闇の誘い 1
紫水晶の勾玉は、持ち主を悪しき陶酔や酩酊から遠ざけ、護る力を持つと言う。それは、結迦が星莱の社に入った時から母のように慕い、盗賊の襲撃の少し前に世を去った姉神呼から受け継いだ形見だった。そしてあの日──結迦の手から、ダリュスカインへと渡されたのだ。
『結迦』
頭上から呼ばれたような気がして、結迦は薬草を振り分けていた手を止め、空を見上げた。秋晴れの爽やかな青が広がるそこに、ふわりと、少しの冷たさが混じる風が走り、柔らかく彼女の黒髪を揺らす。
<カイン?>
思えば結迦は、カイン──金の獅子のような髪の男の、正しい名を知らなかった。瀕死の状態から脱し、喋れるようになった時、彼はただ、「カインでいい」とだけ告げた。何か事情があるのだろうと察し、それ以上の追求もしなかったが、今思えばそれが本名である確証もなく、ついに聞けぬまま、彼は行ってしまった。
<私が、声を発することが出来たなら──>
彼が向かった先に、何が待っていたのかは分からない。でももし、自分がもっと早く声を取り戻し、話を出来たなら、あるいは彼はまだ、ここにいたのではないだろうか。
カインを見送った日に声を発して以来、結迦は少しずつ、宗埜とも会話をするようになっていた。実に、一年半も声を失っていた結迦が言葉を発する日が再び来ようなどと全く予想していなかった宗埜は、当然ながらひどく驚いたが、それ以上に喜んだ。結迦もまた、そんなにも嬉しそうな宗埜を見て、長らく心の奥底に沈んでいた何かがやっと薄れていくのを感じ、本当にゆっくりとだが、止まっていた時が動き出したように思えた。彼のことを除いては。
<今頃、どうなさっているのだろう>
そもそもが──無事に生きているかすら不確かだ。慈源の祠は、人喰いの祠なのだから。
それでも、最後の温もりの記憶は、まだ結迦の中にしっかりと残っていた。彼の掌に乗せた、紫水晶の輝きも。
結迦は立ち上がると、紅葉が深みを増してきた木々を眺め、手掛かりになるような声が拾えないかと耳を澄ました。襲撃事件の前までは、呼吸をするように聴こえていた、神羅万象の声。
<聴こえないわ>
自分の声が戻っても、自然の声を捉える感覚は、まだ戻る兆しがない。風も木々も大地も、沈黙したままだ。見渡しても、聞こえるのは虫や鳥の鳴き声、木々の、耳に届くざわめきだけ。
声で掴めないのならば──この大気に溶けこみ、彼を探しに行けたならいい。身体ごと空気のようになって、彼の元へ飛べたなら。
<だったらどうしてあの時、止められなかったの>
もう一人の自分が問うた。
それは──
そうしないと、彼自身が納得できないことを、図らずも理解してしまったからだ。自然の声が聴こえなくなった結迦が、彼の悲鳴にも似た心の軋みを捉えてしまったことは、皮肉な巡り合わせだった。自分はどうして、あの声を捉えてしまったのだろう。
だからこそそれが、ほんの一時の感情で揺さぶったくらいでは止められるものではないと、結迦には分かってしまった。
行かせるしか、なかったのだ。
彼が何を抱えていたのか、今はもう知る由もない。けれど、自分が感じた彼の波動は、決して恐ろしいだけのものではなかった。
最後に髪を撫でた彼の手から伝わった、熱いほどの想い──それは今も、結迦の心の奥に、焦がすような炎を灯しながら燻っている。
<どうか>
結迦は、彼が向かったであろうドラガーナ山脈の方角へ身体を向けると、目を閉じ、祈った。
<あの人が、無事でありますように>




