていたのだ。
だから保健室も拒否し、病院に行くの一点張りで通した。
教師はしきりに保健室で済ませようとしたが、今すぐ病院に行かせないなら学校を訴えると喚いた。
これも祖父の教えである。
最終的には教師の側が折れ、女性の教師が付き添って病院へ行くことになった。
翌日。
会議室にて、話し合いが行われることになった。
佳織の親は付き添いを申し出たが、これは断った。
会社も休みにくいだろうし、あまり大事として捉えてほしくない。
親に余計な心配をかけたくなかったのだ。
会議室では佳織、竹内、中谷、教頭、他数人の教師が見守る中での話し合いとなった。
佳織はまず事実確認を求められた。
他の教師が竹内に聞かされたのは、竹内は軽く小突いただけ。
側頭部打撲は転んだ時に頭でも打ったのだろう。
大げさに騒ぎすぎ。
最初にタメ口を使った佳織に非がある、というデタラメな内容だった。
佳織は最初に侮辱してきたのは竹内のほう。
自分を侮辱してきた相手に対して、敬語を使わないのは普通のこと。
自分は物理暴力を一切使ってない。
竹内だけが暴力を使ってきた、などなどの説明をした。
「嘘つくなよ。オマエが先にタメ口きいてきたんだろうがよ」
「そのセリフそっくり返すわ。アンタが侮辱してきたのが先でしょ。よくそんなデタラメをいけしゃあしゃあと口に出来るわね」
その腐りきった精神に一周まわって感心するわ。
と言いたかったが、これは我慢しておく。
佳織と竹内、どちらが先に失礼な言動をしたかで話は平行線になった。
竹内は暴力を振るったことは認めたが、先に佳織が謝らない限り、謝罪はしないと言い張った。
(スマホで録音しとけば良かったなあ)
証拠を残さなかったことは悔やまれる。
敵になる可能性が高そうな人物と接する時は録画や録音で証拠を残せ。
祖父に言われていたことなのだが、すっかり油断していた。
佳織と竹内、どちらかが嘘をついている。
だがどちらが嘘をついてるかを判断する決め手がない。
話し合いはやや膠着状態に陥っていた。
そんな中、担任の中谷が佳織に言った。
「なあ久世、お前の言ったことは本当なのか?」
(面倒な奴が出てきたなあ……)
「何度も言ってるじゃないですか。ホントですよ」
「俺の目を見て答えろ」
まっすぐに見つめ返して佳織が言う。
「だからホントですってば。先にあたしの夢を嘲笑してきたのは向こうのほうです」
「そうか」
それだけ聞くと中谷は竹内のほうへ歩き出した。
「竹内先生、災難でしたね。アイドルになりたいなんて絵空事を言われたら嘲笑するのは普通ですよね。鼻で笑われても仕方ない夢だと思います。アイドルになりたい、なんてね」
中谷は笑いながら言った。
(こいつ!!)
佳織は心の中で激高した。
この場所で、また侮辱されるとは夢にも思わなかった。
賛同者を得た竹内は、我が意を得たりとホッとしたような表情を浮かべた。
「そうなんですよ。アイドルなんて言われた日にはね、鼻で笑っちゃうのが普通ってなもんです」
中谷に合わせて笑う竹内。
その二人を見て、拳をぷるぷると握りしめる佳織。
もうどうなってもいい。
退学にでも何でもなってやる。
だからこの二人を殴らせろ。
そんな物騒な決意を固めたその時だった。
「───なんだ。やっぱ嘲笑したんじゃねえか」
そうポツリと呟く中谷。
「え?」
竹内がそう発した次の瞬間だった。
ガタン!!
大きな音が響き渡る。
中谷が右の拳で思いっきり竹内を殴り倒したのだ。
竹内はあの日の佳織と同じようにイスから転げ落ちていた。
周りに居た人間は全員ポカーンとしていた。
何が起きたのか理解が追いつかない。
中谷は言った。
「生徒の夢を笑うクズに、教師の資格なんてないわ!!」
静かな部屋に響き渡る中谷の啖呵。
「お前みたいなクズは教師なんかやめちまえ!!」
数週間後。
「おはよ」
「おはよー!」
梓が挨拶すると佳織は元気よく挨拶を返した。
中谷も竹内も謹慎処分となり、学校はいつもの日常が戻っていた。
噂によると竹内は謹慎処分中、学校をクビになったという話が生徒たちの間で囁かれていた。
あの事件をきっかけに、自分も竹内にモラハラされたと訴える生徒がたくさん出てきたのだ。
佳織が学校に提出した側頭部打撲の診断書も理由の1つなのかもしれない。
元々モラハラ気味の言動が問題になってた教師なのだ。
クビになってもなんら不思議ではない、というのが生徒たちの共通認識。
家に帰った佳織はカバンから一通の手紙を取り出した。
中谷からと、臨時の担任教師に渡されたのだ。
手紙をあけてみる。
そこにはこう書かれてあった。
──────────
久世へ
突然手紙を渡す形になってしまい、すまない。
身だしなみをうるさく言ったことや、
先日の進路指導の件で君を不快にさせたことを謝りたい。
あのときの私は教師としての理屈ばかりを押しつけ、
君の気持ちをまったく聞こうとしていなかった。
勉強しろと言ったのは、君に窮屈な思いをさせたいからではない。
君には大きな伸びしろがあると私は思ってる。
中学受験のときに見せた実力も、授業で何気なく発言するときの視点も、
「もったいない」と私は感じていた。
ただ、それを伝える言い方が最悪だった。
まるで君の人生を勝手に決めつけるような言い方になってしまい、
あれでは君が反発するのも当然だ。
本当に申し訳なかった。
私は夢を持つことを否定したいわけではない。
むしろ夢を語る生徒を見ると羨ましく感じるほどだ。
私自身、中学生のときに夢を持てなかった人間だから。
あまり聞きたくないだろうが、竹内について。
彼は若いころ地下アイドルに入れ込んで
大きな借金を作った過去があるんだそうだ。
そのおかげでかなり苦労したんだとか。
それがアイドルへの個人的な恨みになってしまい、
過剰な反応をしてしまったという面もあるらしい。
誤解しないでほしいのだが、
だからって彼の言動が許されるわけではない。
彼は報いを受けて当然のことをしたと思う。
許してやってくれとは言わないが、
彼も哀れな人なんだと思う。
最後に。
私もあの学校はやめることになった。
教師を続けるかどうかはわからない。
ただ一つ。
おそらくもう会うことはないだろうが、君の夢が叶うことを心から願ってる。
──────────
手紙を読み終えた佳織はふぅと軽く息を吐いた。
言いたいことは山ほどある。
山ほどあるのだが、今はただ、一連の出来事を静かに受け止めたいと思った。
ゆっくり深呼吸をして、前を向く。
次はどんな動画を作ろうか?
