5 Ema’s diary③
5 Ema’s diary③
上条暎万
その後、11時を回ったとこで店を出て家へ帰る。帰る途中何かが引っかかっていた。魚の小骨のような何かが。それがなんなのかわからなかった。お風呂に入って、パジャマに着替えてベッドに入りました。寝られない。そういえば聞きたいことあったしと思って、フェースタイムで彼氏に電話かけた。
「ねぇ、ひろ君」
「……」
「起きてる?」
「寝てた」
パティシエは朝が早い。無視して話を続ける。
「ね、あくびをかみ殺すってどういう意味?」
「そんなん言葉のまんまじゃん」
「わかんないんだよ」
「こういうことだろ」
ひろ君が画面の向こうで口の前に手をかざしてじっとします。
「さっぱりわからん」
「あくびしてんのがバレないように小さくあくびすんだよ」
なんですと?布団の中で寝っ転がってたのをむくっと起き上がり、ベッドの上に正座した。
「全然噛んでないじゃん」
「慣用句だって。慣用句ってそんなもんでしょ?」
いやっ、慣用句ってさ。合理的に構成されていない言葉たちのゴミ箱じゃね?
外国語の授業でよくあるやつだ。先生、どうしてこれはこう使うようになったんですか?慣用句です。そのまま覚えてください。覚えられないんだけどっ!
「切るよ」
「なんかひろ君最近お兄ちゃんに似てきたね」
「は?どこが?」
「電話をさっさと切るところ」
「……」
「なんかさー、そういえばさー」
パティシエは朝が早い。そんなこと無視しておしゃべりを続けます。
「Ema‘s diaryがすごいことになっちゃってさ」
「すごいこと?」
「瓢箪から駒!みたいなさ」
「今のだって慣用句だよ」
「しつこいな。慣用句の話はもういいよ」
一方的に会話を終わらせるのは得意技である。職場では上司に使われる技をプライベートでは彼氏に使う。これも食物連鎖(*3)のようなものだ。
「社長がなんでかEma‘s diaryを知っててさ。このブログやってる人にKuuにも記事書いてもらえって」
「社長賞?」
「いや、でも、社長はEmaが暎万だって知らないからさ」
「???」
音声だけで聞いていると意味が伝わらないんです。
「イーエムエーが契約社員の上条暎万だって知らないからさ」
「イーエムエーって未確認飛行物体みたいだな」
「それはユーエフオーでしょ?」
「めんどくさいな。なんで自分の実名使ったんだよ」
「……」
確かにちょっと面倒くさいことになってしまったなと本人も思っております。
「イーエムエーは実はわたしですって社長に言ってお給料あげて貰えば?」
「……なんか違う」
「なんか違う?なにが違う?」
「よくわかんないけどなんか違う」
そう、このなんか違うは奥が深いんです。うまく説明できないんだけどなんか違う。そして、このなんか違うを侮っていると、このなんか違うにひっくり返されて人生が曲がることもある。
「そのなんか違うがどう違うのか判明するまで僕は付き合うことができません」
ひろ君はそういうと、回線を繋いだまま画面の向こうで眠り出しました。つむじが見えています。
「また狸寝入り。知ってるよ。寝付きそんな悪くないとはいえ、ひろ君はのび太君(*4)レベルではないから」
「……」
「もうお兄ちゃんに似てきた!」
「いや、お兄ちゃんは一方的に電話切るだろ」
そう言ってひろ君は顔を上げると笑った。その笑顔を見て意味もなくちょっと嬉しくなった。
「のび太君レベルってどういう意味?」
「のび太君ってどこでもすぐに寝られるのが特技なんだよ」
「へー、じゃあね、流石にもう切るよ」
「おやすみ」
「なんだ、あきらめるの?」
「あきらめてほしくないの?」
「いや、あきらめてほしい。おやすみ」
電話が切れた。もうちょっとだけ話してたかったなと切れた電話を見ながら思う。
***
そしてその夜夢を見た。綺麗な湖のほとりに立ってました。少し離れたところに真っ白なすとんとしたワンピースを着た女の子が見える。そこまでてくてくと歩いて行った。近くに行ってわかった。それは小学生の頃の自分でした。
