死んだはずの俺
「本日、午後1時をもってカウントダウンを開始する。365日後の日本に栄光あれ」
テレビから日本のお偉いさんの声が熱く響いた。
別に俺が熱心にニュースを見てるとか、政治の演説を聞いてるとかそんなんじゃない。テレビはどのチャンネルにしてもこの放送、ラジオもしかり。ネットも速報テロップが常に流れ、演説の言葉が一言一句違わずに打ち込まれている。
何をそんなに、と思うかもしれないが、全世界の……いや、人類の運命がかかっているとなると大袈裟でも何でもないのだろう。
それは、一年後の今日、『ノアの方舟計画』が遂行されるという内容だ。
なんでも、これは全世界のお偉いさんが参加する世界会議で決定された。
今世界中の大気は汚染され、海はヘドロ状態とかしている。自然が腐敗し始めたことによる腐敗ガスがその原因らしい。
いずれそのガスは地球全体に充満し、人類は滅亡する。
それがお偉いさん達の合致した見解だった。しかも話はそれだけに終わらず、人類滅亡を回避すべく、各国でノアの方舟を作るというのだ。船といっても本物の船ではなく、国一つを覆い隠せる程のドームを作り、国そのものを船にするというなんとも大胆な計画だ。
そして、一年後、人為的な大災害を引き起こし地上を一掃する。それがこの計画の全容だった。
「国ごと船にするため、国民に害はなく通常通りの生活を送って欲しい」最後に付け加えるようにお偉いさんが言って、ニュース画面は元のテレビ番組に切り替わった。
何をそんな突然。
率直な感想だった。そりゃそうだろう。昼時の休憩時間にテレビをつけてみたら「人類は滅亡する」ときたもんだ。
挙げ句ノアの方舟計画だの難しいことを言われ、突然の事実にパニックというよりも呆然とするといった方が正しいか。
俺だけじゃない。同僚達だってポカンと口を開け、魂が抜けそうな表情をしている。
「……あー、今の、なに?なんかのドッキリ的なあれ?」
「どーゆーことなの?え、善庵これの意味わかった?うちら今まで通り生活してて良いんだよね」
突然俺の名前を呼ばれ、思わず肩がビクッとなる。浅山善庵、それが俺の名前だ。なかなかに変わってる名前だから聞き間違えなんてことはないだろう。
「俺に聞いた?……そんなん聞かれても、むしろ教えて欲しいよ」
昨日まで普通に仕事して、飯食って寝て。そんな当たり前の生活を今日も送っている。明日も特に問題なく送れるだろうと思える程に、今の世界は平和そのもの。窓からは雪化粧の富士山なんかも見えちゃってる。こんな平和な世界がどうこうなるとは到底思えない。
それをあと一年後にはないですよと言われても、はい、そうですかとはならないだろう。
「おーい、そろそろ休憩上がりだぞ。善庵も早く飯食っちゃえよ」
あぁ、コイツは同僚の藤間朔。今日もなんてイケメンなんだ。
朔とはこの職場で知り合った同い年の同僚。顔もよければスタイルもよし、しかも仕事まで出来ちゃう完璧男。羨ましいを通り越して崇拝対象となっている。そんなわけで、イケメンな顔は俺の目の保養!
でも、唯一朔のことでビビったのはその腕だ。今は隠しているが、不思議な模様が掘られている。しかも肩から指先までびっしりと。
偏見とかそんなんじゃないが、意外すぎて初めて見た時は言葉を失ったっけ。
「おい、聞いてんのかよ!俺先に仕事戻るぞ?」
おっと、まずい。朔のイケメンぶりにすっかり仕事休憩だと忘れていた。
午後の仕事もそれはハードになる。もともとが相当体力を使う仕事だが、午後は午前の比じゃない。昼飯を食べ損ねるなんてことがあったら、それこそ命に関わる案件だ。
「悪い、もう食べ終わるからさ!ま、茶でも飲んで待っててよ」
そう言いつつも、五分も経たずして弁当を完食した俺。朔と一緒に休憩室を後にし午後の仕事へと向かった。
内心、午後の仕事は休みになるんじゃ……なんて淡い期待を抱いたが見事に打ち砕かれた。
昼のニュースがあったにも関わらず、俺の周りはというと何も変わっていない。仕事もいつも通りだし、皆も至って普通だ。確かにニュースでも通常通りの生活をと言っていたが、それにしてもいつも通り過ぎないか?
定時を越えても仕事は終わらず、むしろ追加されていく仕事。夕飯も食べす、定時を大幅に過ぎて会社を後にすることとなった。これも至って普通、いつも通りだ。
「やっと終わったなー。帰り道腹ペコで倒れんなよ!善庵はすぐガス欠になるからな」
「そんなんしねーよ。朔も寄り道しないで早く帰れよ」
他愛のない挨拶を交わし帰路へとつく。
案の定、俺の体はヘロヘロ。朔のガス欠という言葉ほど今の俺の状態を適切に表す言葉はない。
家までの道のりがなんとも恨めしく思う。毎日のことながら、なんという苦行。
学生の頃は運動部にも入っていたし、体力にはそこそこの自信があった。それでも、仕事終わりにはこんな状態。仕事がハードモード過ぎてなんだか泣けてくる。
繁華街を歩いていけば、更なる苦行が俺を待っていた。タレが焼ける音、にんにくの香ばしい匂い。空腹の俺には耐え難い仕打ち。
くーーっ!なんでもいいから腹一杯食いてー。
いつも通りの町の様子に少なからず安堵したのも事実だ。やっぱり俺がニュースを引きずりすぎなのか。
ま、考えても仕方ないよな。なるようになるし、今はそれよりは晩飯だ。今日は簡単にデリバリーでも頼むかな。
そんな呑気なことを考えていた時だった。突如として女の人の叫び声が俺の耳をついた。
突然のことに思わず体が硬直する。別にビビって動けなくなったとかそう言う訳じゃない。
でも女の人がすごい剣幕でこちらに走ってくれば、さすがの俺も身構えるだろ。しかも、その服に赤い染みが出来ているとなれば尚更だ。誰がどう見ても不自然なその染み……、絶対に血だ。
なんだよ、何があったんだよ。
……正直に恐怖が体を支配する。
「た、助けて!殺される!」
恐怖を助長するかのように女性は叫び、俺の腕をすごい力で掴む。そんなに引っ張れば、体のバランスを崩したのは言うまでもない。直後、建物の角から一人の男が飛び出してきた。
鬼のような形相の男。
視線を下へと移せば、手には何かをもっている。長い柄に黒い無機質な突起。ハンマーだ。
……っこれやばい奴。
無意識に脳が警報音を鳴らす。
ひゅっと呼吸が浅くなり、スローモーションのような世界が目の前に広がる。
男は大きく振りかぶる。
死ぬぞ俺!避けろ避けろ、体動け!!
だが体は石のように重く、避ける動作どころか微動だにできない。
ぐしゃっ!!
そんな音が聞こえたや否や、目の前が真っ暗な世界へ切り替わる。
痛い、苦しい。
……いやだ、死にたくない。死にたく、ない。
徐々に薄れる意識。
すっと目蓋を閉じるとそのまま開けることはなかった。
そう、俺は死んだ。
そのはずだった。