なんのオーディションに応募しようか?
歌もダンスも、もっとたくさんレベルアップしたい。
夢はまだまだこれからである。
【Lesson3・伸子の章】
「なんで勉強しなきゃいけないの?」
優斗は母親の伸子に聞いた。
「将来の選択肢が増えるからよ」
「選択肢って?」
「学校の勉強をしておけば、将来なることができる職業の選択肢が広がるの」
「僕は選択肢が広がらなくていいよ。選択肢が広がらなくていいなら、勉強しなくてもいいってことだよね?」
言い返してくる優斗に、フロアワイパーで床掃除をしている伸子はイラっときた。
(クソ忙しい時にくだらないこと聞かないでよ)
パートでくたくたになって帰ってきて、休む間もなく掃除や洗濯などの家事、このあと夕飯の仕度まである。
「いいからやっておきなさい! あなたの為の勉強なんだから!」
忙しい時に答えにくい質問をされるとイライラする。
優斗の成績は下がり気味で、ただでさえイラつくというのに面倒な質問はやめてほしい。
怒りの感情が漏れ出た伸子は怒鳴るように言った。
「………」
怒鳴られた優斗は無言でうつむいた。
その夜。リビング
就寝前の優斗を伸子は呼び止めた。
「あのね、勉強する理由というのはね、考える力をつける為なのよ」
「………」
「わかった?」
「……」
「わかったの?」
「……もう寝ていい?」
けだるそうにリビングを出ていく優斗。
(パズルゲームをやっても考える力って身につくよね)
この反論をすぐ思いついたが、あえて言わなかった。
反論すると母は答えにつまる。
答えに詰まると、また怒鳴られる。
それが嫌だったのだ。
「あの子、ホントにわかったのかしらね」
夫の悟に向かって呟く。
悟はソファに寝そべりながらスマホゲームをしていた。
「小学生には難しいかもな」
「じゃ、なんて言えば良かったの?」
「さあ? わからないな」
他人事のような言い方がカンに触る。
「自分の子供のことでしょ。あなたもちょっとは考えてよ」
どこか責めるような口調で悟に言う。
「ネットで調べればいいんじゃないか? 優斗に合いそうな説明なにかあるだろ」
(ゲームしてるヒマがあったら、あなたが調べてよ!)
そう言いたくなったが我慢する。
寝る前のスマホゲームは悟の唯一の楽しみで、なるべく邪魔しないでほしいと言われてるのだ。
(ハァ……)
心の中でため息をつき、伸子はタブレットを立ち上げた。
なんでこの人はこんな他人事なんだろう。
中受をやるなら、今からでも遅いぐらいなのに……。
そんな事を考えながら、伸子は優斗に勉強させる為の理由を探した。
大手スーパーで週4日、伸子はパートとして働いてる。
品出しをしながら売り場の違和感に気付く。
(なんでこのコーナー、こんなスペースが空いてるんだろう?)
