085.夢の、また夢
「……ねぇ、峻佑」
誰かが僕の名前を呼んでいた。よく知った、鈴を転がしたような明るい声。だけれど、ここ何年も耳にしていないような懐かしい声。その声が、僕の耳元で囁いてる。
「峻佑? 起きてるんでしょ?」
さらに近くで響く声。これは、誰の声だ……? すごく懐かしくて、ずっと聞きたいと思っていて。今やっと聞けた、待ち望んでいた声音が名前を呼んでくれている。台詞を聞く限り、声の主は僕を起こそうとしているらしい。だけどなんだか、目をあけたら幻みたいに「彼女」が消え去ってしまうような気がして、僕はもう少し目を瞑っていることに決めた。
「まったく、峻佑ってば寝てるふりしちゃって。結依ー! 峻佑が起きないんだけど!」
「彼女」は声を張り上げて別の誰かを呼ぶ。すると遠くから少し怒ったような声が聞こえた。
「なーにー? 峻佑がいつまでも寝てるって?」
「そうなのよー。私が起こしても全然起きないの!」
「ほーんと、テスト期間だってのにヨユーね。これだから頭のいい奴は……」
これを聞いた僕は思わず、叫んでしまった。
「いやいやいやいや、結依も千里も僕より総合順位上だろ!」
その瞬間飛んでくる、二人のツッコミ。
「「起きてんだったら、さっさと返事しろや!!」」
僕はしぶしぶ目を開ける。視界に映るのは、オレンジ色に近い色をした電灯と、木目の模様がついたテーブル、その上に広げられている数学の問題集――平和で暖かなリビングの風景。そして二人の少女の姿。
一人は低い位置で紙を二つに結んでいる小柄な女子、もう一人は切れ長の目に気の強そうな光を浮かべたポニーテールの女子。そうだ、僕はこの二人の仲間と……千里と結依と、定期テストの勉強をしていたんだ……。
「みんなで勉強頑張ろうっていって、せっかくうちに集まったのに。なんで寝るかな、まったく」
結依が腰に手を当てて、僕の方を睨んでくる。
「あはは、ごめんごめん。三角関数眠すぎて」
「峻佑、数学は得意なんじゃなかったの?」
「得意と好きは、すなわち得意不得意と眠くなるか否かは違うのさ」
「まーた、名言ぽく言って誤魔化してやがる」
ケッと結依がそっぽを向くと、千里が間に入って僕と結依をたしなめる。
「まあまあ、結依も口が悪くなってるよー。峻佑は寝てないでちゃんと勉強しましょ? ね?」
コロコロと軽やかに笑う千里。どこか憎めないその声で、その笑顔で言われてしまった僕らは、すごすごと戻り、問題集と向き合うことにする。
「sinが正弦で、cosが余弦。ここがこうなって、ああなるから……この角の大きさは四十五度であってる?」
「大正解だよ、千里」
「やったぁ! 結依は出来た?」
「当たり前、もうその三問先を進めてるし」
「ぎゃっ! 私も追いつかなきゃあ」
ああ、楽しいなあ。
結依も千里も僕のとなりで、こんなに楽しそうに笑ってくれている。
テスト期間は嫌いだし、テストを受けるのも嫌だけど……この三人でいつまでも笑っていられるのなら、僕は何回だってテストでもなんでも受けようと思える。それくらい、この日々が大切で愛おしい。
なのに。
「現実はいつだって残酷なんだよね」
*
ピピピ、ピピピ、ピピッ。
枕元に置いてある目覚まし時計のアラームを乱暴に止める。まだ布団のぬくもりを感じていたいと思いながら、佐々木峻佑はベッドから這い出した。そのあたりに置いてあるはずの眼鏡を探し、まだぼんやりとしている頭を覚ますように見つけたそれをかける。
(……また、高校の頃の夢を見てた)
あの日常は、もう戻ってこないというのに。どうしてか夢では自分はその世界で幸せそうに過ごしているのだ。
(きっと、心の中ではずっとあの頃を夢見ているんだろうな。もう戻れないって、知ってるくせに)
寝ぐせのついた短い黒髪に、オレンジがかった黒縁の丸眼鏡。そこそこ身長のある彼は立ち上がって伸びをする。そして部屋の東側についている窓のカーテンを開けようと歩き出す。
カーテンの向こうからは、パジャマ姿の峻佑を照らす朝日が昇ってくる……はずだったのに。
「え……あれ」
峻佑は思わず間抜けな声を出した。彼を包みこんでくれる筈の朝の光は、とっくのとうに遥か南の空から差し込んでいたのだ。
「……あれ? 今、何時?」
峻佑は急いでスマホの画面を確認する。無機質なデジタルの数字が示すのは「9:58」の文字。
「く、くじ……ごじゅうはち!?」
目覚まし時計も一応確認する。しかし彼の希望は無惨にも打ち砕かれる。部屋の時計という時計全てが十時ニ分前を指していた。
たちまち青白くなる峻佑の顔色。
「待て……今日は、今日だけは寝坊しちゃいけなかったのに……」
だって今日は。
峻佑の震える手が、スマホの電話アプリのアイコンをタップした。新規通知がバイブ音を鳴らす。
『一件の録音電話があります』
「あ、ああ」
彼の口から情けない声が出た。ピーという音に続けて、紛れもない事実を記録した音声が流れ出す。
『えー、もしもし。船橋市立――中学校の教頭ですけれども。えー、佐々木くん、今日から教育実習だったと思うんですけどね。体調不良ですか? 連絡がないので心配しています。というか欠席の連絡は早めにいただかないと、此方としても受け入れの対応が出来ないのですが。そして一日目から無断欠席……いや、社会体験だから欠勤かな。そういうのはやめてほしいのですがね。これ一応五回目の電話なんですけど……これからの実習も心配なので、今回のこの実習は一旦取り止めってことで』
教頭と名乗る向こう側は、少し腹を立てているような口調で告げた。
『明日からも、来なくていいですからね。また来年以降ちゃんとお電話くだされば、対応は考えています。何より社会で大事なのは時間を守るということですから、きちんと約束は守れるように』
ブツンッと、ここで録音は終わっていた。
「……や、やばい」
峻佑がヘナヘナと床に座り込む。それもそのはず、千葉大学教育学部在学の彼は、今日から出身中学校で教育実習の予定だったのである。しかし峻佑は、その約束を忘れ、初日から大寝坊してすっぽかすという大惨事を起こしてしまったのだ。
そして彼の寝ている間、事故や体調不良を心配した教頭らが五回も電話をかけた――のに、一度も応答せず。そのおかげで相手方から教育実習を断られてしまったのである。
峻佑の頭の中を巡る、先方の言葉。
『明日からも、来なくていいですからね』
『きちんと約束は守れるように』
彼は、もう高く昇ってしまった日の光の差し込む自室でガクリと肩を落とした。
「僕は、ダメ人間だぁぁぁぁあ…………」




