第66話「仮想の頂へ挑む」
土曜日の朝、いつものグループディスカッションの部屋に相川守は静かに着席した。今週のケースは、エベレスト登山を模擬体験するシミュレーション「Leadership and Team Simulation: Everest V3」だった。現実には到底踏み入れることのない高地、酸素が薄く、情報は限られ、そしてメンバーの判断が生死を分ける。そんな極限の状況が仮想空間で再現される。それはまさに、意思決定の本質に向き合う設計だった。
グループに割り振られた役割は、それぞれ「登山ガイド」「医師」「気象担当」「カメラマン」「登山者」。相川は今回、「医師」としてチームに参加することになった。参加メンバーには、それぞれ異なる情報カードが配られており、全体像を把握するには情報を共有し、相互に補完するしかない。その「情報の非対称性」こそが、このシミュレーションの要であり、現実のビジネス意思決定を見事に反映している。
相川は、自分の情報カードを見つめながら、体力の限界を訴える登山者役のA君に声をかけた。「Aさん、酸素量が下がっています。高度順応がうまくいっていないようですね。今日はここで休憩したほうがいいかもしれません」
しかし、ガイド役のBさんは反論した。「いや、今なら天気は安定している。1日遅れると悪化するリスクがある。行くなら今しかない」
この対立は、データに基づいた意見と、状況判断に基づく直感のぶつかり合いだった。相川は「医師」としての立場から、「データ上は酸素飽和度が80%を下回ると高山病のリスクがある。Aさんの数値はそれに近い。医学的に言えば、これは無理をすべき状況ではない」と伝える。
だが、チーム全体のゴールである「全員で山頂に到達し、無事に下山する」という目標のもとでは、判断は揺れる。その瞬間、相川の脳裏に、これまでの議論で幾度となく語られてきた「合理的な意思決定」と「リーダーとしての直感」が交錯する感覚がよぎった。
最終的にチームは「Aさんだけをベースキャンプに残し、他の4名でアタックする」方針に決めた。相川はその判断に反対はしなかったが、どこかで「自分の職責として、強く反対すべきだったのではないか」という迷いも残った。
数時間後、シミュレーションの結果が提示された。チームは山頂に到達したが、途中で一人が凍傷になり、下山中に脱落。Aさんは無事だったが、「チームとしての成功」とは言いがたい評価となった。
ディスカッションが始まると、教授が問いかけた。「このチームに足りなかったのは、何だと思いますか?」
ガイド役のBさんは言った。「情報共有の時間が短すぎたと思います。特に、医師の判断をもっと重視すべきでした」
相川は、胸に残ったわだかまりを言葉にした。「私は医師として情報を提示しましたが、最終判断において、もう少し強く意見を主張すべきでした。自分の職責がチーム全体にどう影響を与えるかを、深く考えられていなかった」
教授は静かに頷いた。「リーダーシップとは、役割を超えて発言する勇気でもあります。情報が非対称であるということは、誰かが黙れば全体が誤るということです」
この一言が、相川の中に深く刻まれた。データを知っていても、それを伝え、行動に結びつけなければ意味がない。そして、データを「どう共有するか」「誰に伝えるか」が意思決定の質を左右する。
ディスカッションの最後に、教授がこう締めくくった。「エベレスト登山のシミュレーションは、極限状況での意思決定を模したものです。しかし現実のビジネスでも、情報は常に不完全で、判断は分かれます。リーダーに求められるのは、完全な情報を持っていることではなく、不完全な情報の中で最善を尽くす力なのです」
教室を出た相川は、ふと足を止めた。ビジネスの世界もまた、仮想のエベレストなのかもしれない。登るべき頂は戦略、見えないリスクは市場の変化、そして限られた情報の中で進むしかないという制約。そんな中で、自分がリーダーとしてどう振る舞うか。それを問われている気がした。
「リーダーとは、情報が揃っていない中でも決断し、責任を負う存在だ」
その言葉を心の中で繰り返しながら、相川は次の授業へと思考を進めていった。登山と同じく、意思決定もまた「準備と判断と責任」の連続だと確信しながら。