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1 片瀬ベーカリー












   1 片瀬ベーカリー























   片瀬大生













 僕の家はパン屋をやっている。昔ながらの街のパン屋さんです。


 子供の頃は朝起きた時に、父親と母親が寝ているなんてことは一回もありませんでした。パン屋は朝が早い。まだ暗いうちに起き出して静かな街の片隅で両親はその日売るパンを焼き始める。物心ついた時から僕は両親の焼くパンの香りを嗅ぎながら目覚めていた。


 朝の作業がひと段落すると、母は姉と僕の朝食を作るために裏に戻ってくる。その時父は店で開店のための準備をしている。朝食を作り終えた母は僕たちのためにそれを食卓に並べると、店へと戻り父と交代する。父は裏に戻ってきて、僕たちと一緒に朝食を取る。母が父より先に朝ごはんを食べることは見事になかった。必ず一旦店へと戻り父に朝食を食べさせてから僕らを送り出し、自分は冷えた朝ごはんを食べる。


 そして、もう一つ、パン屋のくせに僕たちの家の朝ごはんはほとんどと言っていいほどご飯でした。焼きたてのパンをそのまま持ってくればすぐに済むのに、特別な時以外はやらない。これは子供の頃は知らなかった話です。僕の家は祖父の代からのパン屋で父は二代目。父は子供の頃からパンばっかり食べて育ったのだと。だから、パン屋のくせにどこかパンを嫌いになってしまったところがあるというのです。そんな思いを子供達にさせたくないという父の思いに母がこたえて、朝ごはんはちゃんと作ることに決めたのだと。


 だから、僕が家のパンを食べるのは、主に夕方でした。


 売れ残ってしまったパンが廃棄になる前に置かれているのから、好きなのを選んで夕食前、育ち盛りの子供が一番お腹が空く時間に食べていた。


 僕が父の焼くパンの中で一番好きだったパン、それは食パンでした。あれをトースターで焼いて好きなジャムやバターを塗って食べるのが好きだった。でも、父の食パンはなかなか余らなかった。いつも一番最初に売り切れてしまうのは、父の焼いた食パンでした。


「あら、遅かったか。売り切れちゃった?」


 常連さんが時々、夕方に来て母と話す。僕はその声を奥の家の茶の間で聞いている。声の大きいお客さんだと裏まで筒抜けだった。


「困ったな。明日の朝のパンがない」


 母が何か言ってるのが聞こえる。


「しょうがないね。コンビニの食パン買うか」


 その後お客さんはこう続ける。


「トースターで焼いた時の香りが違うのよね。うちはいっつもあの香りを嗅いで朝を過ごしてるから、ないと落ち着かないのよね」


 そう言って何か世間話をした後に、賑やかなお客さんは帰って行く。僕は一人茶の間でこっそりその話を聞きながら、子供ながらに体を熱くしていました。あれをなんというのでしょう?お腹の奥の方がじんとして、体がかっと熱くなるような感じ。


 僕は子供だったけど、でもかなり小さい頃から、この熱の塊のようなものを体の奥に感じながら大きくなった。


 少し大きくなってから自分なりにそれに解釈を加えた。


 あの熱は、大切なものに反応するものだと思うんです。大切なものに誇りを覚えるときや、そして、それを守りたいと思うときに、人は体の奥がかっと熱くなるものではないかと思う。魂のすぐそばにあるような部分が、熱を持つんです。


 僕にとって父の食パンは、自分の心臓のすぐ横に位置するようなものでした。

 素朴な両親が祖父母から受け継いで守ってきた店。

 それを自分も守っていくこと、それがかなり早い段階から、僕の……夢?

 夢というよりは、生きる意味でした。自分が存在する意味。


「ケーキ屋さんに就職するの?」


 専門学校の卒業が間近になり、就職活動を始めた僕をみて母は少しがっかりした顔をした。


「そのまま、お父さんとお母さんと一緒に働くのではダメなの?」

「母さん」


 母と比べると寡黙な父は残念がる母の肩に手を置くと、そっと嗜めた。


「あのね」

「うん」

「ちゃんと外の世界を見てないと、いざという時戦えないでしょ?」


 母は僕の言葉にぽかんとした。いつもの僕らの家のお茶の間で。古びた掛け時計と座卓。


「こんな街角のパン屋でも?そんな戦うなんて大袈裟な」

「何が起こるかわからない。だから、できることはちゃんとしておかないと」


 呑気な母に切々と語った。すると母はパッと顔を赤らめた。


「あら、やだ」


 そして、両手で口元を隠して、目尻に皺を寄せて嬉しそうに笑った。


「ね、あなた。ひろがこんなこと言ってる」


 すると、どちらかと言えば普段は黙々と働き、静かに暮らしている父。あまり感情を表には出さない大人しい人も、少し嬉しそうにしていた。その二人の、昔に比べて白髪が増えた頭と皺の増えた顔を見ながら、僕はまた体の奥の方の熱を感じていました。


 いくつか受けたお店の中でもエルミタージュは段違いで競争率の高い店でした。


 パティシエを目指す僕たちにとってちょっとした有名人が2、3年前に開いたばかりのお店だったからです。規模としては小さかったけれど、憧れの人と働きたい新人が殺到してちょっとした騒ぎになっていた。面接を受けるだけでも何か覗けるものがあるかなと思って、受かるなんて思わずに受けたお店でした。


 その店に受かった。


 ちょっとぽかんとしました。どういう風の吹き回しだろうと。でも、特に断る理由もなかったので、言われるままにそこに就職した。エルミタージュに。


 僕がパン屋のくせにケーキ屋にパティシエとして入り込んだのには訳があります。


 パン屋としてパンも焼くし、ケーキも店に出していた。その味を守っていくだけでも、何事もなければ父の食パンの味を受け継いで、僕たちはやっていけるでしょう。だけど、世の中というのは何が起こるかわからない。そういう時に武器になる、全く新しいものが欲しかったんです。街のパン屋にあるような普通のケーキではなくて、もっと違うケーキ。


 父と母が持っていない全く新しいものを持って、僕は自分の家に帰りたかった。


 それは攻めたかったからではない。


 そこがきっと、僕の他の人たちとの違いなんです。他の若い人たちとの違い。

 僕は、技術でもって攻めたかったわけではない。

 僕は、守りたかったんです。僕の守りたいという気持ちは真剣なものでした。

 父の食パンの味を守りたい。そのための、ケーキでした。

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