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風は遠き地に  作者: 香月 優希
第五章 竜が啼く
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風の導き 3

「生きてお会いできるとは……本当に……感無量です」

 桂城(かつらぎ)は出された紅茶を口に含むと、やっと呼吸を思い出したように大きく息を吐き、髪と同じ伽羅色の瞳を心なしか潤ませながら、目の前に座っている啼義を見つめた。

 啼義(ナギ)も、先ほどは桂城に飛びつきたいくらいに感極まった一方で、自分はもう、羅沙(ラージャ)の人間ではないのだという自身の立場の変化が、心に制御をかけてもいた。

 

 現れた人物が啼義の旧知の者であることが分かり、他の三人は席を外している。誰も、ここでの会話を聞く者などいない。例え感情の堰が雪崩ても、今なら許されるのかも知れない。

 啼義は、意を決して尋ねた。


羅沙(ラージャ)(やしろ)が、焼け落ちたって聞いた。あれは、靂の判断なのか?」


 桂城の目に、明らかな動揺が走る。事実を──その記憶が確かに彼の中にあることを、啼義は読み取った。

「ご存知でしたか。それは……左様でございます」

 桂城は目を伏せる。

「啼義様を逃した後、(レキ)様は、私に最後の(めい)を下されました」

「最後の、命?」

「はい。そして羅沙の社を、自らの手で仕舞いになさると」

「仕舞い……」

 重みのある言葉に、啼義の顔が曇る。知るのは怖い。けれど、今聞かなければ、もう二度と機会はないだろう。

「その時のことを……聞かせてくれるか?」

 桂城は顔を上げ、啼義の真っ直ぐな眼差しを確かめるように受けると、「はい」と頷いた。



『平屋にいる者たちに宝物庫の金品を託し、逃がせ』

 靂の指示は迷いがなく、有無を言わせる隙は微塵もなかった。

『靂様』

『それが済んだら、お前も自分なりの金品を手にして、何処へなりと行くが良い』

 桂城は耳を疑った。

『そんな! 私は、靂様のお側に最後までおります。靂様は──』

『ダリュスカインを説き伏せねばなるまい。穏便にことが運ぶ可能性など、ないに等しいだろうがな』

 靂の横顔はいつもと変わらず涼やかで、それだけ見ていれば、啼義のことも何もないかのように思えるほどだった。

 しかし。

 桂城が、整理しきれない気持ちを抱えつつも平屋へ赴いている間に、ダリュスカインは何かを察したのかいつもより早く見回りから戻り、靂の自室を訪れていたのだ。

 塔の上に数度、轟音と共に激しい稲妻が走り、ほどなくして最上階から火の手が上がった。その炎のただならぬ勢いに、突然の指令に戸惑い難色を示していた者たちは一気に態度を変え、桂城の誘導に従うこととなった。



「皆を逃した後の私にはもう、成す術がありませんでした」

 だが桂城とて、伊達に靂の側近を務めていたわけではない。靂の遺志を継ぐならば、やるべきことは(おの)ずと浮かんだ。

「せめて私は、啼義様がどうなさったのかを確認するまでは、務めは終わらぬと……けれど、進まれたと(おぼ)しき方向で、やっと見つけたのは──」

 桂城は、ぶるりと肩を震わせた。

「血まみれの地面に転がった……人間の右腕と、散らばった啼義様のものと思われるお荷物のみでした」

「俺の……荷物」

 思えば持ち出した荷物のことなどすっかり忘れていた。今となっては、何を持ち出したのかも思い出せない。

「啼義様のお姿は、何処にもなかった」

 もしや、啼義は逃げ仰たのではないか。桂城は、ドラガーナ山脈(竜の背)を進めるだけ進んでみるしかないと決意した。そう語る彼の装身具は薄汚れて、酷くくたびれている。彼はどんな思いで自分を探し、冬の気配も忍び寄る過酷な山中を越えてきたのだろう。

