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3 ひとりにならないところ












   3 ひとりにならないところ












   夏目玲司













 自分は取り残されたことがある。


 とても幼かった頃ではなく、かといって大人とは程遠い年齢の頃に。


 途方にくれて小汚い部屋の古ぼけた窓から空を見ていた。ささくれだった畳のそのボソボソと天に向かってそそり立つ藁の様子を意味もなくぼんやりと眺めていた。学校から帰ってきて、制服のまま。ベタベタする台所の隅っこの板の間の上に縮こまって三角座りをしながら。電気もつけずに。


 どうしていいかわからなかった。


 そのままその汚い台所の床の上で寝てしまった。


 なんの偶然かその時、恭介が来た。アパートの外の錆びた鉄の階段をカンカンと上って、コツコツと歩いて家の前まで来て、そして、こんこんとうちのドアをノックした。その音で目が覚めた。いつの間にか朝になっていた。もう一度こんこんとドアがノックされた。


 僕は家の中で息を潜めてた。


 恭介は返事がないとわかると、ガチャリとノブを回して、それが回ることに驚いたようだった。そして、顔を覗かせた。父親と同世代くらいの見知らぬ男だった。父よりもっとこざっぱりとしていて、そして、顔色がいいように思った。恭介はぐるりと家の中を見渡してそして俺と目があった。


 それが、初めて恭介と顔を合わせた日。


「お父さんは?」

「いない」

「お母さんは?」

「とっくにいない」

「いつ帰ってくるの?」

「わからない」

「……」

「多分もう帰ってこないと思う」


 恭介はそっと息を呑んだ。


「君、何歳?」

「14歳です」


 そして、僕は重要なことを聞くのを忘れてたことに気づいた。


「おじさん、誰?」

「お父さんの友達で、桜木恭介と言います」


 恭介は僕を連れ出した。そして、近くの喫茶店に連れてった。


「子供はお腹が空いていてはいけない」


 そう言って、ナポリタンを頼んだ。大盛りで。子供と言われるような年齢ではないと思ったが、ご馳走してくれる人に逆らうのはよした。僕は、黙々と目の前に来たナポリタンを平らげた。


「よく食べるなぁ」


 自分で勝手に大盛りを頼んでおいて、でも、恭介は僕が食べる様子を見て大袈裟に驚いた。


「いけませんか?」

「いいや、すごくいい」


 そして、本当に嬉しそうに笑った。こんなに思い切り笑う大人を久しぶりに見たなと僕は思った。食べ終わると、お父さんが帰ってくるまでとりあえず僕を自分の家に連れてくと言う。


「一人でも大丈夫です。とりあえずはあの部屋に住めるし」

「いいや、だめだ。子供は一人でいてはいけない」


 恭介はそう言うと僕を厳しい顔で見た。


「子供ってほど子供でもありません。別にご飯だって自分で作れるし、大抵のことはできる」

「でも、あの空っぽの部屋に君が一人でいるのは良くない。お父さんが帰ってくるまで、ちゃんと一人にならないところにいよう」


 そして、僕たちは一旦部屋へと戻って荷物をまとめた。僕が荷物をまとめる傍で、恭介は手近にあったチラシか何かの裏紙を使って、親父に向けた書き置きを書いていた。そして、僕は近くの駐車場にとめてあった恭介の車に乗った。トヨタの車だった。車種は忘れてしまった。


「おじさん、今日、うちに何しに来たの?」

「お父さんにちょっと、用事があってね」


 あの日、恭介ははっきりと用事の中身について教えなかった。でも、僕はわかってた。父は当時、あっちこっちの人から金を借りていた。金を返してもらいに来たのだと思った。


 父は帰ってこなかった。一週間経っても。


 恭介はその頃、それまで働いていた店から独立して自分の店を持ったばかりだった。これは後から知ったことだったのだけれど、父が一ヶ月だけと頼み込んで恭介から借りたのは大事な店を始めるために恭介が用意した資金の一部だった。そんな大事な資金を騙し取った挙句いなくなった男の残した子供のために、恭介は店を始めたばかりの重要な時期に、警察へ行ったり児童相談所に行ったりして必要な手続きを取ってくれた。