いつもあるはずの売れ筋のジュースが全く見当たらない。
倉庫を調べてみるが、在庫もない。
変に思った伸子は休憩時間、店のパソコンから売り上げデータを調べてみた。
その売れ筋のジュースは毎日一定量の間隔で売れていた。
短期間で大量に売れたのなら品切れもわかるのだが、少しずつ売れて品切れになったということは、発注担当者のミスの可能性がある。
本日分の発注記録を見てみると、品切れになっていた売れ筋のジュースは今日も発注されていなかった。
「店長、このジュースの発注ってやめたんですか?」
ちょうど事務室に入ってきた店長に、パソコン画面を指差しながら声をかける。
「いや、やめてないよ」
画面を見ながら店長が答える。
「じゃあ発注してもいいですか? 棚はスカスカの品切れ状態だったんで」
「ホントに? じゃあ。お願い」
(3ケースでいいかな)
パソコンで発注する。
6年も働いてれば慣れたもので、こういう所にも気が付くようになっていた。
ジュースの発注は自分の担当ではないのだが、休憩時間を削ってでも他人のミスをカバーしたのは、いつかは正社員になりたいという希望があったからだ。
夫である悟は高卒で給料があまり良くない。
それが不満だったのだ。
パートのない日は時折ママ友のお茶会に参加している。
断ることもあるが熱心に誘ってくれるので、たまに顔を出してるのだ。
最近見たドラマの話で盛り上がり、話が一区切りついたタイミングで伸子は言った。
「……今ちょっと迷ってるんだけどさ、やっぱりうちも中受やったほうがいいのかなって。5年生ってギリギリというか、もう遅いぐらいだよね」
それを聞いた3人のママ友が一斉に鋭い視線を伸子に向けた。
「遅くないわよ。でも伸子さん、覚悟は必要よ? うちの子なんて私が『もう寝なさい』って参考書を取り上げても隠れて解いてるの。勉強が遊び感覚なのよね。中受のやる気をそぐわけにもいかないし注意の仕方が本当に難しいわ……」
沙織がそう言うと真由美も続いた。
「うん、今からでも中受は出来るわよ。お金はかかるけどね。環境を『買う』と思えば安いけど実際は本当に嫌になっちゃう。うちは塾の他に家庭教師も併用してるから、毎月の教育費だけですごい出費になってる。オプション増やしたからまた上がっちゃう。請求書を見るのが怖いわホントに」
恵も負けじと続く。
「5年生なら挽回できるよ。うちは塾から『君の成績で中堅校を受けるのは時間の無駄だ』って言われちゃってね。塾側が高偏差値校しか受けさせてくれないの。進学先を決めつけられるのも、親としては選ぶ楽しみが無くて困っちゃうわよね」
3人とも深刻な雰囲気を出そうとしてるようだが、口元には笑みが浮かんでる。
そのことが伸子はちょっとモヤっときた。
「みんな地元の公立は全く考えてない感じ?」
伸子が探るようにたずねると、沙織は慈悲深い聖母のような眼差しで言った。
「もちろん公立が悪いわけじゃないのよ? でもね、公立の環境というか大学入試のことも考えるとさ、中高一貫のカリキュラムに乗っちゃった方が結局は楽だと思うのよ。親じゃなく、子供がね」
「そうそう。今ココで得られる『学習習慣』は一生モノだと思うわ。昨日も上の子のママ友と話してたんだけど、私立は先生の異動が少ないから指導が安定してるのに対して、公立だとどんな先生に当たるかギャンブルなのよね。サラリーマン教師に当たったら悲惨だよ?」
「大学も見据えるなら公立はねえ……。高い意識を持った同級生に囲まれたほうが学力は絶対伸びるよ。それに私立に問題児がいないとは言わないけど公立に比べたら圧倒的に少ない。周りをどんな子に囲まれるかはすごく大きいと思うわ。子供には良い環境を与えてあげたいよね」
3人は公立なんてありえないとでも言いたげに、立て続けにまくしたてた。
言葉の端々にモヤっとくるモノもあるが、言ってることはすごく納得できる。
(やっぱり中受をやらせることが子供の為なのよね)
優斗に中受をやらせるかどうか迷っていたが、その迷いは晴れていった。
やはりどう考えても、中受はやらせたほうがいいという結論にしかならない。
(そうだよね。子供に良い環境を与えてあげたいと思うのが普通の親だよね)
お茶会の帰り、本屋で『子供を落ちこぼれにしない為に親が出来ること』という本を買う。
我が子を落ちこぼれにするわけにはいかない。
更に本屋の帰り、政治家をやってる義理の父の家に寄る。
(いつ来ても大きな家ね。こんな家に住めたらなあ)
この大きな家は猫がたくさんいて、無料のネコカフェのようになっている。
リビングでは晴輝と佳織がテレビゲームをしていた。
「お邪魔するわね」
「こんにちは」
「こんにちは」
二人は軽く会釈して、すぐまたゲーム画面へ視線を戻した。
猫を撫でながら伸子は二人の様子を見ていた。
ゲームのことはよくわからないが、キャッキャウフフと楽しそうである。
(楽しそうだなあ)
晴輝は高い偏差値を誇る中高一貫校で、佳織も名の知れた進学校に通ってる。
育ちの良さを感じさせる晴輝と、気は強めだが挨拶はちゃんとしてくれる程度に礼儀を弁えてる佳織。
そして容姿は二人とも優れてる。
連れて歩いたらちょっとした自慢になりそうな感じはある。
(この二人が自分の子供だったらなあ……)
何度も思ったことを今日もまた改めて思う。
この二人が自分の子供だったらどんなにいいかと。
あのママ友たちにも思いっきり見せびらかすことができるのに。
と、脳内で見せつけてるシーンを妄想する。
悔しがるだろうなあ、あのママ友たち。
最近、猫と遊ぶより妄想にふけるほうが楽しいことを伸子自身は気付いてなかった。
リビングの壁には3段カラーボックスを3つ並べた場所があり、その上にはブックスタンドが置かれている。
そのブックスタンドに収められている本を見て、優斗は暗い気分になった。
『子供を落ちこぼれにしない為に親が出来ること』というタイトルの本。
(落ちこぼれ……)
「はぁ…………」
ため息をつき、優斗は重い足取りで自分の部屋へ戻った。
夕方。
優斗は夕飯の仕度をしている母に言った。
「お母さん、ボク将来コックさんになりたいんだ。だから夕飯の準備、手伝っていい?」
(勉強したくないが為の浅知恵ね。そうはいかないわよ)
「手伝わなくていいわよ。いいからアンタは勉強しなさい。前に問題集を買ってあげたでしょ。せっかく買ってあげたのに全然やってないんだから。勿体ない。夕飯の手伝いなんかより、それをやってくれたほうがお母さんは嬉しいわ」
「………」
伸子がそう言うと、優斗はすごすごと戻っていった。
その夜、会社から帰ってきた悟は落ちこぼれ対策の本を見つけてぎょっとした。
「………」
悟は無言でその本を見つめた。
寝る前のリラックスタイム。
いつものように悟がソファーに寝っ転がってスマホゲームをやってると、伸子が声をかけてきた。
「ねえ、ちょっといい?」
「なんだよ」
ゲームをしながら返事をする悟。
「優斗のことなんだけどさ、やっぱり中受やろうと思うのよ」
「ああ、うん」
(やっぱりか……)
本を見つけた時、なんとなく想像はできた。
また中受をやりたいと言い出すのではないかと。
「どう思う?」
「優斗はなんて言ってるんだ? やりたがってるのか?」
「まだ言ってない。でも中受のメリットを説明すればやる気になると思うよ」
「………」
ゲームを続けている悟。
こっち向いて喋ったら?
