氷の爪先
七宝様主催『合法殺人企画』参加作品です。
秋の陽射しは麗らかだった。
自転車に乗って、大学生風の青年が機嫌よく歌っている。
大きな公園に人は疎らで、前から歩いてくる女性の他には誰もいない。青年は自転車を走らせながら、まるで近づいてくる女性に愛を告げるように、彼女に聞こえるほどの声で、流行りの恋の歌を口ずさんだ。
「♪君を愛してる〜 ♪白いコートに抱かれた君をね〜」
女性の足が動いた。
スリットの入った白いコートがめくれ、女性の足が高く上がる。
その足に履いた白いハイヒールの爪先が、すれ違いざまに青年の顎先をかすめる。
大量の血が、あっという間にあたりに飛び散り、自転車は勢いあまって植え込みに突っ込んで止まった。
「……」
女性は無言で青年を見下ろす。
その目は冷たく、何の感情ももたないようだった。
青年は顎から頭蓋までを瞬時に切られ、割れた西瓜のようになって息絶えていた。
「アイシー・トゥー」
「誰?」
女は振り返った、自分の通り名を口にした、その逞しい声の主のほうへ。
「あなた……、スーパーヒーローの……」
「俺をご存知かな? それは嬉しい」
いつの間にか後ろに立っていたのは、黒いコスチュームに身を包んだ筋肉のかたまりのような男だった。
「マイト・ブラックさんよね?」
彼女がその男の通り名を呼ぶ。
「私を粛清しに来たの?」
「たまたま通りかかっただけだ。その青年を救うには気づくのが遅すぎた」
「私、逃げるわね。粛清とかされたくないから」
「待て」
マイトは穏やかな声で呼び止めた。
「待ってくれ。君と話がしたい」
「スーパーヒーローさんと話すことなんて何もないわ」
「君を救いたいんだ」
マイトの言葉に、女は白いハイヒールの足を止め、意外そうに微笑みながら振り返った。
「あなたは人間を救うんじゃないの? それなら、人殺しの私は消そうとするはずよ?」
そう言ってかわいく小首を傾げる。
「君はなぜ、人を殺す?」
「殺しているのは私じゃないわ、足よ」
女はそう言いながら、自慢するように自分の足を前に出してみせる。
「くだらない人間を見たら、勝手に足が動いちゃうのよ」
「その『くだらない』というのは誰が決めるんだね?」
「足よ」
女は何の罪悪感も、悲しみも感じていない表情で、しかし俯いた。
「こんな私でも、救いたい?」
マイトは戦意がないことを、黒いマントで自分の剛腕を覆って示すと、礼儀正しく頭を下げ、言った。
「正直……、このくだらない人間たちを守る必要があるのだろうかと、私も最近思っていたところだ」
「あら」
女が顔を上げ、少し小馬鹿にするように笑う。
「お仲間ね」
「救うなら、君を救いたい」
マイトは女の顔をまっすぐに見つめた。
「君を救えないぐらいなら、私はスーパーヒーローとは言えない」
====
「助けて!」
中年男性が夜の暗い路地を逃げ惑っていた。
その後ろからは赤いコウモリの姿をしたヴィランが追いかけて来ている。
袋小路に追い詰めると、ヴィランは赤い舌を蛇のように出してみせながら、中年男性を笑う。
「へへへ……。オッサン、オッサンよぉ。おまえら、さんざんオレのこと馬鹿にしてくれたよなぁ?」
「きっ……、貴様のことなんぞ知らん!」
中年男性は手に持っているビジネスバッグで必死に身を守りながら、命乞いをした。
「人違いだ! 私は君を馬鹿にしたことなどない! た……、助けて!」
ヴィランの手が動いた。
中年男性の頭を掴むと、そのまま勢いよく引っ張る。頭にかぶっていた髪の毛が取れた。
「なんだよ、その頭。ヅラかよ。……かわいいハゲ頭なのに、なんで隠すんだ?」
取れた髪の毛を後ろに放り投げると、ヴィランは言った。
「オッサンは皆一緒だ。オレを馬鹿にし、オレの自由を奪い、オレをルールで縛ろうとしやがる」
「きっ……! 貴様らの好きにさせたら……社会が混沌と化しちまうだろうが!」
中年男性は涙と鼻水を飛び散らせながら、ヴィランを指差す。
「社会のクズめ! 貴様なんか……、貴様なんか怖くないぞっ!」
「へー……」
ヴィランは口を大きく開け、笑った。
その口から剥き出しになった鋭いノコギリのような牙を見て、中年男性が再び怯える。
