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虚飾の万華鏡  作者: Ohtori
第1章「マーケティング・マネジメント」
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第2話「沈黙は敗北」

土曜の午後、講義室に足を踏み入れると、すでに多くのクラスメートが席に着いていた。100人のMBA生が一堂に会するクラスディスカッションの時間。ここでは、ただ座って聞いているだけでは何の意味もない。発言しなければ存在しないのと同じ。特にこのマーケティング・マネジメントの授業では、ただ意見を述べるだけでは価値がない。クラス全体に新たな示唆を与える発言をしなければ、評価には繋がらない。


壇上には、三浦隆之教授が立っている。名門大学を退官し、このMBAプログラムで「最後の花を咲かせる」と意気込む教授だ。実務経験と理論を兼ね備え、論理性を何よりも重視するファシリテーター。授業の進行はほぼ彼の掌の上で展開される。学生が議論を進めるが、その流れを自在に操り、ポイントがずれると容赦なく軌道修正をかけてくる。ファクトの羅列や論理の甘い発言は一刀両断されるのがこのクラスのルールだ。


席に座ると、クラスメートたちが小声で戦略を練っているのが聞こえた。発言の機会を狙い、どこで割って入るかを計算しているのだ。俺もまた、午前中のグループディスカッションで得た視点を踏まえ、どこで発言すべきかを考えていた。香港ディズニーランドの失敗要因はターゲット市場の選定ミス、ブランドイメージのギャップ、価格戦略の失敗。この三点が議論の中心になることは間違いない。しかし、単にこれを指摘するだけでは発言の評価は低い。重要なのは「新たな示唆を与えること」、つまりクラスの議論を一段上のレベルに引き上げることだ。


教授がゆっくりと教壇を見回し、口を開く。


「さて、香港ディズニーランドの失敗要因を考えましょう。誰か、最初に意見を述べたい人は?」


すぐに数人の手が上がる。教授はそのうちの一人を指名した。金融業界出身の田村だ。論理的な分析が得意で、これまでも鋭い発言をしてきた。


「最大の問題はターゲット市場の設定ミスです。香港ディズニーランドは開業当初から中国本土の観光客をメインターゲットにしました。しかし、本土の観光客は頻繁には来ません。一方で、香港の地元住民を惹きつける施策は不十分でした。その結果、リピート率が低下し、安定した収益を確保できなかったのです。」


教授は頷く。「その通りですね。では、なぜ香港市民をターゲットにしなかったのでしょうか?」


今度は別の学生が手を挙げ、指名される。外資系マーケティング会社に勤める渡辺だ。


「香港の市場規模が小さすぎると判断されたからです。香港の人口は約750万人であり、テーマパークを支えるには十分な規模とは言えません。ディズニーはその代わりに、14億人の市場である中国本土に目を向けたわけです。」


教授は一瞬考え込み、「しかし、香港の市場規模が小さいことは事前に分かっていたはずです。では、なぜその戦略が失敗したのでしょう?」と問いかけた。


ここで俺は手を挙げた。教授の視線が俺を捉え、指名される。


「香港市場の特性を十分に考慮していなかったことが根本的な問題だったと考えます。香港にはオーシャンパークという強力な競合があり、地元の家族向け市場を独占しています。ディズニーランドは、その状況を深く分析せず、単に『ブランド力で勝てる』と考えたのではないでしょうか?」


教授が頷く。「なるほど。オーシャンパークとの比較をもっと考慮すべきだったと。では、オーシャンパークとディズニーランドの違いを整理してみましょう。」


別の学生が手を挙げる。「オーシャンパークは地元向けの割引プログラムを充実させ、香港市民にとってアクセスしやすい価格戦略を取っていました。一方、ディズニーランドは高価格路線を貫き、地元客にとってコストパフォーマンスが悪かったのです。」


議論が活性化していく中、教授がさらに問いを投げる。


「では、もしあなたが香港ディズニーランドのマーケティング責任者だったら、どうすればこの状況を改善できたでしょう?」


再び手が上がる。競争の激しいこのクラスで、自分の意見を通すにはタイミングが重要だ。俺は一瞬の隙を見つけ、手を挙げた。教授は俺を指名する。


「ターゲット市場を再定義する必要があります。本土の観光客だけでなく、香港市民をより積極的に取り込むべきだったと思います。そのためには、価格戦略を見直し、年間パスをより魅力的なものにすることが考えられます。」


「具体的には?」教授が鋭く突っ込んでくる。


「例えば、地元住民限定のディスカウントや、オーシャンパークとは異なる差別化要素を強調したプロモーションを展開することです。ディズニーの強みはブランド体験ですが、香港市場に合わせたカスタマイズが不足していました。」


教授は少し考えた後、「面白い視点ですね。ただし、年間パスを導入すれば利益率が下がるリスクもあります。その点についてはどう考えますか?」とさらなる質問を投げかける。


ここで俺は一瞬考えた。確かに価格を下げれば短期的な収益は減る。しかし、長期的に見ればリピーターを増やすことで、安定した収益基盤を作れるはずだ。


「利益率の低下は短期的なリスクですが、長期的にはロイヤルティの向上に繋がります。ディズニーのブランド戦略としても、リピーターを増やし、継続的に来園してもらう仕組みを作ることが重要です。そのための年間パスの価格設定が鍵になります。」


教授は少し微笑み、「なるほど。よく考えていますね。」と返した。


クラスディスカッションが終了し、俺は大きく息をついた。何とか教授の問いに応え、議論の流れを一段深いものにすることができた。クラスの誰もが発言の機会を狙う中で、質の高い示唆を提供することの難しさを改めて実感した。


教室を出ると、隣にいた石原が話しかけてきた。「今日の発言、よかったわね。特に競合との比較の視点、あれは議論を深めるのに役立ったと思う。」


「ありがとう。でも、教授の追及はやっぱり厳しいな。」


「それがこのクラスの面白いところよ。」


俺は次回のディスカッションに向け、新たな戦略を考えながら、キャンパスを後にした。翌日は「スターバックス」のケースだ。新たな戦いが、すぐに始まる。

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