と言いたかったが我慢。
「ね、どう思う?」
「本人がやる気になったならいいよ。無理やりやらせたり、過度なプレッシャーをかけたりするなら反対だけど」
「無理やりなんて、そんなことしないよ」
「彰人にはさせたじゃないか。プレッシャーもすごかったし」
「それは! 初めての中受で焦ってたから……」
彰人というのは優斗の兄。
無理やり中受させてみたものの、結果は失敗。
地元の公立中学に入ったものの心の病気を発症し、今は田舎の祖母の家で静養しているという状態だった。
(ってか、中受は親の熱意と経済力で決まるんだから、経済力が劣ってたら熱意で勝負するしかないじゃん。なんで私だけが悪いみたいな話になってんのよ)
不満を抱えてる伸子は口を尖らせた。
「というか、彰人がああなったのは私だけのせいじゃないでしょ。公立中学にも問題があったと思うよ」
「………」
高卒の悟の稼ぎが悪いことをなじってやりたいが、それをしないだけでも感謝してほしい。
そのぐらいの気持ちが伸子にはあった。
彰人のことがあって優斗の中受は我慢してたのだが、ママ友との話もあって思い直した。
子供に良い環境を与える為にも、やはり中受はやったほうがいいと。
「ね、どうかな? 優斗の為を思うなら、中受はやったほうがいいと思うんだ」
「さっきも言ったけど優斗本人にやる気があるなら、本人の意思として中受やりたいって言ったなら、いいよ」
数日後の夜。
受験をテーマにしたドラマを見ていた伸子は、作中のあるセリフに大きな感銘を受けた。
(これだ!!)
親の本音をズバリ言い現わしたセリフ。
伸子の中受への意欲はますます高まった。
パート先のスーパー。
包装や値札貼りは自動でやることもあるが、盛り付けはたいてい手作業。
伸子はこれが得意だった。
煮物なら崩れないように。
色どりの人参は埋もれないように。
海老天は目立つ位置に来るように。
見た目も量もバランスを考えて、かつスピーディーに盛り付けをしている。
休憩時間、パート仲間の一人がこんなことを言ってきた。
「伸子さん、綺麗に盛り付けるよねえ。手際もいいし」
「さすがベテランって感じがしたわ」
「そうですか? そう言って頂けると嬉しいです」
褒められて嬉しくなる。
「そういえば聞いた? 新山さん、パートから正社員になったんだって」
「へー、そりゃすごいね! あの人まだ入ってきて1年ぐらいでしょ?」
「無難に仕事してる感じで、そんな優秀そうにも見えなかったけどな」
「やっぱり大卒というのが大きいんじゃない? 噂ではK大とかなんとか」
「………」
パート仲間の会話を伸子は顔面蒼白で聞いていた。
(はっ? 正社員? なんで……? なんで入って1年ぐらいの人が正社員になれるの……?)
天国から地獄。
褒められたことが一瞬で吹っ飛ぶぐらいのショックを受ける伸子。
自分は6年も仕事を頑張ってきた。
その辺のパートより貢献してる自信もある。
正社員になるなら自分が一番相応しいはず。
それがこの仕打ち。
(なんで……………)
パートが終わり、自宅のマンションへ帰ってくる。
脳裏にはパート仲間の言葉が突き刺さってる。
───やっぱり大卒というのが大きいんじゃない? 噂ではK大とかなんとか───
集合ポストから郵便物を取り出すと、一枚のチラシに目が留まった。
それは個別指導塾のチラシだった。
中受はまだ間に合います! お任せください!
景気のいい文句が書いてある。
だが伸子が気になったのは他の部分だった。
今なら無料体験キャンペーン実施中!
もう迷いはない。
優斗は中受を絶対にやるべきなのだ。
部屋に戻るやいなや、チラシに書いてあった塾に電話をかける。
伸子は無料体験の予約をとった。
優斗の意思は未確認だが、もし嫌だと言われても関係ない。
首に縄をつけてでも引っ張っていくつもりである。
塾の無料体験の日。
優斗はまだ帰ってこなかった。
(どこで道草くってんのよあの子!!)