 そして、僕は施設に預けられた。


***


「あ、玲司、見ろ。キョースケだ。キョースケが来たぞ!」


 施設に預けられてからも、恭介は暇をみては僕に会いに来た。一ヶ月に一回くらい。恭介の車が敷地内にじゃりじゃりとタイヤを鳴らしながら入ってくるのを見ると、皆狂喜する。そして、玄関へ恭介を迎えに駆け出していく。僕と一緒に施設に預けられている、親が死んだり、事情があって親と暮らせない子供たち。その子達がドドドっと駆けていく。


「キョースケ、いらっしゃい」

「こんばんは」

「ね、ケーキは?」

「ああ、ダメダメ。そんなに押されたら崩れちゃうよ」


 恭介はいつもお店を閉めるとき廃棄になるケーキを携えてやってくる。みんなが夕飯を食べて、お風呂に入って寝る前のひと時を過ごしている時が多かった。


 恭介はパティシエでした。オーナーシェフパティシエだった。


「今日は何があるの?」

「さぁ、何かな?」


 皆に囲まれてニコニコしながらケーキの入ったボックスを抱えて奥へと進む。食事のテーブルの上で恭介がそれを開くとき、必ず皆は目をキラキラとさせて感嘆の声を上げた。


「うわ〜」


 それは、本当に宝石のようなケーキたちでした。季節の果物を贅沢に何種も織り交ぜて作られたキラキラと光るケーキだった。輝いていた。

 出会ったばかりの頃は知りませんでした。でも、恭介は、本当だったら僕たちのような、親が死んでしまったり、親に捨てられてしまったりした、そんな子供たちが口にするのは難しいようなそういうケーキを作るパティシエでした。

 フランスから日本に渡り、日本に本格的な洋菓子を導入するのに尽力した有名なパティシエ、ヴィクトー•クレマン(*1)の元で働いたことがあり、クレマンの影響を受けた日本人パティシエの一人として、独立したばかりではあったけど未来を期待される人でした。僕たちはもちろんそんなことは知らなかった。


 ただ、恭介の持ってくるケーキの美しさに心を奪われ、そしてその夢のような味わいを味わっていた。


 いろいろなことがあった子供たち。僕なんかよりもっと酷い目にあってここに来た子も結構いて、だけどそんな子達も恭介のケーキを食べている時だけはみんな笑顔になった。同じような顔で笑ってました。普通の子供たちみたいに。


 みんなでケーキを食べる。その後せがまれて、よく恭介は昔話をした。それは、フランスでの修行時代の話が多かった。遠い外国での苦労話を面白おかしく話すのがみんなのお気に入りだった。小一時間ほどすると、恭介は席を立ち帰り支度を始める。子供たちは歯を磨きに立ち上がる。僕は恭介の後を追った。


「あの……」


 玄関で靴を履く背中に向かって話しかけた。


「忙しいんですよね。無理をしなくてもいいです」

「迷惑かい?」


 恭介は振り向くとまっすぐ僕の目を覗いてそう言った。


「いや、迷惑では……」

「じゃあ、また来るよ」


 あっさりとそう言うと、立ち上がる。僕にそれ以上何も言わせずさっさと出て行った。僕は薄暗い玄関で、恭介の背中を見送った。そんなに体が大きい人だったわけじゃない。でも、その背中はいつも大きく見えました。


 恭介には子供がいなかった。奥さんとの間に子供ができなかった。


 神様は恭介に才能とそれを活かす場を与えたけど、子供は与えなかった。だからかもしれない。恭介は僕らのところに来るのを楽しんでいたのだと思います。


*1 ヴィクトー•クレマン(Victor・Clement)

名前自体は実在する人物ではなく著者による設定

来歴に関しては実在するパティシエ アンドレ・ルコント氏(André Lecomte)を参考とさせていただいております。他に作中に出てくるパティシエも一部実在する方を参考とさせていただいている場合がありますが、こちらの方に関しては一部ではなく大部分を参考とさせていただきましたので、こちらに注記させていただきます。


1932年−1999年

フランス出身のパティシエ。日本で初となるフランス菓子専門店を開店させた。今日の日本におけるスイーツブームの草分け的存在である。

(Wikipedia参照)


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