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風は遠き地に  作者: 香月 優希
第五章 竜が啼く
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北へ 1

 ダリュスカインは、もがいていた。

 苦しい。ただ呼吸をするのも辛いほど、重い酩酊。意識が、ところどころ飛んでいる。

<どうしてしまったんだ>

 祠を抜けたのに、まるで自分は、延々と闇の中を歩いているようだ。まともに食事も摂っていないはずだが、空腹は感じない。何かに導かれるように、鬱蒼とした木々が続く山道を、ひたすら歩いた。

 啼義(ナギ)に近づいている実感はあった。しかし、近づく前に蓄えなければならないものがある。

<魂を>

 ダリュスカインは辺りを見渡した。遠くに小屋が見える。集落だろうか。

<魂を、喰らえ>

 人の気配に、彼は目を細めた。誘われるように歩を進める。再び、意識が朦朧とし始めた。逆らおうとするが、混濁はどんどん深まり、うつらうつらしながら、やっと小屋の手前まで辿り着いた時は息が上がっていた。

<喉が乾いた>

 

「親父? 帰ってきたのかい?」


 小屋の扉の向こうで、声がする。程なくして扉が軋んだ音を立てて開き、顔を出したのは若い男だ。そこにしゃがみ込んでいたダリュスカインを見て、男は声を上げた。

「うわあぁっ!」

 その目は、ダリュスカインの右手を凝視している。男は次の瞬間、ものすごい勢いで扉を閉めようとした──が、気が動転して、逆に手元が扉から離れて空を切った。

 その隙に立ち上がったダリュスカインの手から炎が繰り出され、音もなく小屋の中を駆け抜ける。間もなく、ボワっと太い音を立て、小屋全体が火に包まれた。男は炎に飲まれ、酷くがさつな悲鳴を発しながら、踊るように手足をばたつかせて倒れていく。燃え盛る小屋の中、男が倒れた付近から、あたりの勢いと不釣り合いな緩やかさで、ふわふわと灰色の煙が立ち上がった。それは、ダリュスカインの右手に吸い込まれていく。


「火事だっ!」


 声に振り向くと、何人かがこちらを指差していた。顔を向けたダリュスカインの異様な様相に、皆が一斉に口をつぐむ。


「誰だ……」

 一人が、震える声で尋ねた。

 自分を取り囲む人間たちが一様に恐怖の眼差しを向けているのを見て、ダリュスカインは微笑んだ。彼は、黒く変容した右手を目の高さまで上げ、その鉤爪をよく見えるように気怠げに動かし、名乗った。


「我は淵黒(えんこく)の竜。人間よ、我の餌食となれ」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 雨がしとしとと、地面を打っている。

 ダリュスカインは、目を開けた。辺り一面、焦げたような異臭が漂い、視界に立っている建物はない。近くの木までが焼け落ち、おぞましく変形している。


<これは──>


 見覚えがある。忘れようとしても、灼きついて消えない記憶。

 故郷の村が魔物の襲撃を受けたようだとの一報を受け、駆けつけたそこにあった光景だ。変わり果てて廃墟と化した景色。それが、どうしてここに──

 同時に蘇ってきたのは、あの時、まだ辺りを彷徨(うろつ)いていた魔物を一掃した時の、虚無の怒り。その憤りは熱を通り越し、身体を根幹から冷やしていく。


<違う>

 否応なく湧き立つ恐ろしい記憶を追い払おうと、ダリュスカインは頭を振った。これは夢だ。だが、雨の感触も臭いもあまりに現実的で、夢にしては覚める気配がない。

 その時、どこからか子供の泣く声が耳を打った。ダリュスカインはハッとして、周囲に目を走らせる。


<あそこか>


 右側前方の瓦礫の塊の向こうから、それは聞こえていた。

 まるで鉛のような重い身体をなんとか動かし向かうと、倒れた大きな石壁を盾するように、子供が隠れていた。四、五歳ほどの男児が、膝を抱えて震えて泣いている。


 ダリュスカインは、どこか朦朧としながら、これが現実であることに気づいた。

「悲しいのか」

 それとなく右腕を隠し、子供を見下ろす。子供は不思議そうにダリュスカインを見上げ、泣くのをやめた。

「みんな、どこに行っちゃったの?」

 しゃくり上げながら聞く子供に、ダリュスカインはあの時の自分を重ねていた。


<誰も、いない>


 立ち尽くす、自分の影。

<あの時、どうして自分も、逝ってしまわなかったんだろう>

 それとも、もうすぐ会えるのか? 

 けれど、会えるまで、まだ耐えなければならないのか。行けども行けども闇の中のような、この道を。


「大丈夫だ」

 ダリュスカインは、子供を優しく見下ろす。

「すぐに、会える」

 

 そうして彼は、ゆっくりと左手を肩の位置まで上げた。それと同時に、意識がまた、薄れていく。

<駄目だ>

 陶酔感にも似た浮遊する脳内のどこかで、声がしたような気がした。

<それ以上、委ねるな>

 ささやかな抵抗を嘲笑うように、意識が食われていく感触が、ダリュスカインを蝕む。抵抗すれば、あの割れるような頭痛が襲うのだろうか。それでも──右手が、腰に結びつけた巾着に触れた。


結迦(ユイカ)──>


 帰りを待っていると声を発した彼女の姿が、おぼろげに浮かび、遠のいて行く。と同時に、巾着の中の勾玉が、ふわりと熱を持った気がした。


<これ以上、喰らってはならぬ>

 本能的な理解だった。魂を喰らってはならない。ダリュスカインは渾身の力で、自分の意識を引き留めた。


 しかし、生かしておいたところで、どうなると言うのだ。自分と同じ、あるいはそれ以上に、待っているのは地獄ではないのか。だとしたら──


「怖がらなくていい」

 ダリュスカインは自我の欠片を手繰るようにかき集め、なんとか声に出して呟いた。子供は瞬きをして、首を傾げる。

<意識を獲られる前に>

 視界が、揺れる。時間がない。

 まさに極限に追い詰められ、突き出した左手の指先から白い炎が迸った。昼のような眩い光が、辺り一帯、子供もろとも包み込む。迫り上がる脳幹の痛みと、遠ざかる自我の彼方で、ダリュスカインは苦悶の叫び声を上げた。



 その光の柱が空へ駆け昇る様子は遠くの集落からも目撃され、得体の知れない現象に人々は(おのの)いたのだった。

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