このままでは遅刻しそうだ。
どこで道草と考えて、自分のスマホを確認する。
優斗には見守りGPSを持たせてあるので、居場所はわかるのだ。
養父の家。
一応、電話でも家政婦に確認したので優斗がここに居ることはわかってる。
ずかずかと進んでリビングに行く。
「なにやってんのアンタ!!」
優斗は猫と遊んでいた。
こんな所で猫と遊んでる優斗に怒りがわいてくる。
「塾サボってこんなトコで遊んで!!」
「塾なんて行きたくないよ……」
「体験の予約したって言ったでしょ! いいから来なさい!!」
伸子は優斗の腕を掴み、ひきずるように連れて行った。
その日の夜。寝室。
「?? この本こっちに移したの?」
リビングにあったはずの落ちこぼれ対策の本が、寝室に移動している。
「ああ」
「なんで?」
そう聞くと、悟は一瞬目を見開いた。
「……大人だけが読む本はこっちに置いてもいいんじゃないか?」
「ふーん。まあ、どっちでもいいわ」
伸子は関心なさそうに言った。
「それより聞いてよ。優斗ったら今日の塾、サボろうとしたのよ。せっかくの無料体験なのに勿体ないことするんじゃないってね」
「あの子が中受やりたいって言ったのか?」
「それはまだだけど中受をやるかやらないかの判断をするため、情報を増やすための無料体験なのよ」
「その体験も本人がやりたいって言ったのか?」
「言ってないけどさ、正確な判断をくだす為の情報集めなんだから、必要なことだよ。中受やらせることを決めたわけじゃないんだから別にいいでしょ。無料だから家計の負担にもなってないし」
伸子は少しバツが悪そうに、しかしそのバツの悪さをごまかすように後半の弁明に力を込めた。
「………」
悟は一瞬なにか言いたげな素振りを見せたが、何も言わなかった。
次の日。
「明後日また無料体験の予約とったわよ。今度はサボらないでね。明後日は学校に迎えに行くから」
伸子がそう言うと、優斗は嫌そうな顔をした。
「だから、塾なんか行きたくないってば……」
「いいから行くの。中受やるにしろやらないにしろ、情報は必要なんだから」
「公立でいいってば。なんの為に勉強するのか意味わかんない……」
「いいからやりなさい! アンタの為の勉強でしょ!!」
「………」
また怒鳴られ、萎縮した優斗はうなだれた。
次の日はいよいよ無料体験という時。
異変は夕方に起こった。
門限は17時に決めてあるのに、帰ってこないのだ。
見守りGPSを確認すると、また養父の家が表示されてる。
伸子は養父の家へ電話をかけた。
電話口に出た家政婦に、優斗に変わるようお願いする。
保留音を聞きながら待つ。
これは10分以上、たっぷり待たされた。
こんなに待たされてイライラする。
ようやく電話に出たと思ったら、それは養父の昭雄だった。
「伸子さんかね?」
「ええ」
「わしじゃよ。待たせてすまんのう。優斗は今日ウチに泊めてもええかの? 本人がそうしたいと言っとるんで」
「え……いやそんなわけにはいかないですって! 迷惑ですし!」
「迷惑ではないよ。孫が遊びに来て、嫌がる祖父はおらんじゃろ」
(なんなの……?)
優斗が何を考えてるのかさっぱりわからない。
「いや、そんなわけにはいかないですよ! 今から迎えに行きます!」
「待て待て。悟は帰ってきてるかの?」
「まだです」
「じゃあ悟と一緒に来るとええよ。夕飯はこっちで食べさせるから心配しなくて大丈夫」
よくはわからないが、夫と一緒に行ったほうが良さそうな感じはした。
こちらはこちらで夕食を済ませ、悟と一緒に祖父の家へ行く。
(なにを考えてるの? 優斗?)
リビングには優斗と晴輝と昭雄の3人がいた。
「来たようじゃの。伸子さん、いらっしゃい」
「優斗! アンタなに考えてんの!!」
挨拶もせず、伸子はかました。
かまさずにはいられなかったのだ。
怒鳴られた優斗はビクっとなり、晴輝の影に隠れた。
「伸子さん、心配なのはわかるが怒鳴らんでもええじゃろ。優斗が恐がっとるぞ」
「あ、すみません。つい……」
謝る伸子の隣で、悟が言う。
「とりあえず座ろう」
悟と伸子がソファーに腰かける。
「じゃ、俺は自分の部屋に行ってるね」
晴輝はそう言ってリビングを出ていった。
場は伸子、悟、優斗、昭雄の4人が残った。
「優斗、泊まりたいってどういうこと?」
「………」
優斗は何も答えなかった。
「伸子さん、ちょっといいかね?」
「?」
「優斗はうまく話せないそうだ。『僕が反論するとお母さんはすぐ怒鳴るって』言われての」
「そんな! 怒鳴ってなんかないですよ」
伸子はすぐに否定した。
”優斗が問題行動をした時”や”くだらない質問をしたとき以外は怒鳴った覚えがない”のだ。
「まあまあ。わしが優斗の気持ちを代弁しようと思うんじゃが、どうじゃろうか?」
なんだかおかしな提案に聞こえるが、とりあえず養父の意向を立てておくことにする。
「いいですよ。優斗はなんて言ってるんです?」
「うむ。要するに、無理やり塾に行かされるのは嫌ということじゃ」
「?? それが今日ここに泊まりたい理由なんですか?」
泊まったから何がどうなるのか、よくわからない。
「しばらくここに住みたい。学校もここから通いたいと言っておるよ」
「はぁああ!? なんっ……で!」
もう意味不明だ。
優斗を怒鳴りたい気持ちになったが、なんとか我慢する。
「なんでここに住むとかの話になってんですか? 意味がわからないんですけど」
「まあ抗議なんじゃろうな。優斗なりの」
「なんの抗議───そんなに嫌なんですか!? 塾に行くのが!? 通うわけじゃなく体験なのに!?」
「その体験すらも嫌だということじゃよ」
そこまで嫌がる理由が本当にわからない。
伸子は優斗に向けて言うことにした。
怒鳴りたい気持ちを抑えて、なるべく穏便な口調を意識して。
「ねえ、優斗。説明したでしょ。中受はとても大切なものなの。判断力が未熟な子供では、中受の何がいいのか理解しにくい。教育のプロである塾講師の話を聞くのは有意義なことだって」
「だから、公立でいいって言ってるじゃん……」
(このっ!!)