 啼義は、おもむろに口を開いた。

「転がっていたのは多分、ダリュスカインの腕だ。俺が会った時、あいつの腕は、あいつの物じゃなかった」

 桂城の、息を呑む音が聞こえるようだった。

「なんと……それで、奴は何処へ?」

 啼義は、テーブルの上で組んだ手を見つめる。

「分からない。でも……もう会うことはないと思う」

 

 沈黙が降りた。

 互いが、互いの感情に戸惑い、次に何を尋ね、伝えるべきか逡巡する。たったひと月ほどの間に起こった出来事の多さに、啼義は羅沙にいた頃の自分が急に遠ざかるのを感じた。

 深い郷愁の念に(さいな)まれそうになった時──不意に桂城が、「啼義様」と顔を上げた。

「お荷物は置いて行かざるを得ませんでしたが、どうしてもと思い、お持ちした物があります」

「え?」

 彼は席を立つと、床に置いたザックを(あさ)り、細長い紺の布の包みを手にして戻った。長さ三、四十センチ程度のそれを、啼義の目の前に厳かに置く。


 啼義はやや躊躇したものの、そっと手を伸ばし、包みを解いてみた。

「──あ」

 そこにあった濃紫の布を目にした途端、どうして今まで思い出さなかったのか不思議なほど鮮明に、啼義の頭にその中身が浮かんだ。


 昂った気持ちのままに、手早く金の紐を解く。予想通り、中から煤竹(すすたけ)に漆塗りの藤巻を施した横笛が姿を現した。


「竜の啼笛(ていてき)……!」


 靂から譲り受けたそれは、持ち出した時の姿のままで、窓から入る光を薄く纏っている。

 自分の笛を新調したからと、さして感慨もなさげに十三歳の啼義に笛を手渡し、靂は言った。

『お前の名に()てたのと同じ、(テイ)東字(あがりじ)を持つ笛だ』

 そう言われれば少し興味が湧いて吹こうとしてみたものの、すぐに飽きてしまい、いつしか戸棚にしまってからそのままになっていた。それをあの日急に思い出し、本当に無造作に、ザックに突っ込んだのだ。


 まさか、こんな形で──


 静かに横たわる笛に指を這わせてみても、靂の残した温もりなど感じられるはずもない。笛はただ、無機質にそこにあるだけだ。なのに、どうしようもなく目頭が熱くなって啼義は狼狽(うろた)えた。

「こんな……」 

 その存在を今まで思い出しもしなかったくせに、急にここで心が揺らぐのは都合が良すぎるんじゃないかと、心の中の自分が(いさ)める。持ち出す時でさえ、ほとんど無意識だったくせにと。


「こんなの……あったって、吹けやしねえのに」

 無自覚な自分の行動に、腹立たしさすら感じる。あの時は、こんな未来が待ち受けていることなど思いもしなかった。こんな気持ちで、笛に向き合う日が来るなど。

 だが啼義の手は、吸い寄せられるように竜の啼笛を取った。

 先端に鉛を仕込まれた胴が、思いの外ずっしりと掌に収まる。その重みが、啼義の記憶の底を叩いた。


「靂──」


 閉じた瞼の裏に、時折り、遥か遠くへ視線を馳せ、口元に笛を当てて静かに奏でていた靂の姿が蘇る。そうしている時の彼は、聖域か何かにいるような誰も寄せつけない佇まいで、無心に音色を風に乗せていた。


『お前は、自分の道を生きろ』


 あの日。

 自分の過ごしてきた全てから引き離され、無理矢理にでも過去に別れを告げなければ、進むことなど出来なかった。出来ないと思っていた。


 でも──ここにある竜の啼笛は、今や唯一の形見だ。

 

「それは、啼義様がお持ちください」

 桂城の言葉に、啼義は震える唇を噛み締めた。声を発したら、全てが一気に溢れそうだ。目の奥にこみ上げてきた涙を鼻を啜って押し戻す。

<手放せるわけがない>

 たった一つの、証を。

 啼義は手の内に収まっている笛を今一度強く握り、頷いた。

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