「ねぇ」
挨拶も何もなしに不意にその自分は話しかけてきた。
「それでいいの?」
「へ?」
次の瞬間に目が覚めた。パチリとベッドに仰向けに寝ている自分を発見。天井が見えた。朝になっていた。むくっとベッドの上に起き上がる。なんだったんだろう、今の夢。
ボケっとしたままでとりあえず下に降りてった。
「なんだ、暎万。早いな」
仕事に行く格好をした父親がトーストを齧りながら言う。
「あら、暎万ちゃん。おはよう」
おばあちゃんがキッチンから声をかける。暎万ちゃんの職場はお父さんの会社と同じグループ会社なのだけれど、出版社は出退勤の時間はある程度融通が利くのである。だから、暎万ちゃんの出勤時間はお父さんよりいつも遅いのです。
「おばあちゃん、わたし今日、お茶漬けがいい。朝茶漬け」
「え?ご飯あったかな」
「また、そんな贅沢言って」
父親が眉を顰める。
「お茶漬けのどこが贅沢なの?」
「ホテルのバイキングみたいに今日はパンか和食かなんて選ぶなよ」
「あら、いいのよ。樹君」
夏美さんがニコニコしている。
「明太茶漬けにしたい」
「あら、明太子あったかしら」
「梅茶漬けにしろ」
「明太茶漬けの気分なのに」
「朝からわがままいうな」
夏美さんが冷蔵庫へ行く。冷蔵庫を開けています。
「あら、暎万ちゃん、明太子がないわ」
「おばあちゃん、明太子切らしちゃダメだよ」
「明太子を常備品にするなよ」
「今日、買ってくるわね」
「お義母さん、甘やかさないでください」
「明太子ぐらいで樹君、大袈裟よ」
「もう、そんなに言うなら、明太子ぐらい自分で買うよ」
朝からレベルの低い会話を3人で回す。
いつもより早く起きた暎万ちゃん、なんとなく準備も早く終わって家を出ました。会社の自分の席に行くと、なんと一番乗りでした。これは珍しい。折角なので給湯室のシンクの下から雑巾を取り出して、自分の机だけ拭きました。その後、それでもまだ時間があった。いつも出社する時間よりも前に仕事を始める気にならなくて、デスクに座ってあくびを噛み殺す練習をしてみました。昨日、ひろ君がやってたみたいに口を手で覆って隠しながら小さくあくびをしつつ……、噛む。やっぱりなんか違うような気がする。
「なんだ、暎万、早いな」
「おはようございます」
上司が来ました。
「昨日あんだけ飲んだくせに。相変わらずザルだな」
「編集長はあれですか。しじみ汁(*5)でも飲んできたんですか?」
「お前は何食べたんだよ」
「当ててください」
「お茶漬けだろう?」
なぜ、わかる?ギョッとした。でも、涼しい顔のままで続けてみる。
「具はなんですか?」
「明太子」
「ハズレです。梅干しでした」
「明太子、切らしてたんだ」
「……」
なぜ、わかる?あなたわたしのストーカーかなんかですか?
「あ、そうそう、暎万、昨日の話だけどな」
「昨日の?」
「Emaの話だよ。イーエムエー」
「ああ、イーエムエー」
「後からややこしいことになっちゃうとやだから、社長に言っちゃっていい?」
「……」
その時、暎万ちゃんの中で何かが点滅した。あの歩行者用の青信号みたく。
「なんか違う?」
「ん?」
「確かにイーエムエーはわたしのことですけど、それが社長と知り合いになるのはなんか違います」
「どゆこと?だめってこと?」
上司が首を傾げる。
「あれは……」
自分のブログのページを思い浮かべながら、今までにあげた色々な記事を思い浮かべ、それを書いたときの思い出を思い出しながらぽつりぽつりと言葉を綴った。
「プライベートのものなんで」
「うん」
「そんな簡単にパブリックに飲み込ませるわけにはいきません」
「パブリック?」
「純粋な活動なんです。イーエムエーは」
「うん」
「それが、仕事になっちゃったら、なんか違う」
「やだってこと?」
「やだっていうより、その瞬間にイーエムエーは死ぬと思います」
「……」
なんて言えばわかるのかなぁ?