公立より私立のほうが優れてると何度も説明した。
なのに、バカみたいに公立にこだわり続ける意味がわからない。
「友達が公立に行くから? でも中学が別でも放課後や休日は好きに遊べるって説明したでしょ」
「中受なんかやりたくないよ」
「なんで?」
「だって意味わからないもん。勉強ってなんの役に立つのさ」
この期に及んでまだそんなくだらない質問をするのかと、伸子はキレそうになった。
(……いや、怒鳴ってはダメだ。ちゃんとこの子に向き合わないと……)
心を落ち着け、ゆっくり話し出す。
「……あのね、お母さんパートしてるの知ってるよね?」
「うん」
「もう6年も働いててね、自分で言うのもなんだけど、お母さんすごく仕事頑張ってるのね。他人のミスもフォローするぐらいに。でもね、いくら仕事が出来ても正社員になれるのは大卒なの。K大の人なの。お母さんより仕事できない人が正社員になるのね。これってどう思う? おかしいと思わない?」
「………」
優斗は何も答えなかった。
「お母さんはおかしいと思うよ。学歴なんか関係なく仕事を上手くこなせるほうが正社員になるべきだって思うよ。でもね、社会はそういうものなの。学歴で差別されるの。お母さんはね、優斗に同じ目に遭ってほしくないのよ」
学歴だけで正社員になるかどうかを決めてるわけじゃないじゃろ。
と昭雄は思ったが、黙っておいた。
以前のマスクマンの話を思い出したのだ。
───親を学歴差別すれば、その親は子供に学歴をつけさせたがるでしょ? 給料に差をつけて学歴差別を身をもって思い知らせることで親から子へ学歴重視の価値観を伝承させ、この仕組みの維持を狙うという事。ウチの会社は高卒が出世しにくく給料に差があるのは、そういう理由もあるんだ───
(もちろん全部の企業がそう考えてるわけじゃない。だがまあ、そういう会社もあるっちゃあるからのう)
黙っていた悟が口を開く。
「高卒でも出世できることはあるだろ。本人が中受を嫌がってるなら無理にやらせることもないだろ」
悟の言葉に伸子はブチ切れた。
ロクに出世もしてない、高卒のオマエにそんなこと言われたくないと。
「うるさいわね! キレイゴト抜きにして学歴はクソ強い武器なのよ! 子供にクソ強い武器を持たせたいと思うのが普通の親でしょうよ! それの何が悪いのよ!!」
以前、ドラマで感銘を受けたセリフをぶちかます。
学歴はクソ強い武器。
これは身をもって感じた真実なのだ。
「………」
場はシーンと静まり返った。
誰も何も言わない。
「中受をやるのが正解なのよ。クソ強い武器を手に入れる為にはね。それがベストなの。塾の先生も言ってたわ。平均年収は学歴が高いほど多くなるってね。それが真実なのよ」
この思いわかってほしい。
伸子は絞り出すように言った。
「……えっと、ええかの? 喋っても?」
養父が恐る恐る聞いてきた。
「なんですか? どうぞ」
「うん、まあ、社会に学歴差別が多いのは事実。学歴が高いほど平均年収が多くなるのも事実。そこは同意じゃよ。だがなあ、学歴がクソ強い武器かっていうと───100パーとは言わんが、間違ってる部分も多々あると思うぞ」
「はっ? どこが?」
「ポスドク問題って知っとるかの?」
「知りません」
(やっぱりか)
「簡単に言うと、高学歴でも低賃金に苦しんでる人間がいるっていう問題じゃよ。その昔、国は博士号の人間を増やす政策を打ち出し、博士号まで獲得する高学歴の人間が増えた。でも政府は高学歴の人間の受け皿、つまり就職先を用意しなかったので、博士号という高学歴を持ってるにも関わらず就職先が見つからないという人間が増えてしまったんじゃよ。それで仕方なく低賃金の仕事に甘んじるという状態になってしまったと。いわゆる高学歴ワーキングプアってやつじゃな」
(高学歴で低賃金……?)
「もし学歴がクソ強い武器なら、そもそも高学歴ワーキングプアなんて存在せんのじゃよ」
「でもそれってレアケじゃないんですか?」
「レアケと切り捨てられるほど少なくはないよ。だから実際、社会問題になってるし。自殺した人間もいるぐらいのな」
「………」
「んでこっちが本題なんじゃが、伸子さん。あんたの子育てのゴールってどこじゃ?」
「子育てのゴール?」
「うむ。あんたの話を聞いてると、高学歴をつけさせることが子育てのゴールと聞こえるんじゃが、どうかの?」
「………」
子育てのゴールとは何か?
