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6 こんな形のこんな自由












   6 こんな形のこんな自由












   夏目玲司












 中学を卒業して高校生になった。そのくらいの頃から僕は恭介に頼み込んで、恭介の店でタダ働きをするようになりました。父が借りたお金を返したかったんです。


「そんなあなたが気にすることじゃないのよ」


 一緒に話を聞いていた奥さんが驚いてそう言った。恭介は奥さんの手をそっと握るとそれを制しました。


「お父さんが僕から借りて行ったお金はこれだけです」


 そして、紙に数字を書いて見せました。


「僕のお店でアルバイトを雇ったときの時給がこのくらいです。一日働くとこのくらいになる」


 そして、その横にその時給と1日働いた金額を書いた。


「簡単に返せる額ではないですよ。どうする?」


 子供扱いをせずにちゃんと同じ目線で語りかけてくれたことに、今でも感謝している。


「やらせてください」


 恭介があの時、奥さんと声を揃えて、そんなことは気にすることはないと言ったら、僕はあの後どうしただろうかと今でも何度も何度も思うんです。或いは僕はきちんと大人になれなかったのではないかとすら思うくらい。


 恭介のあの甘さは、彼の持ち込むあの魔法のように美しく甘いお菓子と共にあの甘さは、お金を踏み倒して逃げた男の子供の元に通い続けるあの甘さ。あの甘さが最後まで甘いままだったら、僕は恭介を本当の意味では認めなかったと思うんです。


 でも、恭介は僕を許しませんでした。お金を返せと言って僕に返済の機会を与えた。


 あの、取り残された苦しみ。親に捨てられたという事実。

 母親どころか父親までもが僕を捨てて出て行ったという事実。

 あの日、僕の魂は半分死んでしまったと思う。

 すぐに恭介が来て、僕を保護してくれた。住む場所はできた。

 

 だけど、僕は存在する意味を失ったままでした。

 何に向けて頑張ったらいいのかわからない。だってそうじゃないですか。普通の子だったら親がいる。親は子供に何かしら期待するでしょう?医者になって欲しいとか弁護士になって欲しいとか、そんなわかりやすいものでもいい。ちゃんと勉強しろとか、いい大学に入れ、いい会社に入れ、そんなことを言う人は僕にはいない。

 好きに生きろと言われたわけでもない。

 僕は、捨てられたんです。


 こんな形のこんな自由を、求める人がこの世界にいるのなら教えて欲しい。


 そんな僕に恭介は存在する意味を与えてくれた。

 親の借りた金を返せと求めてくれた。


 二度目に僕を救ってくれた。

 この時に僕は恭介あっての僕になったのだと思います。変な意味ではありません。

 だけど、確かに僕はしもべのようなものになったのだと思う。


 失ったことがある人にしかわからないのだと思う。

 人生には自分を支えてくれるものが必要なんです。人はそんなに強くない。何もないところに放り出されてさぁ生きろと言われて、たった一人で生きていける人間なんていない。でも、たった一人で放り出されても、人は生きなければならないんです。立ち上がってどちらへ向かって歩き出すかを決めなければならない。


 どっちへ向かって歩き出していいか途方に暮れていた時に方向を指し示してくれた人、それは恭介だった。お金を返せと言って、そして、自分の店に僕を招き入れてくれた。


 恭介の店、ルグランに


***


「玲司、ごめん。手が足りない。頼む」


 僕は製菓の勉強をした人間ではない。資格も持っていないわけで、だから、本来ならば作る方に携わってはいけないのだけれど、繁忙期には販売に製作が追いつかなくて、最後の装飾の部分の作業を手伝ったりもしてました。製菓店は鮮度が命だから売れ行きを見ながら商品を補充していくわけで、作りだめというのが許されない世界。


 フルーツのトッピングやナパージュ(*1)と呼ばれる艶出しを塗ったりしていた。


「玲司はセンスがあるな」

「褒めても何も出ませんよ」


 ルグランは高級店だったから、果物を適当に載せるわけにもいかない。カットの仕方とその載せ方の角度。また、その切断面の鮮度、色。一個でもくたびれたケーキを置くわけにはいかない。だから、直前でなければならない。一瞬でも来たお客さんをガッカリさせるわけにはいかない。裏側は戦場です。その戦場の中で、僕は恭介が作り出し、そしてお店のパティシエ達が模倣する恭介のケーキを目に焼き付けました。


