ID:ステラ・ドロップ
仮想空間、通称「アストレア」は、MMORPGにアイドル活動の要素を組み込んだ異色のオンラインゲームだ。
戦闘だけでなく、歌い、踊り、ファンとつながり、推しを育てる。そんな空間で、僕は彼女に出会った。
名前は《ステラ》。
きらめく星のように歌い、踊り、笑うアイドルだった。
僕はというと、普通のプレイヤー。戦闘は中の上。ギルドも無所属、仲間もいないソロ勢。
でも、ステラのステージだけは、毎回、最前列で観ていた。
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「ねえ、あんたさ。毎回来てるよね?」
ある日、ライブ終了後のステージ裏。僕のアバターが人混みを抜けようとしたとき、声をかけられた。
目の前には、《ステラ》がいた。
「え、あ……ああ、まぁ、うん」
うまく言葉が出なかった。
実際の僕はそんなにコミュ力が高いわけじゃない。リアルでもそうだけど、ゲームの中でも自分から話しかけることはほとんどない。
「なんかさ、あんたのID、よく見るんだよね。『nox_hibi』だったっけ?」
「見てたの……?」
「そりゃ見てるよ。ファンのこと、全部覚えてるもん」
ステラは、アバターながらも楽しげに笑った。
その仕草がなぜか、画面越しに心臓をくすぐった。
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それから僕は、彼女と時々、話すようになった。
ライブ後の裏スペース。時には一緒にクエストに行くこともあった。
「アイドルってさ、疲れるんだよ。笑ってばっかでさ」
ある日、ステラは突然そんなことを言った。
「でも、あんたがいると安心するんだよね。なんでだろ」
「……僕なんて、ただの一般プレイヤーだよ」
「うん、でも、そういう人が一番信頼できる。変に媚びてこないし、課金で無理に押し上げようともしないし」
彼女は、アイドルを演じることに疲れるときがあるらしい。
だからこそ、何も求めない僕の存在が、逆に心地いいのだという。
「noxって名前、ラテン語で夜だっけ?」
「うん、夜の神様の名前」
「へー、ステラは星だよ。夜と星……ちょっとロマンチックかもね」
画面越しに冗談を言い合う。
だけど、どこかぎこちない。恋人同士ではない。
でも、完全な他人でもない。
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ある日、アストレアで大型イベントが始まった。
《スターライト・クランバトル》──アイドル同士のランキング戦だ。
戦闘力とライブ評価が複合される、超過酷なランキングシステム。
ステラは悩んでいた。
「もう辞退しようかと思ってる」
「えっ、なんで? 今、君はトップ10入りも狙えるのに」
「怖いんだよ。上に行けば行くほど、求められるものも、演技もしんどくなる」
僕はしばらく考えた。そしてこう言った。
「じゃあ、辞退して、僕と釣りでもしない?」
「え?」
「このゲーム、釣りコンテンツあるだろ。海辺で、のんびり魚釣ってさ、他愛ない話でもしてさ」
少し沈黙が流れた後、彼女は笑った。
「……いいね、それ。たまには推しとサボるのも、悪くないでしょ?」
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その日、僕らは南方のマップ《リフレクトビーチ》で、ただ並んで釣り糸を垂らした。
「ステラって、本当はどんな子なんだろうね」
「んー、リアルの話は禁止。でも……そうだな」
彼女は空を見上げて言った。
「ここでは、ちゃんとアイドルでいたいな。どんなに泣いてても、ゲームの中では、ちゃんと笑ってたい」
「なら、僕はその笑顔を見に来るだけだよ」
「……そっか。そっかぁ」
潮風のBGMの中、アバターの僕らは、静かに並んでいた。
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イベント終了の日、ステラは最終的にランキング戦を辞退した。
その理由は語られなかったけど、ライブはいつも通り、満席だった。
僕は最前列の定位置で彼女を見守っていた。
そのラスト曲の終わり、彼女は手を振りながら、こう言った。
「今日も、来てくれてありがとう。夜の人へ」
一瞬だけ、目が合ったような気がした。
僕の心の奥に、小さな星がまたたいた。
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仮想の世界で出会い、仮想のまま終わる関係。
でも、その中には確かに本物の感情がある。
恋じゃない。
でも、ただのファンでもない。
だから僕は、明日もこの世界で、
《ステラ》という星を見上げ続ける。