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風は遠き地に  作者: 香月 優希
第三章 邂逅の街
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再会 6

 羅真(らしん)丸は船体の一部に鉄材を使用した、木鉄船と呼ばれる船で、ここに停まっている中では比較的大きい。荷を下ろして一段落した今は、街に出ている者も多く、船内は静かだ。

「どれでも着て行ったらいい」

 啼義(ナギ)とイルギネスが甲板に導かれて待っていると、朝矢(トモヤ)が何枚か適当な服を持ってきてくれた。バケツに汲まれた真水で潮気を洗い流して着替える。もう日が高くなってきているので、少し秋の空気を感じるとは言え、心地よい気候だ。

「あのままだったら、啼義は確実に風邪をひいていたな。助かった。ありがとう」

 イルギネスはすっかりいつもの調子に戻って、笑顔で礼を述べる。

「礼を言うのは俺の方だ。兄貴が啼義を助けてくれなかったら、場合によっちゃ、今生の別れになっちまうところだった。本当に……ありがとうございました」

 朝矢が、神妙な面持ちで頭を下げた。

「……」

 啼義は真ん中で黙っていた。疲れたのもあるし、自分の軽率な行動で、イルギネスにあんな顔をさせたことが尾を引いていた。


 ──もう、俺の前で逝かないでくれ。

 

 いつも飄々として明るく、影など微塵も感じさせない彼が、声を震わせて懇請していた姿は、啼義の心に深い爪痕を残した。自分の行為は、イルギネスの心をえぐったのだ。あんなにも彼を傷つけるなんて、思ってもみなかった。


<まいったな>

 消えてしまいたかった。故郷から無理矢理切り離され、その故郷も自分のせいで焼失し、それでも生きて行かなければならない理由など、どこにあるのだろうかと。

 でも──

 啼義は、目の前ですっかり打ち解けている二人に目をやる。

<もう、逝けなくなっちまったじゃねえか>

 イルギネスの右足には今、包帯が巻かれている。自分を助けようと靴を脱いで飛びこむ際に、何か踏んだらしい。足元の確認どころではななかったのだ。

<俺なんかのために>

 視線を逸らした先には、イルギネスの瞳と同じ、青い海が広がっている。

<あんな必死に、怒鳴ってんじゃねえよ>

 馬鹿野郎と声を荒げたイルギネスを思い出した。その途端、胸にじんわりとした温もりが広がり、あっという間に身体を駆け上がると、目頭が熱を持った。慌ててそれをぐっと堪えた、その時──

「おう、そちらが朝矢の客人かい!」

 怒号のような声と共に現れたのは、声からは想像のつかない、眉目秀麗な、すらりと背の高い青年だ。白に近い金の髪を頭の高い位置に無造作に束ね、風に靡かせている。日に焼けた褐色の肌と色素の薄い髪の色が対比になって、美麗とも言える雰囲気には、目を奪う引力があった。

「俺がこの船の(かしら)さ。デュッケ・アドスだ。ようこそ羅真丸へ!」

 啼義は目を見張った。なんと──思った以上に若い。

「イルギネスだ。そんなに若いのに船長とは凄いな」

 まるで啼義の心の声が聞こえたかのように、イルギネスが言った。彼は気分を害すでもなく、碧色の瞳に意気揚々とした光をちらつかせ、歯を見せて笑う。

「はははっ! だろ? 今年二十二、まだ親父から船を継いで三ヶ月だ」

「期待の若頭ってことか」

 イルギネスの言葉に、彼はふふんと鼻を鳴らした。

「おうよ」

 見た目は雄々しさから程遠いのに、中身は生粋の海の男らしい。外見と中身の相違という点では、イルギネスに通ずるものを感じる。

「こっちの啼義が、俺の幼馴染みなんだ」

 すっかり自分の居場所に迷子になっている啼義の肩を、朝矢が親しげに叩く。

「デュッケってのは、愛称さ。外国の言葉で、暴れん坊って意味らしいぜ」コソッと、彼が啼義に耳打ちした。

「おい! 聞こえてるぞ! まあ、本当だから仕方ないけどな」

 言われた当人が、がはは!と豪快に笑った。その勢いと朗らかな空気に、啼義も思わず、表情を緩める。

<朝矢は凄いな>

 こんなにも陽気な仲間と、広い海を渡っているなんて。啼義は羨望の眼差しを幼馴染みに向けた。それに比べて、自分はどうだ。成長していないどころか、周りの足まで引っ張ってしまっている。

<強く、なりたい>

 切実な思いがこみ上げてきた。まずは自分が、きちんと立たなければ。イルギネスのあんな顔も、もう二度と見たくはない。それはつまり──何が何でも、ダリュスカインという不安の種を、摘み取らなければならないということだ。自分の、この手で。その答えに行き着いた時、啼義は心の奥底が震えた。やはりどう足掻いても、対峙せねばならないのだ。確実に。

「まあ、せっかくだから、少し茶でも飲みながら、休んで行けばいい」

 ドカッ! と手にしていた薬缶(やかん)と銅製のマグカップを木箱の上に置くと、デュッケは来た時と同じように、大股でガツガツと船室への階段を降りて行った。

「楽しそうな船長だな」

 笑顔で啼義に話しかけたイルギネスは、おや? と彼の変化に気づいて黙った。デュッケが去った方を向いたままの啼義の瞳からは、先ほどの危うい揺らぎが消え、強い光が宿っている。今までなかったほどに。

<どうしたんだ?>

 一体何が、啼義の心を立て直したのだろう。打って変わって気迫すら漂ってきそうな空気に、驚きを覚えながらも、イルギネスは安堵した。これだけしっかりしていれば、大丈夫だろう。もう二度と、あんな思いは御免だ。俺だって、そんなに強くはない。


 喉を潤しながら、朝矢の航海の話などで半時ほど盛り上がった後、停泊中に服を返しに来ると約束して、啼義とイルギネスは羅真丸をあとにした。

 右足の負傷で歩きにくそうなイルギネスに、啼義はちょっと考えてから、「肩、貸すよ」と申し出た。先ほど、朝矢がやったことだ。

「お前も消耗しているだろう」

 イルギネスは心配したが、彼は首を横に振った。

「俺のせいだし」半ば強引にイルギネスの右腕を取り、自分の肩に回す。イルギネスは素直に従うことにした。

「とんだ散歩になったな」

「……うん」

 啼義は、額の奥がなんとなく疼くのを感じた。色々なことがありすぎて、確かに消耗はしている。だが、人生初めての海を見て、朝矢にも再会し、自分にとって得たものは大きい。多大な迷惑もかけたが。

「そのうち──泳ぎ、教えてくれよな」

 自分の人生が、未来に続くかは分からない。でも少しだけ、先のことを約束したい気がしていた。

「ああ。すぐに覚えられるさ」

 イルギネスが啼義に、いつもの穏やかな笑顔を向けた。

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