風の導き 4
桂城は、啼義たちと共に行く選択はしなかった。
「私は、あくまで羅沙の人間。そして靂様の従者です。私の役目は、今度こそ終わりました」
身支度の調整と、啼義に笛の基礎を教えるのに、三日間だけ同じ宿の別部屋に身を置いた後、彼はきっぱりとそう告げた。故郷へ帰るのだと言う。
桂城はカルムと羅沙の間、比較的標高のあるカバラという町で育ち、武術と剣の腕を買われて靂の父が治める羅森の大社へ奉公へ出、そこで十歳年下、当時七歳の靂に仕えたのが始まりだったそうだ。それからずっと、妾の子であった靂が大社から追い出されるように分社を任され、羅沙の社の頭領となった後も、自ら進んで靂の下に就いたのだ。
「全然、知らなかった」初めて聞いた桂城の生い立ちに、啼義は驚くばかりだ。
「確かに、母が他界して以来お暇も頂いてませんでしたし、啼義様に敢えてお話ししたことも、ありませんでしたからなぁ」
桂城は、細い目をさらに細めて笑った。
「まあ、これからのことは、帰ってから考えます」
啼義は、昔からの自分を知る者との別れは、出来ればもうしたくはなかった。だが、自分の立場を考えると、桂城を引き止められるはずもない。
収穫祭を明日に控えた朝、旅支度を整えた桂城を、皆で見送った。
「啼義様を、よろしくお願い致します」
恭しく頭を垂れた桂城に、イルギネスと驃も手を胸に当てて礼の姿勢をとり、頭を下げる。リナも一歩下がった位置で、同じように頭を下げた。
イルギネスが「靂殿の背中を見て育っておられるのですから、大丈夫でしょう」と大らかな笑顔で言うと、桂城も頷く。
「私も、そう信じております」
自信に満ちた二人のやり取りを、啼義本人が慌てて止めた。
「やめてくれよ、ハードルが上がる気分だ」
イルギネスがにんまりと微笑む。
「それなら狙い通りだ。気を入れてしっかりしてもらわんと、いかんからな」
「……手厳しいな」啼義はまた、眉間に皺を寄せた。そんな彼に桂城が、「啼義様」と穏やかに呼びかける。
「うん?」
啼義は桂城に顔を向けた。桂城は伽羅色の瞳を、眩しげに細めた。
「彼方の地からでも、ご活躍をお祈りしております。貴方様にはもう、素晴らしいお仲間がついていらっしゃる。案ずることはないでしょう」
心からそう思っていることは、顔を見れば分かる。もう大丈夫だと、桂城は清々しい気持ちで旅立とうとしているのだ。それでも啼義は、寂しさがこみ上げるのを抑えられなかった。
「あ──啼義様」
突然抱きつかれて、桂城が目を瞬く。羅沙にいた頃の啼義は、そんなことをする性格ではなかった。
「ありがとう。桂城」
啼義が、子供がしがみつくように桂城の背に腕を回し、力をこめた。桂城も、啼義の思いを受け取るように、抱擁を返す。そうして、互いの記憶にしっかり刻むと、ゆっくりと身を離した。
「お元気で」
桂城は穏やかに微笑み、今一度深々と頭を下げると、いくばくかの迷いを振り切るように背を向け、悠然と歩き出した。
その日の夕暮れ。
啼義は、あらためて自身の気持ちを整えたくなり、少し散歩をしてくると言って、一人で宿の裏手にある丘の大樹に登った。太い枝の上に腰掛け、北の方角へ向けて、持ち出した竜の啼笛の音を風に乗せてみる。
桂城に習った覚えたばかりの音階で、いつか靂が吹いていた曲の音を出してみようと試みたが、そう簡単にはいかない。自分でも笑えるほど外れた音を鳴らしては吹き直していると──
「下手にもほどがあるな」
靂の声がした気がして、啼義は辺りを見渡した。果たして、視線を戻したそのすぐ隣に、ふわりと立つ靂の姿があった。
「え?」
自分の目に映る光景が信じられず、啼義は何度か瞬きをしてみたが、靂は変わらずそこに立ち、黄金の瞳で啼義を静かに見下ろしている。
「最初の音は、六」
言うと靂は、視線を北にそびえる山脈へと移した。
「ゆっくりと。風に乗せて、遠くまで届くように」
言われるまま、運指を構えて息を吹き込む。すると、耳馴染みのある音が出た。啼義は嬉しくなり、高揚した様子で振り向いた。
「やった。これだ!」
しかし、そこに靂の姿はなかった。
「靂?」
啼義の心は突然、目が覚めたように現実に帰った。
靂がいるはずがない。ましてやこんなところに。でも今、確かに会話を──
しんと胸が締めつけられる思いで、手の中の笛を見つめる。
<そうだ>
思い出した。
今のは、笛を手にして初めて吹いた時の記憶だ。あの時も、夢中で音を出そうとしている啼義の隣に、靂は忽然と現れた。
<──今、何処にいる?>
もう一度、笛を口元に当てる。
──届け。
目を閉じ、息を吹き込む。さっきよりもしっかりと音が出た。自然に、指が次の音を押さえる。間違いない。この音だ。次の音で躓く。最初からまた吹く。
凜然と笛を奏でていた靂の姿が、脳裏に浮かんだ。音色に乗せて何かに語りかけるように遠くに向けた静かな眼差し、端正な横顔。
あれは、姫沙夜に向けたものだったのではないだろうか。だとしたら。
──届け。風に乗って、靂のもとまで。
祈ような気持ちで、啼義は吹き続けた。それは竜の啼き声のように、力強くも澄んだ音色となって、どこまでも遥か遠くへ響いて行くのだった。