「ノリってデリケートなものなんです。純粋な活動だったイーエムエーが、仕事となった途端にイーエムエーの良さは消えます」
「面白くなくなるってこと?」
「そうです」
「じゃ、やりたくないってこと?」
無表情に淡々と責めてくる。その顔を見ながら思う。考える。暎万ちゃん。
「わたしはKuuも愛してますから、Kuuのためになるなら、イーエムエーとして書いてもいい。ただ、純粋な活動として書いていたブログを読んでくれる人たちは、イーエムエーに変わってほしいとは思ってないんです。お金を集めてやっていることじゃないけれど、裏切れません」
「裏切る?」
角田氏はぽかんとした。
「軽く考えないでください。書く方だって読む方だってそれなりの時間をかけてここまで育ったんです。イーエムエーにはイーエムエーの世界がある。お金のやり取りがないからって甘く見ないでください。わたしはKuuのためにイーエムエーが今までやってきた活動を曲げるつもりはありませんから」
「社長に知らせたって別にそこは曲がることにはならないだろ?」
「何言ってんですか。日本の会社は社員のこと所有物みたいに思ってるじゃないですか。協力させたい素人が実は会社の社員だったってわかれば好都合ってああだこうだイーエムエーの活動自体にも口を出してくるのは目に見えてます。社長に公開するなら、わたしはイーエムエーとしてこのお話、受けられません」
「おお〜」
なぜかここで角田氏は感心した。
「なんでそこで怒らない?」
「俺を怒らせるために色々言ってたのか?」
「そういうわけじゃないけど、意味がわかりません」
「お前のことは大学生の頃から知ってるからな。なんか娘が大きくなったなと思って……」
「……」
ちょっと引きました。でもね、年上の人の時々訪れるこういう感傷にお付き合いするのも部下としての務めです。
「じゃ、後から面倒くさいことになる可能性もなきにしもあらずだが」
「なきにしもあらずだが?」
若干舌を噛みそうになったこの言葉。
「イーエムエーの主張にも一理あるように思うし、譲歩して社長には無事見つけ出して依頼したとでも言っておくか」
「ちなみに後からバレた場合どんなことになるんですか?」
「なんだかっこいいこと言っといて臆したか?」
「リスク管理ですよ」
「あの社長はなー」
「はい」
「宇宙人だからなー」
「火星人(*6)ですか?やっぱり」
上司は真顔で一瞬じっとわたしを見た。
「よくわからない人という意味で使った比喩で、本当に宇宙人だって意味ではないぞ。一応言っておくが」
「はぁ」
なんだがっかり。宇宙人を初めて見たと思ったのに。いやそうじゃなくて。
「で、どうなりますか?」
「お前が話の腰を折るから」
「結論を早急に!」
「だから、宇宙人だからなぁ。どう動くか想像つかない」
なんだよっ!役に立たない上司だなっ!
「長く一緒に仕事してんのに?」
「あの人は結構ミステリアスな男性だぞ」
「……」
「どうする?さっきのかっこいい言葉はとりあえず置いといて、長い物には巻かれとくか?」
「いや、巻かれません」
「ふむ」
結局この人も物分かりのいい上司のふりをして内心は心穏やかではないのだろうと思いつつ、しばらく睨めっこする。
「じゃ、とりあえずそういうことで。ああ、そうそう、一つだけ」
「なんですか?」
「イーエムエーって言いにくい」
「なんだかYMCA(*7)みたいですしね」
本人も気に入ってない。
「あれだ。別のもっと読みやすくて、区別のつく名前を考えろ」
「じゃあ、Miss E」
「Msではなくて?」
「あえて、Missで」
「Mrsではなくて?」
「それじゃあ、クッキーみたいです!」
○○おばさんのクッキーみたいなさ。商品名でたまにあるではないか。
「暗号みたいでよくないですか?Miss Eに伝言。スパイみたい!」
「呑気だな」
かくして、わたしは二つの顔を持つ女となったのだった。
*3 食物連鎖
自然界における生物が、食う食われるの関係で鎖状につながっていること。植物は草食動物に、草食動物は肉食動物に食われる。(コトバンク参照)
*4 のび太くん
野比のび太は、藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物。野比のび助と野比玉子の一人息子。8月7日生まれ。0.93秒で眠りにつくことが可能。もしもボックスで作った眠ることがもっとも価値のある世界では、この速さはオリンピックの睡眠・昼寝大会でも金メダルを獲得できるほどの速さだとされ世界記録レベルらしい。アニメ版では0.3秒で眠りについたこともある。この他に特技、射撃、あやとり、ピーナッツの投げ食い、漫画等(Wikipedia参照)
*5 しじみ汁
シジミの肝機能改善効果
古くから滋養に役立つ健康食品として親しまれ、特に肝臓に良いことで知られるシジミ。このシジミの効果こそ、オルニチンの力と考えられます。オルニチンはシジミに特徴的に多く含まれる成分で、肝機能を向上させると考えられています。(https://ornithischians.jp/参照 オルニチン研究会)
ちなみに中国で買うことはできない(作者)
*6 火星人
火星人とは、火星に住むとかつて考えられていた知的生命体であり、架空の宇宙人である。(Wikipedia参照)
およそ90年前、アメリカの天文学者ローウェルは火星に運河のような模様を発見。話題になった。1976年アメリカの火星探査ロケット・バイキング打ち上げ。詳しく調査。結果、火星では生きているものは何も見つかりませんでした。(火星人は本当にいるの?学研キッズネット参照)
*7 YMCA
キリスト教青年会(Young Men’s Christian Association)
YMCA(曲)ービレッジ・ピープルの楽曲
Young MAN(Y.M.C.A)ー西城秀樹の楽曲(Wikipedia参照)
三番目のイメージで使用しておりました(作者)