考えたこともない伸子は返答に困った。
困ってる伸子を見て、昭雄が助け船を出す。
「クイズではないので直観で答えても大丈夫じゃよ。将来、優斗にどんな人生を歩んでほしい?」
「どんな人生……」
伸子は優斗をチラと見た。
「そんな深く考えたことはないけど、とりあえず幸福な人生を歩んでほしいとは思います」
「うむ。わしも同意じゃよ。孫には幸福な人生を歩んでほしいと思うとる」
昭雄は笑顔で賛同した。
「そこでもう1つ質問というか確認じゃ。『幸福な人生を送る為に最も有効な武器は、学歴である』───これが伸子さんの答えなんかの?」
「幸福な人生を送る為に最も有効な武器……」
養父に問われたことを頭の中でも、なぞってみる。
「幸福がなんなのかはわかりませんが、平均年収が高くなるのは幸福なことだと思いますよ」
「なるほど。幸福な人生を送る為に最も有効な武器は、経済力であると?」
「それが全てじゃないですけど、経済力は大事じゃないですか」
「もちろんじゃよ。じゃが伸子さん自身も無意識化ではちゃんと気付いておるよ。経済力だけで幸福度は決まらないってね。『それが全てじゃない』という言葉が証明しとるよ。経済力はお金がない事への対策としては効果テキメンじゃが、幸福度を増やす効果としては、お金だけじゃダメというのが多くの人が同意しやすい着地点じゃないかの」
「………」
「高学歴のトップ層であるハーバード大学の研究によると『幸福を決定づける最も重要な要因は良好な人間関係である』という研究結果があるんじゃよ。もちろんこれにも批判はあって人間関係さえ良好なら幸福になれる、というわけではないよ」
「幸福には良好な人間関係と経済力が必要ってことですか?」
「その質問にはあえて答えないでおく。何が幸福かなんて、その人が決めることであって他人が決めることではないからの。だからわしは否定せんよ。伸子さんや塾の先生とやらが『幸福とは平均年収で決まる』という考えを持ってたとしても否定せん。『幸福とは人間関係で決まる』という意見も否定はしないがの。その人がそう思ったんなら、それが正解なんじゃろうから」
「………」
「例えば誰かが『あんたの幸福は経済力で決まる』『キミの幸福は人間関係で決まる』『あなたの幸福はカツラをかぶるかどうかで決まる』『お前の幸福は傲慢さを捨てられるかどうかで決まる』なんてことを言って回ったと仮定して───言われた側はどう感じるのかと。まぁ多くの人は感じるじゃろうな。ウザイと。『なんでオマエが私の幸福を勝手に決めるんだと』反発する人が大多数じゃろうな」
「………」
ここまで答えを誘導してるのに、息子の嫁は話の核心部分にまだ気付いてないらしい。
「伸子さんが言われた側ならどうじゃろうか? 例えば……そうじゃな。『オマエの幸福はダイエットするかどうかで決まる』なんて言われたら」
「余計なお世話って思います」
「優斗も同じ気持ちじゃよ」
「!!」
ここまで言われて伸子はハッと気付いた。
「『僕の幸福は高学歴で決まる』『僕の幸福は経済力で決まる』みたいなことを、本人が言ったんかの?」
「……いえ。言ってないです」
「本人にも聞いてみようか。優斗、どうじゃ? 高学歴を得ることや年収を平均以上にすることが、優斗の幸福なんじゃろうか?」
「難しいことはわかんないけど、違うよ。少なくとも僕の幸福は塾に行くことや中受をすることじゃない。それは絶対に幸福とは違う。幸福どころか、不幸しかないよ」
「そう思ってもアンタは子供だから判断力が───」
そう伸子が反論しかけた時、黙っていた悟が大声で言った。
「いい加減にしろ! 本人がやりたくないって言ってるのに無理強いするな! 優斗はお前の玩具じゃない! 独立した一人の人間なんだぞ! なぜそれを尊重してやらない?」
「玩具だなんて思ってないわ」
「やってることが玩具扱いなんだよ! 彰人だってそうやって壊したんだ! 全部がお前のせいだとは言わないさ。俺にもあまり話を聞いてやれなかったというダメな部分がたくさんあった。だがお前の玩具扱いがあの子にとってどれだけ悪影響があったか、まだわからないのか!? お前は落ちこぼれ対策の本をリビングに置いてたよな。それを見た優斗が傷つくとは思わなかったのか? 『僕はお母さんに落ちこぼれ扱いされてる』って傷つくとは思わなかったのか!? 無神経なんだよ! お前は!」
(無神経……? わたしが? 優斗が、傷ついた……?)
「中受やるのが優斗の為? 違うだろ。お前の為だ! お前がママ友にくだらないマウント取りたいから中受を強要してるだけだろ!」
「違う。私はそんなくだらないマウントで中受をやらせたいわけじゃ───」
「じゃなんなんだよ! 理由があるなら言ってみろ!」
「公立より私立の方が良い環境で、良い環境を子供に与えたいのよ」
「本人が公立でいいと言ってるのにか!? 子供の意思をゴミのように扱うのが、お前が理想とする良い環境なのか!? 教育虐待っていうんだよ! そういうのは!」
「悟、あまり大きな声を出すな。優斗もいるんだ」
ヒートアップしてる息子を昭雄は窘めた。
「優斗、晴輝の部屋に行ってなさい。パパとママ、こんな状態だから見ないほうがいい。わしが連れて行ってやるよ」
親のケンカを見たい子供などいない。
昭雄は優斗を立たせ、一緒にリビングから退出した。
(教育虐待って何……? 私、虐待なんかしてない……)
昭雄が戻ってきた時、二人は黙っていた。
少しは頭を冷やしてほしいと思い、家政婦に作ってもらったアイスティーを昭雄は二人に差し出した。
「伸子さん、グローバルIT企業ってあるよな。まあそれらに限らず外資系企業は学歴より実務スキルや実績、論理的思考力や対人能力や言語能力といったソフトスキルが重視されてるというのは知っておるかの?」
「いえ」
「例えば単なる『おしゃべりや愛想の良さ』ではなく、相手の時間を奪わず最短で要点を伝える。相手の意図を汲み取り背景にある課題を理解する。性別、国籍、職種が異なる相手に対しても誤解を招かない表現を選べる力。協調性とは『空気を読んで周りに合わせる』ことではなく、異なる意見を持つメンバーと議論しチームとしての最適解を導き出す力。意見を言いやすい雰囲気を作り集団のパフォーマンスを最大化させる力。『言われたことをそのままやる』のではなく「なぜこの問題が起きているのか?」という本質的な原因を特定する力。感情や勘ではなくデータや事実に基づいて判断する力」
