崩壊 4
夜が、訪れようとしていた。
果たしてこの選択が正しかったのかも分からぬまま、最低限の荷と──拾われた時から共にあった愛用の剣を携え、啼義は森を進み続けた。
何か考えようとすると、たまらなくなりそうな胸の内を、無理矢理抑え込む。
もう、背中にかかる髪はない。肩先まで切り落とされて軽くなった毛先を、冷たい風が撫でた。
<切ったってよかったんだ。ずっと>
そう思っても、今は心が痛んだ。切りっぱなしの髪を撫で付け、溢れそうな感情をぐっと堪えて、足を前に動かすことだけに集中する。
そして、自分がこれからどうしたらいいのかも、皆目見当がつかない。ただ、靂が言っていた、南にある蒼空の竜を信仰するイリユスの神殿──おそらくそこを目指すしかないのだ。だが南へ行くには、険しい山脈を越えなければならない。山越えの経験などなかった。もう冬がそこまで来ている。山の季節はもっと厳しくなっているだろう。
<のたれ死んだら、それまでってことか>
靂に出来たことは、自分を逃すことだけだった。よく分かっている。だけど、心細さは拭えなかった。生きろ、と強い思いを渡されても、この状態でどこまで行けるかは謎だ。
<賭けてみるしかない>
自分に。まずは今夜。暗くなる前に、どこか安全な場所を探さねば。
と、あたりを見渡した時──
「随分と短く切られましたね」
聞き慣れた声がして、啼義はぎくりと立ち止まった。ふわりと空気が揺れ、突如、前方に現れたのはダリュスカインだ。
「──どうして……」狼狽が声に出た。そして鼻を突いたのは──血の匂い。
「綺麗な黒髪だったのに。靂様も無体なことをなさる」
今やダリュスカインは啼義の前方数メートルもないところに立ちはだかり、その姿がはっきり見える。血の匂いは彼のものだ。でも何処から? いつもは高く結われている金の髪は解いたままで、彼にしてはひどく乱れて、それが凄みを感じさせる。赤いマントは夕暮れに不気味に映え、その瞳はただの紅ではなく、血溜まりのようなどす黒さも湛え、狂気じみた光を宿していた。
「靂様も全く……こんな子供一人、始末できないとはね」その口調は、明らかに今までの彼とは違う。
「なんだと……」自分に向けられた圧倒的な敵対の空気に気圧されぬよう、しっかりと相手を見据えながら、啼義は無意識に腰に下げた剣の柄に右手を添えた。
ダリュスカインが、静かに左手を真っ直ぐ肩の高さまで上げ、指先を広げる。魔術を施す際の構えだ。
「だから俺が、始末しにきたのさ」
「……正気か」
「さあね」
彼は──笑った。ゾッとするほどの美しい微笑みに、背筋を冷たいものが走る。本気だ。この男は、本当に自分を消しに来たのだ。
「そっちがその気なら、仕方ねえな」
啼義は剣の柄を握った。
しかし、ダリュスカインが今ここにいるということは……靂は? どうしたのだろうか。ふと不穏な予感がよぎった。
「おや? "父上"が心配か?」見抜いたように、ダリュスカインが薄く笑った。
「もう始末したよ。腑抜けた主など、俺には要らない」
ざわ、と風が鳴った気がした。あるいは全くの静寂。
何もない場所に突き落とされたような衝撃が、胸の奥を打った。
──始末した?
目が眩んだ。
だが言葉を飲み込むより早く、身体が反応した。
「貴様っ!」無意識に剣を引き抜くと、反射的に足が地面を蹴った。勢いに任せて予想以上の速さで突っ込んできた啼義をギリギリのところでかわし、ダリュスカインが素早く指先を手繰って呪文を唱える。
その手から迸った炎が、啼義の足元を狙った。だが、身軽な彼には通用しない。啼義は高く飛んで避けると、間髪入れず反撃の体勢に入る。その時──
「靂の代わりに、俺が淵黒の竜の力を復活させてやる」
ダリュスカインは再度指先を啼義の方へ構え、一発で仕留められなかったことに苛立った口調で言った。
<靂の代わり……靂──本当に?>
ほんの一瞬、気が逸れた。
しまったと思った次の瞬間、啼義は風の力で吹っ飛ばされた。容赦ない勢いで岩肌に叩きつけられる。と同時に、全身に鋭い痛みが走った。視界の暗転は一瞬で、目に映った地面に、自分の体から滴る血が広がっていく。
「他愛もない」
風の刃で斬りつけられ、立ち上がることも出来ない啼義を見下ろし、ダリュスカインは満足そうに笑みを浮かべた。
「たかが髪で、死んだなどと誰が信じるか。まさか靂が、刀と雷の気を同時に操るとは知らず、手こずったがな。俺の魔術の方が、一枚上手だったわけさ」かつての主を呼び捨てにして、忌々しく言う彼のマントの右半身が、血の赤で一段濃く染みているのに、その時啼義は気付いた。それは返り血なのか、ダリュスカイン自身のものなのか、判別がつかない。
「ふざけ……やがって!」
右目にも血が滴り、思わず片目を瞑った。息をするのも困難だ。心の奥底をたまらなく震わせるのは、怒りか哀しみか。心臓の音が、割れそうなほど大きく響いて聞こえる。まるで自分のものではないみたいに。
<靂>
「お前も一緒にあちらへ送ってやろう」どこか優しげな口調で、ダリュスカインは言った。意識が遠くへ持っていかれそうになる。体中の血の気が、恐ろしい速度で引いていく。
<ああ……>
もはやこれまでかと、啼義は一瞬、観念しかけた。
──だが。
『生きろ』
声が聞こえた気がした。
そうだ──靂は命を懸けて自分を逃したのだ。捕われるわけにはいかない。
なんとか上体を起こし、震える手で剣を握り直した。腕を流れ落ちた血が、剣まで伝う。右肩が焼けるように熱い。
「これで終いだ、坊や」
ダリュスカインが、ゆっくり歩み寄りながら、再び次の呪文を唱える構えを見せた。炎が来る。そう直感した。
「うるせえ!」
啼義は咄嗟に、剣ごと両手を突き出し、そこに意識を集中していた。
<こんなところで、死んでたまるか!>
何が起こったのか、自分でも分からなかった。
凄まじいまでの光が炎とぶつかった瞬間、視界の全てを飲み込んで、眩しさに思わず目を瞑った。音という音が消え去り、自分の身体の奥底で何かが解き放たれる。ダリュスカインの叫ぶような声が、遠く響いた。
その時、脳裏に何かの面影が見えた気がした。あれは──
<俺?>
いや、違う。自分よりも何処か自信に満ちた、精悍な顔立ち。
<誰だ?>
しかし、そこで遂に、啼義の意識は途切れた。




