079.坂井と三笠、アキと春過
結界が完全に解かれた。三笠の視界に映るのは、木でできた机と椅子、微かに消し跡の残る黒板、そして窓から差し込む夕日――元の教室の風景だった。
さっきまで広がっていた筈の湿地帯は何処へやら。三笠の手にはしっかりとテニスラケットケースが握りしめられていたし、彼女の目の前の席には藍色の髪の少年が何事もなかったかのように座っているのだった。
「坂井くん」
彼の名を呼ぶ。
「なんだい、声主さん」
ゆっくりと彼は振り返る。
人間であり人間ではない――半呪鬼の坂井の瞳が、三笠の目をとらえる。
「やだ、やめてよその呼び名」
「じゃあ、天乃」
「それがいい」
三笠は頷く。――変な距離感だった。坂井こと【境】の過去を知って、彼の結界や術式の中にも入り込んで。父であるという『哀楽』を心の底から憎んでいて殺したいと思っている坂井の気持ちを知ってしまったからこそ、その壮絶な決意を抱えている少年が、今目の前に――しかもただの中学校の教室に居るという違和感。だけど一方で坂井歩人が其処に居ることが、そこまで不自然には思われないという矛盾。
彼の生み出す独特な雰囲気、オーラ。そういうものが、三笠の感覚に変に作用しているのかもしれなかった。
「どうした、天乃。そんなにヘンテコな顔して」
「ヘンテコな顔ですみませんね!」
「キレんなって。んで、どーしたんだ? なんかおれに聞きたいことあるみたいな顔してるぜ」
「聞きたいこと……いっぱいあるよ!」
本当に父親は哀楽なの?
君のその話は信じていいの?
陰陽師とこれからどう付き合っていくつもりなの?
ハルとアキは坂井くんのこと知ってるの?
誰がどこまで知ってる?
結局何歳?
「いっぱい……ある。ありすぎて、困る」
三笠がテニスラケットを、そっと自分の机においた。その黒いグリップの部分を見つめながら、少女は少年に語りかける。
「だけど……坂井くんだって、答えたくないことあるかもだし。私だって……過去、掘り返してほしくないから。その気持ちはよく分かるんだ。だから今は敢えて何も聞かないでおく。私は君に協力するし、君も私を裏切らない。ハルとアキには必要になったときに話す。これでオッケ?」
「うん」
半呪鬼の少年は、静かに答えた。
「天乃、ありがとう」
何故かその礼の言葉が、三笠の胸の深くに心地よく響いた。今日席替えをして、今日隣の席になって、今日初めて話したクラスメイト。そして半呪鬼といういわくつきの「特別な存在」。
「未だ信じらんないけどね。坂井くんが半呪鬼で、千年以上生きてるなんて。本当にファンタジーで、妖怪の世界とか絡んできそうな展開だけど」
三笠は肩をすくめた。
「陰陽師やっといて、そんなファンタジーで驚いてちゃ、毎日お前何してんだよって感じだもんね。とりあえず信じるしかないよ」
自分に、言い聞かせるように。呟く。
坂井もそれを聞いて少し笑った。
「おれも、転入生として声主が来たときはマジで驚いた。人間として生活するのに偶然選んだ学校で、陰陽師たちと声主に出会うなんてどんな確率なんだよって話だし」
椅子が音を立てて引かれ、坂井は伸びをしながら立ち上がる。
「ま、そう簡単に信じてもらえる筈は無いって分かってたし、別にいいよ。おれの存在、天乃に認知してもらえたのが今日の成果」
「成果って」
三笠は吹き出した。
(認知された、って。まるで推しのアイドルか誰かに認知もらったみたいな口調で……)
「あ、酷い。笑ったな?」
坂井がむくれる。急に彼の外見が幼くなったような感じがした。
「だって坂井くんの真面目な顔、面白いんだもん」
「なーにが面白いんだよ。それ言ったら、天乃の腑抜けた感じの顔も爆笑もんだぜ?」
「えっ、うそ!」
三笠は思わず両手を頬に当てる。
「嘘だよ。冗談」
坂井が呆れ笑いとともに小さく舌を出した。
「お前マジで、真に受けすぎな? 将来絶対詐欺に引っかかるやつ」
「詐欺って……気をつける、けどさぁ」
また真面目に返答した三笠。その声に坂井の笑い声が重なる。もうすぐ下校時刻、そろそろ他の部活動に行っているクラスメイトたちも教室に戻ってくる時間だ。
三笠は話を切り上げ通学鞄を肩にかけ直すと、坂井の方に向かって小さく手を振った。彼も小さく振り返す。ある日の夕方の、新たな出会いの瞬間が終わろうとしていた。
「またね」
「また明日」
三笠の姿が教室から消えた。
残されているのは、随分傾いた日光に照らされている坂井歩人ひとりのみ。
「悪いね、天乃。『除の声主』の力、哀楽滅殺の為に“利用させてもらうよ”」
半呪鬼の少年の口が、小さく、そう動いた。
*
場面は変わり――三笠たちの学校の職員室。
中には、教員たちがまばらにそれぞれのデスクに座って仕事を熟していた。明日の授業準備をする者、部活動の大会の出場手続きをする者、進路資料に目を通す者――その中に、三笠たちの担任・春過夏来は居た。
(明日は……一次方程式発展編に入るんだな。三時間目と四時間目に入っているから……明日の午前の時間で、準備もできるな)
中学二年生用の数学の教科書片手に、指導計画を見直していく春過。そんな見た目は“普通の数学教師”である彼に――今、来訪者があった。
トントントン、ガラガラ。
扉の音がして――冷房のガンガンに効いた職員室に入ってくる廊下の生暖かい空気。それを連れてきたのは、短い黒髪に、青みがかったフレームの四角い眼鏡をかけた春過のクラスの優等生――賀茂明だった。
「失礼します、二年の賀茂明です」
アキの眼鏡越しの冷たい瞳が、その数学教師の姿を捉える。
「春過先生に質問があって来ました。先生、今少しよろしいですか?」