「や……、やめてくれっ! 殺すな! あひぃっ! 金ならあげる! うちの娘は美人だぞっ? む、娘もやるから……」
男性の股間から、地面に黄色い液体が広がった。
「た……、助けて、おまわりさーん! スーパーヒーロー! ブ……ブラック・マイトっ!」
中年男性とヴィランの間に、いつの間にか人が立っていた。
「んー? 誰だぁ?」
ヴィランは邪魔そうにそう言ったが、すぐにその人物の通り名を口にした。
「なんだ『アイシー・トゥ』じゃねェか」
白いコートに身を包み、白いハイヒールを履いた女『アイシー・トゥ』が煙のようにそこに現れ、感情のない目で中年男性を見下ろしていた。
ヴィランが笑いながら言う。
「なんだよ、オレが殺すんだ、そいつ。人の楽しみを横取りすんな」
最後の『な』はかろうじて言葉になった。
女の足が上がった瞬間、ヴィランは股間から頭にかけて真っ二つに斬られていた。
二つに裂けた肉塊となって斃れた赤い体に背を向けると、アイシー・トゥは中年男性を再び見下す。
「おおお! ありがとう!」
男性は観音様を拝むように土下座をした。
「ありがとうございます! なんて美人なスーパーヒーローに助けていただいたのだろう! お名前を! お名前をお聞かせ願います!」
再びアイシー・トゥの足が上がると、中年男性は頭から腹にかけて真っ二つになり、体の中のものをすべてその場にぶちまけると、前に斃れ伏した。
「それを何の感情もなしにやっているというのか?」
黒いコスチュームに身を包んだ逞しい男の影が、月を背にして言った。
「あなた……、スーパーヒーロー失格ね」
女が笑う。
「どうしてこのおじさんを救わないの? ブラック・マイト」
「前も言っただろう。果たして人間に救う価値などあるのか、わからなくなった」
「ふぅん?」
女は自分の足を見つめ、言った。
「不思議ね……。私の足は、あなたを殺したがっていないわ」
「救うなら、君をこそ救いたい」
「何から救うというの?」
女が少し不快になったように、鋭い目でマイトを見つめる。
「私が『悪』だから? 更生させたいの? 私が間違っているから?」
「正義も悪もない」
ブラック・マイトは、言った。
「君を愛してしまったからだ」
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愛される心当たりなどなかった。
アイシー・トゥは、薄暗いライブハウスのカウンター席に座り、エールビールのレモン絞りを口に運びながら、思い出していた。
虫唾の走る台詞を言われてすぐに逃げ出してしまったが、黒い覆面の奥にあった強いまなざしが心に残る。
男など信用していない。
人間など愛していなかった。
人間とは愚かで、己のことしか考えず、すぐに他人に対してマウントを取ろうとしたがるだけの生き物だ。
彼女がそういう思想に至るきっかけとなった恋人などいたわけではなかった。彼女はただある嵐の夜、停電した薄寒い一人の部屋の中で、夜空に見えないはずの髑髏のような満月に見下されてそうなっただけだった。
「もう一杯、いかがです?」
彼女のグラスが空になりそうなのを見て、バーテンダーが声をかけた。
彼女は答えた。
「私は孤独なのよ。誰も愛さないし、愛されもしない」
バーテンダーは困ったような表情を浮かべると、優しい笑いを浮かべ、そっと小皿に入れたピーナッツを彼女の前に置いた。
ステージではアコースティックギターを弾きながら、若い女性シンガーが、戦いを否定する歌を、激しい声に乗せて歌っていた。
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「あなた、邪魔よ」
買い物帰りの主婦を惨殺したところにまた現れたブラック・マイトに、アイシー・トゥは言った。
ブラック・マイトはただ無言で腕を組み、肩口から袈裟懸けに斬り殺されて斃れている中年女性の死体を眺めていた。
「どうせ私一人では、日本中のくだらない人間すべてを殺せはしないわ。ほっといてくれる? あるいはスーパーヒーローならスーパーヒーローの仕事をしなさい。私のことを、救うなんて言わずに、殺しなさい」
