表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風は遠き地に  作者: 香月 優希
第五章 竜が啼く
67/96

北へ 3

 アディーヌの家に戻ると、(しらかげ)が台所で、何やら肉の塊と格闘していた。否、実際には(さば)いていただけだが、普通より大きな包丁を豪快に使っているので、戦っているように見えたのだ。頭に手拭いを巻いて袖を(まく)り上げた驃の姿は、さながら料理関係の職人のようだ。

「先日の治癒のお礼だって、肉屋の親父さんが持って来てくれたんだよ。上質のタラス肉だ」

 驃が嬉々として説明する。タラスとは、水牛のような大きさの動物で、ミルファより少し内陸の、やや標高の高い山地で盛んに飼育され、流通している肉の一種だ。枕ほどの大きさの艶のある赤身が、まな板を余裕ではみ出して乗っかっている。

 目の前の光景に半ば唖然としている啼義(ナギ)に、イルギネスが問うた。

「タラス肉は知ってるか?」

 啼義は、どこどなくおぞましげな表情を浮かべたまま、(かぶり)を振る。

「名前は知ってるけど……あんな大きさは、見たことがない」

「柔らかくて旨いぞ! 食べ盛りのお前にはうってつけだ」

 イルギネスは笑顔で歩を進めると、手を洗って、そこにあった普通サイズの包丁を手にした。

「切り分けて近所に配るんだろう。俺がこっちを切ろう」

 驃が分けた塊の一つを指差した。驃は「おう、頼む」と手を止めずに答える。

「啼義、お前も」言いかけたイルギネスが、はたと顎に手を当て、啼義を見つめた。

「ん?」啼義が、怪訝な顔で見返す。「何だよ」

 するとイルギネスは少し首を傾げ、こう聞いた。

「お前、包丁を使ったことはあるか?」



 それから半刻ほど、啼義は生まれて初めて包丁を握って、肉を捌くのに付き合わされた。二人の年長者たちは、驚くほど器用に包丁を使いこなしている。その手際に驚いてばかりの啼義に、イルギネスがにこやかに釘を刺した。

「これくらいは出来ておかないと、やっていけんぞ」

「う……」

 どうにもたどたどしい啼義の手つきを見守る二人は楽しそうだが、本人には楽しんでいる余裕などない。今にも自分の手を切りそうな位置に刃を下ろす包丁は、剣とはまた違う恐ろしさがあった。

 そんな啼義もやっと包丁の扱いに慣れてきて、まさに最後の切り分けをしているところで、リナが現れた。

「わあ。みんなで仕分けてくれたのね。ありがとう」

 啼義の目は反射的に、嬉しそうなリナの笑顔に持って行かれた。その途端──

「いてっ!」

 手にしていた包丁が左の人差し指を掠め、彼は痛みに顔を(しか)めた。みんなの視線が一斉に啼義に集まる。

「大丈夫?」

 心配そうに尋ねるリナと、隣で「目を離すからだ」と口元を上げてやんわりと余所見を(たしな)めたイルギネスの対比が、啼義を慌てさせた。そのタイミングで、リナが啼義の手を取ろうとしたので、

「だ、大丈夫っ!」

 啼義は思わず手を引っ込める。

「血が出てるじゃないか。見せてみろ」

 ひょいと、横から驃がその手を掴んだ。動きを封じられた啼義の手を覗きこんだリナが、ほっと安堵の息をつく。「良かった。ちょっと切っただけね」

「うん」油断した瞬間、啼義の左手の傷を、リナの右手が包み込んだ。予期せぬ温かな感触に、啼義は思わず全身を硬直させたが、リナの意識は啼義の傷に集中していて、全く気づいていない。

 そのまま、リナが小さく何かを唱えた。ふわりと小さな光が生まれ、すぐに消える。手を離したそこにはもう、出血の跡が残っているだけだ。

「このくらいは、本当になんてことないんだな」

 まだ固まっている啼義の隣で、イルギネスが素直に関心している。

「確かに、これくらいの小さな傷ならある程度いくらでも治癒できるけど、さすがに限界はあるわよ」

「どのくらいの怪我まで行けるもんなんだ?」と、驃。

「そうねえ……」リナは、考えを巡らすように視線を彷徨わせた。

「相手の生命源によるところも大きいけれど、切断とかでなければ、怪我してすぐなら、後遺症が残らない程度には──でも私一人の魔力じゃ、そんな大怪我だった場合、術を施せるのは一日に一回か二回が限度ね」

「そりゃそうだな。まあ、そんなことは、そうそうないだろうが」

 イルギネスが笑う。隣で、やっと緊張が解けた啼義が、自身の指をまじまじと見ながら(さす)った。

「一瞬でこんな……凄えや」

 魔術師が攻撃術に長けていれば、やられる前に相手を撃退できるので、治癒が必要な機会は減る。ゆえに治癒については、二の次で良いという考えが一般的であることは、ミルファに来てからの周りの話で理解した。だが、ここのところ出没する魔物は、明らかに強さが増していると聞く。先手必勝が約束されない事態になれば、リナのような高い治癒力を持つ魔術師は貴重だろう。あるいは──


<ダリュスカイン>


 啼義の脳裏に、眉目秀麗な金髪の魔術師の顔がよぎった。再会したとて、どのようになるか見当がつかないが、羅沙(ラージャ)を出たあの日のような攻撃を食らっても、リナがいたら、どんなに心強いだろう。しかし。

<なに考えてんだ。そんな危険な場所に、連れて行けるわけがないだろう>

 すぐに、啼義はその思考を追い出した。

 自分がリナを伴えるとすれば、ダリュスカインとの決着がついたあとだ。そのためにも、この身体のうちに眠る"竜の加護"をなんとか、一日でも早く使えるようにならなければ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