 最初は味からではなくて見た目から入った。それは、たまに自分もトッピングを手伝うことがあったからです。美しく載せなければならない。常に集中して、お店のケーキの見た目を脳裏に焼き付けました。


「とても勉強したことがないなんて思えないよ」


 時々、周りのパティシエから本気とも冗談とも思えない口調で感嘆された。

 僕はそれを適当に受け流しながら思いました。

 人は、本気になって学ぼうと思えばこんなこと、全てではないが学ぶことができる。僕がやっていたことは正確に言えば学ぶではなく、盗んでたんです。完成したものを暇さえあれば目に焼き付け、隙があれば職人たちの手つきを見て、そして、その一部を見様見真似でやっていたに過ぎない。ただ、盗んではいたのだけれど、盗んだものは持ち主に返してました。結局、恭介の店の売り上げになるのだから。


 パティシエたちの屈託のない様子に内心、冷たい感情もありました。


 呑気というかなんというか。必死さが足りないと子供ながらに思いながら見てた。ただ、きっとこの人たちはそこまで必死にならないと生きていけないようなところにまで追いやられたことがない。そしてきっと、この人たちはほぼ全員、一生、必死とか本気とかいうのはどういうことなのか知らないまま生きていくんじゃないかとすら思いながら、その様子を見ていた。


 とある日、その日はそこまで混んでいない日、最近は教えることはあっても自分からはあまり手を出さない恭介が、ピストレ(*2)というケーキにチョコをスプレーのように吹きかける作業をやってみせた。簡単そうに見えるけど結構難しい作業で、この作業を任せられるのはスーシェフ(*3)とその次のシェフまででした。でも、この日恭介はそれより下のパティシエから名指しで一人ピストレをやらせた。少し硬くなりながら、その人はケーキにチョコを吹きかけた。みんなでそれをじっと見ていました。厨房の端っこ、厨房と店舗の境の離れたところから僕もそれを覗いていた。


「玲司もやってみるか」


 不意に恭介がそんな離れた僕に向かって声をかけた。まるでなんでもないように。その声で、手元の作業に集中していた皆が顔を上げて一斉に僕を見た。まるで初めて僕の顔を見たかのような表情をしていた。


「まさか」


 僕はそう言って慌てて店舗に戻った。


 ちょっとドキドキしていました。厨房のみんなの目が怖かった。


 思うに、恭介がそうやってまるでなんでもないように僕にピストレをやって見せろというまで、皆は僕をただのアルバイトの高校生として見ていたと思うんです。自分たちと同じ土俵に乗った人間だとは思ってなかった。僕の境遇を皆がどこまで知っていたのかわからない。だけど、自分は製菓学校に通えるような身分ではありませんでした。高校を卒業したらどこかで働かなければならない。


 ちょっと手先が器用で、ちょっと見様見真似でみんながやっていることを真似する。喜んだパティシエ達に煽てられる。でも、皆はその時、自分たちより下の境遇の、不幸で哀れな僕に同情をしていたのだと思う。下の人間で、で、ちょっと可哀想だから、必死に頑張っているのを見て褒めてあげる。十分に自分の自尊心を満たす楽しい遊びです。


 だけど、恭介が、皆の憧れの中心にいる恭介が、名指しで今までやらせていたような簡単な作業ではなくてピストレのような作業をやってみるかと声をかける、それは、彼らにとって行き過ぎた行為でした。


 だから、僕は初めてその時、彼らの視界に入った。

 立つべきではない土俵に入り込んだ人間として、睨まれたんです。


*1 ナパージュ

いったん攪拌してもまたもとのようにどろっと固まる性質を持ったペクチンを利用した製品である。様々な色の物があるが、どれも透明感がある。お菓子の表面に塗りツヤを出すことで、お菓子が新鮮で美味しそうに見える。他にも製品の表面を保護したり、乾燥を防ぐために使われている。(www.pattissient.com パティシエWiki参照)


*2 ピストレ

ピストレとは、洋菓子の表面に食品用のスプレーガンを用いて霧状のチョコレートを吹き付ける工程のことで、ピストレという名前は使用する道具が拳銃ピストルに似ていることに由来しているそうです(フランス語で拳銃のことをピストレと発音します)デコレーション効果の他に乾燥を防ぎみずみずしさをキープする効果もあり。

(https://blog.sorcie.co.jp SORCIE RECIPE参照)


*3 スーシェフ

副料理長。我が国では、料理長の業務を補佐する者という意味に使用される場合が多い。

(https://www.jus.ac.jp ホテリエガイド参照)

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