02相手が他の女と駆け落ちしたんだから呆れるでしょ?まあ、おかげでこうして自由に旅に出られたんだけど
そんなある日、町の外れにある小さな灯台に興味を惹かれた。少し寂れた場所で観光客もほとんどいない。
「ねぇ、アルノッド。あそこ、行ってみない?」
「かしこまりました。少々足元が悪いかと存じます。お気をつけて」
灯台への道は確かに険しく整備されていない岩場が続いていた。それでも躊躇なく進んでいく。灯台の頂上から見下ろす景色は息をのむほど美しかった。
広大な海がどこまでも広がり、夕焼けが空と海をオレンジ色に染め上げていく。その時、目に留まったのは灯台の根本でスケッチブックを広げている一人の青年。今見ているのと同じ夕焼けを、真剣な眼差しで描いている。
「へぇ、絵描きさん?」
思わず声に出してしまい、青年がハッと顔を上げた。顔に絵の具が少しついていて妙に少年らしさを際立たせている。歳はフローラとそう変わらないくらいだろうか。
「あ、すみません。つい。素敵な絵ですね」
フローラは遠慮なく青年のスケッチブックを覗き込んだ。そこには感動がそのまま絵になったかのような、力強くも繊細な夕焼けの絵が描かれていた。
「ありがとうございます。通りすがりの方に見られるのは少し恥ずかしいですが」
青年ははにかむように微笑んだ。瞳は絵の具の色と同じくらい鮮やかな碧色だった。
「なんで?こんなに上手なのに。もっと自信持てばいいのに。私なんか絵心ゼロよ。描くといつもぐにゃっとになるし。あ、でも、あなたの絵、なんかグッとくる。好きよこういうの」
正直すぎる感想に青年はポカンとした後、吹き出すように笑った。
「くすっ……そんな風に言われたのは初めてです。僕は……ルールクアと言います」
「フローラよ。よろしくね、ルールクア。なんか、あんたの絵見てたら、心が洗われたわ。私、最近ちょっとドタバタしててさ。婚約破棄されたばっかりなのよ。いや、むしろこっちから破棄してやったんだけどね」
ルールクアは再び目を丸くした。普通の令嬢ならこんなことを初対面の相手にぺらぺら話したりしないだろう。だが、フローラにはそれが当たり前だった。
「婚約破棄……ですか」
「そうよ。しかも、相手が他の女と駆け落ちしたんだから、呆れるでしょ?まあ、おかげでこうして自由に旅に出られたんだけどね。これも一種の怪我の功名ってやつ?」
ケロリとした顔で言い放つ。ルールクアはそんなフローラをじっと見つめ、やがてフッと優しい笑みを浮かべた。
「フローラさんは強い人ですね」
「ん?別に強くないよ。自分の気持ちに正直なだけ。あと、馬鹿な男にいつまでも構ってる暇がないだけ」
フローラはカラッと笑う。夕焼けは完全に沈みきろうとしていた。その日以来、ルールクアの元を頻繁に訪れるようになった。
ルールクアは寡黙ながらも他愛ない話にじっと耳を傾け、時折静かに微笑む。
フローラもルールクアの絵に対する情熱や、町の自然を愛する心に触れ、少しずつ惹かれていった。王都での貴族社会とは全く違う、穏やかで飾らない関係が心地よい。
カームハーバーでの日々はフローラにとってかけがえのないものとなっていた。ルールクアとの時間は王都での鬱屈した生活で凝り固まった心の氷を、ゆっくりと溶かしていく。
ある日、いつものようにルールクアの灯台を訪れていた。新しい絵に取り掛かっていて、邪魔をしないよう傍らで海を眺める。
潮風が心地よく、日差しも穏やかで時間が止まったかのような感覚に包まれていた。
静寂は、一隻の船によって破られる。遠くの水平線に王都の紋章が掲げられた大型船が姿を現したのだ。船は明らかに商船ではない。王家の船団に属する軍用船に近い威圧感を放っていた。
「……何、あれ」
フローラは思わず呟いた。隣のルールクアも筆を止めて空を見上げている。表情に、かすかな緊張が走ったように見えた。船はカームハーバーの港にまっすぐ向かってくる。速さは尋常ではなかった。
「まさか……」
脳裏に嫌な予感がよぎる。王都からの使者?
それにしては、物々しすぎる。港に到着した途端、船から降りてきたのは見慣れた顔ぶれ。
王家の騎士団が隊列を組み、先頭にはレナード王子の側近だった憔悴しきった男が立っていた。
「フローラ様!やはりこちらにいらっしゃいましたか!」
側近の声が遠くから聞こえてくる。顔は以前にも増してやつれているように見えた。
「ちょっとアルノッド、あれどういうことよ?私を連れ戻しに来たとか言わないわよね?」
フローラはアルノッドに囁いたが、彼もまた神妙な面持ちで船の方を見つめている。
「どうやらそのようです。このような大仰な形で」
アルノッドが言葉を濁した瞬間、ルールクアがフローラの手を掴んだ。
「フローラ、逃げよう」
いつになく真剣だった。普段の穏やかなルールクアとは違う、強い意志を感じさせる響き。
「え?ちょ、ルールクア?なんで?」
戸惑う間もなく、ルールクアは彼女の手を引いて灯台の裏にある狭い小道へと駆け出した。普段は誰も通らないような岩と藪に覆われた獣道。
「待て!フローラ様を確保しろ!」
背後から騎士たちの怒声が聞こえる。足音もどんどん近づいてくる。
「何があったのよ、ルールクア!説明しなさい」
息を切らしながらフローラが尋ねるとルールクアは険しい表情で答えた。
「王都で内乱が起きている。レナード王子とルミエール嬢が隣国へ逃亡したことで、王家の権威が大きく揺らいでいるんだ。鎮めるために王家はフローラ様を」
ルールクアの言葉はそこで途切れた。その先は言わずとも理解できる。王家はフローラの公爵令嬢としての地位と、元王子の婚約者という立場を利用しようとしているのだ。
おそらく、レナードに代わる新たな王族の婚約者として、あるいは王家の求心力を回復させるための象徴として。
「冗談でしょ!そんなの絶対にごめんよ!私はもう誰かの都合の良い駒になるのは真っ平なんだから!」
歯を食いしばり、必死に走った。ルールクアはそんなフローラの隣で周囲の地形を熟知しているかのように、最短ルートを指し示してくれる。騎士たちの数は多く、鍛えられた彼らの足は速い。背後から追手が迫っているのが感じられた。
その時、ルールクアが不意に足を止め、フローラを物陰に突き飛ばす。
「ルールクア!?」
フローラが驚いて声を上げる間もなくルールクアは素早く木の影に身を隠し、手にした道具で地面を掘り始めた。手つきは地中に何かを隠すかのようだ。
「フローラ様!見つけたぞ!」
騎士の一人が隠れた場所からほど近いところに姿を現した。
「クソッ!」
フローラは反射的に立ち上がり、騎士の注意を引くように走り出した。




