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風は遠き地に  作者: 香月 優希
第五章 竜が啼く
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風の導き 4

 桂城(かつらぎ)は、啼義(ナギ)たちと共に行く選択はしなかった。


「私は、あくまで羅沙(ラージャ)の人間。そして(レキ)様の従者です。私の役目は、今度こそ終わりました」

 身支度の調整と、啼義に笛の基礎を教えるのに、三日間だけ同じ宿の別部屋に身を置いた後、彼はきっぱりとそう告げた。故郷へ帰るのだと言う。

 桂城はカルムと羅沙の間、比較的標高のあるカバラという町で育ち、武術と剣の腕を買われて靂の父が治める羅森(ラシン)の大社へ奉公へ出、そこで十歳年下、当時七歳の靂に仕えたのが始まりだったそうだ。それからずっと、妾の子であった靂が大社から追い出されるように分社を任され、羅沙の(やしろ)の頭領となった後も、自ら進んで靂の下に就いたのだ。

「全然、知らなかった」初めて聞いた桂城の生い立ちに、啼義は驚くばかりだ。

「確かに、母が他界して以来お暇も頂いてませんでしたし、啼義様に敢えてお話ししたことも、ありませんでしたからなぁ」

 桂城は、細い目をさらに細めて笑った。

「まあ、これからのことは、帰ってから考えます」

 

 啼義は、昔からの自分を知る者との別れは、出来ればもうしたくはなかった。だが、自分の立場を考えると、桂城を引き止められるはずもない。

 収穫祭を明日に控えた朝、旅支度を整えた桂城を、皆で見送った。

「啼義様を、よろしくお願い致します」

 (うやうや)しく(こうべ)を垂れた桂城に、イルギネスと(しらかげ)も手を胸に当てて礼の姿勢をとり、頭を下げる。リナも一歩下がった位置で、同じように頭を下げた。

 イルギネスが「靂殿の背中を見て育っておられるのですから、大丈夫でしょう」と大らかな笑顔で言うと、桂城も頷く。

「私も、そう信じております」

 自信に満ちた二人のやり取りを、啼義本人が慌てて止めた。

「やめてくれよ、ハードルが上がる気分だ」

 イルギネスがにんまりと微笑む。

「それなら狙い通りだ。気を入れてしっかりしてもらわんと、いかんからな」

「……手厳しいな」啼義はまた、眉間に皺を寄せた。そんな彼に桂城が、「啼義様」と穏やかに呼びかける。

「うん?」

 啼義は桂城に顔を向けた。桂城は伽羅色の瞳を、眩しげに細めた。

「彼方の地からでも、ご活躍をお祈りしております。貴方様にはもう、素晴らしいお仲間がついていらっしゃる。案ずることはないでしょう」

 心からそう思っていることは、顔を見れば分かる。もう大丈夫だと、桂城は清々しい気持ちで旅立とうとしているのだ。それでも啼義は、寂しさがこみ上げるのを抑えられなかった。

「あ──啼義様」

 突然抱きつかれて、桂城が目を瞬く。羅沙にいた頃の啼義は、そんなことをする性格ではなかった。

「ありがとう。桂城」

 啼義が、子供がしがみつくように桂城の背に腕を回し、力をこめた。桂城も、啼義の思いを受け取るように、抱擁を返す。そうして、互いの記憶にしっかり刻むと、ゆっくりと身を離した。

「お元気で」

 桂城は穏やかに微笑み、今一度深々と頭を下げると、いくばくかの迷いを振り切るように背を向け、悠然と歩き出した。



 その日の夕暮れ。

 啼義は、あらためて自身の気持ちを整えたくなり、少し散歩をしてくると言って、一人で宿の裏手にある丘の大樹に登った。太い枝の上に腰掛け、北の方角へ向けて、持ち出した竜の啼笛(ていてき)の音を風に乗せてみる。

 桂城に習った覚えたばかりの音階で、いつか靂が吹いていた曲の音を出してみようと試みたが、そう簡単にはいかない。自分でも笑えるほど外れた音を鳴らしては吹き直していると──


「下手にもほどがあるな」

 

 靂の声がした気がして、啼義は辺りを見渡した。果たして、視線を戻したそのすぐ隣に、ふわりと立つ靂の姿があった。

「え?」

 自分の目に映る光景が信じられず、啼義は何度か瞬きをしてみたが、靂は変わらずそこに立ち、黄金(きん)の瞳で啼義を静かに見下ろしている。

「最初の音は、六」

 言うと靂は、視線を北にそびえる山脈へと移した。

「ゆっくりと。風に乗せて、遠くまで届くように」

 言われるまま、運指を構えて息を吹き込む。すると、耳馴染みのある音が出た。啼義は嬉しくなり、高揚した様子で振り向いた。

「やった。これだ!」


 しかし、そこに靂の姿はなかった。

「靂?」

 

 啼義の心は突然、目が覚めたように現実に帰った。

 靂がいるはずがない。ましてやこんなところに。でも今、確かに会話を──

 

 しんと胸が締めつけられる思いで、手の中の笛を見つめる。

 

<そうだ>

 思い出した。

 今のは、笛を手にして初めて吹いた時の記憶だ。あの時も、夢中で音を出そうとしている啼義の隣に、靂は忽然(こつぜん)と現れた。


<──今、何処にいる?>


 もう一度、笛を口元に当てる。


 ──届け。


 目を閉じ、息を吹き込む。さっきよりもしっかりと音が出た。自然に、指が次の音を押さえる。間違いない。この音だ。次の音で(つまず)く。最初からまた吹く。

 凜然と笛を奏でていた靂の姿が、脳裏に浮かんだ。音色に乗せて何かに語りかけるように遠くに向けた静かな眼差し、端正な横顔。

 あれは、姫沙夜(キサヤ)に向けたものだったのではないだろうか。だとしたら。

 

 ──届け。風に乗って、靂のもとまで。

 

 祈ような気持ちで、啼義は吹き続けた。それは竜の()き声のように、力強くも澄んだ音色となって、どこまでも遥か遠くへ響いて行くのだった。

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