第1話「戦いの前夜」
木曜の夜、相川守は書斎のデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。時計を見ると、もう21時を回っている。仕事を終えて帰宅し、軽く食事を済ませたものの、ここからが本番だった。今週末に控えるMBAのクラスディスカッションに向けての事前予習の時間だ。
マーケティング・マネジメントの授業、第一回目のケースは「香港ディズニーランド」。このディスカッションが、相川にとって初めての本格的なケースメソッドの授業となる。50人のクラスメートが全員、発言の機会を狙っている世界で、ただ座っているだけでは存在しないも同然だ。発言の質が評価を左右する以上、徹底的に準備をしなければならない。
机の上には、事前に配布された香港ディズニーランドのケース資料が置かれていた。分厚いレポートには、ディズニーが香港市場に進出する際の戦略や、開業後の課題が詳細に記されている。ページをめくると、売上データやターゲット顧客の分析、競合の状況などが並んでいる。しかし、相川はすべてのページをじっくり読むつもりはなかった。限られた時間で最大の成果を得るため、彼は別の方法をとる。
パソコンを立ち上げ、生成AIを起動する。MBA入学以来、相川はこのツールを積極的に活用していた。すべてのケースを完璧に読み込む時間はない。だからこそ、AIを使って効率的に要点を整理し、ディスカッションの場で有効な示唆を出せるようにする。
「このケースの失敗要因を、ターゲット市場、ブランドイメージ、価格戦略の三つの視点から整理し、それぞれの具体的な問題点を挙げてくれ」
相川はプロンプトを入力し、AIの回答を待つ。数秒後、画面に論点が一覧となって表示された。
「ターゲット市場のミス:香港ディズニーランドは中国本土の観光客を主なターゲットに設定したが、彼らの来場頻度は低く、リピート率が期待できなかった。結果として、安定した収益を確保するのが難しくなった。」
「ブランドイメージのギャップ:ディズニーはアメリカ式のテーマパーク体験をそのまま導入したが、香港の文化や消費者の嗜好に十分適応しなかった。そのため、地元の人々にとっては馴染みの薄い存在となった。」
「価格戦略の失敗:本土の観光客にとっては価格が高すぎ、地元の香港市民には『その価格を払う価値があるのか?』という疑念を抱かせた。年間パスやプロモーションの設計が不十分だった。」
相川は画面を見つめながら、さらに問いを追加する。
「競合であるオーシャンパークとの比較データを整理してくれ」
AIはすぐにデータを表示する。オーシャンパークは地元の香港市民に人気があり、家族向けのイベントや割引プログラムを充実させていた。対照的に、香港ディズニーランドはローカル向けの施策が弱く、結果的に「本土観光客向けの高級テーマパーク」としてのイメージが定着してしまった。
「やはりローカライズの失敗が大きいな」
相川はメモを取りながら考える。ここまでの情報を踏まえた上で、どうクラスに新たな示唆を与えるかがポイントになる。ただ問題点を列挙するだけでは、ディスカッションの流れを変えることはできない。
「香港市場におけるテーマパークのポジショニング戦略」という視点を追加することで、議論の方向性を新たに生み出せるかもしれない。香港ディズニーランドは、競争の激しい市場でどのポジションを取るべきだったのか。それが、クラス全体にとっての新たな論点になる。
金曜の夜、相川はもう一度メモを整理し、翌日のグループディスカッションに向けた準備を整えた。
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翌朝、土曜の午前。相川は大学のキャンパスへ向かいながら、グループディスカッションのシナリオを頭の中で組み立てていた。
「ここでどんな発言をすれば、クラス全体の議論に影響を与えられるのか?」
MBAのグループディスカッションは、単なる事前準備の確認の場ではない。クラスディスカッションでの発言の精度を上げるため、異なる視点を得る場でもある。
講義室に入ると、既に何人かのクラスメートが集まっていた。相川のグループメンバーは、石原里美、田中翔太、陳亮の3人。全員、実務経験豊富なメンバーだ。
「おはようございます。早速始めましょうか。」石原が切り出した。
「今回のケース、ターゲット市場の問題はかなり明確ですね。」田中が続ける。「本土の観光客に依存しすぎたせいで、香港市民を取り込めなかった。」
「そうですね。問題は分かりやすいですが、それをどう解決すべきだったのかが議論のポイントになりそうです。」陳が言った。
相川はここで発言のタイミングを見計らう。一般的な論点の整理は既に共有されている。ここに新たな視点を加えることで、ディスカッションに貢献することができる。
「僕は、香港市場のテーマパークポジショニングの視点から考えてみたいと思います。」相川は切り出した。「香港にはオーシャンパークという競合があり、地元の家族向けのエンターテイメントとして強いポジションを築いています。その中で、ディズニーランドはどういう立ち位置を取るべきだったのか。単に価格戦略を見直すだけでは解決しなかったのでは?」
「なるほど、それは面白い視点ですね。」石原が頷く。「ブランド戦略の観点から、オーシャンパークとの差別化をどう設計すべきだったかという話ですね。」
「例えば、香港市民向けの特別な年間パスや、ローカル文化に寄り添ったアトラクションを強化することで、ブランドイメージを再構築できた可能性はありますね。」陳が続ける。
田中も「そもそも、香港ディズニーランドは本土市場を狙いすぎて、ローカル市場を軽視した点が根本的な問題ですね」と意見を述べた。
相川は、自分の仮説がチームメンバーの発言を引き出し、議論が深まっていくのを感じた。この流れをクラスディスカッションでも再現し、新たな示唆を与えられれば、高い評価が得られるだろう。
グループディスカッションを終え、相川は改めて午後のクラスディスカッションに向けた戦略を練る。教授の鋭い問いにどう答えるか、どのタイミングで発言するか。それを決めるのは、次の数時間にかかっている。
戦いはまだ始まったばかりだった。