ようやくマイトが口を開いた。
「その女性を殺した理由は?」
「知らないわ。足に聞いて」
「貴様あっ! 許さんぞ!」
ブラック・マイトの隣りにいた若いスーパーヒーローが拳を握りしめた。
「罪もない市民をこんな……! しかも女性だぞ! 正義の名の元に成敗してやる!」
「やめておけ、プルー」
マイトが手で制する。
「殺されるぞ」
「先輩は下がっていてください! こんな華奢な女ヴィランごとき、天下のブラック・マイトの手を煩わせることありませんよ!」
若いヒーローはそう言うと、マイトの腕をかい潜って、前へ出た。
「まぁ、見ててください! 先輩は『私が、来た』とか定番の台詞でも口にしながら見物しててくださいよ! アーッハッハ!」
アイシー・トゥの足が動いたと同時に、若いヒーローの首が横薙ぎに斬られ、飛んでいた。
「だから言ったろう。おまえの敵う相手ではない」
転がる首を見送りながら、ブラック・マイトが言う。
「激怒とかしないの? 仲間をやられて?」
アイシー・トゥが目を細めて微笑む。
「我々は一般人とは違う。いつでも死を覚悟している。ただの殉職だ。それにコイツが『見ててくれ』と言ったから私はただ見ていただけだ」
「アンタ……。人間の命を何だと思っているんだ!」
マイトの左隣りにいた、もう一人の若いスーパーヒーローが声を震わせ言った。
「まるで犬の首でも跳ねるみたいに……!」
「あら。犬は殺さないわよ」
アイシー・トゥが笑う。
「くだらない犬なんていないもの」
「人間は犬より下だとでも言いたいのか!? このデンゲキ・タロウ様がおまえを倒す!」
デンゲキ・タロウの首が飛んだ。
「人間と犬の命のどこが違うというのかしら」
アイシー・トゥは冷めた声でそう言うと、ブラック・マイトに微笑みかけた。
「ねえ?」
怒りの表情に固まったデンゲキ・タロウの首が飛んできたのを受け止めると、ブラック・マイトは静かにそれを地面に下ろした。
「タロウよ、残念だったな。手柄にしてヒーロー・ランクを上げようと張り切っていたのにな」
「あなたはかかってこないの? じゃあ私、行くわね」
そう言って背を向けかけた女をマイトが呼び止める。
「待て。話をしないか?」
「スーパーヒーローさんとするお話なんてないわ」
「君は人間を信じていた。……しかし、裏切られた。元々はとても愛に満ち溢れた人だった。それだけに、裏切られた反動が大きすぎた。だから君は人を殺すのか? そうなんだろうな、きっと」
女の顔から微笑みが消えた。
「あぁ……。あなたも同じなのね。私のことをわかったつもりになって。くだらない」
そう言うと、一瞬でブラック・マイトの前に移動するとともに、足を大きく振り上げていた。
ブラック・マイトは、見た。
女の白いハイヒールの爪先から、氷の刃が生まれるのを。
それは瞬時にダイヤモンドのような光を放ったかと思うと、彼の顔面を切り裂き、また瞬時に消えた。
女の足が、地面に降りる。
「あら……」
アイシー・トゥの顔に、微笑みが戻った。
「こんにちは、ストレンジャーさん」
ブラック・マイトは後ろに身を反らせ、彼女の刃をかわしていた──はずだった。しかしそれは切り裂いていた、彼の黒い覆面の表面を。
曝された彼の素顔を認め、それが知らない男だと知ると、アイシー・トゥは少し興味をそそられたような笑顔になった。
「てっきり『私の行方不明のお父さんだった』とかいうオチかと思ったら……知らない人だわ」
コツコツと二歩横へ歩き、そこにあったベンチに腰を下ろすと、尋問するように聞いた。
「あなた……何なの? なぜ、私が人を殺すのを容認するの?」
ブラック・マイトは裂けた覆面を脱ぎ捨てると、うっすらと滲んだ自分の顔の血を指で拭き取りながら、言った。
「人それぞれだ。好きにするがいい」
プッと、アイシー・トゥが吹き出す。
「あなたの話、聞くわ。……私の何が知りたいの? それとも身の上話がしたいの?」
「隣……座っても?」
「どうぞ」
殺気を仕舞い、にこやかに手招きする女の横に、ブラック・マイトはおずおずと腰掛けた。そして、チラチラと女と虚空の間に視線を泳がせながら、話しはじめる。