「………」
「あとは適応力とストレス耐性も大事じゃな。会社の方針転換や新しいツールの導入に対して古い方法に固執せず素早く自分をアップデートできる力。失敗やストレスに直面してもそれを学びとして吸収し立ち直る力。自分の担当範囲だけでなくプロジェクト全体の成功に責任を持つ姿勢。上司からの指示を待たず、自分から次に何をすべきかを提案し実行する力などなど」
アイスティーをひと口含み、話を続ける。
「何が言いたのかっていうと、仕事をしていく上で大事なのは学歴ではなくこういった能力なんじゃよ。外資系は特にな。日本の企業もソフトスキルはメチャクチャ大事にしていて、結局は仕事がどれだけ出来るかで評価が決まるし、例え高卒でも優秀な人間に逃げられたくなかったら待遇は良くなるよ。学歴というのは学歴差別には強いけど、仕事の能力は保障しない。頑張ってそれなりの企業に入っても全く仕事が出来ずに挫折するというのはよくある話。子供をそんな風にはしたくないじゃろ?」
「………」
「酷な言い方じゃが、伸子さんが正社員になれなかったのは、正社員になった人が伸子さんの上をいく実力を秘めていたか、あるいはその会社が優秀な人間を評価せず学歴差別を優先しているクソ企業か、そのどっちかじゃよ。気に入らなければ転職すればええのよ。本当に実力があるならそれを評価する会社は必ずあるから」
(たしかに優秀な人間を評価しないのはクソ企業だな……その可能性はあるかもしれない)
「伸子さん自身が今からでも勉強して、大卒の資格をとるのもありじゃな」
「今からなんて無理です」
「勉強は何歳になってもできるよ。通信制大学もあるし、リカレント教育の支援制度もある。大卒以外の資格でもいいわけだし。自分が高卒であること嘆くなら自分が大卒になるのが一番手っ取り早いじゃろ。悔しかったのはわかるが、子供に代理戦争を押し付けるのは良くないと思うぞ」
「通信制ってバカっぽいんですけど? Fラン?」
「それは偏見じゃな。入るのは簡単だけど卒業がかなり難しいのが通信制。ちなみにK大にも通信制はあるぞ。通信制=Fランというのは間違っとるよ」
通信制大学……。
自分で大卒をとるという発想がなかった伸子は目からうろこが落ちた気分になった。
「ママ友にマウント取りたい気持ちもわからなくはない。ブランド品や血統書付きのペットを見せびらかすより気持ちがいいからの、子供の自慢って。麻薬のような中毒性がある。子供を玩具にするのも、まあ多少はやってしまうこともある。着せ替え人形みたいに扱うとかな。だがな、子供の人生に致命的な傷跡を残すとか子供を壊すレベルで玩具にしてはいかんのじゃよ」
「………」
悟が会話に入ってくる。
「マウントしてくるママ友がウザイなら、そんな連中は切っちまえよ。友達が欲しければママ友じゃなくてもいいだろ。学生時代の友達とか地域のサークル活動とか。ネット限定でいいならSNSで同じ悩みの人や同じ趣味の人を探すとかでもいい。ママ友付き合いにうんざりしてる人はけっこういるって聞くぞ」
だいぶ落ち着いたのか悟の口調は冷静だった。
「伸子さん、アンタは学歴をクソ強い武器って言ったけどな、最初にも言った通り、全部とは言わんがその考え方には間違いがあるよ。良い会社に入っても仕事が出来なくて心や体が壊れたら意味ないじゃろ? 高学歴を得ることに人生を捧げすぎると、仕事に必要なソフトスキルを獲得しにくくなるというジレンマがあるんじゃ。学歴というのは差し詰め、炎属性の武器ってとこじゃよ。炎が弱点の敵にはクソ強いけど、普通の敵には普通の武器、そして炎無効の敵にはなんの役にも立たないガラクタ。しかも呪いつき。呪いが発動して壊れた人間は少なくないと思うぞ」
昭雄がそう言うと、また悟が言葉を続けた。
少しため息をつき───しかし優しい口調で。
「……なあ、お前、優斗の夢って知ってるか?」
「知らない。聞いたことない」
「調理師だよ。あの子、料理が好きって言ってたぞ。将来はホテルの厨房で働くとか、自分で食堂や洋菓子店を開きたいんだってさ」
「そうなの?」
「そうだよ。んで、調理師を目指すにあたって中受なんか必要と思うか?」
「知らない」
「あのね、公立中学でも十分なのよ。調理師を目指すならね。高校は専修学校がいいと思う。そこなら高卒資格と調理師免許を同時にとれるから。専修学校は公立中学からでも十分いけるよ」
子供の将来に無関心だと思っていた夫が、急に真面目な話をしてきたことに伸子は驚いた。
「いつもスマホゲームばっかりで、子供の将来には興味ないのかと思ってた……」
「興味ないのはお前のほうじゃないのか? 優斗言ってたぞ。お母さんにコックになりたいと言ったのに無視されたってな」
(………あれ本気だったのか……………)
てっきり勉強したくないが為の嘘だと思ってた。
いや、そう決めつけていた。
もしかしたら、優斗のことを全く見てなかったのは、夫ではなく自分のほうだったのかもしれない。
───なんで勉強しなきゃいけないの?───
優斗にこの質問を受ける度にイラついていた。
あなたの為の勉強なのよと何度も怒鳴った。
でも、それは間違いだった。
優斗は最初から”自分なりの答えを持っていた”のだ。
夕飯の手伝いを申し出た時、邪険にしたのは良くなかった。
もっと真面目に向き合うべきだったのだ。
(調理師かあ……)
そんな選択肢もあるのかもしれない。
伸子はそんな風に思えた。
子育てのゴールとは何か?
これは永遠に考え続けなければならない課題のように感じた。
翌朝。自宅マンション。
ゆったりした時間の中での穏やかな朝食。
こんな穏やかな気持ちになったのは本当に久しぶりだった。
夫と子供を送り出したあと、昨夜バタバタして見る余裕がなかったスマホをチェックしてみる。
どうやらメールが1件来ていたようだ。
以前に体験した塾からのメール。
そこには入塾への熱心な誘いが長文で書かれていた。
伸子は全て読まず、メールを削除した。
今日の無料体験もキャンセルするつもり。
代わりに優斗が帰ってきたら一緒にお菓子作りでもしようか。
そんなことを考えながら、伸子はベランダから澄み切った空を眺めた。




