対峙 3
畑仕事をしていた年老いた夫婦が案内してくれた空き家で、啼義たちはやっと荷を下ろし、ひと息着くことが出来た。
「もともと小さな集落ですし、こんな状態であまりお構いできませんで。イリユス神殿の討伐隊の剣士様がいらっしゃると分かれば、もう少し何かご用意いたしましたものを」
そうは言いながらも老婦人が差し入れてくれた手料理は、畑で採れた食材を使って味わい優しく仕上げられ、腹だけでなく心も満たされた。
「美味しかった」
ミルファを出発してからどことなく張り詰めていた啼義だったが、数日ぶりに気持ちが解れ、そうすると緩やかな眠気が頭をもたげてくる。しかし、ほどなくして頭の片隅の小さな危機感が眠気を妨げた。
ダリュスカインの位置は、もう近いのだろうか?
「リナ、魔の刻石の反応を見てもらえるか?」
果たしてあちらの動きはどうなのだろうか? 推測が正しければ、近いうちにここに現れる可能性は充分にある。
「ちょっと待ってね」
リナは机の上に地図を広げると、その上に出した両の手で魔の刻石を包み、目を閉じた。
しばしの沈黙。
啼義、イルギネス、驃が神妙な様子で見守る中、やがて彼女は目を開けた。
「あんまり動いてはいなさそうだけど──やっぱり、こっちに近づいている気がする」
リナは地図の上で波動の位置を思い出すように指を彷徨わせ、ルオのやや西のあたりを指す。
「この辺かしら」
「山の中だな」と、驃。イルギネスが、リナの示したすぐ横に指を這わせた。
「ソダナとここの間にある山道には、今は活動のない小さな噴火口跡があるって言ってたな。道も険しいらしいし、難儀しているのかも知れん」
その時、地図に目を落としていた啼義が、不意に顔を上げた。
「だったら、会いに行こう」
「え?」三人が一斉に啼義を見る。彼は姿勢を正し腕を組んだ。
「逃げ出した人たちもいるけど、ここにはまだ人が住んでいる。一連の噂が本当なら、万が一にもここを焦土にするわけにはいかない」
「なるほど」
驃が、啼義の黒い瞳に挑戦的な眼差しを投げる。
「賛成だ」
「俺も賛成だ」イルギネスも続いた。リナも、あらためて覚悟を決めるように口元を引き締め、頷く。
「そうね。行ってみましょう」
本当は怖い。
けれど、行かなければ終わらない。
着いて来てくれるみんなのためにも。
イルギネスは、啼義の毅然とした表情を見て、口の端を上げた。
<間違いない。啼義は、俺たちを率いて立てる男だ>
啼義は自覚していないようだが、その意識の底には、早くも人を率いるに相応しい土台が出来つつある。イルギネスは、自分がこの青年に付き従うであろう未来を、頼もしい気持ちで思い浮かべるのだった。
だがその夜の啼義は、さすがになかなか寝付けずにいた。イルギネスも驃も、間仕切りの向こうではリナも、どうやらすでに眠りの中にいるようだ。取り残されたような闇の中、啼義は自分の心を落ち着かせる拠り所を探した。
<靂>
ふと思い出し、父代わりだった男の名を心の中で呼ぶ。
実の子ではないと分かっていても、その態度が好意的でなくても、苦しい気持ちの時に頼って呼ぶのはいつも靂だった。
ある幼い日の夜、どうしても眠れずに夜中に靂の自室を訪れたことがあった。朝矢と彼の母とのやり取りがたまらなく羨ましくて、憎らしくて、そして寂しくて、どうしていいか分からなくなって、気づいたら靂の部屋の前に来ていたのだ。
そっと扉を開けると、気配で目覚めた靂は驚きつつも、相変わらず冷ややかな目で啼義を見下ろしたが、自分を見上げる黒い瞳に何かを感じ取ったのか、『夜中にうろうろするな』と啼義を招き入れ、『もうここで寝ていくがよい』と自身の寝台を指した。
それで啼義は緊張が解け、思わず言ったのだ。『一緒に寝てほしい』と。
靂は暗い中でも分かるほど迷惑そうに眉根を寄せ──大きくため息をつくと、もうそんなに軽くはない啼義をふわりと抱き上げ、一緒に寝台へ向かった。そうして啼義の身を横たえさせると靴を脱がせ、隣に自分も乱暴に横になった。
『今夜だけだぞ』素っ気なく言うと、彼は目を閉じた。
啼義は恐る恐る靂の腕に触れてみた。怒られる気配はない。もう少し身を寄せてみても、靂は動かなかった。その温もりに安堵を覚え、さっきまで昂っていた気持ちが嘘のように、啼義はあっという間に眠りに落ちていったのだ。
それが自分が記憶している、靂と一緒に眠った最初で最後の夜だった。けれどあの時の経験したことのない安心感は、啼義の心を支える大きな柱となり、事あるごとに孤独を和らげる作用を果たしてきた。
<もし、ダリュスカインと会って、俺が葬られるようなことがあっても>
そうだな。靂に会えるなら──怖くはない。
やれるだけやったなら、きっと少しは柔らかく迎えてくれるだろう。
そう思えた途端、ざわついていた心が緩やかに鎮まり、重みを伴って胸の奥に落ち着いた。どうなっても、導きのままに従おう。だけど絶対に、イルギネスたちは無事に返すのだ。