「私は……人間を愛していた。正義と平和を守るため、頑張って来たんだ」
「知ってるわ」
女が称賛するように微笑む。
「有名人だもの」
「それなら……あの噂も?」
「噂って?」
「知らないか……」
マイトは空を見上げると、言った。
「今、ネットで、民衆が私を叩いているんだ」
「ああ……」
女が可笑しそうに笑う。
「それなら知ってるわ。あなた、散々な言われようよね。『ヴィランに襲われたのに、ブラック・マイトが来てくれなかった!』みたいなクレームが世界中で溢れてるのよね」
「ああ……」
「お気の毒。あなたの体は一つしかないのに、世界中の困ってる人をすべて救えとかいうのかしら」
「その流れだろうと思うが……」
ブラック・マイトは空から目を離さず、言った。
「私の七歳の娘が、私を理由にいじめに遭っている」
「ええっ! そうなの?」
アイシー・トゥは顔色ひとつ変えずに、驚いた声音を作った。
「そんなニュースは耳にしてないわ」
「マスコミも私を叩いたほうが美味しいのだろう。……娘に石を投げつける大人たちのことはけっして記事にはしない」
「なるほど……」
アイシー・トゥがくすっと笑い、言った。
「それであなた、闇落ちしたのね?」
「流行りの言葉で決めつけないでくれ! 君こそ私のことをわかったつもりになっているじゃないか」
ブラック・マイトは声を荒らげたが、すぐに自分を抑え、平静を取り戻した。
「何が『罪もない一般人』だ! 何が『善良な小市民』だ! 罪を犯したことのない人間などいるものか!」
「人間を憎んじゃったの?」
アイシー・トゥはあまり面白くはなさそうに、同情する様子もなく、どうでもいいような口調で言った。
「まぁ……。この世の9割以上の人間がくだらないのは確かだものね。そこに隠れてるカメレオンさんも、くだらないわ」
「へへへ! 気づいてた?」
砂の地面に擬態していたカメレオン型のヴィランが、スーッと緑色の姿を現した。
「クッ……。私は気がつかなかった」
ブラック・マイトが歯噛みする。
「へへへー! 見ちゃったぜ! 正義のスーパーヒーローがヴィランの女に恋しちゃったか! 人間はキタネーもんな! 歓迎するぜ! 俺らの仲間に……ぷひぇ!」
カメレオン型ヴィランの頭部がぐちゃぐちゃに潰れ、身体ごと飛んでいき、公園の植え込みに突っ込んだ。
ブラック・マイトはパンチを繰り出した己の剛腕を見つめると、また弱々しい声を出した。
「私だって……、この通り数多くのヴィランの命を奪っている。それは罪ではないというのか」
数多くの『罪もない人々』を殺戮している女の隣で、隙だらけの姿をさらし、スーパーヒーローは項垂れる。
「ヴィランがわかりやすい『悪』だからといって、それは殺しても罪にはならないというのか……?」
「悩み多き中年おじさんなのね」
アイシー・トゥはくすくすと笑い、冷たい目で彼を見つめた。
「どうでもいいし興味もないから……私、帰るわね」
「教えてくれ! どうしたら君のようになれる!?」
「びっくりした。急に大声を出さないでくれる?」
「君のようになりたいんだ!」
ブラック・マイトは立ち上がると、熱烈なまなざしで女を見つめた。
「何の感情もないように、氷の機械のように人を殺す君に、恋してしまったんだ! 憧れたんだ! 是非、私を相棒にしてほしい!」
「……くだらない」
女の足がブラック・マイトの顎を蹴り上げた。
顎が砕け、筋肉隆々の巨体が後ろへ吹っ飛ぶ。
植え込みの中に倒れたスーパーヒーローを見下しながら、アイシー・トゥは言った。
「あなたのくだらない復讐なんかに付き合っている暇は私にはないの。……さよなら」
白いハイヒールの靴音を鳴らして去って行く女を、スーパーヒーローは何も出来ずに見送った。顎は砕けていたが、命は無事だった。彼女の爪先から氷の刃がもし出ていたら、こんなことはあり得なかった。
「君は……私が守る」
白い後ろ姿を見送りながら、ブラック・マイトは呟いた。
「君を守り抜けるようでなければ……私はスーパーヒーローとはいえない」
そしてまるで久々に自信を取り戻したかのように、その逞しい胸を張った。
「私はS級スーパーヒーロー『ブラック・マイト』……。私こそが世界正義なのだ」