第3話「反省と再構築」
土曜の夜、相川守は書斎のデスクに向かい、深く息をついた。マーケティング・マネジメントの第一回目のクラスディスカッションを終え、疲労と達成感が入り混じる状態だった。しかし、ゆっくりしている暇はない。翌日にはスターバックスのケースを扱う第二回目のクラスディスカッションが待っている。
香港ディズニーランドの議論では、ターゲット市場の選定ミスやブランドローカライゼーションの問題を中心に、クラス全体が白熱した議論を繰り広げた。相川も「オーシャンパークとの競争環境」という新たな視点を提供し、議論の流れを変えることに成功した。しかし、教授の三浦からの問いに完全に答え切ったとは言えず、自分の分析の甘さを痛感した。
「次のディスカッションでは、より深い示唆を提供しなければならない」
相川は自らにそう言い聞かせると、スターバックスのケース資料を開いた。
⸻
スターバックスのケースは、同社がどのようにしてグローバル市場で成功を収めたのかを分析するものだった。
「ブランドの一貫性」「第三の場所としての価値」「ローカライゼーション」──主な成功要因はこの三点に集約される。
しかし、問題はここからだ。この事実をただ指摘するだけでは、クラスのディスカッションに貢献することにはならない。発言が評価されるためには、新たな示唆を与え、議論を深める必要がある。
相川は生成AIを起動し、いくつかの質問を入力した。
「スターバックスのグローバル展開において、各市場でのローカライゼーションの具体的な成功事例を整理してくれ」
数秒後、AIが回答を出す。
「日本市場では、抹茶ラテやさくらフレーバーのドリンクが導入され、現地の嗜好に適応した。中国市場では、お茶ベースのドリンクを増やし、スターバックス・リワードプログラムを強化。欧米市場では、よりヘルシーなオプションを拡充し、地元のライフスタイルに溶け込む工夫をした。」
相川はメモを取りながら考える。これらは確かに有効な情報だ。しかし、ディスカッションの場で「スターバックスのローカライゼーションは成功している」と言ったところで、それだけでは議論を前進させることはできない。
「では、スターバックスがグローバルブランドとして維持しながらも、ローカライゼーションが行き過ぎるリスクはないのか?」
相川はさらにAIに問いかける。
「もしローカライゼーションが強くなりすぎると、ブランドの一貫性が崩れ、スターバックスの『どこでも同じ体験ができる』という強みが損なわれる可能性がある」
この視点だ。
相川は「ローカライゼーションの功罪」というテーマで議論を組み立てることを決めた。スターバックスの成功要因の一つであるローカライゼーションが、もし行き過ぎた場合にどのようなリスクを伴うのか。その観点から討議をリードできれば、クラス全体の議論を一歩先へ進めることができるかもしれない。
相川はメモを整理し、翌朝のグループディスカッションに備えた。
⸻
日曜の朝、相川は大学へ向かう途中、昨夜整理したメモを再確認した。
グループディスカッションでは、クラスディスカッションに向けて論点を精査し、どのタイミングでどのような発言をするべきかを見極める。
会議室に入ると、すでに石原、田中、陳が席についていた。
「おはようございます。昨夜はしっかり準備できましたか?」石原が微笑む。
「まあね。スターバックスはシンプルなケースのようでいて、考えるべき論点が多い」相川は答える。
「確かに。ブランドの統一性とローカライゼーションのバランスをどう取るか、という点は特に興味深いですね」陳が続ける。
「僕は、スターバックスのデジタル戦略についても注目しています」と田中。「モバイルオーダーやリワードプログラムが、顧客のロイヤルティ向上にどう寄与しているかを分析したい」
相川は、自分が考えていた「ローカライゼーションの功罪」について話すべきか迷ったが、ここは一旦様子を見ることにした。グループメンバーが既に議論をリードしようとしている中、自分の視点を押し付けるのは得策ではない。
しばらく議論が進む中で、相川は絶好のタイミングを見つけた。
「みんな、スターバックスのローカライゼーションがうまくいっていることに異論はないよね?」
「そうですね。各市場に適応することで、グローバルブランドでありながら、ローカルの消費者に受け入れられている」と石原が答える。
「でも、ローカライゼーションが行き過ぎると、ブランドの統一性が崩れるリスクはないだろうか? 例えば、日本のスターバックスが『ほぼ和風のカフェ』になったとしたら、もはやスターバックスらしさは失われるんじゃないか?」
しばらく沈黙が流れた後、田中が「確かに、ローカル適応をしすぎると、ブランドのアイデンティティがブレる可能性はありますね」と言った。
「そうなると、どこまでローカライズすべきか、その線引きが重要になりますね」と陳が続ける。
ここで相川は手応えを感じた。自分の投げかけた視点によって、議論の焦点が「ローカライゼーションの是非」から「その適切な範囲」に移った。
「この論点、クラスディスカッションでも議論できそうですね」と石原が言う。
「そうだな。タイミングを見計らって、この視点を投げるのがいいかもしれない」相川はそう答えながら、午後のクラスディスカッションでの戦略を練り始めていた。
ディスカッションは、ただの知識比べではない。如何にクラスの議論に影響を与え、思考を前進させるか。それが評価を決める。
午後のクラスディスカッションは、また一つの戦場になる。相川は、決戦の時を静かに待っていた。